大坂城(おおさかじょう)

大坂城の基本情報

通称・別名

大阪城、金城、錦城、浪華城、(石山本願寺)

所在地

大阪府大阪市中央区(大坂城公園)

旧国名

摂津国

分類・構造

輪郭式平城、平山城

天守構造

連結式望楼型[5重6階地下2階/1585年築/焼失(落城)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1626年再/焼失(落雷)]、独立式望楼型[5重8階/1931年再/SRC造復興]

築城主

豊臣秀吉

築城年

天正11年(1583)

主な改修者

徳川秀忠

主な城主

豊臣氏、奥平氏、徳川氏

廃城年

明治元年(1868)

遺構

曲輪、櫓、門、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

国重要文化財(櫓・門等)、登録有形文化財(再建天守)、特別史跡

再建造物

復興天守、石碑、説明板

周辺の城

大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[0.6km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[1.2km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[1.3km]
真田丸出城(大阪府大阪市)[1.6km]
鴫野砦(大阪府大阪市)[2.2km]
今福砦(大阪府大阪市)[2.4km]
榎並城(大阪府大阪市)[2.7km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[3.0km]
天王寺城(大阪府大阪市)[3.2km]
岡山砦(大阪府大阪市)[3.8km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

54 大坂城

設置場所

天主閣1階インフォメーション[地図

大坂城の解説文

大坂城・大阪城(おおさかじょう)は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。

概要
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。戦国末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数mの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされる。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。

現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。

歴史・沿革
安土桃山時代
上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に1583年(天正11年)、豊臣秀吉が築城を開始した。

完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう)と称えた。

築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。

江戸時代
1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。...

大坂城の口コミ情報

2020年09月16日 城郭道の刑部少輔タッキー
極楽橋[大坂城  遺構・復元物]



大坂城極楽橋は大坂城がまだ石山本願寺だった頃からあったと言われ、形を変えながら今に残ります。豊臣大坂城時代の極楽橋が滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島にあると聞き、やってきました。補修などがされており、ものすごい立派でした。長浜城に行った際、時間が有れば行くのにおすすめです。
写真は竹生島にある極楽橋の一部です。

2020年08月20日 城郭道の刑部少輔タッキー
六番櫓[大坂城  遺構・復元物]

二の丸の南外堀に面する石垣上には江戸時代、7つの隅櫓が建てられていました。
ほぼ同じ規模の櫓であったこともあり、名称は「一番櫓」から「七番櫓」まで連番でつけられていたそうです。

この六番櫓もそのひとつで、1628年(寛永5年)に創建されました。 
二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」という。外側にあたる南面と西面に石落としを1カ所ずつ設け、窓は外側を中心に26、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】を多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風【はふ】を飾る東西の懸魚【げぎょ】のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が約224.16平方メートル、2階が約133.43平方メートル、高さは約15.4メートルある。

2020年08月20日 源摂津守@ポンコ2
どんどろ大師善福寺[大坂城  寺社・史跡]

大阪市天王寺区空堀町。

豊臣期大坂城の三ノ丸外周の空堀があったことに関連した地名で、現在も大坂城(北)と真田丸出城(南)の間では最も低い窪地で、空堀があったかもしれないと思わせる名残の地形です。

どんどろ大師はこの空堀町にあり、ちょうど南の心眼寺坂を上がったところに、真田丸出城があったと推定される明星学園や真田信繁供養墓のある心眼寺があります。
古地図では反対の北側(大坂城側)の坂を上がったところに城代屋敷があり、1834年に大坂城代となった土井利位がここの弘法大師に帰依して、「土井殿お大師様」と呼ばるようになり、それが「どんどろ大師」に転訛したそうです。
ちなみに、土井利位は、大塩平八郎の乱の時の城代で、乱後に京都所司代、老中と順調に出世したとか。
また、城代在任中に雪の結晶を顕微鏡で観察した結果を「雪華図説」にまとめたそうです。
雪があまり降らない大阪で雪降ってたということは、天候不順で干ばつなどと関連あるのかもしれません。(なお、土井利位の別名は「雪のお殿様」)

どんどろ大師は、創建当初は「鏡如庵」とよばれ、大阪夏の陣の戦死者を弔うために開創されたとそうですが、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。
その後北摂の能勢にあった「善福寺」が移転してきて、第二次大戦の戦災で建物が焼失するも再建され、現在に至ってます。
山門横には、「お弓とおつる」の像があり、これは歌舞伎「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」の登場人物で、歌舞の一場面にもなってます。

大坂城のある上町台地は、ところどころにアップダウンのある地形となっており、歴史を感じながらの散歩にちょうどよいです。

2020年08月15日 雫乃宮内丞想人
大坂城



普段は天守に大行列が出来ていますが現在は、コロナ禍の影響で待ち時間なく
入城できます!感染対策もばっちり行われていました!素敵なお城です!

2020年08月14日 のり。
大坂城



晩方にジョギングがてら大坂城へ参りました。16:30以降天守閣には登れませんが、本丸には入れました。ライトアップで夏は日射しもなく夜の大坂城もお薦めです。

2020年08月14日 ひでき佐渡守
大坂城



コロナの影響でかなり観光客少なめ。日本人より外国人が多い印象でした。画像はGoPro MAXを3mの自撮り棒にセットして撮影してます。

2020年07月21日 源摂津守@ポンコ2
二番櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



石垣の算木積部分は、
根石をその上の角石よりやや外側に出るよう大きめの石、
根石の上の角石は直方体の石の長面、短面を正面と側面とに交互に積み上げられ、
大坂城の高石垣は約60度の勾配がついています。
大阪城の角石は、長面と短面がだいたい2.5~3対1の比率となっており、長面の上下は短面の石が2~3つほどで算木積を構成してます。

永青文庫所蔵の「元和七年塩飽、小豆嶋御仕置石数之覚」には、
「石高八百八拾壱 小豆嶋内
一ツハ 三間角 但あらハリ竹内吉兵衛、沢形右衛門切出申候
九ツハ 二間角ノあらハリ同人きらせ申候
三ツハ 二間角ノ角わきあらハリ同人きらせ申候
五拾九ハ 築石同人きらせ申候八百九ツハ 築石嶋又左衛門、佐藤安右衛門きらせ申分」
とあり、
大坂城再築の普請の際は、角石・角脇石・築石の3分類で石の大きさが規格化されていたようです。

二ノ丸南外堀の二番櫓石垣は、昭和40年代に堀水が地下水の渇水で干上がった際に数えられ、根石から三十七段の石が積まれています。

以上、算木積と石の戯言でした。


2020年06月17日 源摂津守@ポンコ2
桜門[大坂城  遺構・復元物]



城内の櫓や塀があった石垣上を歩いていると、天端石にそれら構築物の柱穴や石狭間がありますが、そうでない穴もあります。

本丸桜門桝形内の塀の雁木を上がり高麗門控柱脇の石垣上を見ると、石と石を繋ぐための何かをはめる穴が見られます。
この穴には、鉛のちぎりをはめこんで固定化を図っていたもので、現在は穴だけが残ってます。
城内には、この鉛のちぎり穴が京橋口にもあります。
その他城郭では、金沢城石川門や本丸鉄御門跡、江戸城本丸中之門跡(発掘で判明)などにあり、珍しいものだそうです。

また、桜門桝形内西側(蛸石正面の左側)の木に隠れた城内第3位の大きさの振袖石の下部には、赤茶けた長方形のものが3つほど隙間にあります。
これは石を安定させるための鉄のくさびです。
この鉄のくさびは、京橋口の城内第2位の巨石の肥後石の下(ライトアップのフォト)にもあります。
肥後石や振袖石は、厚さ1㍍以下に切り石されており、化粧板のように内側の栗石や石垣にもたれかけるように立てられているため、石の下の安定がより重要だったようです。

小ネタ、以上です。



2020年05月23日 源摂津守@ポンコ2
青屋門外枡形[大坂城  遺構・復元物]



4つの虎口のうち、JR大阪城公園駅や地下鉄「大阪ビジネスパーク駅」から最寄りにある青屋口。

青屋口は搦手にあたり、大阪城二ノ丸の北東に位置する出入口で、当時は東外堀と北外堀が青屋口周囲でつながっており、その堀の上に算盤橋が架かっていて、普段は虎口側に引き入れた状態でした。
他3つの虎口と異なって、外側に突き出す外桝形となっており、青屋門はその桝形の内側に建ってます。
出桝形となった理由は、鬼門にあたるため縄張に角を設けたなどの推測がありますが、不明です。
大坂城再築1期工事の1620年に普請され、当時は青屋口に土蔵造の焔硝蔵が設置されました。

1660年6月18日18時頃、青屋口に落雷があり、焔硝蔵が大爆発しました。岡本良一著「大坂城」によると、焔硝蔵には火薬21,985貫600匁(約82.5㌧)、鉛玉431,079発、火縄36,640筋があったとのことです。

この大爆発により、
・城内では、青屋口は粉砕、山里曲輪は櫓・多聞櫓・加番小屋、二ノ丸東側の三加番小屋や東外堀に面した石垣中央部分の崩壊、本丸天守二重目に20人持大石飛来、本丸千畳敷屋根に柱が突き刺り、玉造定番屋敷破損、大手門近くに大石落下などの被害
・また市中の民家1481軒倒壊
・15㌔先の生駒山暗峠付近に青屋口門扉が飛来
・死者20数名、負傷者百数十名の人的被害
などの大惨事となりました。
6月18日が豊臣秀吉の命日のため、当時の「武門諸説拾遺」には「如此の首尾は雷のしわざにてはあるまじき」とあり、秀吉の祟りやなど噂されたと。

城代の陸奥磐城の内藤忠興に天守、丹波篠山の松平康任・尼崎の青山幸利・高槻の永井直清等がその他の修復にあたり、同年10月に工事完了しました。
今残る青屋口枡形は当時のものです。

その後、明治維新の大火により被災し、柱だけ焼け残りました。残った柱を使い、陸軍が屋根だけを取り付けましたが、1945年の空襲で再び焼失しました。

今の青屋門は、1969年に大阪市が残材を用いて上部に櫓を乗せる独立した櫓門を再建しましたが、図録「描かれた大阪城、写された大阪城」によれば、江戸時代は櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く伸びていました。

通りかけた際のご参考まで。


2020年04月19日 城郭道の刑部少輔タッキー
伏見櫓跡[大坂城  遺構・復元物]

大坂城二の丸北側にあり、二の丸の櫓の中で唯一三層の櫓であったとか。(他の櫓は二層)しかし、残念ながら第二次世界大戦により、焼失し、今に至る。

2020年04月19日 城郭道の刑部少輔タッキー
青屋門外枡形[大坂城  遺構・復元物]

大坂城青屋門は徳川幕府が1620年に大坂城再建の際に築き、戊辰戦争で屋根が焼失。柱だけ残り、その後、明治時代に陸軍が屋根を改築したものの、第二次世界大戦でまた焼失。1969年、大阪市が残材で再建し、今に至るそうです。


青屋というのは石山本願寺の青屋町から来てますが、この青屋というのは染物屋から来ているそうです。

2020年02月10日 あ~るぐれい
市正曲輪跡[大坂城  碑・説明板]



大阪城内堀と東外堀の間にあり、かつては豊臣秀頼の後見人であった片桐且元の屋敷があった。
江戸時代に入ると城内警備担当の武士の公舎があったらしい。
現在は遺構は特にないが、沢山の梅が植えられており、春先から花の頃になると人で賑わう。
梅林の中に小さなローソン有り。

2020年02月07日 和泉民部卿元就
大坂城

大阪城の御城印は、他の多くの御城印のようにあらかじめ印刷された紙の物では無く、自分でスタンプする物。
なのでスタンプだけで日付も何も書かれておらず自分で書いてくださいと言われた。
その代わり無料でした。
場所は分からず、1階のインフォメーションで尋ねると「2階の事務所に行ってください。ドアが閉まっているのでインターホンを押して用件を言ってください。」との事。
非常に分かりづらい。
100名城のスタンプは1階インフォメーションで言ったら出て来ます。

2019年12月14日 源摂津守@ポンコ2
一番櫓[大坂城  遺構・復元物]



一番櫓は平面六間×七間の大きさで、同じ現存の六番櫓(七間×八間)より一回り小さく建てられてます。

徳川実記にある寛永五年付の大坂宛書状には
「このたび仰せ付けられ候御櫓のこと、
西、東の角、そのほか目立ち候所は七間八間に
いよいよしかるべくおぼし召し候。
但し、目立ち候わぬ所は間中、一間小さく候ても
苦しからざる事」とあり、
徳川秀忠が建物の規模にあれこれ指示して、
一番櫓は目立たん所ということで、パッと見でわかりにくいですが、この大きさとなりました。
名称に一番とつき、個人的には玉造口前のわりと目につくとこやと思いますが、たくさんあった櫓の中では埋もれた存在だったのかもしれません。

ただ、規模でメリハリを出そうとしたのか、
節約のためかはわかりませんが、秀忠はこの一件だけでなくいろいろな指示など残していることからも、大坂城再築に熱い思いをもってたのは伺えたような気がします。

以上、一番櫓と六番櫓の違いについてでした。


2019年11月14日 源摂津守@ポンコ2
大坂城



図録「幕末大坂城と徳川将軍」に掲載された、当時のフランス軍事顧問団副団長のジュール・ブリュネが1867年にスケッチした大手口前の土塁や三門の大砲が気になり、調べてみました。

