大和田城(おおわだじょう)

大和田城の基本情報

通称・別名

所在地

大阪府大阪市西淀川区大和田4、5

旧国名

摂津国

分類・構造

平城

天守構造

型式不明[階層不明/築年不明/破却?]

築城主

不明

築城年

16世紀頃

主な改修者

荒木村重

主な城主

下間氏、安部仁右衛門(荒木氏家臣)

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

尼崎城(兵庫県尼崎市)[2.4km]
三津屋城(大阪府大阪市)[3.4km]
野田城(大阪府大阪市)[3.6km]
堀城(大阪府大阪市)[3.7km]
博労淵砦(大阪府大阪市)[4.8km]
七松城(兵庫県尼崎市)[5.0km]
天保山台場(大阪府大阪市)[5.6km]
塚口城(兵庫県尼崎市)[5.7km]
小松城(兵庫県西宮市)[6.2km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[6.5km]

大和田城の解説文



大和田城(おおわだじょう)は、大阪市西淀川区大和田4丁目から5丁目付近にあった日本の城(平城)。正確な位置や城郭、築城や廃城などの歴史については不明な点が多い。もともと戦国時代に砦があった場所に、石山合戦の時に織田信長の命に本格的な城郭として築かれたのではないかと考えられている。

沿革 

大和田城の正確な築城時期はよく解っていないが、『天文日記』によると天文5年(1536年)に中嶋五ヶ所の衆(大和田、野田、御幣島、海老江、三番)が証如に対して赦免願いを出したことが記載されている(この時の状況は天文の錯乱、飯盛城の戦い、山科本願寺の戦い等を参照)。証如と細川晴元との間には前年の天文4年(1535年)に講和が成立していたが、天文5年に講和中であるにもかかわらず、摂津にいた細川軍を攻め敗走させてしまった。証如はこの件を黙認したが、晴元の部将木沢長政は激怒し、中嶋に攻め込み800名が戦死した。『大和田城考』によると「この時に、大和田にも砦があったのでしょう」と解説している。

更に砦として明確に記載されているのが天正3年(1575年)の石山合戦の時で、石山本願寺の支城として大和田に砦を築き、荒木村重軍が駐屯していた神崎や渡辺へ攻め込み一旦敗走させたが、逆に荒木軍は本願寺軍を十三の渡しにおびき出してこれを破り、大和田や天満の砦を落していった。翌天正4年(1576年)、織田信長は村重に命じ、尼崎城(大物城)、花隈城、能勢城、三田城、多田城、茨木城高槻城有岡城、そして大和田城の改修や築城をさせ石山本願寺の牽制の城とした。この時城主となったのが村重の家臣安部仁右衛門であった。この時の様子を『陰徳太平記』によると、

とあり、まずは石山本願寺が築き、落城後織田方が再興したことがうかがい知れる記載となっている。

天正6年(1578年)に村重が信長への謀反に及ぶと(有岡城の戦い)、安部仁右衛門は芝山源内と談合し織田軍につくこととした。しかし、安部仁右衛門の父と祖父が荒木軍につき、『信長公記』によると天守に立て篭もったとの記載がある。これにより大和田城には天守があったと考えられている。仁右衛門は一計を案じ、信長の了承の下で自分も荒木軍につくと父と祖父を安心させ、その後拘束し安土城へ送ったとされている。大和田城はその後本来の目的である毛利水軍と石山本願寺軍の補給路を断つ重要な拠点となり、翌天正7年(1579年)に大和田城の攻城戦が繰り広げられたが、この年大地震がおこり攻城軍は壊滅し逃走した。

大和田城の廃城の時期は明確ではないが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、徳川軍の池田利隆隊が大和田周辺を火攻めしたが、安部仁右衛門が郷民を集め反撃し消火活動を行った。池田利隆隊を破った仁右衛門隊であったが、その後救援に駆け付けた池田忠継隊に攻められ敗退した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも大和田周辺は池田利隆隊に攻め込まれ敗退したようである。『大和田城考』によると「推測ですが、この大坂の陣まで大和田城はあったのではないでしょうか」としている。

また、大和田城の石碑が大阪市立大和田小学校の校庭に設置されている。この石碑は現在地より400メートル西北西に建っていたが、市営住宅建設のため現在の地に移設された。この石碑の裏には、

