大坂西町奉行所(おおさかにしまちぶぎょうしょ)

大坂西町奉行所の基本情報

通称・別名

所在地

大阪府大阪市中央区本町橋

旧国名

摂津国

分類・構造

奉行所

天守構造

なし

築城主

徳川幕府

築城年

元和5年(1619)

主な改修者

主な城主

嶋田直時、久世広正、貝塚典直

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[0.5km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[0.8km]
大坂城(大阪府大阪市)[1.3km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[1.9km]
真田丸出城(大阪府大阪市)[2.0km]
博労淵砦(大阪府大阪市)[2.5km]
天王寺城(大阪府大阪市)[2.7km]
野田城(大阪府大阪市)[3.1km]
鴫野砦(大阪府大阪市)[3.5km]
榎並城(大阪府大阪市)[3.6km]

大坂西町奉行所の解説文



大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つ。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取り、東西の奉行所はそれぞれ「東の御番所」「西の御番所」と呼ばれていた。初名は大坂郡代(おさかぐんだい)。老中支配下で大坂城下(大坂三郷)および摂津・河内の支配を目的としていた。

歴史 

元和5年(1619年)8月22日に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3000石をもって任じられたのが始まりとされている。水野守信(信古)を初代東町奉行とする説もあったが、今日では否定されている。

定員は東西それぞれ1名ずつであるが、元禄9年(1696年) - 同15年(1702年)の6年間のみ、一時廃止となった堺町奉行を兼務する3人目の奉行が設置されていた。1000 - 3000石程度の旗本から選任されることになっていたが、300石からの抜擢例も存在する。奉行には役高1500石および役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。

また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫津・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収および公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった。

奉行所の所在地 

東西の両奉行所は当初大坂城北西の虎口である京橋口の西方(現・中央区大手前1丁目5番)に隣接して設置されたが、享保9年(1724年)の大火の際に両奉行所とも焼失する事態に陥った。この教訓から、同地での再建は東町奉行所のみとし、西町奉行所は本町橋東詰の米蔵跡(現・中央区本町橋2番)へ場所を移しての再建となった。

明治以降、東町奉行所跡は大阪陸軍病院→大手前病院・大阪合同庁舎第一号館など、西町奉行所跡は大阪府庁舎(初代)→大阪府立貿易館→マイドームおおさか・大阪商工会議所などに使用されている。

奉行所の役人 

東西各奉行所に、それぞれ与力30騎、同心50人が配属[1]

与力は80石(知行高200石)、同心は10石3人扶持を支給され、屋敷地は与力が500坪、同心は200坪を拝領された。

与力は、新人はまず初御目見・御用日見習から始まり、当番所への勤務である「番入」を務め、与力の末席である定町廻に就く。後は年功序列で、何十年も勤め上げて最上位である諸御用調役まで昇進してゆく。

当時の大坂の武士の名鑑『浪華御役録』や『役人鑑』には与力の役職が25前後記されており、1つの役職には2 - 10人ほどの与力が担当となっている。東西奉行所の与力計60人でこれだけの数をまかなえたのは、1つには1人で複数の役職を兼務したことと、もう1つは与力の子を早くに見習身分として出仕させ実務を担当させていたからである。病欠、または囚人を江戸に護送するために大坂を長期間離れる場合、さらには御用多忙により人手が足らなくなる場合も多々あり、そのような時は仮役・定仮役という暫定的な役席を設け、他の与力に仕事を兼務させた。

それらの役職の他に、「迎方(むかえかた)与力」という臨時の役職もある。これは新任町奉行を大坂で迎えるための準備をするもので、該当奉行所の古参与力が命じられた。

江戸町奉行の役人と同様に、大坂町奉行所の与力も、大名や旗本に便宜を図るため出入り関係を結んでおり、これを「御館入(おたちいり)与力」と呼んだ。大坂の周辺に知行地を持つ大名・旗本の他、大坂に蔵屋敷を置く福岡藩などが御館入与力を出入りさせていた。また、大坂城代の元に出入りしその用を承る与力を、「立入(たちいり)与力」という。

町奉行の審理 

町奉行所に届けられた民事訴訟を審理する日を「御用日」、特に金公事(金銭貸借に関する訴訟)を扱う日を「御金日」と呼んだ。御用日は、毎月2日、5日、7日、13日、18日、21日、25日、27日と月に8回あった。摂津・河内・和泉・播州の四ヵ国の訴訟だけでなく、大坂が全国各地からの物資が流入する拠点であるという性格から西日本の各地からも訴訟が持ち込まれた。