「元治二乙丑春二月於坂城中写之」の縄張図には、大手口前・京橋口前・玉造口前の3カ所に丸馬出が描かれており、大手(追手)口前の馬出には「胸壁文久三亥長州一件付城代松平刑部太輔作之」と、当時の城代で三河吉田藩主松平信吉によって構築されたことが記されてます。
また「浪花百景」の「筋鐘御門」でも、京橋口前に土塁と柵、冠木門が描かれ、幕末の湿板写真でもその一部が写っています。
幕末に丸馬出が築かれたのは、政情不安の中で守備強化のために、ヨーロッパから入ってきた18世紀の稜堡などの知識の影響かもしれませんが、日本の16世紀に先祖回帰したのかもしれません。

これら馬出の土塁などは全く残ってませんが、大手口前・京橋口前などに立ち寄った際のご参考まで。



2019年10月24日 源摂津守@ポンコ2
南外堀[大坂城  遺構・復元物]



南外堀は3期工事の1628年に普請されました。
昭和30年代に入ると、西外堀とともに湧水の減水が始まり、一時期、堀底が見えるようになりました。

その際、南外堀の三番櫓‐四番櫓の対面で、徳川期の石垣の崩落痕跡が確認されました。
肥後細川家の記録によれば、1630年に再普請されたとあります。
雁行等のない真っすぐな石垣が崩落の原因だったのではと、再普請の際に雁行のような屈曲部を設けられたと考えられています。

また、減水により堀底が露わとなったのを機に、1971年に南東隅にある二番櫓跡の下で発掘調査が行われ、二番櫓石垣端から9㍍離れたところに、62個の上が平らな自然石の花崗岩が石垣と並行に列にように並んでいるのが見つかりました。
そのうち19個の石には、追手門学院小学校やピース大阪、音楽堂などで発掘された豊臣期石垣と同じく、墨書がありました。
当時の調査報告書には、この石列と二番櫓石垣端の間が粘土層になっており、二番櫓石垣根石の根固めと考えられる石を詰めた遺構とされました。

ところが、大阪城天守閣前館長の中村博司氏は、見つかった石の特徴や名古屋の蓬左文庫の「大坂城普請丁場割之図」(2期工事)の南外堀内の4ヵ所に記載された「是ヨリ南古石垣」などより、豊臣期二之丸南面堀石垣の残骸ではないかと著書「天下人の城 大坂城」で提起され、現状では結論出てません。

かつての減水以降、東中浜下水処理場から注水されているため、堀底が露わになることはなさそうですが、某局の番組のように注水止めていつか再検証が行われて、石垣のツートンのように白黒ハッキリする時が訪れるかもしれませんね。

2019年10月10日 源摂津守@ポンコ2
東外堀[大坂城  遺構・復元物]



東外堀(約3.8ha)は、大正初期から砲兵工廠拡張に伴い軍事用として埋められ、戦後は運動場(ラグビー場)として利用されていたが、平成に入り3年かがりで1996年に大部分が復元されました。
(北外堀とつながらず、また巽櫓や玉造口土橋下の大阪府警射撃場跡も未復元)
大正の埋立では、杉山(算用曲輪)を削り取った土で埋め立てられました。
(徳川期の再普請の際に、外堀の掘削で出てきた土砂が杉山に投棄されてたので、埋立は元の地に還る?)

豊臣期より、東外堀がある東側は湿地帯で、当時から水面にぽつんと「鷺島」が浮かんでるような地でした。

「元和六年案紙」よれば、徳川期1期工事の石垣・堀の普請では、普請総奉行の藤堂高虎がこの場所は地盤(地心)が悪く普請が難しい場所のため、北國衆(加賀前田家や越前松平家など)の技術力を危ぶみ、自分が担当したいと幕閣に申し出を行っています。
それに対し、北國衆は引き受けた面子があるから自分らがすると主張し、対立した様子が伺えます。

~続く~

2019年10月10日 源摂津守@ポンコ2
東外堀[大坂城  遺構・復元物]



●「元和六年案紙」の藤堂高虎が酒井忠世ら江戸幕閣宛の書状
『態致言上候、一鷺池青屋口の地心悪所六十間御座候、
水をせきかゑさせ、根石各見申候へ共、水ふかく御座候而、
根石よく見届不申候、天気あかり右の所、
北國衆町ばの水かゑ切根石の様子、内にて御座候、
然者各石かきあまりの御功者にて無御座候問、一段無心一冗存候僚、
私六十問の分うけ取、水をもかゑほし、ね石見居、
穴生又ハ功者の者共申談、せひ共っきとめ可申と存へも申渡候、
悪所無心元所を無功成衆へ相渡、以来石かきそんし候ヘハ、
且ハ御ふしんの邪摩、如何御座候僚、
借用念申上候、但私仕候とても地心悪所候係、
如何可在之ハ不存候ヘ共、北國衆被成候高石かきも
各如割持意仕申候事よりハよく御座候ハん哉と申上儀ニ御座候』

●「元和六年案紙」の戸田氏鉄ら大坂城再築作事奉行から藤堂高虎宛の書状
『北國衆被申候ハ、右の所請取候町ばにて御座候問、
藤堂和泉へ相渡候儀、如何候問、ぜひ共被仰付候
様ニと、北國衆被申候』

その結果、東外堀の普請は、当初担当の北國衆が行っており、「前田家譜」には、本多政重・横山長知らが普請完了を前田利常に報告したと記録されており、また当時の「大坂城普請丁場割図」にも北國衆の名前が残されてます。

なお、復元工事の際、越前松平家が担当した普請箇所で、高虎の心配通り、石垣の崩落した痕跡が堀底で確認されてます。
崩落後の再普請は、久留米有馬家がやりたいと願い出て担当しました。
また、前田家が担当した石垣も奉行からズレを指摘され、本多政重は「利常の面子潰したから切腹する」と言い立て、一騒動起きたと言う記録が加賀に残されてます。
原因は前田家の準備不足だそうです。

今では、トライアスロンの水泳競技場として、本来の役割と異なる利用をされたりしてます。
普段より、東にある近くの中浜下水処理場から浄水処理された水が給水されてますが、トライアスロン前には更に大量給水されており、水質は維持されてるようです。

青屋口や玉造口から登城途中に東外堀を目にした際のご参考まで。


2019年10月05日 源摂津守@ポンコ2
玉造御蔵曲輪[大坂城  遺構・復元物]



現在、大阪城ホールやその東西の野球場には、旧大阪砲兵工廠本館がありましたが、江戸時代には玉造御蔵場がありました。
東外堀沿いの石垣を普請する際に、石垣が崩れた記録や東外堀を復元する際にその痕跡が見つかっており、猫間川から近くの東外堀沿いまでの間の地盤が悪かったようです。

玉造御蔵場は、19,000坪の敷地に1694年に米蔵29棟が置かれ、その後1798年に2棟新たに建築され、計31棟ありました。
「江戸幕府の米蔵」によれば、幕末の安政年間には、約162,000石の籾が保管されていました(これでも保管量の1割ほどで、7割前後は蔵前近くの浅草御蔵に)。
これらは、畿内や西国の天領から集められ、玉造御蔵場以外に大坂城内では、本丸多聞櫓や西ノ丸御蔵などでも、米以外にも軍事物資として、塩や味噌、大豆、糒も保管されていました。米は、大坂在番の武士の俸給として支給され、味噌は3年経過の古味噌は入札による払下げが行われていたそうです。

第二寝屋川沿いの護岸に積まれた石垣は、玉造御蔵場の面影を感じられる部分で、一部区間には遊歩道が設けられており、間近で見ることができます。


2019年09月06日 源摂津守@ポンコ2
算用曲輪(杉山)[大坂城  碑・説明板]



南東の玉造口土橋の南側にあって、豊臣期に年貢や金銀を計算する所があったことに由来する算用曲輪。

江戸期は杉山として大坂城見学できる庶民の行楽地でしたが、堀を掘削した残土のうち、本丸や二ノ丸の盛土で余った分がここにも7mほど盛土された事が土壌の成分調査で判明してます。
その後、明治期に東外堀を埋めるのに削り取って使用され、現在に至ります。
東外堀は平成に入り、復元されました。

江戸期の大坂城再築の際、算用曲輪は盛土される前から小山になっていて、そのことを徳川秀忠が気にしていたことが、古文書に残されてます。

藤堂高虎が普請現場の確認した内容を江戸の酒井忠世ら年寄衆に報告した書状が収められる「元和六年案紙」には、

「御城廻各同道仕、見及候慮、御指圃如御輸相
園、迫手の御門・たまつくりの御門・京口の御門
其外土橋の様子、繕固にて御このミのことく
一段可然相見ヘ申候、たま作の御門口は、
むかひ土井、殊外高可有御座と瀦存、江戸
にてハ如何可有御座侠哉と存候慮、地形
見申候而、御このミの段様子一段にて御座候、
土橋の上ハ不及申、下も水まハり候ことくニ
成可申候、左様-一御座候ヘハ、何方もからほりハ
無御座、皆水堀に罷成申候事」とあり、

秀忠(御このミ)が気にしていた各門や土橋は構想通り、玉造口に至っては、南側の算用曲輪(土居)より高い位置にできて、高虎が喜んでいる様子が記されてます。
なお、「元和六年案紙」には大坂城再築普請や秀忠の娘の後水尾天皇入内調整に関する書状のやりとりが主にファイリングされてます。

算用曲輪が今より7m下の地山でも、元々の玉造口の地山はそれより低かったとは、徳川期に壮大な普請が行われたことが伺えます。



2019年08月21日 源摂津守@ポンコ2
釣鐘屋敷跡[大坂城  遺構・復元物]



天満橋駅から谷町筋を南に、コンビニ(Fマート)の角を西に進むと、マンションやビルの群れの中に鐘楼(釣鐘屋敷跡)が見えます。ここまで駅から徒歩5~6分です。
鐘楼の住所は、大阪市中央区釣鐘町と地名の由来にもなってます。

1634年、3代将軍徳川家光が大坂城に入城する際、大坂三郷の惣年寄たちは、旭区今市まで出迎え、祝賀の意を表しました。
これを家光が喜んだ、豊臣の気配を消すためのパフォーマンス等様々な推測がありますが、大坂三郷の地子銀(固定資産税)を永久に免除しました。
当時の年間地子銀は合計で銀約180貫(1貫あたり125万円で約2.3億円)。
免除を喜んだ大阪三郷の町人衆は、後世までこの恩恵を伝えるため釣鐘を鋳造し、1日12回鐘を鳴らして時報としました。

鐘の鋳造を聞いた家光は銀80貫(300㌔)を寄付し、「釣鐘銘文并由来書」には銀80貫は釣鐘に鋳込んだとあります。
しかしながら、府教育委員会が鐘の成分を分析した結果、銀含有率は0.13%しかなく、銀の行方は気になりますが、鋳込んだフリしただけのようです。
銀をポッポナイナイしたのは誰でしょう。

鐘の音は、お初天神がある梅田あたりまで聞こえ、近松門左衛門の「曾根崎心中」に、
「あれ数ふれば暁の 七つの時が六つなりて 残る一つが今生の 鐘の響きの聞納め」の鐘で登場します。
~続く

2019年08月21日 源摂津守@ポンコ2
釣鐘屋敷跡[大坂城  遺構・復元物]

続き~
釣鐘は、江戸時代4度の火災に遭うも残りましたが、明治維新後の1870年、時報の役目が天保山台場から大坂城に移された大砲(今も天守前にあり)の号砲に代わりました。
背景には、徳川の善政の象徴を使い続けるわけにいかないとの判断があったとか。

役目を終え撤去された釣鐘は、その後、長光寺(天満橋南側)→旧江畔小学校(天満橋南側)→府立大阪博物場(大坂西町奉行所跡)など転々とし、1926年に大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されました。
ただ、音が聞こえることがほとんどなく忘れられた存在となり、太平洋戦争の金属拠出で全国各地の釣鐘が軍需用に拠出される中、免れました。
ちなみに明治の号砲の音が正午に鳴ると、昼から休む(半休)方がいて、それを半ドンと言うようになったそうです。

1970年代になって存在に気づかれ、地元有志から返還を求める声が上がりました。
大手殺虫剤メーカーや会社経営者らが資金提供し、釣鐘屋敷があった場所の当時の地主から無償で土地の永代貸与を受けて現在の鐘楼を建設、1985年6月10日「時の記念日」に府庁から移されました。
今も、朝、昼、夕方の3回、コンピュータ制御で鐘のいい高音が響いてます。
ところが2年ほど前、釣鐘が設置されている土地の現地主(売却により変わった)から、釣鐘を管理する団体や釣鐘所有者で保証人の大阪府に対し、鐘楼を撤去のうえ土地明渡しの訴訟が起こされており、現在も係争中です。

家光の大坂城入城契機に鋳造された強運の釣鐘、紆余曲折が落ち着けばいいですね。

参考文献:大阪をつくった100人


2019年07月27日 源摂津守@ポンコ2
大手口見付石[大坂城  遺構・復元物]



大手口桝形内の続櫓下にある巨石真ん中の大手見付石と、左の大手二番石は、元々一つの巨石を二つに割ったものというのは、表面の凹凸解析により、3年前に判明してます。

大手口桝形内の巨石(普請は肥後加藤家)
・真ん中の大手見付石:城内第4位、表面積約48㎡
・左の大手二番石:城内第5位、約38㎡
・右の大手三番石:城内第8位、約36㎡

巨石と巨石の隙間には、笑積みで石が積まれてます。笑ってるように見えなくないけど、名付けのセンスあるのかもしれません。

この巨石達はカットされ、奥行き幅があまりなく裏側の石垣に支えられるように立てかけられてると思われます。(京橋口の肥後石が解体修理された際に、裏側の構造が判明)