と記載されている。恩地天舟とは当時の大和田小学校の校長であった。この碑文ついても『大和田城考』によると「出典は不明ですが、これは誤りではないかと思われます」としている。

城郭 

大和田城の場所については、都市化が進んで遺構はなく、現在特定できていない。ただ、『西成郡史』によると大字で「垣内と呼ばれた地域であろう」と記載されている。大阪市の解説でも城跡は「城垣内(しろかいと)」と呼ばれた地とされ[1]、現在の大和田5丁目の全域と一部4丁目を含む地域である。城垣内の北西地域には少し高い場所があり、移設前の石碑があった周辺では「城の町」と呼ばれており、この周辺が城の中心ではなかったかと考えられている。大和田の地は京都と西国を結ぶ交通上の要衝であり、石山本願寺軍や毛利水軍に備える軍事上の重要な箇所となっていた。

なお、大阪府の大阪府の行政地図情報システムによる埋蔵文化財包蔵地範囲の表示では、大和田5丁目の住吉神社と大和田北公園付近を「大和田城跡伝承地」として設定している[2]

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • 阪神なんば線出来島駅→大阪シティバス大和田五下車→徒歩約2分
  • 車でのアクセス
    • 阪神高速道路神戸線大和田出入口→大阪府道10号
      • 周辺に駐車場無し

参考文献 

  • 金田啓吾「大和田城考」『まんだ』85号、まんだ編集部、2005年12月、20-24頁。
  • 『大阪春秋』第27巻、大阪春秋社、1998年3月、58頁。
  • 大阪都市協会『西淀川区』西淀川区制七十周年記念事業実行委員会、1996年3月、445-446頁。

大和田城の口コミ情報

2024年01月13日 雅楽允やまとなわ
大和田城



大和田城と周辺散策
籠城戦の後に西島迄渡船し当時の海岸に思いを馳せるのが今回の目的。
総じて城域の海抜は低すぎるという印象。
城垣内の市営団地付近の海抜は−1.7m〜−1.8m
5丁目付近は高くて0m〜−0.3m
垣内
堀ノ内などと同じ意味で、城館があったことを示す。
垣ノ内ともいい、海戸、開戸などと書く場合もある。
意味は土塁または堀ノ内側を示し、垣内畠(畑)と称し、城主直営の畑もあった。(垣内畠は屋敷畠と同じ意味である)
堀ノ内の地名が関東以北に多いのに対し、垣内の地名は関西に特に多いといわれている。

日本城郭事典
大類伸

西島水門へは大野川緑陰道路で百島迄歩きます。その先に西島川があります。
堤防上では対岸に伝法、大阪湾の眺めもよく、当時の海を想像するのはより楽しい。
百島付近の神社さんに江戸時代初期に植樹された巨木の切り株があり、地表面の推測もできる。
出来島付近を通り再び大和田城へ向かう一周し終了。

2022年07月12日 尼崎城阿波守一口城主
大和田城



6月11日、自宅からママチャリで登城。Gマップを確認しながら進軍していくと大和田小学校に辿り着きました。説明板は直ぐにわかったのですが先人方が上げていた大和田城址の石碑を探すのに時間が掛かってしまいました。歴史の散歩道という道標を見て学校の裏側の公園にあるのかなと思い行ってみるも見つからず、再度道標のところに戻って矢印の方向を振り返ってみると校庭の中に石碑がありました。まさに灯台下暗し。
下城後に、近くにある姫島神社と佃の田蓑神社にお参りしてきました。田蓑神社の境内の<佃漁民ゆかりの地>の石碑と説明板、干支の絵馬を上げておきます。

2016年06月05日 橘若狭守次郎吉
大和田城

大和田小学校の門横のフェンスに案内板があります。大和田城の歴史城跡石碑の移動に関する事が書かれていますが、なんせ読みにくい。
石碑は現在小学校の門を入ったら右手にあります。小学校の敷地内にあるので、学校が休みの日は門越しでしか見れません。正直、見にくいです。

2010年06月13日 こぱんだ左馬助
大和田城

小学校の敷地内にありました。

大和田城の周辺スポット情報

 石碑(碑・説明板)

 住吉神社(寺社・史跡)

 住吉神社(寺社・史跡)

 住吉神社(寺社・史跡)

 姫嶋神社(寺社・史跡)

 正光寺(寺社・史跡)

 乗願寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 大和田中央公園(関連施設)

 大和田北公園(関連施設)

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