真田丸出城(さなだまるでじろ)

真田丸出城の基本情報

通称・別名

堰月城

所在地

大阪府大阪市天王寺区餌差町

旧国名

摂津国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

真田信繁

築城年

慶長19年(1614)

主な改修者

主な城主

真田氏

廃城年

慶長19年(1614)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑(真田幸村出丸城跡)

周辺の城

大坂城(大阪府大阪市)[1.6km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[1.9km]
天王寺城(大阪府大阪市)[1.9km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[2.0km]
岡山砦(大阪府大阪市)[2.2km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[2.2km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[2.5km]
茶臼山陣城(大阪府大阪市)[2.8km]
鴫野砦(大阪府大阪市)[2.8km]
今福砦(大阪府大阪市)[3.4km]

真田丸出城の解説文



真田丸(さなだまる)は、1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城()平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)である。

概要 

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
そのため、防御が手薄で大坂城の脆弱部であると思われているが、千田嘉博は「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」と述べている。また千田は、真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたと指摘している。この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が平野口である。

1614年(慶長19年)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から牢人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は1600年(慶長5年)に、第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山[1]と呼ばれるようになった。江戸期の絵図では、付近に加賀築山や越前築山といった記載も見られる。

なお、1939年(昭和14年)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が1965年(昭和40年)に付けられたが、真田丸跡を特定するものではない。真田丸の所在地は、上町台地東端の旧字名「真田山」(現・明星学園付近)に存在したのではないかと推定されている[2]

2016年(平成28年)には、2月に明星学園テニスコートの外側に真田丸顕彰碑が建てられたほか[3]、7月には島根県松江市で実態を示す新たな絵図の発見が[4]、12月には初の学術発掘調査により遺構と推測される盛り土の発見がなされた[5]

構造 

File:Restructured Model of Sanadamaru Fort1.jpg|thumb|復元ジオラマ(大阪府・天王寺区役所)千田嘉博監修。手前は四天王寺File:Restructured Model of Sanadamaru Fort2.jpg|thumb|真田丸模型部分 大阪文化財研究所・大阪歴史博物館によって豊臣時代の上町台地周辺の地形が復元された[6]。これによると、真田丸の北側には幅200メートルの谷があるため大坂城惣構えから孤立した立地にあり、大坂城の惣構えと隣接していたとする通説が誤りであることが判明した。規模について、城郭考古学者の千田嘉博は通説の南北220メートル、東西140メートルよりも大きかったのではないかと指摘し[7]、坂井尚登によると小曲輪を含めると南北270メートル余、東西280メートル余(堀の幅は除く)と推定している。半円形の曲輪で出口は後方と両脇に位置し、三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。

多くの絵図では、真田丸は大坂城に隣接した半円形の出丸(曲輪)として描かれていることが多かった。しかし『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博によると、真田丸は半円形ではなく不定形の形の城であったとする。これに対して坂井尚登は形態は正方形に近い五角形の平面体とする。また『摂津 真田丸』では徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け北側からの攻撃にも対処した曲輪を備えて描かれていたことから、すなわち真田丸が惣構えに従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明した。

一方、藤本正行は、大阪城に面した北側の堀について真田丸が作られる以前から存在していた可能性があること、また、真田丸と惣構の間が土橋で繋がっていることが多くの絵図により確認でき、真田丸は孤立していないことを指摘している[8]。真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことが指摘されている。出入口は東西二ヶ所あり、西側の出入口は惣堀に近い場所に設置されていた。敵がここから侵入すると、惣構え内と真田丸との十字砲火を受けることになる。藤本正行は、『当代記』に「此丸ハ惣構江横矢俄二取手シ曲輪也」とあることから、側面攻撃を行うために築かれたとする。

研究動向 

平山優によると真田丸研究の論点は以下の通りである[9]

  • 所在推定地は「真田山」の地名がある現・明星学園()付近で確定。
  • 規模は、南北220メートル×東西140メートル説と、南北270メートル余×東西280メートル余(堀の幅を除く)説の2説がある。
  • 形態は、丸馬出説と矩形に近い五角形説の2説がある。
  • 軍事的意義は、通常の大坂城弱点補強説、惣構との連携を背景にした拠点説、「城外孤立」の砦として敵を集中させ撃破する攻めの拠点説の3説がある。

史料 

  • 『山口休庵噺』
  • 『慶元記』
  • 『摂津名所図会大成』巻3

周辺情報 

  • 三光神社
大阪市天王寺区玉造本町、宰相山に鎮座する神社。境内に大坂城からの抜け穴とされる跡が残っているが信ぴょう性は薄く、徳川方が掘った坑道[10]又は真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとされている。
  • どんどろ大師
大阪市天王寺区空堀町に所在する高野山真言宗の寺院。「摂津名所図会大成」巻3に拠れば、どんどろ大師の寺誌とともに、「真田丸」跡地の意味である「別堡(でまる)古趾 俗に大師山といふ」という記載がある。同書には、現在の大阪市天王寺区空清町に所在する円珠庵の寺誌の内に、「真田別堡古趾」(真田丸跡地)の項目を立て、その説明として、円珠庵より眺望できる、東南の一堆の丘は俗に大師山と称されており、その丘は、一説には真田幸村が籠もった出丸で、捨郭であるとされる。また、出丸は今の清水谷にあったという説があると記載されている。