古の人々の運搬や加工、普請などの工夫や苦労に想い至れる処かと思います。


2019年07月23日 源摂津守@ポンコ2
糒櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



城内のセンターから見て鬼門にある糒櫓。

徳川期再築で三層の櫓が建ち、天守が落雷で焼失した際は、糒櫓に続く多聞櫓を破壊して延焼を防ぎ、明治維新の大火までありました。
現在は復興天守に携わった大林組関係者が建てた鳥居や祠、裏込石などで使われた地蔵などと、憩いの場用のテーブル・椅子が置かれてます。
豊臣期から糒櫓という名前の櫓があり、ある古文書には、豊臣秀頼・淀殿が落城時に自刃したのが糒櫓とされてます(諸説あり)。

櫓台には、鬼門除けに東側(内堀側)の石垣に、天端石より6~7石目に人面石が組み込まれたりしてますが、豊臣期大坂城ではこの地に天守がありました(今の本丸縄張りより、豊臣期本丸はひとまわり小さい)。
同じ本丸東側の馬印櫓付近で発掘調査した際に、石垣の数㍍内側の地下で豊臣期詰ノ丸石垣が見つかっており、豊臣期天守の石垣も同じように残っている可能性があります。
また、今の復興天守と糒櫓の間に、大手前貯水池が小山のようにありますが、この貯水池はタンクを置いてるだけで掘り込んだりしてないため、豊臣期天守台の南側や西側も地中に眠ってるかもしれませんが、現役の給水施設のため、発掘などできません。

大友宗麟が驚かされた天守をのせた石垣が、いつか解明されたらいいですね。


2019年07月14日 源摂津守@ポンコ2
大坂城



総石垣で再築された大坂城。

大坂の陣後の大坂城再築普請(石垣構築等の土木)では、普請は軍役と見なされ、加賀~美濃以西の65の大名が担わされました。
越前松平・日田石川等の譜代大名を除き、ほぼ全て外様大名が担当し、百石につき3人と決められてました。
当時の石は、60㌢×60㌢×150㌢で銀二十匁、米一石と同じ価格でした。
外様大名の経済消耗の狙いとともに、譜代にない石垣構築のノウハウを外様が持っていたためのようです。
加賀の前田利常や徳島の蜂須賀忠英のように、石高通りの負担を1~3期工事全て担わされる大名もあれは、薩摩の島津家久(忠恒)のように、全く担わされなかった大名もあったりしますが、何を基準とされたかは不明です。

高知の山内忠義は、家老から負担を減らしてもらうよう意見され、稲葉正成と交渉したものの失敗し、一期工事で二ノ丸大手前を担当してます。幸い、二期工事からは手伝普請を免れており、何らかの幕閣工作が実ったのかもしれません。

加賀の前田家は、最大の大名というだけでなく、お抱えの穴太衆(後藤家)がいたため、本丸東側の一番高い石垣や二ノ丸南面などの難しい所を担わされてました。後藤家文書には、石垣の勾配や傾斜の計算資料なども残されてます。
加賀金沢城が、石垣の博物館と呼ばれる様々な石垣があるのも、そこと関わりがあるのかもしれません。
ただ、前田利家末子の分家利貞は、一期普請前に、困窮で借金もできずこれ以上負担できないと知行返上し、その年に亡くなってます。

萩の毛利秀就は、大減封された直後もあり、普請前に家臣から知行百石につき銀百匁を徴収したり、倹約令を出したりしてました。
宇和島の伊達秀宗は、現場から扶食の米や銀子を送って欲しいの要望に、宇和島にはないから京で借金して工面せよと返事してます。

中津の細川忠興は、一期工事で目立つ場所(乾櫓付近)の普請希望したりしてますが、国許の家臣から、引受けは今後はよくよく分別いただきたいと苦情が出されてます。
それでも、忠興・忠利親子は、一期工事後の二期工事前に石を安く仕入れ、二期工事が始まって他の大名に転売して利ザヤを稼いだりもしてます。

城内の石垣を見られる際のご参考まで。

参照:岡本良一著「大坂城」等


2019年07月09日 源摂津守@ポンコ2
市多聞櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



明治維新の火災で焼失するまで、135㎡の独立した多聞櫓がありました。
大手口桝形はコの字で多聞櫓が取り囲んでるなど、焼失前の京橋口同様に防御の工夫が伺えます。

ここは武士以外が城内に入れる数少ない場所で、大番などで勤務する旗本相手に商人が定期的に市を開き、日用品などの売れ行きも好調だったそうです。(他に武士以外が城内に立ち入れたのは、糞尿回収の農民や蔵への入出庫の人足、旗本に雇われた中間など)

今は雁木上に礎石が残っており、取り囲む塀は焼失後に建築されました。


2019年07月08日 源摂津守@ポンコ2
蓮如井の井筒[大坂城  遺構・復元物]



江戸時代は大手口土橋の前にあった井戸が蓮如井と呼ばれてました。
明治維新後、蓮如井の井筒は玉造口に一旦移され、石垣補修のため現在の修道館横、六番櫓近くに移されてます。
この井筒、花崗岩をくり貫いてできてます。今は上下反対の状態に石蓋がされ鎖で閉じられてますが、下は井戸ではありません。

なぜ蓮如井と呼ばれてたのかは不明だそうです。

2019年07月07日 源摂津守@ポンコ2
数奇屋前櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



通称、数奇屋前櫓(具足方預片菱櫓)は、数奇屋の前にあった櫓に由来してます。
江戸時代、本丸は将軍直属の旗本が大番頭率いる大番、その他にも具足奉行、鉄砲奉行、弓奉行などが11基の三層櫓をそれぞれ管理していたため、●●方とつく櫓が多かったです。

数奇屋前櫓は、天守焼失の難を逃れた徳川家康の馬印が、反対側の馬印櫓に移るまでの102年間保管されてました。
内堀の水堀と空堀の境目の空堀側にあり、櫓台にはベンチが置かれ、たまに飲食されてる方を見かけます。また、ここからは西ノ丸や二ノ丸北側が見渡せ、眺め良好です。



2019年07月07日 源摂津守@ポンコ2
焔硝蔵[大坂城  遺構・復元物]



焔硝蔵は今残る西ノ丸と、二ノ丸伏見櫓の南東の二ヶ所にありました。
伏見櫓近くの焔硝蔵も西ノ丸と同様、石造に改築され明治維新後も残ってましたが、いつのまにか無くなったようです。

1660年の落雷により青谷口桝形内にあった焔硝蔵が大爆発してから、1685年に西ノ丸に再築され、 1691年に半地下から今の地上に改築されました。
今残る焔硝蔵は、面積172㎡、高さ5.4㍍、壁(石)厚が2.4㍍です。内側の石の隙間の目地は漆喰でしっかり塞がれてます。
記録によれば保管されてた火薬は90~230㌧でした。

石造のせいか夏でも中は涼しく、しばらくここから出たくないと思わされる心地よさでした。


2019年07月05日 源摂津守@ポンコ2
馬印櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



馬印櫓は、大坂の陣で徳川家康が使用した馬印が保管されていることに由来します。
ここに保管される前は、天守閣に保管されており、東ノ具足方預櫓と呼ばれてました。(本丸の櫓名は、糒櫓・月見櫓など一部を除き、●●方預櫓という決まった名前がなかったようです)

この馬印が保管されてた天守も、1665年、最上階の鯱に落雷・炎上しますが、旗本の中川帯刀が炎の中に入り、馬印を抱えて窓から飛び降り、焼失を免れました(中川帯刀は「粉微塵」に、跡取の嗣子は加増され大身旗本となったそうです)
その後、数奇屋前櫓(具足方預片菱櫓、本丸西側の空堀・水堀境目付近)で102年保管された後、馬印櫓で保管されました。
なお、歴代の大阪城代は、赴任時にこの馬印に御馬験拝見というセレモニーがありました。
また、第一次長州征伐のために入城した14代将軍徳川家茂も、この櫓で馬印を拝観したと記録があります。
こうして大事にされてきた馬印も、15代将軍徳川慶喜が大坂城脱出後の混乱の大火で、櫓と共に焼失したようです。(江戸町火消の頭領の新門辰五郎が火災前に持ち出し、江戸に運んだという真偽不明な話があります)

幕末の古写真では、三層三階建でした。
下の一層目に石落しが東向き設けられ、
二層目には、石落しを受ける形で千鳥破風、南面にも千鳥破風があり、
三層目の最上層には唐破風が設けられてました。
この意匠は、他の三層櫓とほとんど変わりません。
下の一層目の平面は7間×6間の大きさで、今も残る二ノ丸一番櫓とほぼ同じ大きさです。

二ノ丸の東、雁木坂付近から内堀越しに見ると、32m(水面から24m)で日本一の高さの石垣南横矢掛の、周囲より2~3石分高く積んでいるところが馬印櫓です。
本丸内では、ミライザ大阪と御金蔵の間を抜けると、木陰の案内板とともに2m弱の高さの櫓台があります。
石垣は抜け石が見られたり、火災による花崗岩の天端石や隅石など多くの石が熱割れや亀裂など、破損してます。また、全体的に曲がって不同沈下した様子も伺えます。

馬印櫓台に赴かれる際は、低い柵はあるものの、落ちないようご注意下さい。

参考文献「大坂城全史」中村博司著


2019年06月28日 源摂津守@ポンコ2
巽櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



巽櫓のある二ノ丸東は、低湿で地盤も軟弱なため、高い石垣を築けませんでした。
そのため、巽櫓台を東西7間 、南北8間にして、東側石垣を二段に積み上げて腰曲輪を設けることでトータルで高さを設けてます。
古写真では二層切妻破風の櫓がありました。
現在、巽櫓や艮櫓周辺は立ち入れないため、算用曲輪階段付近や東外濠越しに見るくらいしかできません。

2019年06月23日 源摂津守@ポンコ2
三番櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



三番櫓跡を二ノ丸内より。
二ノ丸南側内部は、抜け石など修理されず焼けただれた花崗岩、櫓と櫓をつなぐ塀跡の裏側が草木で繁茂する土塁になってたりと、廃城感を味わえます。
なお、三番櫓の上から、機銃創が石に残るのが見えたりします。

2019年06月22日 源摂津守@ポンコ2
豊臣期総構の痕跡[大坂城  遺構・復元物]



大坂城惣構の一つと言われる場所(清水谷公園)。
北側(大坂城側)が高く、南東に低くなる地形。
大坂冬の陣の際、ここの惣構守備は木村重成で、東側の真田丸を側面支援。

2019年06月22日 源摂津守@ポンコ2
東仕切(二ノ丸豊国神社の東側)[大坂城  遺構・復元物]



二ノ丸東仕切。

二ノ丸内に6ヵ所あった中仕切の一つで、侵入を妨げるために設置。
残るのは一番櫓側(豊国神社側)の下部分と雁木付きの石垣仕切。
空堀側につながる箇所は陸軍師団駐屯の時に撤去されました。
それにしても大きく薄く削られた石。
雁木付きの石垣は、修復で劣化した石が交換されてます。

2019年06月19日 源摂津守@ポンコ2
豊臣期の京橋口馬出曲輪跡[大坂城  碑・説明板]



追手門学院前の案内板と移築石垣。
ここは、豊臣期の京橋口馬出しにあたり、校舎建替時の発掘で東西に伸びる約40mの石垣が見つかりました。
それらは野面積石垣で、案内板は北側に、同学院の東側の通用門の塀下にも移築復元されています。
場所は現京橋口土橋の向かい側です。

2019年06月19日 源摂津守@ポンコ2
坤櫓跡[大坂城  遺構・復元物]



空襲で焼失するまであった坤櫓跡(角部)。
規模は南に現存の千貫櫓とほぼ同じ大きさとのこと。
石垣は一期工事(1619~20年)で普請され、本丸や二ノ丸南と比べ、石が不揃いで小さめ。
横矢掛の上にあり、防御の工夫が伺えました。
一期工事のため、天端石(一番上の平らな石)は石狭間になってません。

2019年06月18日 源摂津守@ポンコ2
北仕切曲輪の石垣[大坂城  遺構・復元物]



北仕切曲輪は塀と門の内側に建物はなかったようですが、東隣の玉造御蔵曲輪(現大阪城ホール付近)は、米蔵や味噌蔵などが建並んでいました。

寝屋川沿いに続く石垣も刻印より加賀前田家などが普請を担当したようですが、積み方が打込接と切込接のミックスや排水口が集まる場所など、犬走り風のとこに近づけないですが、川越しに見えます。

西側の稜線上に日経新聞社やテレビ大阪の社屋がありますが、建設時に出土した石垣の一部が、山里曲輪内の刻印広場、寝屋川ゾーンで展示されてます。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
青屋門外枡形[大坂城  遺構・復元物]



二ノ丸に4ヵ所ある枡形虎口のうち、唯一の外枡形。今は土橋風の道になってますが、かつては東外濠で囲われており、算盤橋がかかってました。明治の陸軍車両通行のために前面が埋め立てられ、現在に至ってます。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
玉造口[大坂城  遺構・復元物]



明治の陸軍使用時、車両通行の障害となる内枡形が撤去され、そのまま現在に至ってます。
なお、玉造口東側の雁木に、塀を支えた石柱が残ってます。

また、大坂夏の陣で焼け残った豊臣期の玉造口の高麗門は、徳川再築時に天王寺区の一心寺に移築された言い伝えがありますが、こちらは空襲で焼失して今はありません。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
桜門[大坂城  遺構・復元物]



明治天皇行幸に合わせ明治時代に再建された桜門。
当時は豊臣秀吉が築城したまま明治に至ったと信じられてたため、瓦には桐紋が使われてます。
なお、桜門の名前は、豊臣期に門の前にあった桜並木に由来するそうです。

今も内堀沿いに桜あります。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
金蔵[大坂城  遺構・復元物]