町奉行の交代 

新任奉行が任命された後、それを受けて担当奉行所の与力の中から迎方与力が任命される。迎方与力は諸々の書類と御役所絵図を用意し、東海道筋を下って新任奉行を迎える。それに先んじて奉行の家臣による先乗り部隊が大坂に出向いて屋敷の受け渡しが行われる。そして、奉行が大坂に到着して後、配下となる与力同心を引き取るという形となる。奉行の交代に際して、一方の奉行が空席となった場合、その奉行所の配下の与力同心は、一時的にもう一方の奉行の管理下に入った。

大坂町奉行の一覧 

東町奉行

1.久貝正俊:元和5年8月22日(1619年) - 慶安元年2月2日(1648年) 2.松平重次:慶安元年2月16日(1648年) - 寛文3年4月11日(1663年) 3.石丸定次:寛文3年8月25日(1663年) - 延宝7年5月11日(1679年) 4.設楽貞政:延宝7年6月14日(1679年) - 貞享3年5月8日(1686年) 5.小田切直利:貞享3年7月10日(1686年) - 元禄5年3月23日(1692年) 6.松平忠周:元禄5年4月14日(1692年) - 元禄13年10月26日(1700年) 7.*保田宗易:元禄9年1月15日(1696年) - 元禄11年12月1日(1699年1月) ※東町奉行2名 8.*中山時春:元禄12年4月14日(1699年) - 元禄15年11月28日(1703年1月) ※東町奉行2名 9.太田好寛:元禄13年10月28日(1700年) - 正徳元年4月22日(1711年) 10.桑山一慶:正徳元年5月1日(1711年) - 正徳2年6月1日(1712年) 11.鈴木利雄:正徳2年6月1日(1712年) - 享保14年2月15日(1729年) 12.稲垣種信:享保14年2月15日(1729年) - 元文5年3月19日(1740年) 13.松浦信正:元文5年4月3日(1740年) - 延享3年4月28日(1746年) 14.小浜隆品:延享3年4月28日(1746年) - 宝暦4年1月11日(1754年) 15.細井勝為:宝暦4年1月11日(1754年) - 宝暦7年8月27日(1757年) 16.岡部元良:宝暦7年9月6日(1757年) - 宝暦12年1月20日(1762年) 17.鵜殿長達:宝暦12年2月15日(1762年) - 明和5年3月16日(1768年) 18.室賀正之:明和5年3月19日(1768年) - 安永8年1月11日(1779年) 19.土屋守直:安永8年1月19日(1779年) - 天明3年4月19日(1783年) 20.小田切直年:天明3年4月19日(1783年) - 寛政4年1月18日(1792年) 21.坂部広高:寛政4年1月18日(1792年) - 寛政7年6月28日(1795年) 22.山口直清:寛政7年7月16日(1795年) - 寛政10年2月8日(1798年) 23.水野忠通:寛政10年3月21日(1798年) - 文化3年8月12日(1806年) 24.平賀貞愛:文化3年8月12日(1806年) - 文化13年4月24日(1816年) 25.彦坂紹芳:文化13年5月1日(1816年) - 文政3年10月17日(1820年) 26.高井実徳:文政3年11月15日(1820年) - 天保元年10月27日(1830年) 27.曽根次孝:天保元年11月8日(1830年) - 天保3年6月28日(1832年) 28.戸塚忠栄:天保3年6月28日(1832年) - 天保5年7月8日(1834年) 29.大久保忠実:天保5年7月8日(1834年) - 天保7年3月8日(1836年) 30.跡部良弼:天保7年4月24日(1836年) - 天保10年9月10日(1839年) 31.徳山秀起:天保10年9月10日(1839年) - 天保13年8月6日(1842年) 32.水野忠一:天保13年8月6日(1842年) - 弘化4年9月3日(1847年) 33.柴田康直:弘化4年9月20日(1847年) - 嘉永4年5月26日(1851年) 34.川路聖謨:嘉永4年6月24日(1851年) - 嘉永5年9月10日(1852年) 35.佐々木顕発:嘉永5年10月8日(1852年) - 安政4年2月24日(1857年) 36.戸田氏栄:安政4年2月24日(1857年) - 安政5年8月21日(1858年) 37.一色直温:安政5年9月15日(1858年) - 文久元年1月20日(1861年) 38.川村修就:文久元年1月23日(1861年) - 文久3年5月6日(1863年) 39.有馬則篤:文久3年5月6日(1863年) - 元治元年5月(1864年) 40.堀利孟:元治元年6月29日 - 7月19日(1864年) 41.竹内保徳:元治元年8月5日 - 8月13日(1864年) 42.古賀謹一郎:元治元年8月13日 - 9月4日(1864年) 43.松平乗撲:元治元年9月(1864年) - 慶応元年7月17日(1865年) 44.井上義斐:慶応元年7月17日(1865年) - 慶応2年4月8日(1866年) 45.中川忠道:慶応2年4月8日 - 5月7日(1866年) 46.竹内幸彝:慶応2年5月22日(1866年) - 慶応3年12月2日(1867年) 47.大久保忠恒:慶応3年12月19日(1868年1月) - 明治元年2月10日(1868年)