参考文献 

  • 櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』(日本城郭資料館出版会、1970年)
  • 岡本良一『図説大坂の陣』(創元社、1978年)
  • 渡辺武「豊臣時代大坂城の三の丸と惣構について」(財団法人大阪市文化財協会『難波宮址の研究』7号、1981年)
  • 北垣聰一郎「豊臣時代大坂城「本丸図」と「真田丸」について」(岡本良一編『大坂城の諸研究』日本城郭史研究論叢8、名著出版、1982年)
  • 坂井尚登「大坂城真田丸―絵図・地形図・空中写真によって考察する位置と形状」(『城郭史研究』34号、2014年)
  • 大阪文化財研究所・大阪歴史博物館『科学研究費補助金基盤研究A 上町台地の総合的研究』(2014年)
  • 千田嘉博「守りでなく攻めの砦、通説を覆す真田丸の実像とその狙い」(『歴史街道』2014年12月号)
  • 【書籍】「真田信繁「勝利」への条件」
  • 笠谷和比古・黒田慶一『豊臣大坂城』(新潮選書、2015年)
  • 平山優『真田信繁』(角川選書、2015年)
  • 藤本正行「真田丸ノート」(『中世城郭研究』第30号、2016年)

真田丸出城の口コミ情報

2021年12月12日 ラッキーマン筑前守
真田丸出城



今は、高校のグランドになっていますが、石碑に説明文があります。場所も分かりやすいですが、無料駐車場はありません。

2021年11月22日 ちかひろ長門守
真田丸出城



出城の遺構は残っていませんが石碑に向かうまでにそこが小高い丘になっている事を感じることが出来、ああ〜ここを選んで砦にしたんだなと思いました。大阪城からの距離を考えると、ここまで全部お城だったの?!という驚きも。真田幸村ファンなら茶臼山も合わせてお訪ねすることをオススメします。

2021年11月08日 光左衛門佐
心眼寺[真田丸出城  寺社・史跡]

数年前から幸村公のお墓がたったそうです。

2020年11月24日 シバヤン近江守雲外蒼天
真田丸出城



アスファルト舗装の道路整備とセラミック瓦の寺社仏閣。然し足裏に感じる不自然過ぎる登り坂と下り坂の起伏と食い違う道路と太い細いのスネークライン市道と私道は虎口の大手口、空堀と曲輪の囲い込みが想像力豊かな方には連想できるうかと思われます。今日も下り坂でボードで遊ぶ童達。

2020年11月21日 海道一の弓取り
真田丸出城



真田丸後の心眼寺側から見ると昔の空堀跡らしき高低差に驚く。是非見て欲しい。

2020年11月01日 真田河内守信繁
真田の抜け穴(三光神社)[真田丸出城  寺社・史跡]

今年の真田まつりは中止の為、抜け穴の開放はありませんでした。

2020年09月24日 田村内蔵頭佳成
真田丸出城



町中を歩いていると、突然真田丸所縁の石碑や御寺が出てきます。約400年前、この辺りが激戦地だったとは想像もつきません。

2019年05月08日 稲田阿波守植元
真田丸出城



心眼寺内には「日本一の兵」と呼ばれた名将、真田信繁の墓。ごゆっくりお休み下され。

2019年05月08日 稲田阿波守植元
真田丸出城



「一段高き畑御座候を(略)、是を眞田の出城と申候」とブラ○モリでも紹介されたこの場所。周囲より高くて側には空堀町と言う地名もある。面白いな。

2019年05月06日 源出雲守ポンコ2
真田丸出城



東郭があったと想定され、真田丸出城石碑や真田左衛門佐の墓石がある心眼寺。隣の寺にはでっかい仏像。

2019年05月05日 源出雲守ポンコ2
真田丸出城



右側の明星学園グランドはかつて小山となっており、ここに主郭があったと千田先生著書にありました。坂の上左側に顕彰碑があります。以前大河「真田丸」放送時に学園校舎に巨大な垂れ幕がかかってましたが、今はございません。
左側は真田丸出城跡の石碑や墓石がある心眼寺。心眼寺や東側の真田山陸軍墓地・真田山小学校あたりは、同著書で東郭があったとも。
この坂は心眼寺坂と呼ばれる上町台地にある天王寺七坂の一つで、地形が総構の外空堀や真田丸出城の比高などを感じさせてくれます。

2018年06月26日 丹生兵庫允甚六
真田丸出城

三光神社はヤブ蚊が多いので注意でござる(^_^;)