御金蔵は城内に2つありましたが、1つは戦前高槻城(旧陸軍駐屯地)に移されました。今残る御金蔵も戦後派出所で使われたりしてましたが、元の姿に戻されてます。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
細川越中守忠興屋敷跡[大坂城  遺構・復元物]



豊臣期の細川越中守忠興屋敷跡には、旧越中町の地名や越中井をはじめ、越中公園やグランドと、細川越中守にちなむものがあります。またガラシャ夫人に絡んでか越中公園南隣には大阪カテドラル聖マリア大聖堂があります。この聖堂のマリアさんは、和装の時があり、聖堂正面にはガラシャや高山右近の石像も。また越中公園には青刻昆布発祥の地の碑があるなど、カオスな地です。

2019年06月17日 源摂津守@ポンコ2
謎の穴[大坂城  遺構・復元物]



六番櫓左下にある穴。大阪城天守閣館長北川央氏の著者によれば、明治時代に陸軍が掘ったらしいもののその目的は不明、穴の中は2㍍くらい入れるものの、先は崩れて進めないとのこと。

2019年06月16日 源摂津守@ポンコ2
残念石[大坂城  遺構・復元物]



難波宮南の広小路公園に置かれた残念石。矢穴や分銅紋の刻印があります。刻印より出雲堀尾家が持ってきたものと推定。北側の入口付近に鎮座してます。

2019年06月15日 源摂津守@ポンコ2
金明水井戸屋形[大坂城  遺構・復元物]



落雷で天守焼失時に延焼免れ創建当時のまま残る井戸屋形。屋根には魔除けの桃がのり、井戸は今も湧き水。名前の由来の豊臣秀吉が毒抜きに金を投げ入れた伝承は、調査したが見つからず、代わりに瓶やツルハシなどのガラクタが。井戸は30㍍下まで掘られ、北外濠の堀底と同じレベルで水源は同じ。覗きこむと無数の小銭が目につきます。周りの雁木上には日本一の数を誇る石狭間が見えます。

2019年06月14日 源摂津守@ポンコ2
残念石の展示[大坂城  その他]



大阪重粒子線センター前にオブジェのように置かれる残念石。発掘調査で出土した徳川幕府築城の一期普請で不要となった石が刻印付きで見つかり、展示されてます。刻印より豊前細川家と肥前松浦家が担当した石のようです。

2019年06月14日 源摂津守@ポンコ2
豊臣期本丸内堀の痕跡[大坂城  遺構・復元物]



豊臣期本丸は、谷など自然地形を利用したため内堀が馬蹄形に入り込み、表御殿と天守などある詰ノ丸を土橋が結んでました。本丸の天守西側石垣で石数個分低くなったところは、豊臣期本丸の内堀があった場所と一致するため、それを埋立てた名残ではと推定されてます。西ノ丸より撮影、大坂城2500枚目。

2019年06月13日 源摂津守@ポンコ2
一番櫓[大坂城  遺構・復元物]



一番櫓は、千貫櫓などのように特別公開されたことは、2012年に一度だけあるそうです。建物内の床は、千貫櫓と同じく滑りにくくするために、木槌で均等に少し凹ませてあります。

2019年06月13日 源摂津守@ポンコ2
空襲で崩落したままの石垣[大坂城  遺構・復元物]



第二次大戦の空襲で崩落した石垣は戦後概ね積み直されましたが、積み直してないものが市正曲輪(梅林)に残されてます。終戦直後から数年、城内は畑になってた時期があり、当時の老婆が行き来しやすいよう崩落した石を使い石段を作ったものが、そのままの状態であります。現在、石段へは立ち入り禁止です。

2019年06月09日 源摂津守@ポンコ2
謎の石組[大坂城  遺構・復元物]



西ノ丸と本丸間の謎の石組。内堀の水堀と空堀の境い目にあり(東西ともに)。こちらは西側。何のための石組か…目的は現在も不明だそうです。空堀内の草苅終了後でよく見えます。謎解きいかが?

2019年06月05日 源摂津守@ポンコ2
豊臣期石垣公開施設予定地[大坂城  関連施設]



産経新聞ニュースの抜粋です。

大阪市立大の仁木宏教授らのグループは4日、現在の大阪城の地下に埋まる豊臣秀吉時代の「大坂城」について、天守台の石垣部分の構造を確認したと発表した。これまで絵図でしか確認されていなかった築城当時の大坂城の姿が大規模に確認されたのは初めて。秀吉が築いた大坂城は石垣の一部を除いて遺構は確認されておらず、仁木教授は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としている。

 大坂城は天正11(1583)年に秀吉が築城したが、慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」で落城。徳川家が埋め立て、約10年かけて新たな城を築いた。現在の石垣は徳川家が築いた当時のもの。

 グループは、絵図や過去の研究を基に、金属製のスクリューを地下深くに挿入し、地中の障害物の形状や地質を調べる手法で調査を実施した。約300地点を調べたところ、地下約2メートル付近に石垣の一部を発見。石垣は3段構造で高さ約30メートルと判明した。

 徳川家が築城した大坂城の石垣と高さはほぼ同じだが、当時の建築技術では、この高さの石垣を築けず、低い石垣を3段に重ねたと考えられる。

 また、櫓(やぐら)の基礎部分とみられる構造物が確認されたほか、生活の場だった奥御殿と公務を行う表御殿をつなぐ橋の構造も明らかになった。

 現在、大阪城は国の特別史跡に指定されているため発掘調査が難しい。仁木教授は「発掘調査がほとんどされていない場所で、構造物の情報を得られた。秀吉時代の城郭の構造解明につなげたい」と話している。

2019年05月09日 ケムンパス左馬亮植元
大坂城



京橋口にある巨石の切り込み接ぎ。こんな石垣を築こうと思った徳川幕府も凄いが実際の作業でここまで仕上げた人達はもっと凄い。お疲れ様でした!

2019年05月09日 ケムンパス左馬亮植元
大坂城



青屋門口。ここの枡形は外に突き出た形になっており、三方を堀に囲まれた「出枡形」と呼ぶそうだ。勉強になります。

2019年05月09日 ケムンパス左馬亮植元
大坂城



徳川大坂城の外堀と石垣。石垣の高さは勿論、横矢の折れ具合と数、絶妙な反り、そして大河の如く水を湛えた堀。そらコレを見せられたらここを攻める気なんて失せるわな。

2019年05月07日 橘若狭守次郎吉
豊臣期石垣(地下保存)[大坂城  遺構・復元物]



豊臣期大坂城の石垣の一部が地下にて保存されています。時々、特別一般公開されますが、普段は非公開です。

2019年05月01日 なおみん播磨守小弥太
大坂城



大坂城、焔硝蔵。多聞櫓と千貫櫓と合わせて、11月までの土日祝限定で特別公開しています。

2019年04月30日 つぼすけ
多聞櫓[大坂城  遺構・復元物]



多聞櫓。
大手門を突破!と思ったら、立ち塞がるのが多聞櫓。窓がたくさんでヤる気満々です。
2019年は11月24日まですぐ隣の千貫櫓とともに特別公開中です。
大阪府、やる気満々です。

2019年04月30日 つぼすけ
千貫櫓[大坂城  遺構・復元物]



創建1620年。乾櫓と並んで現在の大阪城では最古の千貫櫓。信長が本願寺を攻めた際、当該櫓からの横矢に悩まされたため、「千貫文(約1億円)出しても惜しくない」(武功雑記)と寄せ手が言ったことが名前の由来。
確かに大手門前に立ち左を向くと結構な至近距離で怖い。

おそらく場所は変わっていると思われるが、本願寺から豊臣大坂城にも、同様の名前の櫓があったそうです。

大坂門跡籠城之時、横矢能く掛り候矢倉有りて、寄手難儀致し候に付き、千貫文出だし候て成りとも取り申し度き矢倉と沙汰申し候故、是より千貫櫓と申し候事(武功雑記)
大坂城全史 歴史と構造の謎を解く(ちくま新書・中村博司)より

2019年04月30日 つぼすけ
大手門[大坂城  遺構・復元物]

大阪城の正面、大手門(追手門)。
名前の割に地味だと思うのは私だけではないはず。正面右側の控柱の継手は一見不可能に見えるほどの超絶技法らしいです。
ヨリの写真は撮り忘れました。

2019年04月30日 つぼすけ
乾櫓[大坂城  遺構・復元物]



大阪城で残る建物のうち、千貫櫓と並んで最も古い建造物。乾櫓。徳川幕府による大坂城再建工事で1620年に建てられた。
大阪城の西北角なので戌亥(=乾)。

2枚目の写真は乾櫓&千貫櫓の大阪城最古コンビショット。

2019年04月30日 つぼすけ
佐竹義宣屋敷跡[大坂城  遺構・復元物]



秀吉の大坂城西側の三ノ丸内。豊臣家滅亡後の徳川による盛土(2、3m)の下から出
土。東隣は大阪府警本部。上中下の3段構成だが、上段は狭く詳細不明。
秀吉晩年の広大な大名屋敷(佐竹氏)と大坂の陣での陣小屋が並存し、豊臣家の栄華と滅亡が肌で感じられるが、また埋められてしまう(泣)

【現地説明会でのお話】
<中段>
2棟のうち建物1は佐竹義宣や妻子が住んだ奥御殿(東西約20m、南北約15m)、建物2は炊事場と推定。1598年ごろか?
これまでも大阪城内からは大名の屋敷のものと思しき家紋瓦は発見されていたが、複数の家で使われていた紋であり、どの大名家の屋敷か特定できていなかった。今回発見された「扇に月丸紋」は佐竹氏固有の家紋であり、特定に至った。

<下段>
掘立小屋と思しき柱や焼けた跡があり、大坂の陣で使われた陣小屋群と推定。区画①からは火縄銃の弾が出土。未完成のものもあり、弾を製造していたのかも。

<その他>
焼塩壷は粗塩を再加熱し水分などを飛ばした焼塩が入っていたもの。高級な食塩であり、後世には壷自体に屋号などの刻印が入りブランド化もされた。
極めて稀なわらじも出土。がんばって保存処理中。
学芸員さんの喋りが達者で分かりやすかった。

2019年3月23日撮影

2019年04月23日 源摂津守@ポンコ2
人面石(鬼面石)[大坂城  遺構・復元物]



幕末にも撮影記録がある鬼門の本丸糒櫓台に、陰陽道に則り人面石(鬼面石)を設置。青屋門より二ノ丸内を南に進んだ内堀越しに見ることができます。

2019年04月23日 源摂津守@ポンコ2
乾櫓[大坂城  遺構・復元物]



徳川家光が大坂三郷の人々に向かい、地子(固定資産税)免除の合図として金の采配を振った場所がこの乾櫓からでした。

2019年04月23日 源摂津守@ポンコ2
千貫櫓[大坂城  遺構・復元物]



織田軍団と本願寺の戦いに名称が由来する千貫櫓。千貫櫓は一期工事の作事にて建設、右側の多聞櫓は江戸後期の作事で再建。

2019年04月13日 源摂津守@ポンコ2
大坂城



19年3月、大阪府警本部西側(豊臣期三之丸内)で1598年頃建築された佐竹義宣公屋敷跡が見つかりました。
上段・中段・下段の三段構成の造成され、中段と下段で建物跡の礎石や竃、扇に月丸紋の瓦や「さ竹内」と書かれた荷札、中国製青花白磁などの陶器や漆椀などの木製品等が出土しています。
大坂城から西へはなだらかに下り坂のため、三段構成になったのかもとのことでした。
大坂の陣の前には取り壊されてたそうです。
発掘現場は現在土に覆われてました。

この以前にも府警本部南側の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局建築時に、屋敷境に掘られていた堀と沢瀉文金箔瓦が見つかっています。
ここは、沢瀉文を馬印に使用、認められた者しか使えない金箔瓦、屋敷の広さ、建築後わずかな期間で取り壊されたなどから、豊臣秀次の屋敷跡ではないかと推定されています。

また、歴史博物館西側の市立東中学校も建築時に、屋敷地造成にかかわる遺構と見られる石垣が見つかっており、今も体育館の地下で保存されています。

この周辺は武家屋敷に関する発掘がありますが、この地以外では、天満橋の楼ノ岸砦があるエル・おおさか南館でも発掘されてます。
その時は門の礎石とそれに続く築地塀基部の石垣、柱の礎石が見つかってます。
その一部は、南館入口前に案内板とともに残されてます。
また、桔梗紋の鬼瓦も一緒に発掘され、今も1階で館内展示されており、紋より肥後加藤家かその関係者の屋敷跡ではと推定されてます。

以上、近くにお越しの際のご参考まで。


2019年03月28日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

本丸天守西側を歩いていると、西側の一画で石垣の天端石が3石分くらい低いところがあります。
隠し曲輪の南端から南の本丸石垣を見ても、水堀と空堀が交わる部分まで天端石が低くなっているのがわかります。

この低くなった部分は、豊臣期大坂城本丸で馬蹄形になった水堀が蛸石傍のトイレ近くまで入り込み、徳川期になって現在の高さに埋められたとされる場所と一致しますが、なぜそうなったのかはわからないようです。

では、なぜ豊臣期本丸が馬蹄形になったのか、それは地質調査等から元々の自然地形をそのまま利用したことによるそうです。
西側から入り込んだ堀は本町谷と呼ばれ、反対側の東側から入り込んだ堀は井戸曲輪谷と呼ばれる谷があり、それに挟まれるような自然の土橋が形成されていたのが、そのまま縄張り活かされたようです。

自然地形の比高は、今の本丸桜門から六番櫓あたりが一番比高く、大坂本願寺の伽藍はこのあたりと想定され、豊臣期本丸は南の内堀(空堀)の普請で出た残土を本丸の盛土に再利用したとボーリング調査で判明しています。

