天王寺城(てんのうじじょう)
天王寺城の基本情報
通称・別名
- 天王寺砦
所在地
- 大阪府大阪市天王寺区生玉寺町3
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 原田直政
築城年
- 天正4年(1576)
主な改修者
- -
主な城主
- 原田直政、佐久間信盛
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
茶臼山陣城(大阪府大阪市)[1.0km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[1.6km]
真田丸出城(大阪府大阪市)[1.9km]
木津城(大阪府大阪市)[2.1km]
岡山砦(大阪府大阪市)[2.2km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[2.7km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[3.2km]
大坂城(大阪府大阪市)[3.2km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[3.2km]
博労淵砦(大阪府大阪市)[3.3km]
天王寺城の解説文
天王寺城の口コミ情報
2023年12月01日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
四天王寺[天王寺城 寺社・史跡]
593年厩戸皇子により建立された四天王寺。
建立後から五重塔は7度の自然災害や戦禍で何度も消失も、今も6~7世紀の中国や朝鮮半島の建築様式を継承し続け、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式の日本で最も古いと言われる「四天王寺式伽藍配置」。
天正4年(1576)5月3日、明智光秀、佐久間信栄、荒木村重、猪子高就、大津長昌等の天王寺城に籠る織田方と本願寺勢との攻城戦で、四天王寺は炎上しました。
どちらが火を放ったのかは不明で、
四天王寺関連の古文書(「天王寺誌」)には「織田信長放火伽藍、開所寺領」と、織田方が四天王寺の伽藍に放火して寺領を没収とあり、
醍醐寺三宝院の「義演准后日記」には「前年一向衆信長卿度々及合戦、于時為一向衆不残一宇焼払了」と、本願寺勢(一向衆徒)が堂塔を残らず焼き払ったとあります。
その後、豊臣秀吉・秀頼親子により再建されるも大坂冬の陣で再び焼失、徳川秀忠が再建するも、その後も落雷や室戸台風、第二次世界大戦で消失と災難続きのお寺です。
たぶん天王寺城より四天王寺へ行かれる方のほうが多いかと思いますが、寺から北西に数百㍍の距離しか離れてない天王寺城(砦)との関わりもあり、口コミしました。
2023年11月01日 板垣駿河守信方
天王寺城
近くに大石内蔵助良雄ゆかりの大石神社や百人一首の従二位藤原家隆卿の墓もあります。
2022年05月27日 尼崎城駿河守一口城主
天王寺城
5月23日、茶臼山下城後に登城しました。ナビを頼りに進軍するとお寺の前に到着しました。地下鉄谷町線の天王寺前夕日ヶ丘駅からすぐのところにありました。暗い時間帯に登城したのでお寺の山門は撮らずに帰路に近くの源聖寺坂を撮りました。風情のある坂でした。
2021年06月20日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
天王寺城
門前に来たけど、柵で入れず。話でも聞けたらな。天王寺城の谷町線のむかいは赤穂浪士の顕彰墓碑の寺があります。
天王寺城の南に進むとカミソリ外交の陸奥宗光と小松帯刀の墓碑もあります。
そのすぐそばには藤原家隆の墓碑も。
「契りあれば なにわの里に宿り来て
波の入日を 拝みつるかな」
晩年の西海に沈む夕陽を見て歌を詠んだことからこの地が夕陽丘の地名になったと伝わるとありました。
追記:谷町筋の和菓子屋の最中屋「一吉」は手作りの最中専門店、最中の餡と皮は別々です。食べる時に皮に挟んで食べる様になっています。私はラムレーズン最中が好きです。
2021年03月28日 御左近衛中将
天王寺城
今は寺が続くこの地に城があったとは知りませんでした。
2020年08月27日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
天王寺城
遺構が消滅している天王寺城のマークがついているのは月江寺ですが、明治時代に記された地誌「東摂津城址図誌」の絵図に月江寺内に天王寺城址と記載されたことよります。(たぶん)
なお、月江寺内には普段立ち入れないようです。
月江寺の南側に、字南ノ丸や中ノ丸、北ノ丸という旧地名があり、真田信繁戦没地とされる安居神社の旧地名は「逢坂上之町字南ノ丸」でした。
地図や地形を見ても、織田信長と大坂本願寺の戦いで本願寺方の木津城や三津寺砦を狙ったり、大坂本願寺を攻略するための楔を打ち込むには、月江寺より南側の急峻な崖上のほうがより適してるようにも思われ、旧地名の示すように、もしかしたら城域は南にあったのかもしれません。
新人物往来社の「信長公記」には、天王寺に砦を構え、そこをめぐる織田信長と大坂本願寺の局地戦が記されております。
「信長公記」(1993年新人物往来社)。
天正四年四月
「荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中四人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出を推し並べ、三つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。
原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘え、難波口より海上通路仕り候。
木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。」
続く~
2020年08月27日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
天王寺城
~続き
天正四年五月
「先は三好笑岩、根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、一万計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。
其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。
其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。」
「後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔か百騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。
次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首々ばかり着陣に候。
然りと雖も、五、三日の間をも拘えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ」
「御馬を寄せられ、一万五千ばかりの御敵に、纔か三千ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。」
「かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。
然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数二千七百余討ち捕る。」
原田直政討死後、明智光秀らが守る天王寺が陥落寸前までいくも、桶狭間の戦いのように少数で京都から若江に駆け付け、ある程度兵が集まってから、5倍の大軍に突入して救援、その後追い打ちかけるさまが記されてます。
2016年10月09日 橘若狭守次郎吉
天王寺城
大阪市営地下鉄谷町線 四天王寺前夕陽ヶ丘駅②番出口を出て、北に進みます。3つ目の道(天王寺区民センターとファーミル夕陽ヶ丘学園坂の間の道)を左に曲がって少し進めと右手に月江寺があります。そこが天王寺城跡だと云われています。遺構は特に残っていません。
2010年07月20日 八雲ノ右馬頭お頭
天王寺城
四天王寺さんに戦勝祈願をお参りして、北へ向かいましょう(笑)
原田直政はこの戦いに出陣するが討死。その後は佐久間信盛が入るが戦果を挙げられないまま和議によって戦いは終結、信盛は責任を問われ高野山へ追放され、天王寺城は廃城となった。
現在は月江寺となっている付近が城跡とされるが遺構などは全く残っていない。