西町奉行

1.嶋田直時:元和5年8月22日(1619年) - 寛永2年10月7日(1625年) 2.曾我古祐:寛永11年7月29日(1634年) - 万治元年3月19日(1658年) 3.曾我近祐:万治元年3月19日(1658年) - 寛文元年9月13日(1661年) 4.彦坂重紹:寛文元年11月11日(1661年) - 延宝5年9月13日(1677年) 5.嶋田重頼:延宝5年9月26日(1677年) - 天和元年6月19日(1681年) 6.藤堂良直:天和元年7月6日(1681年) - 元禄元年4月9日(1688年) 7.能勢頼寛:元禄元年5月3日(1688年) - 元禄3年12月23日(1691年1月) 8.加藤泰堅:元禄4年1月11日(1691年) - 元禄8年11月14日(1695年) 9.永見重直:元禄9年1月11日(1696年) - 元禄14年8月18日(1701年) 10.松野助義:元禄14年8月18日(1701年) - 宝永元年10月1日(1704年) 11.大久保忠香:宝永元年(1704年)11月15日 - 宝永5年12月15日(1709年1月) 12.北条氏英:宝永6年4月6日(1709年) - 享保9年3月7日(1724年) 13.松平勘敬:享保9年3月7日(1724年) - 元文3年2月28日(1738年) 14.佐々成意:元文3年2月28日(1738年) - 延享元年9月28日(1744年) 15.久松定郷:延享元年9月28日(1744年) - 寛延3年3月11日(1750年) 16.中山時庸:寛延3年3月11日(1750年) - 宝暦5年7月22日(1755年) 17.桜井政甫:宝暦5年7月22日(1755年) - 宝暦7年8月27日(1757年) 18.興津忠通:宝暦7年(1757年)9月6日 - 明和2年11月19日(1765年) 19.曲淵景漸:明和2年12月7日(1766年1月) - 明和6年8月15日(1769年) 20.神谷清俊:明和6年8月15日(1769年) - 安永4年2月21日(1775年) 21.京極高亶:安永4年3月1日(1775年) - 天明元年4月28日(1781年) 22.佐野政親:天明元年5月26日(1781年) - 天明7年10月6日(1787年) 23.松平貴強:天明7年10月12日(1787年) - 寛政9年3月14日(1797年) 24.成瀬正定:寛政9年4月4日(1797年) - 享和元年4月3日(1801年) 25.佐久間信近:享和元年4月7日(1801年) - 文化5年8月24日(1808年) 26.斎藤利道:文化5年8月24日(1808年) - 文化10年12月15日(1814年2月) 27.水野忠篤:文化10年12月24日(1814年2月) - 文化12年8月2日(1815年) 28.荒尾成章:文化12年8月12日(1815年) - 文政3年3月17日(1820年) 29.内藤矩佳:文政3年4月1日(1820年) - 文政12年3月28日(1829年) 30.新見正路:文政12年4月15日(1829年) - 天保2年9月10日(1831年) 31.久世広正:天保2年10月5日(1831年) - 天保4年6月20日(1833年) 32.矢部定謙:天保4年7月8日(1833年) - 天保7年9月20日(1836年) 33.堀利堅:天保7年11月8日(1836年) - 天保12年6月20日(1841年) 34.阿部正蔵:天保12年6月24日(1841年) - 天保14年2月24日(1843年) 35.久須美祐明:天保14年3月8日(1843年) - 弘化元年10月24日(1844年) 36.永井尚徳:弘化元年12月27日(1845年2月) - 嘉永2年11月28日(1850年1月) 37.中野長風:嘉永2年12月 - 嘉永3年5月16日(1850年) 38.本多安英:嘉永3年8月24日(1850年) - 嘉永5年4月28日(1852年) 39.石谷穆清:嘉永5年5月19日(1852年) - 安政元年5月20日(1854年) 40.川村修就:安政元年5月20日(1854年) - 安政2年5月1日(1855年) 41.久須美祐雋:安政2年5月22日(1855年) - 文久元年12月15日(1862年1月) 42.鳥居忠善:文久元年12月15日(1862年1月) - 文久3年5月2日(1863年) 43.松平信敏:文久3年5月2日(1863年) - 慶応3年1月13日(1867年) 44.平岡準:慶応3年1月17日 - 1月27日(1867年) 45.小笠原長功:慶応3年1月29日(1867年) - 明治元年2月23日(1868年)