本丸散策時のご参考まで。


2019年02月04日 源摂津守@ポンコ2
大坂城


天守北の多聞櫓跡の雁木を上り、東の貯水池側にすすむと鳥居が建つ糒櫓 (蔵方預櫓)台があります。

鳥居を潜ると、天光熊丸大神、白龍大神、天光熊蔵大神と彫られた三つの碑があります。
これらの碑文を見ると、昭和6年の天守復興工事を担った大林組関係者が怪我人を出すことなく工事完了に感謝して祀ったものでした。

鳥居の左手前にある祠には、複数の石仏や五輪塔が集められています。これらは、天守復興工事の際に天守台石垣の裏込め石から取り出されたものだそうです。
なお、空襲で歪んだ本丸北の山里丸北東面石垣補修の際にも、裏込め石から石仏が出ています。

糒櫓台の下には鬼門除けの人面石があり、梅林前の内堀越に見ることができます。
また、「金城見聞録」には、江戸時代、糒櫓の近くに「蓮如上人袈裟懸けの松」があったと記されてますが、ここは徳川期再築時に盛土されなかったんでしょうか。現在「袈裟懸けの松」は、なぜか雁木坂付近にあります。

スピリチャルな糒櫓台からの眺めはよいので、機会があれば訪れてはいかがでしょうか。


2019年01月17日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

『僊台武鑑』の「大坂冬の陣配陣図」には、京橋口(ドーンセンター・追手門学院)、大手口(府警本部)、玉造口(野外音楽堂)に馬出があり、発掘で石垣や障子堀、塀跡が見つかっています。

京橋口馬出しは、1980年、追手門学院校舎建替時の発掘で東西に伸びる約40mの石垣、1989年、ドーンC建築時の発掘で、同学院と同じ線上で21mの石垣がそれぞれ見つかりました。
それら野面積石垣は、ドーンセンタ北に移築復元と案内板が設置され、同学院の東側の通用門の塀下にも移築復元(←案内板なく見落としやすい)されています。
同学院OB万城目学氏が「プリンセストヨトミ」あとがきで、校舎建替え時の様子に触れてはります。

また、同学院では、顎に介錯傷がある20代男性の栄養よくきれいな歯並び並びの頭蓋骨が、当時珍しいアラブ系馬の骨、高級品の織部焼・唐津焼の副葬品と共に見つかってます。
「難波軍実録」に「山里丸焼け跡で、首のない遺体があり、その傍らに豊臣秀頼所有の「吉光」銘の入った刀が置いてあった」等より、秀頼の首とされ、京都嵯峨清涼寺に首塚が築かれ埋葬されてます。

京橋口より以上です。



2018年12月25日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

豊臣期の総構は、
北端が大川・平野川、
西端が東横堀、
南端が真田丸出城の北側など、
東端が猫間川の
内側にあったと言われています。

この総構の内側には、大名・武家屋敷や商家以外にも、大阪府庁周辺の調査で鋳物職人の工房跡などが見つかっており、職人もいたようです。
東外堀の内側の和泉町で行われた2002年の発掘調査では、瓢箪形や小判形をした楕円形の達磨窯と呼ばれる瓦窯が9基とともに、窯壁の破片と一緒に大型・小型の瓦の破片も見つかっています。
瓦の破片の中には、本丸で出土した瓦と同じものがあり、ここで築城用に作られていたようです。
なお、和泉町の南に瓦屋町があり、ここは江戸幕府の御用瓦師の寺島藤右衛門の屋敷地があった場所で、瓦の積出などが行われていました。
寺島藤右衛門は、紀伊粉河の瓦職人頭で徳川期大坂築城に貢献したため、大坂築城3期工事完了後に御用瓦師となり、江戸城の瓦なども請負っています。

以上、大坂築城に必要な製品の生産が総構内の城域で行われていたとは地産地消のはしりネタでした。


2018年12月11日 大納言織田晃司
大坂城

石山本願寺の推定地として大坂城六番櫓の付近だと言われてます。

石山本願寺撤去の後、豊臣秀吉が大坂城築城。大坂の陣の後、秀吉大坂城撤去の後徳川大坂城築城と変遷があった為、特定しづらくなってます。

ですが、織田信長が「あの櫓を落とした者には千貫与えても惜しくない」と言わしめた櫓(千貫櫓)など存在した一大御坊があったのは間違いない。

2018年11月30日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

国内の城郭石垣の巨石第一位は本丸桜門枡形内の蛸石(127㌧)、第二位は京橋口枡形内の肥後石等々、数多の巨石がある大坂城。

これらは、瀬戸内の海路や大川等、水上輸送されてきたと筑前黒田家の覚書など多くの資料に記録され、石切場から山出し・陸揚場から丁場までなど陸上運搬されているところもあります。
水上輸送も船転覆の危険と隣り合せで大変ですが、陸上輸送では地車と修羅などの道具を使いながら人海戦術で運搬しており、1996年の「徳州期大坂城石垣の石積み施工技術に関する考察」には7~80㌧の石を動かすのに700人の人力が必要とのこと。

また、日本昆布協会が1986年に発刊した「昆布」の「大阪築城と昆布」では、「堺の業者の口伝は、この石を運ぶために沢山の昆布が使われたというのである。重いものを運ぶのに、丸太などをコロとして使うが、水に漬けた昆布を敷きつめ、その表面のヌメリを利用して、その上に石を滑らせて運んだ」とも記載されており、それが大阪の昆布出汁文化の源流とも言われているそうです。
なお、旧三ノ丸の細川越中守忠興屋敷跡にある越中公園には、「青刻昆布発祥の地」の碑があります。


2018年10月23日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

南、西(大手前)、北、東外濠と内濠の計5ヶ所の水堀の水源はどこか、それは外濠沿石垣がツートンになってることと関連あります。

水堀の水源は、天守前の金明水井戸とほぼ同じレベルまで掘り下げた地下水です。
戦後の工業化による地下水大量汲上げ影響で地下水位が低下、1959年に西外濠が、1971年に南外濠がそれぞれ干上がり、堀底が見えるようになりました。(北外濠と内濠干上がらず)
1959年に地下水汲上げ規制が行われ、1963年から工業用水が注入されるも、工業用水そのものが不足のため、水位は回復しませんでした。
そのため、1971年に大坂城の東2kmの中浜下水処理場の二次処理水の一部を高度処理しての注水を開始し、堀の水位は一定になりました。
1996年の「大坂城石垣築造技術普請に関する地盤工学的考察について」では、西外濠・南外濠に1日40百立方メートルを注水、2009年の大阪市建設局資料では、1日15百立方メートルを注水と、注水量は少し減少してます。

外濠沿石垣のツートンは、これら注水で水に浸かったとこが白っぽくなったためです。

以上、水の都の小ネタでした。



2018年10月10日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大坂城北西に位置する京橋口は、備前岡山藩池田忠雄が普請を担当し、門脇の鏡石や城内で2番目に表面積が大きい肥後石(小豆島産。表面露出実面積:54.17㎡、推定重量:約127t)などの巨石を用いて普請。

肥後石などの巨石は、安定させるため下部に鉄製楔が数カ所打込まれ、今も探せばあります。
肥後石は、昭和50年代解体補修で裏側に支えの石垣が見つかり、厚さも上部の薄い部分は1m弱と化粧板のようになっています。

岡山藩が担当したのになぜ肥後石と呼ばれているのでしょう。
文政7年の『摂営秘録』には「此外肥後殿と名付候大名石いろ~有之候得共、繁候なれは略之」とあり、当時から巨石は加藤家と思われてたようです。
なお、肥後熊本藩加藤忠広は、大手口の普請を担当、蛇の目紋の石も多数残っており、その影響かもしれません。
昭和6年発行の『大阪城物語』(著者:恒次寿 )でも、大坂城は徳川でなく豊臣時代のイメージからか、肥後石は加藤清正が豊臣秀吉のために小豆島から運んできた物と紹介されたため、現在に至ったようです。

あの世で池田忠雄氏は何を思ってるのでしょう。



2018年09月25日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

森ノ宮駅から噴水のある広場を通って二ノ丸玉造口に向かう際、高台を上る階段があります(野外音楽堂南と東外堀の南の2ヵ所)

玉造口南側のこの高台は算用曲輪(杉山)と呼ばれ、林の中に佇む案内板に
「秀吉の大坂築城時の賃金計算が行われた場所、年貢や金銀の計算が行われた場所といわれる。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれ、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれていた」
とあります。

この高低差は西から東に落ちる上町台地の傾斜した自然地形のようですが、少し手が加えられています。
1981年の東外堀南側の階段部分の斜面で発掘調査では、地表面から厚さ7mの徳川期の盛土、その下に地山(上町層)が見つかりました(地山は高さ11m)。
この盛土、土の成分から堀の掘削で出たもので、本丸等の盛土で使い切れなかった残土です。
ところが、明治後半、陸軍砲兵工廠拡張で東外堀の埋立に高台の一部が削平された土が使われました。
その東外堀も、1997年に掘削で復元され、今に至ってます。

以上日の当たらないところの小ネタでした。




2018年08月18日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

豊臣期の三ノ丸は諸説ありますが、西側の谷町筋や南の長堀通などに存在が共通しています。徳川期の三ノ丸は、名称は別として実質的に北側・東側に存在しました。

二ノ丸北外堀と大川の間の細長い帯状に北仕切曲輪(北の曲輪、外曲輪)があり、京橋口土橋西端の北側に仕切の石垣・筋鉄門がありました。
薬医門の筋鉄門は、1945年の空襲で焼失するまで存在し、門越しに伏見櫓(空襲で焼失)を望む古写真や絵葉書で当時を知ることができます。
今は門の礎石、仕切の石垣その上に陸軍建造のレンガ塀が残ってます。
仕切曲輪は筋鉄門~新鴫野橋の南詰に境界の塀と門までで、内部に建物がなかったようです。
現在は陸軍造兵廠化学分析場の旧建物と桃園です。

北仕切曲輪の東側の現大阪城ホールは玉造御蔵場(曲輪)で、ここには米蔵や味噌蔵などが建並んでいましたが、その面影を残すものはないです。

筋鉄門跡北の大坂橋~新鴫野橋~大阪城ホール北側の大阪城新橋あたりまで、大川沿に当時の石垣が残っており、その一部は遊歩道が設けられ間近に見ることができます。

お時間ある時のご参考まで。


2018年08月10日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

本丸を囲むように二ノ丸がある輪郭式大坂城。
攻城戦で大手口、京橋口、玉造口、青屋口のいずれかの枡形虎口が破られると、一気に侵攻されます。
それを防ぐため、二ノ丸内には中仕切を5ヶ所設けられ、6ブロックありました。

①京橋口南の北仕切-太鼓櫓があった南仕切
現在のほぼ西ノ丸。北仕切は石垣の他、高麗門が1965年復元。南仕切は劣化した花崗岩を交換した石垣と太鼓櫓台あり

②京橋口南の北仕切-極楽橋北向い西側の仕切
 西側の仕切石垣は予防でフェンスに囲われた状態

③極楽橋北向い西側の仕切-極楽橋南向いの東仕切
 東仕切は石垣の大半が軍用車走行の障害になるため撤去。極楽橋前面の馬出的な役割が想定

④極楽橋南向いの東仕切-雁木坂上の仕切
 現在の市正曲輪。雁木坂上に石垣・多聞塀と二層櫓あり、軍用車走行の障害になるため石垣撤去。雁木も埋められ坂に

⑤雁木坂上の仕切-南面の東仕切
 南面東仕切は喰違い形式で、二ノ丸側空堀端(北側)延伸上の石垣は撤去、南側は石垣あり

⑥南面の東仕切-太鼓櫓があった南仕切

中仕切を見かけられた際のご参考まで。


2018年07月19日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

豊臣期の面影を払拭するため、現在の本丸は1~7m盛土され石垣などが築かれてますが、これまでのボーリング調査や発掘調査により、徳川期に6m、明治以降に1mの盛土というのがわかっております。
さらに、豊臣期も前身の本願寺時代も築城の都度、盛土されており、自然の地表面(地山)は現在の地表面より11~2m下です。

豊臣期から現在の本丸に至る盛土量は、大林組が1983年発表の「現代技術による豊臣期大坂城の復元と積算」によれば、1百万立方㍍と推定されております(前述の積算では、11㌧ダンプトラック30台で1日当たり5千立方㍍動かしても200日要する量)。

この土はどこからきたのか、それは水堀となっている外・内堀の掘削土が使われていると想定されてます。
徳川期盛土の成分調査では、三層の洪積層からなる上町層のうち、青味がかった緑色の粘土が多く含まれる上町層の中部(11m)と同じ成分で、水堀はその下部の湧水出る砂礫層(井戸も同じレベルまで掘削)まで掘削されているためです。中部の粘土の層ならば、地下の水分も含まず盛土にも適しています。

以上、人力の大規模土木工事コネタでした。



2018年06月26日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

1980年代、大阪城公園駅から青屋門を潜り山里曲輪を通ると、よくわからない狛犬一対が置かれていました。
処分されることなく、京橋口から城内に入り1965年再建の西ノ丸北仕切門前に、内堀越しにのぞむ天守閣を間に挟みこむ形で移されています。

この狛犬、1940年夏、中国北部進駐の日本軍から大阪陸軍兵器支廠に兵器とともに送られてきたもので、当初は本丸から山里曲輪へ続く出枡の姫門跡に置かれ、戦後もそのままになっていました。
中国での略奪品ということで1983年、大阪市から中国への返還しようとしたそうですが、中国側からは翌年、日本と中国の友好を深めるために改めて大阪市に対してこれを寄贈したいとの申し入れがあり、現在の場所に移設されたそうです。
ちなみにこの狛犬は十四世期の明の時代の遺物で北京郊外より出土する白玉石製で、国宝級の価値があるとのこと。