2017年02月12日 織田上総介晃司
真田丸出城

大阪城公園の駐車場に停めて歩いて玉造まで。真田丸跡地をぶら散歩。
大河ドラマもあってか、周辺はかなり幸村押し。
三光神社の真田幸村(信繁)公像および真田丸顕彰碑など散策。
坂が多く脚が棒になり日頃の運動不足を痛感。駐車場までの帰りは森の宮まで電車を利用…

2017年01月14日 橘若狭守次郎吉
真田丸出城

地下鉄「玉造」駅②番出口より徒歩3分程で三光神社に到着します。三光神社の境内には伝・真田の抜け穴と真田幸村公銅像があります。

真田丸出城跡は三光神社より徒歩7分程のところにある心眼寺付近だと云われています。心眼寺の山門横には大阪市が設置した真田丸出城の説明パネルと石碑があります。心眼寺の境内には真田信繁(幸村)公の墓もあります。

心眼寺前の坂は心眼寺坂と言われていて、最近の研究では真田丸出城に城外から入ってきたときの道ではないかと云われています。心眼寺坂には多くの寺が並び、最近松江で発見された絵図とよく似ています。心眼寺坂沿いの明星学院横には最近設置された『真田丸顕彰碑』があります。心眼寺坂をずっと登っていくと、東西にのびた道路があります。それが南側の堀跡ではないかと云われています。また、真田山陸軍墓地の心眼寺側には土塁跡と思われる遺構も残っています。



2016年10月22日 源出雲守ポンコ2
真田丸出城

真田丸出城に近い大坂城惣構の南面堀は
玉造筋と長堀通交差点付近から西に清水谷公園
経由、空清公園から上町筋のひかりのくにビル
付近を西に伸びていたそうです。
(玉造筋交差点やひかりのくにでは発掘調査で
確認済みだそうです)

真田丸出城は明星学園を主郭に囲むように
縁切寺の円珠庵、高津高校テニスコート、
心眼寺坂を堀を作り、西に西郭、
東に東郭(心眼寺や陸軍墓地、真田山小学校)と
大阪文化財研究所の調査報告などでは推定されてます。
(高津高コートはレーダー探査で堀を確認したそうです)

この付近は坂が多く、今でも起伏ある地形で
お散歩もちょうどよい運動になります。

大阪歴史博物館からは、
中央大通を東に、歴史の散歩道で南を進むと
越中井など通過して長堀通の空堀町交差点を東に
進み、7‐11前の信号を南に進むと心眼寺坂に到着。
坂の途中の心眼寺門前の石碑や学園グランド側に
案内碑などがあります。


2016年09月06日 邦順大和守大八郎宗久
真田丸出城

真田丸から北側(大阪女学院方面)に進むと空堀町、大坂城外堀に由来するだろう地名があります。

真田丸北側は幅100m以上は確実の広い谷があり、所狭しと建物があれど、今も広さ、高低差が感じられます。

2016年06月05日 治部大輔Fairykey
真田丸出城

森ノ宮からてくてく歩いて真田所縁の玉造界隈を散策してきました。真田丸跡は今は某高校のグラウンドに。出かけた日にはテニス部の昼練が行われていました。

2015年11月21日 源出雲守ポンコ2
真田丸出城

環状線玉造駅から西へ、日の出商店街、玉造筋を越えて2~3分歩くと三光神社の北出入口(公園が西隣にあり)に到着。
三光神社には真田幸村像や抜け穴伝承の横穴があります。
三光神社の北出入口から公園前の道を西に向かい、善福寺(どんどろ大師)前交差点を南に坂(心眼寺坂)を3分登ると左手の心眼寺の門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑があります。(反対右手は明星学園のテニスコート)
この一体では明星学園周辺が一番高台になっており、学園グランドは以前小山で掘削されたそうです。
三光神社や心眼寺、真田山公園周辺を歩くと真田出丸城跡を地形で感じられるかもしれません。

2013年05月13日 柿崎和泉守景家
真田丸出城

三光神社があるんですが、誰かお祓いしていました。なんか御利益ありますか?

2012年12月19日 ぎっちゃん
真田丸出城

出丸跡にある心眼寺に『真田幸村出丸城跡』の石碑があります。このお寺は元和4年、真田丸跡に真田幸村、大助親子の菩提を弔うために創建されたお寺ですが、大坂は徳川直轄地になったので幸村親子のお墓を建てる事は出来なかったそうです。また戦前まで幸村槍掛けの松があったそうです。


2010年12月05日 武蔵坊和泉守弁慶
真田丸出城

地下鉄玉造駅二番出口を左手に見ますと三光神社がありますのでそちらを目指して下さい。

2010年07月26日 徳川内大臣源朝臣康武
真田丸出城

[武将像]真田幸村像
三光神社の「真田の抜け穴」前に鎮座。

真田丸出城の周辺スポット情報

 真田の抜け穴(三光神社)(寺社・史跡)

 旧陸軍真田山墓地(寺社・史跡)

 真田信繁戦勝祈願地(鎌八幡)(寺社・史跡)

 蓮久寺(寺社・史跡)

 興徳寺(寺社・史跡)

 心眼寺(寺社・史跡)

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