山科本願寺(やましなほんがんじ)

山科本願寺の基本情報

通称・別名

本願寺ノ城

所在地

京都府京都市山科区西野阿芸沢町

旧国名

山城国

分類・構造

城郭寺院

天守構造

なし

築城主

蓮如

築城年

文明10年(1478)

主な改修者

不明

主な城主

蓮如、実如、証如

廃城年

天文元年(1532)

遺構

土塁

指定文化財

国史跡(山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

霊山城(京都府京都市)[3.0km]
中尾城(京都府京都市)[4.9km]
大津城(滋賀県大津市)[5.7km]
本能寺(京都府京都市)[5.8km]
伏見城(京都府京都市)[5.8km]

山科本願寺の解説文

山科本願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。

周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。

現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。

概要
文明10年(1478年)から造営され、約6年間で建設されたと言われている。山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点で、当時は山城宇治郡に属する。この地域は東海道から宇治街道へ抜ける分岐点、交通の要所であった。

天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。寺院が城に変化できたのは加賀より城造り人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。山科本願寺の構造は「輪郭式」あるいは「回字式」と言われる近代城郭の縄張であり、この周辺、この時代の戦国大名ならびに国人の居城は山城であるのに対して、山科本願寺は平城で一世紀前に近代城郭の要素を含んでおり、『中世城郭辞典』には「城郭史上、特筆すべき城郭跡といえる」と解説されている。

山科本願寺建立以前
山科本願寺の跡地は20数回の発掘調査が行われているが、山科本願寺時代以前にも数多い遺構・遺物が発掘されており、山科本願寺やその周辺では古来より要所として発展していたようであるが、鎌倉時代以降は急速に遺跡が発見されなくなる。これは何らかの地形の変化があり、四ノ宮川と山科川によって形成された扇状地になり、水田開発が困難になったためとも推察されている。

山科本願寺の戦い
大和で暴挙に及んだ一向一揆が転進してくる、との噂に怯える都では享禄5年(1532年)7月28日、法華一揆が蜂起した。これには熱心な法華信者で、飯盛城の戦いで自害した三好元長の仇討ちという側面もあったと考えられている。法華一揆の蜂起により、細川晴元は直ちに法華一揆衆と手を結んだ。

改元後の同年(天文元年)8月23日には山科本願寺の周囲に布陣し、翌日24日早朝より攻撃を始めた攻囲軍によって、寺町周辺のあちこちを放火され大勢を決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって陥落したのである。その際、17歳の法主・証如は、大叔父・実従(蓮如13男)によって寺宝ともども助け出され、大坂御坊へ辛うじて避難できた。

ただ山科本願寺を焼消させても、この戦いではまだ決着せず、同年9月末に山崎周辺で一向一揆衆と法華一揆衆は再び戦闘状態に突入。この時は一向一揆衆が勝利し付近を放火、京都に攻め入ろうと情勢になったようだが、法華一揆衆が洛中で打ち廻りを行い、10月になってようやく平静に戻った。
...

山科本願寺の口コミ情報

第35代征夷大将軍クララ姫様[2017年02月28日]
本願寺中高の祖、第八代『蓮如上人』御廟所は山科中央公園と現在の本願寺山科別院の中間地点に静かに安置されています。

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