政治的なプロパガンダに利用されているようですが、それとは無関係です。


2018年06月16日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

復興天守閣が市民の寄付で建てられたのは知られてますが、終戦後の1950年ジェーン台風により現存櫓・門破損の応急修理でも多くの部分が企業や市民の寄付で賄われました。

ジェーン台風で、数多の屋根瓦や壁が崩落し、
特に六番櫓は
・壁土 東・北面半分剥落
・屋根瓦 棟瓦半分と南面三分の一約千枚落下
庇の傾斜も甚だしく波をなして矢倉中損害最も甚だし
・残余の壁土も風雨に酷くたたかれ剥落せんとする如くである
と崩壊寸前の様子が報告書に記されてます。

府や赤十字等が修復委員会を作って寄付を募り、
35百万円の修理費のうち
約9百万円が市民の寄付、
約16百万円が企業・財界が寄付、
残りを府と市が出して、
1953~54年に応急修理が行われました。

今ある大坂城、市民の支えで守られてきてます。
計画中の本丸豊臣期石垣常時公開でも、寄付集まるかもしれませんね。
なお、1953年に、国史跡・現存建造物の重要文化財に指定されました。


2018年06月05日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

重要拠点の天下普請かつ総石垣ということもあり、
・石垣高さ(本丸東側)
・巨石大きさ(本丸桜門内の蛸石)等
石にまつわる日本一がありますが、
もしかしたら石垣最上部の天端石の石狭間(笠石銃眼)も数えると日本一かもしれません。

中井均先生著書によれば、石狭間は大坂城含め、江戸城・岡山城・二条城の4城しかないそうです。
二条城は未確認ですが、江戸城・岡山城の石狭間は一部のみ確認の一方、大坂城は広範囲にあり国内で初めて設置されました。
石狭間は、藤堂高虎家臣の米村勘左衛門一長(米村流砲術始祖)が携わり、「大坂城御再造覺書」に吉田六左衛門元直(弓の名手)と共に塀などの狭間の切り開きを指導したとあります。

石狭間は、城内でも大手口より北側の二ノ丸等の1期工事(1619年)では京橋口等の虎口のみに見られ、本丸や二ノ丸南側の2期工事以降は石垣上には概ね設置されています。
1期工時の虎口は、建築資材の運搬が終了した最後に築造されたとの学説もあり、石狭間の開発が間に合ったのかもしれません。

素通りが多いかと思われる石狭間ですが、小ネタ一つで見方も違うのではと思います。


2018年06月04日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

江戸時代末期の1848年、1783年落雷で焼失した大手多聞櫓再建はじめ天守を除く城内全建物の大修復工事を行われました。

築年が比較的新しいため、よじ登り防止用に石垣隙間を埋めた漆喰が建物下等で一部残っています。
また、この際、第九代鴻池善右衛門を筆頭に加島屋等の大坂商人に85.5万両、堺・兵庫・西宮の商人に70万両の御用金が課されました。
お上の命令をポンとこなすところが商人の町と言われる所以でしょうか。

多聞櫓は、門の上(北側)は渡櫓、L字に折れ曲がった石垣上の櫓(東側)は続櫓と呼ばれ、渡櫓下部の門は、高さ約13.6mの総鉄張鉄打の外観の両開き扉式で左扉には潜り戸があります(常時開いているためわかりにくい)。
門上の渡櫓は約39m×約10m、続櫓は約55m×約5.8m、面積は計約710㎡と国内最大級の規模、笠石銃眼は17ヶ所あり、大工棟梁は大坂城大工頭の山村家だったことが棟札に残されています。建築工期は315日でした。

なお、1783年の櫓焼失時、北方の塀は千貫櫓と共に延焼を免れ、1628年の3期工事で建てられたことが昭和の解体修理でわかったそうです。


2018年05月14日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

城内や外堀外周の公園内を歩いていると、無造作に石がおかれていることに気づくことがありませんか?

これらは石垣修復で撤去された石ですが、撤去石も文化財のため廃棄せず、一部の状態が良好な石は本丸北隣の山里曲輪内刻印石広場に城周辺で見つかった残念石とともに展示され、そこに収まりきらない石が大阪城公園内の城内外に置かれています。

今の大坂城で使われている石は、1959年の大坂城総合学術調査で石の刻印を調べる際に数え、目に見えている部分だけで約50万個あるそうです。水堀内など見えない部分を合わせると推定100万個の石があり、木津・生駒・六甲・瀬戸内などで切り出された石は全て花崗岩(御影石)です。
花崗岩は強度や見た目の良さの反面、石英、長石、雲母の三つの異なる鉱物からなる混合岩石のため、強い熱にあたると三つの成分がそれぞれ異なる膨張率で膨張して石の芯まで脆くなる熱への弱さがあります。そのため、幕末の大火や第二次大戦により脆くなった石は、平成の前半まで主に小豆島産石を使用して順次取替られてきました。

以上、無造作に置かれた石を見かけられた際のご参考まで。



2018年05月08日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大坂城本丸地下に眠る豊臣期本丸は、1959年・1984年の発掘調査、200ヶ所以上のボーリング・サウンディング調査により、中井家大坂城本丸図の縄張と同じであることがわかってきてます。

豊臣期本丸は、天守(現天守東の現配水池付近)・居住用の奥御殿がある詰ノ丸、それを取囲むように中ノ段、下ノ段の三段構造、下ノ段南側に政務を行う表御殿(現ミライザ付近)と米蔵(現日本庭園)となってます。

59年に中ノ段帯曲輪西部石垣、84年に詰ノ丸南東隅石垣がそれぞれ発掘され、詰ノ丸は自然石の他、古墳の石棺・難波宮礎石・石臼・五輪塔などの転用石が使用されています。
市が募金集めて公開を目論むのは詰ノ丸南東隅の石垣で、今は御金蔵東隣に仮囲いされ、たまに蓋を開け公開されるのは中ノ段帯曲輪の石垣です。

豊臣期本丸は、現在より少し小さめ堀幅も小さく、タイムカプセルのある箇所まで内堀が入りこんでたようです。また、地表から1m下に詰ノ丸天端、7m下に中ノ段(詰ノ丸石垣底)、更に地中深くに下ノ段があり、タイムカプセルは25m下まで遺構がないことが判明してます。

以上、本丸に行かれた際のご参考まで。

2018年04月17日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

小天守台にある金明水井戸は、古図ではオウ金井やオウ金水と記録されてます。
金明水の井戸屋形は1626年、天守閣と同時期に建築されました。高さ5.2m、面積約12㎡。井戸は地下33mと内堀と同じ水脈まで掘削され、今も水が湧き出しています。

天守閣が1665年落雷で焼失した際も井戸屋形は類焼を免れ、1969年に行われた解体修理時に「寛永三年十月吉日」と記された墨書が発見されています。
屋形屋根には鬼瓦などとともに、邪気払いや魔除けの留蓋瓦の桃があります。
秀吉公がオウ金を沈めた伝説に名は由来しますが、1959年の大阪城総合学術調査ではオウ金は見つからず、木製ツルベ、瓦などが見つかりました。
また、井戸内部の積石は上から8mは隙間なく、それより下は粗く積まれており、8m部分は徳川期再築の盛土のため、それより下は豊臣期ではないかとの説があります。

江戸初期の大坂城図には29の井戸が記録されていますが、視認できるのは、金明水の他
桜門桝形の銀明水(井筒と敷石、水は水道水)
二ノ丸修道館西脇の蓮如井(井筒のみ)
西ノ丸千貫櫓付近と中央
の5ヶ所のみです。



2018年03月24日 あまそう中務大輔
大坂城

西の丸庭園の桜ですがまだ三部咲きです。4月1日の日曜日が満開かも❗9時から21時まで18時よりライトアップされます。入場料350円です。天守もよく見えますよ❗

2018年03月16日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

鬼門にあたる本丸北東角の糒櫓石垣に、鬼門除けの人面石(鬼面石)があります。
青屋門から入り、内堀沿を雁木坂方向(南)に進むと、本丸北東角でツタが茂って石垣に係る部分があり、天端石から6石目あたりの角のない石に顔っぽい?のが人面石です。
付近を航行する御座舟から人面石のアナウンスが聴こえることも。
幕末の写真にも「人面石ノ図」と名付けられたものが残ってます。

青屋門も、大手門など他の3ヶ所と異なり、土橋がなく外堀に算盤橋が架けられ出桝形の構造は、鬼門除けのためとの説があります。常時閉鎖されてたとか。

豊臣秀吉も鬼門には気を遣い、北東方向に、鬼門鎮護の神として毘沙門天や牛頭天王を勧請した関目神社(城東区)建立や、大宮神社(旭区)の境内を整備しています。
少し離れた枚方市でも、片埜神社の荒廃した社殿を修築し、秀頼の代では同社の本殿造営のほか二ノ宮神社・三之宮神社の修築も行ってます。
南西の裏鬼門には、生國魂神社内に城方向(きたむき)八幡宮があり、大坂城の方を向いて北向きに建ってます。石津太神社(堺市)もそのようです。

主は気にせずにいられなかったようです。


2018年03月09日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

1945年の空襲で焼失した伏見櫓は、二ノ丸にあった13棟の櫓で唯一の三層櫓で、最大規模の櫓でした。

二ノ丸北西隅にあり、
規模は1層目が東西9間×南北8間(内部6室)、2層目が7間×6間(内部4室)、3層目が5間×4間(内部4室)と合計約443㎡、
屋根は本瓦・壁は白漆喰塗籠、石落が5ヶ所ありました。
名称に表れるように、江戸末期の「金城見聞録」には伏見城から移築されたとあり、定説となっていました。
1942年に城戸久氏が再建に関わった藩などの各地に残る古文書研究と、陸軍協力のもとでの現地調査により、今の遺る千貫櫓・乾櫓と同時期に建築されたものと主張されています。
幕末から戦前にかけて撮られた古写真は、外観は乾櫓などと様式が同じで、推定通りに思えます。二ノ丸北半分の石垣築造にあたり、伏見城から多くの石が運ばれたため、櫓もそやでと記録されたのかもしれません。

今は、外堀から立ち止まって見る人も櫓台を訪れる人もあまりみかけませんが、戦時中に研究されてたことや事前にネットで古写真を見てから現地で往時の姿を想い浮かべてはいかがでしょう。


2018年02月28日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

千貫櫓は、二ノ丸では伏見櫓(昭和20年空襲で焼失)に次ぐ規模をもち面積は217㎡。
構造は北の坤櫓とほぼ同じ構造ながら上層屋根西側に破風が曲線を持った唐破風となっており、二ノ丸では破風をもつのは千貫櫓だけと、他より格式の高さを示しています。構造は二層二階建、石落とし:南面と西面に各2、出入口:東面と北面に各1、窓:堀側を中心に25ヶ所、鉄砲狭間:19ヶ所あります。

大坂本願寺攻城戦の「千貫文の銭を与えても惜しくない」に由来する名称で、本願寺を下した織田信長は、本丸を丹羽長秀に、千貫櫓と二ノ丸を織田信澄に預けています。
本能寺の変直後に、義父の明智光秀との同調を疑われた信澄が千貫櫓に籠りましたが、信長三男の信孝と長秀の謀略により信澄家臣を千貫櫓から引き離し襲撃する様子がルイス・フロイスの「日本史」に記録されています。

豊臣秀吉が築城した際は、今より南の二ノ丸南西角に千貫櫓が配置されている様子が、大坂冬の陣配置図などで描かれています。
江戸時代には、城代青山宗俊が夕涼みや部下に食事をふるまったりするのに使ったそうです。

千貫櫓にまつわるコネタでした。

2018年02月28日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

再築工事において、石垣・堀の構築は北・西国大名64家に軍役並の負担を課すお手伝い普請で行われました。

その一人、細川忠興は「今度御石垣之内はれかましき所望被申衆御座候ニ付…」(大日本近世史料細川家資料)と目立つ場所の担当を幕府に希望し認められ、西ノ丸乾櫓の石垣構築に携わりました。当時、乾櫓は豊臣期天守からほぼ真西に位置し、高麗橋通や京橋(今はなき昔の橋)を見渡せる目立つ場所でした。

石は、主に摂津御影・河内飯盛山・淡路より、また算木積の角石は領国豊前行橋沓尾から5個の調達を命じたと記録されています。
5個のみ沓尾から調達したのはなぜか、記録は残っておりません。
その記録を確かめるべく2006年に、堀に船を出し石垣を登って調査されたところ、白地に黒い鉱物結晶がゴマダラ状に均等に入った特徴と採取した石表面の成分より、出角部石垣の乾櫓建物より下の4石目、5石目、7石目、8石目、9石目の5石が沓尾の石と判明しました。

はるばる420㌔、海を渡りやってきた石と思うと、見方が少し違ってくるのではと思います。

2018年02月19日 橘若狭守次郎吉
大坂城

大坂城の石垣には雁行(屏風折れ)が多く用いられている。その理由として攻めてくる敵に横矢を沢山かけれるというのもあるが、一番の理由は石垣の崩落防止だという。石垣を雁行させることによって算木積みの部分が増える。石垣の特徴として精巧な計算のされた算木積みは崩れにくいのである。ちなみに大坂城の石垣は今まで一回も大規模な崩落はしていない。その理由は雁行させることによる算木積みの多さが影響していると云われている。