  • 出典:大坂城代・定番・町奉行・加番一覧(https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/event/bushi_p3.pdf) - 大阪府立図書館

参考文献 

  • 【書籍】「江戸時代」
  • 【書籍】「武士の町大坂—「天下の台所」の侍たち」

大坂西町奉行所の口コミ情報

2025年04月29日 丹波守炒飯【❖】大盛
大坂西町奉行所



マイドーム大阪の入り口に、石碑があります。マイドーム大阪の入り口は、大坂西町奉行所だけでなく、沢山の石碑があります

2024年12月15日 ❖百済門徒衆修理大夫とら
適塾[大坂西町奉行所  寺社・史跡]



①適塾は、医師の緒方洪庵が諸国から集まった若者に蘭学を教えた私塾である。ここで、福沢諭吉や大村益次郎等の錚々たる人々が学んでいる。
②2階に塾生部屋があり、柱には無数の刀傷があり、血気あふれる若者の様子が伺われる。
③ヅーフ部屋と呼ばれる一室は、当時貴重な蘭和辞書が置かれ、持ち出し禁止であった為、塾生は奪い合って使用したという。

昔、NHK大河の花神でここが舞台として登場し、若き村田蔵六こと大村益次郎が入門した時のシーンがある。急な階段を登ると、沢山の塾生が溢れており、田舎からぽっと出の蔵六は部屋の入口付近の畳1畳が自分の場所として与えられる。
そして、成績が上がると部屋の奥の畳となり、最終的に師の洪庵に代わって講義をする事になる。
ドラマで見たまんまの部屋であった。

明治になり大阪大学医学部の前身となる医学校となり、現在、この建物は国史跡となり重要文化財として大阪大学が管理運営している。

2022年08月13日 † ひで †
大坂西町奉行所

ちょうど谷町線4丁目駅と堺筋本町駅の中間で訪問するには行きやすいです

2022年06月13日 尼崎城安芸守一口城主
大坂西町奉行所



5月19日、大阪城下城後に進軍🚶‍♂️大阪城近くの地下鉄谷町四丁目駅付近に<マイドームおおさか→650m>という道標があったのでそれに従い進軍。マイドームおおさかに辿り着き、西町奉行所の石碑を発見。他にも大阪府立貿易専門学校発祥の地の石碑がありました。

アプリの奉行所の所在地欄を読むと西町奉行所跡はマイドームおおさか、大阪商工会議所などに使用されているとあったので大阪商工会議所周辺も見てみました。朝ドラや大河に登場していた五代友厚さんなどの銅像や若宮商工稲荷神社⛩、花時計がありました。

2022年05月23日 オシロスキー3級河内守まさ
大坂西町奉行所

資格試験で訪問の際にリア攻めしました。現在はマイドームおおさかがあります。石碑もありましたが、撮影はしませんでした。

2021年07月12日 勘解由長官ピッコ丸
大坂西町奉行所

今はマイドームおおさかという複合施設が建っており、特に遺構はありませんでした。

2021年07月10日 源山城守ポンコ2…
大坂西町奉行所



「大阪市史」には
東西両町奉行所は相接して天満橋南詰東にあり、地方役手鑑に東町奉行所三千弐百弐拾坪、西町奉行所弐千三百拾五坪とあるは、元禄年間の調査とす、享保九年三月大火あり、両町奉行所類焼せしかば、一時難波別院に移り、次いで東町奉行所 ○弐千九百六拾五坪 を旧地に、西町奉行所 ○弐千九百三坪七合五勺 を東横川東岸塩噌舂屋の跡に新築し、以て幕末に至る、
と記載されてます。

