野田城(のだじょう)
野田城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府大阪市福島区玉川4-11-15
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 浦上村宗
築城年
- 享禄4年(1531)
主な改修者
- 三好三人衆
主な城主
- 浦上村宗、三好三人衆
廃城年
- 慶長20年(1615)以前?
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
博労淵砦(大阪府大阪市)[1.3km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[2.9km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[3.1km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[3.2km]
大和田城(大阪府大阪市)[3.6km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[3.7km]
堀城(大阪府大阪市)[3.8km]
大坂城(大阪府大阪市)[4.3km]
三津屋城(大阪府大阪市)[4.4km]
木津城(大阪府大阪市)[4.5km]
野田城の解説文
[引用元:Wikipedia「野田城」の項目]
野田城 (のだじょう)は、大阪府大阪市福島区玉川付近(摂津国西成郡鷺島荘野田村[1])にあった日本の城(平城)。
沿革
享禄4年(1531年)、細川高国と三好元長が抗争していた時(中嶋の戦い)に、細川高国と同盟関係にあった浦上掃部(浦上村宗[2])がこの地と福島の地に陣取った(『細川両家記』)。この時、砦が築かれたとみられ、これが野田城の原形になったと考えられる。
幕末に作成された『摂津名所図会大成』には、
とある[3]。細川氏綱とは同族の細川晴元と度々争った武将であり、永禄3年(1560年)に没した氏綱が晩年に城主となっていた可能性がある。しかし『日本城郭大系』では「史料は明確でない」と指摘されている。
元亀元年(1570年)、畿内での勢力回復を図る三好三人衆は、野田城・福島城を増築、籠城し、それに呼応した石山本願寺法主顕如が織田信長打倒の武装決起をする。当時の野田城・福島城には8千人の兵がいて、広い城地を占めていたとされるが、現在では石碑がひっそりと建てられているだけである[4]。
天正4年(1576年)、信長の猛攻により野田城は福島城と共に織田方の手に渡り、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは織田方の重要陣地になったと考えられる。
それ以降40年間確かな史料には姿を見せないので、一旦廃城になった可能性も指摘されている。次に姿を見せるのは慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の野田・福島の戦いで、『西成郡史』によると福島の五分一に棚楼(井楼か)を築き、大野治胤の兵800を配置して野田の新家を守備していたとされる[5]。
この『西成郡史』では「棚楼を五分一に設け」たとし、新しく築かれたと読み取れるので、安土桃山時代に築かれ、野田城・福島城の戦いで廃城になっていた城を、大坂の役で再利用したとも考えられる。『幻の野田城を探る』によると、少なくとも慶長20年(1615年)の大坂夏の陣以後には完全に廃城になったとされている。現在、同地域では極楽寺、野田恵美須神社などに一部城の名残らしきものが見られるが、都市化されており城跡を思い浮かべるものはほとんど残っていない。
城郭
野田城がどの程度の城郭であったのか現在も不明な点が多い。城跡は都市化され、築城当時とは大きく地形が変化しているからである。ただ少ない資料の中からおおまかな概要は把握されている。この地域は平安時代以前には「難波八十島」と呼ばれる島々が点在していたが、淀川の堆積土砂によって段々と島が陸続きになり、平安時代より今日に至るまで大きく変化してきた。野田城も当時は島のような場所に築城されていたと考えられている。
野田城は砦であったという指摘もあるが、『細川両家記』には、
とあることから、浦上村宗時代には砦のような施設であったが、三好三人衆時代には「紛れもない城郭であろう」と『幻の野田城を探る』では記しており、近隣にある大坂城のような近世城郭ではないものの戦国時代の城郭であったと思われている。