2018年02月17日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

本丸南は空堀ですが、水堀との境目に内側が空洞の石組があります。春から晩秋にかけて、雑草で覆われ見えません。

梅林側の石組は知られてますが、西ノ丸側の水堀との境目にも同じ石組があります。石組は、高さ1.5m、幅2m程度で、空堀の外側と内側をつないでおります。
この石組は、本丸から二ノ丸への抜穴説、石垣内部の水抜き説、水堀への土砂流入防止の土留め説などの説がありますが、何のために作られたのかは今も謎のままです。

なお、豊臣時代の本丸南も空堀となっており、その理由として考えられるのは、元々の自然地形が南に向かって標高が高くなっていてそれに従ったという説です(空堀底面でも山里曲輪の地表面と同じ標高)。
また、少し掘削すると強固な洪積層の粘土層が出てくるため、難工事になるからとも言われておりますが、記録はないです。

南外堀は、本丸南空堀と同じ条件も防御を優先したようです。
工事中に石垣が崩落するなど難工事でしたが、本丸より堀幅を広げ(75m)、高石垣に勾配をつけたり石垣面に横矢掛を間に入れるなどの工夫し、堀底の粘土層を掘削しています。

城内散策のご参考まで。


2018年02月02日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

西ノ丸戌亥の方角に現存する乾櫓は、
・千貫櫓と同時期の1620年築と現存建築物で最古
・L字型の総二階造・面積186㎡
・窓は城外北・西26ヶ所
・鉄砲狭間16ヶ所(漆喰が塗込められ外から見えず)
・石落し4ヶ所

櫓から大手口と京橋口の二つの入口を確認でき、西の高麗橋、東北の京街道を見渡す所に位置し、要として重要な立地にありました。

大坂城に徳川家光が1634年入城して乾櫓に上り、大坂三郷(大坂・堺・奈良)町人の地子(固定資産税)を永久免除する合図として、金の采配を振ったと『大阪市史第5』にあります。
これに後日談があり、町人たちはその記憶を永遠に留めるため、一つの鐘を鋳造し屋敷を設け(中央区釣鐘町2丁目)、家光の徳を銘文に刻み、一刻(二時間)ごとに打ち鳴らし、時報の鐘として用いられました。
この釣鐘は、近松門左衛門『曽根崎心中』の最後の道行の場面にも描かれています。

釣鐘は、明治維新後に幕府の善政の象徴を理由に撤去された後(釣鐘はその後、幾度か場所を移動しながら1985年元の場所に戻る)は、天守閣前の大砲で空砲を打ち、時報の代わりとされました。


2018年01月22日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

江戸、大坂、二条、甲府、駿府、佐渡の六ヶ所に金蔵があり、大坂城の金蔵が現存唯一のものです。
大坂城の金蔵は、本丸とともに1626年頃に一棟(元御金蔵)、1751年に一棟(新御金蔵)が建造されました。

現金蔵は新御金蔵で、以前からある多聞櫓が改築、二階建を1837年の再改築で今の平屋建に。
なお、元御金蔵は配水池の南西縁にあり、1929年に高槻城跡の陸軍工兵駐屯地へ移築も戦後焼失しました。
新金蔵は、寄棟本瓦葺き、外壁は上部白漆喰で下部海鼠壁、床下は敷石が敷詰め、扉は三重で窓や換気口は鉄格子がはまってます。

防犯、防火まで配慮の厳重な造も2度金蔵破りがありました。
・1730年 被害額1千両超も犯人不明
大阪金奉行4名が改易・島流等多数が厳しく処分。
・1740年 被害額4千両
犯人は大番を務める旗本窪田伊織の中間梶助と判明、市中引きまわしの上磔
定番丹羽薫氏以下が処分(丹羽薫氏はその後復権、寺社奉行まで昇進とか)。

ちなみに、大坂城の金蔵は、1702年末212,026両(約508億円)、1703年末325,918両(約782億円)ありました。


2018年01月09日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

徳川期大坂城は縄張がよく残ってますが、明治~大戦前にかけ、軍の物資運搬の都合で一部改変が施されてます。

大坂城の出入口4ヶ所は、現在の大手門と同じように全て枡形の構造でしたが、玉造口は枡形の石垣が撤去され往時の姿をとどめてません。いずれも明治維新の大火をくぐり抜け建造物(今も門・櫓門等残る大手口、戦災焼失した門・櫓があった京橋口、半壊状態で門があった青屋口、門のみ焼け残った玉造口)がありましたが、運搬の障害となり、玉造口は門とともに枡形も撤去されました。

また、青屋口も土橋でつながってますが、幕末までは可動式のそろばん橋が架かっており、非常時以外はそろばん橋も引っ込んだままで門も締切ってたそうです。玉造口同様、運搬の荷重に耐えられるよう土橋になりました。

二ノ丸南北を結ぶ雁木坂は、上町台地北端のため高低差15㍍を通行するための長い石段でしたが、盛土されダラダラ坂などと呼ばれてたそうです。坂を上がったとこに、雁木坂門と番所があったそうです。

登城された際に、往時の姿に思いはせてみてはいかがでしょう。



2017年12月15日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

復興天守の建設に関して。

建設時に、天守台で基礎工事の際に80㌢立法の
花崗岩の礎石が数十個並んでるのが地中から
見つかり、その下には25㌢玉石の厚い層が出て
きたそうです。
そのため杭打ちを減らし、礎石と玉石の一部を撤去
して鉄筋コンクリートの一枚盤のベタ基礎を入れ
建物の荷重が分散するようにされてます。
撤去の礎石2個は、天守入口付近に今もあります。

ベタ基礎に24本鉄骨柱を立て、屋根・壁の荷重は
主架構で上から吊り、下から支え石垣に負荷が
かからないようになってます。
今は建物と石垣の隙間が不自然な石で塞がれて
ますが、13㌢の隙間が設けられ、石垣を守る工夫
がなされてます。
工事中に6㌢不同沈下で傾きましたが、隙間が
役立ち石垣に影響しませんでした。

先人の方々のこうした工夫を知ると、残念な天守
いう声とは違う見方になるのではと思います。

2017年11月18日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

1628年に再築された大手門は、門の両脇に控え柱と屋根をのせた高麗門ですが、大手門の柱継ぎは、日本でここしかない継ぎ方になってます。
上下にも横にも動かない継ぎ方になっており、柱の下が腐食したため、節約を兼ねこの部分だけを取り替えられました。1979年に謎解きを各地の大工さん達に呼びかけ、解けたのは神戸の大工さん1人だったそうです。
当時の技術力の高さが伺えます。

高麗門つながりで、本丸南にある桜門は、1887年に陸軍が再建した門ですが、当時の再建で国重要文化財は珍しいそうです。
また桜門は、天守や青屋門除き城内にある建造物で唯一屋根に桐紋があり、当時は遺構が秀吉の城と考えられており、大戦後に消失した和歌山城移築の紀州御殿屋根は、三葉葵紋と桐紋のミックスになってました。

登城される際に、少し立ち止まって確認されてはいかがでしょうか。


2017年10月27日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

徳川幕府による再築から今日まで
11度震度4以上の地震を経験するも、
地震で石垣が崩れたことはないそうです。

・石垣石間で生じる摩擦抵抗力
・背面の栗石が揺れを吸収
・石垣傾斜度等
の3点で力学安定していること、
底部の根石が粘土層に達していることが
理由として考えかられるそうです。

但し、再築直後は、地盤悪さに起因した東側の
玉造口付近、横矢掛が不十分で平面が長かった
為による南外堀の三番櫓付近で崩落し、
根石を粘土層に置いたり、土留めの石垣を堀内に置き、
横矢掛を間に入れるなど、試行錯誤の結果、
耐震構造が強くなっていったそうです。

その後、石垣が崩落したのは
・落雷による火薬庫爆発1660年
・大雨による西外堀、千貫櫓向い側1854年
・終戦前日の空襲による各所破壊1945年
です。

1854年は55㍍崩落するも早めに復旧が行われ、
その跡が積み方の違いでわかります。
崩落に耐えた部分は打込接、復旧部分は切込接に
なってるのが、大手門から対岸方向に確認できます。

登城時にお時間あればご確認下さい。

2017年09月23日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大坂城の石垣普請は1620年から10年、3期に分けて行われました。

1期は西ノ丸、二ノ丸の北、東が対象で、醍醐三宝院義演の日記によれば、伏見城の石垣が運び込まれ全体の1/3を占め、残りは加茂、御影、小豆島から運搬されました。
石垣工事は3ヶ月で完了しましたが、石は不揃いで2期以降より小さいです。
今も残る乾櫓・千貫櫓はこの時の建築です。
しかしながら東の玉造口などは、旧猫間川湿地帯に築かれたため1年後に崩落してます。

2期工事は、天守、本丸、山里曲輪が築かれ、桜門枡形の蛸石も設置されました。
この頃から石が整然と隙間が少なく積まれ、天端に狭間石が使われるのもこの頃からです。

3期工事は、玉造口の修復と横矢掛がキレイな二ノ丸南が築かれ、2期よりも隙間少なく積まれ、技術進歩と規格化が進みました。
南外堀付近が最も地盤が強いため、本丸東の石垣の次に高い石垣が積めました。

湿地帯の東外堀の石垣は、その後も何度か崩落したとのことで、平成の東外堀復元工事の際に胴木などが見つかったそうです。

周囲を散策された際に、石垣比べなどされるのも一興かと思います。

2017年08月19日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

石山本願寺は、大坂城二ノ丸にある市立修道館西の石碑と案内板、玉造口と梅林の間の林の中の東屋の下の蓮如上人袈裟懸けの松、南無阿弥陀仏の石碑くらいしか視覚でわかるものはありません。

修道館と六番櫓の間の案内板脇に、井戸がありますが、この井戸の石枠は以前大手門前土橋を下りた左手にあり、蓮如井と呼ばれた本願寺以来の井戸と言われております。

また、蓮如上人袈裟懸けの松も、江戸時代の絵図では本丸東側にあったそうです。徳川幕府の城再築で盛土されてるため、本願寺以来のものか虚実のほどは不明ですが、本願寺が息づいてきた証では。

一方、名称で本願寺由来のものは、千貫櫓、極楽橋、青屋門です。

極楽橋という名の橋は、金沢城にもありますが、御堂の阿弥陀如来に向かう橋に由来するそうです。青屋門は、寺内町の一つ青屋町から名付けられたそうです。(千貫櫓は石山本願寺合戦以来)

大坂城訪問時に、本願寺を重ねて見るのはいかがでしょう。

2017年08月14日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

終戦前日の8月14日、大坂城東や北の陸軍砲兵工廠を狙った空襲があり、伏見櫓・京橋口櫓門など多数の建物とともに石垣も多く破壊されました。

特に本丸北側や山里曲輪などに多く被弾し、天守周辺3ヶ所や貯水池北側の石垣、山里曲輪石垣、西ノ丸乾櫓東の算木などが崩れました。山里曲輪と本丸を結ぶスロープ近くの石垣は機銃掃射の跡が残ってます。(南の二ノ丸も二番櫓など建物や外堀バス駐車場付近、本丸土橋付近など石垣も破壊)

昭和28年から一番櫓など建物とともに、上町筋市電から丸見えの西ノ丸乾櫓東の算木の積直しが始まり、西ノ丸は松山城修理で名人と言われた菅能宇吉氏が指揮され248個の石が積直されました。
その後も石垣の修復は進められ、火災で弱くなった石の取替(桜門蛸石付近)など平成まで断続的に行われました(花崗石は熱に弱いため)。

現在も天守台東面のズレや、立入り禁止ですが梅林(市正曲輪)の南西に空襲で崩れたままの石垣が残っており、見ることができます。

出典:大坂城修復工事報告書


2017年07月20日 八紘一宇大膳大夫城弾正
大坂城

また、『大阪城天守閣』は前述の通り市民の寄付により建てられた市民の城であり、今も大阪のシンボルである。いわば現在の天守は大阪市民による3代目天守と認識出来よう。
こういった二つの理由から、『大阪城天守閣』は当時の近代建築遺産として登録有形文化財に指定され、再建天守でありながら文化財建造物でもある。
※基本的に現代の城、及びこの建物を指す場合、大坂城ではなく大阪城と表記するのが普通である。

2017年07月19日 八紘一宇大膳大夫城弾正
大坂城

大坂城復興天守、いわゆる『大阪城天守閣』は周知の通り昭和6年、大阪市民の寄付金を募り再建された。『大阪城天守閣』は昭和天皇即位記念事業の一環として計画、古川重春氏らが復原考証に当たり史料として『大坂夏の陣図屏風』を元に姫路城など現存天守など参考にしながら進められた。
『大阪城天守閣』は現在の我々から見れば当然、徳川幕府の天守台に建ち、豊臣時代とも全く形が違う事を知るが、『大阪城天守閣』再建当時は、現存する石垣全ては豊臣氏の石垣と認識され、徳川時代の石垣と判明したのは昭和30年代の事である。
従って『大阪城天守閣』は当時としては最新の復原考証を行った城郭研究者の熱意の下に建造されたのである。
そういう経緯から『大阪城天守閣』は模擬天守ではなく復興天守に分類される所以である。

2017年07月08日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大手口枡形の櫓門石垣に、石と石の隙間を埋める白の詰物正体は漆喰です。
攻められた時に石垣をよじ登るのを防ぐために、門付近の石垣では石と石の隙間はこのような漆喰で埋められてました。
古写真を見ると、大手口以外にも山里曲輪北面、二ノ丸中仕切門、京橋口などの石垣でも見られます。
(今も大手口以外に千貫櫓の城内側でも見られますが、これは漆喰かどうか不明。
天守台石垣で所々あるのはモルタルです。)