場所は、北側駐車場と東側松屋町筋の石碑のあるマイドーム大阪、南隣の大阪商工会議所、シティプラザ大阪の一部に至る広さ9600㎡。近くに牢屋敷などもありました。
神戸市歴史博物館に残る大坂西町奉行所の図面には、東横堀川側に大事な本町橋があるので御門、松屋町筋沿いに裏門がそれぞれ設けられてました。また裏門から入った所には若宮稲荷があり、この若宮稲荷は豊臣秀吉の大坂築城に遡ります。

江戸時代、大坂城外には城代・定番の中屋敷、下屋敷、東町奉行所のほか、土佐堀川沿いに各藩の蔵屋敷がありました。各屋敷に稲荷が祀られており、博労淵砦近くの土佐稲荷神社は、土佐藩の蔵屋敷に因むもので、岩崎弥太郎が蔵屋敷を買取り創業したため三菱グループの守護神にもなってます。他の蔵屋敷にあった稲荷は、地元や大阪市内で合祀されたりして一部が土佐堀川沿いの朝日新聞等の再開発ビルの稲荷となってます。
江戸時代、これらの稲荷は初午の季節に庶民に開放されており、天保期に73歳で西町奉行に任じられた久須美佐渡守祐明の日記にも門外の出店や行列の様子が記載されてます。江戸の久留米藩邸の水天宮は、賽銭収入狙いで開放してたともあり、稲荷開放もそうやったのかも…

奉行所内の若宮稲荷は、五代友厚が大阪商工会議所設立とともに祀った商工稲荷と合祀して、今も大阪商工会議所南隣に五代友厚他2名の銅像とともにあります。遺構なくとも名残の稲荷。ディーン様ファンの方にもご参考まで。

2021年06月28日 蜂屋兵庫頭きみくん
大坂西町奉行所

地下鉄堺筋本町駅から東に500mほどです。
松屋町筋と云う大通りに面していますので気軽に行けます。

2021年05月30日 ときは今
大坂西町奉行所

昔の面影はなく、マイドームおおさかという立派な展示場になっていました。

2016年10月09日 橘若狭守次郎吉
大坂西町奉行所

大坂西町奉行所は現在、マイドーム大阪の正面玄関前に石碑と説明板があるのみで、遺構は特に残っていません。

マイドーム大阪の隣には大阪商工会議所があり、五代友厚・土居通夫・稲畑勝太郎の銅像が建っています。

2016年06月23日 源山城守ポンコ2…
大坂西町奉行所

地下鉄北浜駅5番出口を出て堺筋を南に進み、平野町通との交差点を東(すきや側)に左折し、阪神高速の高架を越え、松屋町筋を南に右折し、マイドーム大阪が西町奉行所の場所にあたります。駅からだいたい徒歩12~3分です。
マイドーム大阪の正面玄関側には、西町奉行所の石碑のほかに、明治天皇聖躅碑や大阪府立貿易専門学校(国際ビジネス人材の育成のために大阪高等貿易講習所として設立)発祥の地碑などもあります。石碑は駐車場側にもあります。
敷地は、マイドーム大阪のほかに大阪商工会議所やシティプラザ大阪に跨るあたりになるそうで、かなりの広さを感じさせます。またその場所は、米蔵から塩や味噌を貯蔵する「御塩噌蔵」があり、江戸時代の大火で焼失後に西町奉行所が移転してきて、明治維新まで続いたそうです。そばの東横堀川など、水の都大坂の水運を司ることも立地を選んだ理由だったんではと思わせる立地です。
明治維新後は奉行所の建物をそのまま使って、大阪裁判所として使用されましたが、すぐに初代大阪府庁舎となり、府庁が西区江の子島に移転後は、大阪博物場(動物園・美術館・図書館)がここに設けらたそうです。

大坂西町奉行所の周辺スポット情報

 西町奉行所址石碑(碑・説明板)

 西町奉行所跡石碑(碑・説明板)

 適塾(寺社・史跡)

 緒方洪庵墓所(寺社・史跡)

 銅座跡(関連施設)

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