明治時代初めまでは、同地域に「野田村」が存在していた。この野田村は奥ノ町、東ノ町、城ノ内町、弓場町、堤町、北ノ町の6町から成り立っていた。明治時代初期の地図によると、この野田村周辺が他の地域と比べて若干高い場所にあり、地の利を活かし築城されたのではないかと思われている。また『幻の野田城を探る』によると、城郭は旧町名の城ノ内町、奥ノ町にあたるのではないかとしており、現在の地名では、石碑1や極楽寺付近が中心部、野田恵美須神社や春日神社が城郭の東側とされる。福島区野田3丁目の野田診療所の南東には馬洗池があったと言われており、この馬洗池が野田城と関係があるとなれば、この辺りが城郭の西側になると思われている。
福島城
野田城に関する資料も多くはないが、福島城の城郭について『幻の野田城を探る』では「ほとんど絶望的」としている。確認されている古文献のほとんどが「野田・福島」と併記され、当時両城は一体で運用されていたのではと思われている。ただし、両城を一つの城として考えると城域が広大になり過ぎ、そのように考えることには疑問が残る。両城の間には、農地や荒地があったと考えるのが実情に合っていると思われている。一方で、近隣には富松城のような二カ所一城の例があり、野田城、福島城もその例にならって築城されていたと考える立場もある。明治時代の地図によると上福島村、下福島村という村が存在しており、その周辺に築城されていたと考えられる。現在、野田城とされる地域からみて北東下福島公園の方向で、堂島川の周辺である。現在でも多くの有志の方が福島城の痕跡を探しているが、明確な場所は解っていない。
石碑
- 石碑1
- 玉川駅 2号出口を出てすぐ。玉川4丁目11番地交差点付近 (旧名 城ノ内)
- 石碑2
- 玉川駅 2号出口を出て細い道を南東へ徒歩1分。玉川4丁目3番地 極楽寺付近(旧名 奥ノ町)
城跡へのアクセス
石碑2へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 玉川駅(Osaka Metro千日前線)→徒歩約5分
- 野田駅(大阪環状線)→徒歩約7分
参考文献
- 【書籍】「日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫」
- 【書籍】「幻の野田城を探る」
- 【書籍】「恵比寿神社略記」
[続きを見る]
野田城の口コミ情報
2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
野田城
5月11日、博労淵砦から進軍していくと野田恵美須神社近くの極楽寺に辿り着きました。山門脇に野田城趾の石碑がありました。お寺は入れなさそうな雰囲気だったので野田恵美須神社の境内を散策。野田の藤は江戸時代有名だったそうです。近くにあるJR東西線の海老江駅のホーム壁面になぜ藤の花が描かれているのか分かりスッキリして下城。
2021年03月04日 芦屋能登守虎吉
野田城
地下鉄玉川駅すぐ、野田御坊極楽寺が推定地のようです。
周りを散策しましたが遺構らしきものや不自然な高低差、曲がり角などもなく、有名な合戦の舞台の割にちょっと残念でした。
2020年09月07日 源山城守@ポンコ2…
野田城
遺構はなく石碑や旧地名(字)があるだけですが、凸マークのある極楽寺へは、阪急OASISがある所を東に真っ直ぐ路地をいくとあります。
山門前には石碑があり、城域の中心にあるため極楽寺とその総代が約20年前に建立されたと説明がありました。
また、地下鉄玉川駅前にも大阪市が建立した石碑がありますが、こちらは約30年前に字「城丿内」にちなんでとの説明があります。
周囲を散策して極楽寺より東側の野田恵美須神社が30㌢ほど高いとこにありますが、こちらは字「弓場」にあたり城の中心部ではないのかもしれません。
散策してる時はわからなかったですが、極楽寺などは海抜0㍍地帯ながら、国土地理院の標高地図で調べると、周囲より50㌢〜1㍍ほど高い場所でした。平安の頃の「難波八十島」の名残がここに。
城の痕跡のは旧地名や比高くらいですが、幾度も攻城戦が行われたのを思い浮かべつつ、野田藤のある春日神社など含めた街歩きにはいいかもしれません。
余談ですが、阪急OASISの大通り向かい側に「ラーメン旭屋」があり、土曜14時半頃でしたが行列ができてました。
京都の「第一旭たかぼし本店」の流れをくむ店だそうですが、20数年前に行った記憶ではラーメンより餃子が美味しかったです(個人的所感)。
2018年04月14日 鬼教師大宰大弐
野田城
極楽寺の石碑、玉川駅に近い交差点付近の石碑。両方見学しました。極楽寺の近くには野田恵美須神社があります。
2017年01月14日 橘若狭守次郎吉
野田城
現在は完全に住宅街化されていて、遺構は残っていませんが、石碑が2ヶ所あります。
一つ目は地下鉄「玉川」駅②番出口を出てすぐのマンションの入り口前にあります。石碑の右側面には簡易な城跡の説明が彫られています。
二つ目は地下鉄「玉川」駅②番出口より南東に 住宅街の道を1分程進んだ所にある極楽寺の山門横にあります。
2015年08月30日 お猿さん紀伊守せんとくん
野田城
大阪環状線の野田駅のホームから、すぐ近くに見えるマンションの玄関口に、石碑が建ってます。