今も石の隙間に漆喰が埋められてるのがはっきりわかるのは、大手口櫓門付近です。
これ以外は、風雨で流れ落ちたり維新時の火災や二次大戦空襲などで失われてます。

以上、ゆっくり城内探索される際の豆知識まで。


2017年07月04日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

豊臣期の大坂城は、南側に三ノ丸があったと
推定されてるのはわりと知られてますが、
三ノ丸内の大名屋敷の名残が今はなき旧町名の
由来になってます。

①越中町
細川忠興の屋敷、越中井や越中公園が今もあります。
②紀伊国町
浅野幸長の屋敷、越中井の南側。
③仁右衛門町
増田長盛の屋敷、紀伊国町の南側。
④元伊勢町
小出吉政の屋敷、越中井の東側。
⑤岡山町
宇喜多秀家の屋敷、仁右衛門町の東側。
⑥半入町
青木半入の屋敷、紀伊国町の東側。

この他にも、仁右衛門町と岡山町に隣接する大阪女学院には
前田利家の屋敷があったそうで、校内に加賀石があるそうです。
また、玉造稲荷神社の南に千利休の屋敷なども。

以前の発掘調査で、玉造口黒門は三井住友銀行の
玉造筋を挟んで向いにありました。

大坂城に行ったついでに気候のよい時に
時間があれば、南側の散策などいかがでしょうか。

2017年06月07日 青き巨星弾正少弼かみ
大坂城

大坂城のお城メダル(記念メダル)は天守閣1階のミュージアムショップの前にあります。
2種類ありますが色が金色か銀色の違いで図柄は同じです。
どちらも買いました。

2017年05月29日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

本丸内の天守閣の東隣、金蔵の北側のこんもりした盛り上がりに配水池があることは知られていますが、明治28(1895)年にできた大阪最古の配水池です。

この盛り上がりの土の下に貯水槽が埋まっており、今も大阪市北区の一部に給水する現役施設です。この場所に作られたのは、周辺で一番標高の高かったためだそうです。

ちょうど本丸西面と西ノ丸の間の空堀を横切るように、石垣を貫通して西ノ丸に続く鉄管が2条がありますが、配水池へ水を揚げる上り管と配水池から北区の一部へ給水する下り管になってます。この管も、明治時代に大阪砲兵工廠で作られたものだそうです。

石垣を貫通し空堀を横切る管は無粋な印象を受けますが、軍事だけでなく生活を支える拠点として機能していると思えば見方が変わるのではないでしょうか。

2017年05月28日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

1959年に本丸地下から豊臣時代の大坂城石垣が発見されたことは知られてますが、それより以前に発見されたことがあります。

第二次大戦中に、本丸にある軍司令部で防空壕を掘っていた時に、南側空堀(土橋東側)への抜け道を掘る最中に豊臣期の石垣にあたって真っ直ぐ斜めに掘れずその部分に踊り場を設けて掘られました。当時は豊臣期の石垣が地下にあることが知られず、1959年の発見後にそういえばという具合でわかったそうです。
防空壕の出入口は本丸南に面するとこは石で塞がれわかりにくいですが、空堀の二ノ丸側には鉄格子で塞がれた状態で残っており、草が繁茂する夏以外は桜門前土橋から確認できます。

二ノ丸側出入口からどこにつながっているか不明ですが、現存の六番櫓下の外堀に面する石垣の石が数個くり貫かれたところがあります。
こことつながってないですが、軍がくり貫かれたのか目的不明だそうです。

本丸司令部建物や二ノ丸北の化学研究所建物以外にも日本軍の軍事拠点であったことがわかり、石山本願寺から終戦まで、存在感が受け取れます。

お時間ありましたら、穴を探せin大坂城いかがでしょう。

2017年05月08日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

石垣の高さ1、2位は
伊賀上野城か大坂城のどちらかが気になり調べてみました。

・伊賀上野城(本丸西側):
根石から天端石まで約30m (水面から約23.5m)

・大坂城(本丸東側):
 根石から天端石まで約32m(水面から約24m)

※天端石(てんばいし):石垣の一番上にある石で櫓等と接するため水平

目くそ鼻くそ程度の差ですが、関係者にとって重要な差なんでしょうね。

両城の築城に係わった藤堂高虎さん、
自分より幕府の顔を立てたのか、たまたまか、
今となってはわかりませんが、
主君を7度変えた藤堂高虎さんらしい配慮と個人的に思っておくことにします。



ちなみに大坂城で2番目に高い石垣は
六番櫓のある南外堀の石垣で根石から天端石まで約30mあるそうです。
(南外堀の最大幅は約75m)

以上、コネタでした。

2017年05月04日 日下伊賀守玄瑞
大坂城

いつのまにか、大阪城公園内の売店が、ごっそりローソンになってました。

2017年04月11日 柿崎和泉守景家
大坂城

白い天守閣も良いが、やはり大坂(阪)城は黒天がよく似合う。

2017年04月11日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大阪城天守閣の平成28年度年間入館者数が2,557,394人と昭和6年以来過去最多になったのを記念し、オリジナルグッズを販売されるそうです。

グッズは「真田幸村ゆかりの地」として大いに賑わった年での記録更新のため、真田幸村をイメージしたブックマーク(しおり)を制作するとか。

販売開始日は、平成29年5月中旬予定で、大阪城天守閣1階ミュージアムショップ(限定販売)にて、1,000円とのこと。

ご興味あればどうぞ。
私にマージン入りませんのでご安心を。

2017年02月12日 大納言織田晃司
大坂城

現在の大坂城の縄張りは徳川時代のもので、豊臣大坂城は埋めごろし。
復興天守は大坂夏の陣屏風絵図を基にされたもの。城めぐりの皆様はすでに承知の事と…
AM6:58大阪城公園東側の駐車場に停めて天守および真田丸付近を散策。
2時間駐車したのに料金300円Σ(゜Д゜)
大阪なのに…何かの間違いか?

2017年01月19日 涼
大坂城

天守内は大坂の陣にまつわる品々や秀吉の立身出世物語、大坂夏の陣屏風図の解説などを観ることができます。
100名城スタンプは天守内1階のインフォメーションカウンターにあるので、受付の方にお願いしましょう。
城を出て南に行くと、真田丸跡の記念碑や信繁の抜け道がある三光神社があります。
真田丸跡や三光神社は玉造駅が最寄りですが、信繁や大助の気分に浸りたい方は大坂城から歩いて行くのがオススメです。
ただし道の高低差がある場所が結構あるので、健脚でない方は電車やタクシー利用したほうが良いかと思います。

2016年10月13日 橘若狭守次郎吉
大坂城

大阪城天守閣の屋根の色について。

現在の復興天守閣は昭和6年に建てられました。その時に屋根瓦には銅製の瓦が使用されました。天守閣全体の軽量化や耐火性、寒冷による凍み割れ防止という理由で葺かれました。

特に鉄筋コンクリート構造の天守閣なので、その重みで既存の天守台が崩れてしまわないように天守閣全体の軽量化がとても重要だったようです。


再建当時は屋根の色は赤銅色でした。朝日や夕日に照らされると豊臣期の大坂城天守のように輝き、きらびやかだったことでしょう。

しかし、年月が過ぎてしまい次第に銅瓦が酸化して緑青となり現在のような緑色になりました。

因みに名古屋城も銅瓦が使用されているので、緑色の屋根をしています。


2016年09月30日 永眠武蔵守釋 葱進
大坂城

天守閣内は、5階までエレベーターで昇りその先展望台(8階)まで及び下りは階段で各階展示を見学するのが通常の見学ルートですが、階段昇降に難のある方は係員に話せば展望台までエレベーターを使うことができるそうです。
百名城スタンプは1階インフォメーションカウンターにある(受付の方に出してもらう形)ので、スタンプ目的の方も入館料が必要です。
公園内売店の飲み物はかなり高めなので、自販機等であらかじめ用意しておくとよいでしょう。

2016年09月21日 橘若狭守次郎吉
大坂城

石山本願寺(大坂本願寺)は本願寺衆が築いた城郭寺院だと云われている。

何処にあったかは詳しいことは分かっていないが、大坂城敷地内の何処かにあったと思われている。

現在の有力な推定地は大坂城二ノ丸付近で、修道館と六番櫓の間にひっそりと案内板と石碑がたたずんでいる。普通に歩いていると気づかない。

2016年07月31日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

2016.6に引き続き味を占めたのか、2016.7.16~2016.8.28の月曜以外と、2016.9.17~2016.11.27の土日祝、10~16時半まで、多聞櫓・千貫櫓・煙硝櫓の内部が特別公開されてます。

入場券は前回と同じく大人700円、天守閣セット券1200円(販売終了時間15時半まで、売場は西ノ丸入口の近く)
詳しくは大阪城パークセンターHPをご覧ください。


2016年06月25日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

大坂城二ノ丸にある市立修道館と六番櫓の間に石山本願寺の石碑と案内板がひっそりと、玉造口から西へ本丸に向かう途中の林の中に、蓮如上人袈裟がけの松、南無阿弥陀仏の石柱、案内板などがこちらもひっそりとあります。

織田信長に11年間抗戦した摂津第一の名城の石山本願寺は、豊臣時代の大坂城、徳川時代の大坂城と変遷したため遺構はなく、場所に関しても大坂城本丸・二ノ丸付近がその推定地とされています。

石山本願寺の名残としては、大坂城大手門を北側面から防御する千貫櫓の名称の由来です。

織田信長が攻めた時、横矢が効果的に飛んでくる隅櫓がこの近辺にあって苦戦を強いられたため、「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことが由来となり、豊臣時代の大坂城、徳川時代の大坂城でも名称が受け継がれたそうです。

2016年04月03日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

3月27日の情報考古学会発表によれば、大手門をくぐった大手口枡形の大手見付石と、左に並ぶ大手二番石は、元々一つの巨石を二つに割ったものであることが新たに開発された画像解析技術でわかったそうです。
二つの巨石を様々な角度から撮影し、コンピューター上で3次元の立体的な形状を復元。石の表面の凹凸の位置を調べると、ほぼ一致し、石をわるくさびの位置も一致したそうです。
この二つの巨石は、肥後熊本藩主の加藤忠広によって小豆島から運ばれ、築かれたものだそうです。

2016年02月03日 橘若狭守次郎吉
大坂城

2016年2月6日、7日
豊臣期石垣発掘現場の一般公開。朝10時から夕方4時まで。小雨決行。


2016年01月30日 源摂津守@ポンコ2
大坂城

2016.1.9~2016.6.5の土日祝?、10~16時半まで、多聞櫓・千貫櫓・煙硝櫓の内部が特別公開されてるそうです。
入場券は大人700円、天守閣セット券1200円(販売終了時間15時半まで、売場は西ノ丸入口の近く)
詳しくは大阪城パークセンターHPをご覧ください。



2015年09月20日 【鶴丸】兵部大輔葉侍
大坂城

大阪城へは大阪城公園駅、森ノ宮駅からではなく、大阪市営地下鉄「玉造駅」から行くルートがオススメです。幸村所縁の「三光神社」、鎌八幡」、「三光神社」、利休屋敷跡であり秀頼像が建つ「玉造稲荷神社」、「聖マリア大聖堂」では高山右近とガラシャの像、ガラシャ最期の地である「越中井」など戦国武将所縁の地が途中にございます。

2014年10月14日 上総丹幹之介@式部大輔
大坂城

大手門が修理中で、門と石垣好きには残念でした(-.-)

2014年07月12日 安倍武蔵守宗任
大坂城

天満橋から見えた天守閣、外堀まで来たら見えなくなった。
何なん?このデカさ!

今日は生玉夏祭り見られました

2014年06月25日 柳生兵庫助如雲斎
大坂城

天守閣は17時まで見学可能ですが、入場は16:30で終了です(時期で変動あり)。見学は計画的に。

2013年10月06日 178ックス副将軍
大坂城

重要文化財「千貫櫓・多聞櫓・金蔵」特別公開が今年も開催です(^_^)v
城内最古の建造物の千貫櫓!大手口を守る巨大な
多聞櫓!江戸幕府唯一現存金蔵の特別公開です
10月12日~14日
入場料200円(3棟共通、
多聞櫓入り口にて販売)
10時~16時30分ですが
入場券の発売は15時30分までです(^_^)/~



2013年03月11日 尼子民部少輔晴久
大坂城

伏見櫓〜青谷口間の石垣に崩壊の兆しあり。所謂、孕み現象と地盤沈下。原因はスカスカになった石垣と石垣裏側の崩壊によるもの。

2012年09月11日 はせちゃん弾正忠
大坂城

「千貫櫓・多聞櫓・金蔵」が10/6〜8特別公開されますよ

2012年07月06日 ポリタンク大和守
大坂城

日本一の高石垣(二の丸南面)を含む、規格外の普請を堪能できます。

登録有形文化財である「大阪城天守閣」が建つ天守台東面は、大阪大空襲で被弾して歪んだところが今も残っています。

2012年07月06日 ポリタンク大和守
大坂城

既にご紹介のある極楽橋の遺構については、広島大学の方の論文があります。 http://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/gyoseki/hogonji.pdf

2012年04月23日 徳川内大臣源朝臣康武
大坂城

琵琶湖に浮かぶ竹生島にら豊臣大阪城山里丸の極楽橋の遺構が移築されている。最初、京都豊国廟に移築され、豊臣秀頼が竹生島に移築したらしい。写真アップ!!

2012年02月26日 しまさ左大臣
大坂城

「100名城スタンプ情報」
大阪城天守閣1階案内所
受付の方に訪ねると、出してくれました。
(2012/1/29時点)

2010年07月26日 徳川内大臣源朝臣康武
大坂城

[武将像]豊臣秀吉像
二ノ丸にある豊国神社に立像、天守内に座像が鎮座。

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