伏見城(ふしみじょう)

伏見城の基本情報

通称・別名

桃山城、指月城、木幡山城

所在地

京都府京都市伏見区桃山町

旧国名

山城国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

型式不明(指月山)[階層不明/1594年築/倒壊(地震)]、望楼型(木幡山)[5重?/1597年築・1601年再/解体]、複合式望楼型[5重6階/1964年築/RC造模擬]

築城主

豊臣秀吉

築城年

文禄元年(1592)

主な改修者

徳川家康

主な城主

豊臣氏、徳川氏

廃城年

元和9年(1623)

遺構

移築門、石垣、堀

指定文化財

再建造物

模擬天守、石碑

周辺の城

向島城(京都府京都市)[1.9km]
槇島城(京都府宇治市)[4.7km]
石原城(京都府京都市)[5.5km]
山科本願寺(京都府京都市)[5.8km]
淀古城(京都府京都市)[6.5km]

伏見城の解説文

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山町周辺にあった城。

概要

伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。

伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設を始めた。このとき築かれたものを指月山伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。

指月山に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月山から北東の約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年に完成した。しかし、秀吉はその2年後の1598年に城内で没した。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院など複数の寺で天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血痕の残る血天井として現在も生々しい血痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない。

焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城淀城福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

沿革
豊臣秀吉隠居屋敷
伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が1591年に関白の位と京都における政庁としての聚楽第を豊臣秀次に譲り太閤の隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は文禄元年(1592年)8月11日に秀吉が平安時代より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月17日に場所を決定し、20日には着工が決められた。次いで8月24日に区画割りが開始され、9月3日には建設が始まるなど、工事は急ピッチで進められた。また、同年12月に秀吉が文禄の役で名護屋城在陣中に利休好みの趣向で造らせるよう指示を出している。

『城と秀吉』によると「伏見城の築城は、はじめから秀吉が豪壮華麗な城として築こうとしていたと考えるのは早計である。当初の計画では、あくまでも隠居として、屋敷構にするつもりだったと思われている」とあるように、当初は城というより邸宅としての性格が強かったと考えられている。隠居屋敷は1593年9月には伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われる。

指月山伏見城時代...

伏見城の口コミ情報

織田修理大夫糀【関ヶ原鑑賞】様[2017年04月16日]
伏見運動公園の駐車場に停めて(模擬天守の裏手)天守を目指す。多くの方がランニングされてました。

元は遊園地のシンボルとして建てられた模擬天守なので歴史的信憑性は薄いかと…
天守内には入れません。

伏見城本丸は現在明治天皇墓陵となっているので当然立入禁止。

伏見城の遺構として広島県福山市・福山城の伏見櫓(重要文化財)があります。

邦順大和守大八郎宗久様[2017年02月16日]
本丸等は御陵なので山林に入る無茶は出来ませんが、御陵内外の森の隙間や崖を観察すると、郭や通路の存在を匂わせる切岸や帯曲輪風の段差、皇太后陵南部では御舟入址に繋がる崖が見えました。

あと模擬天守から北堀公園に向かう途中、堀と通路を隔てるフェンスから茂みを覗くと、土塁の様に見えなくもない盛り上がりが。本当に土塁なのか土地の整備の結果、偶々盛り土になったのか、謎が深まるばかりです。

今回、散策のお供に京都市のpdf(旧伏見城域で検索下さい)や、城郭散策なら伏見城縄張り図で画像を探しダウンロードしました(後日目にした週間日本の城改訂版第3号に縄張り図が載っていて少しショックが)。歩いてみて感じたのは、がっついて城跡探すより、付近をのんびり散策する方が楽しいかな、という事でした。

ソバッソ店長様[2017年01月22日]
城下町情報

坂本龍馬さんが潜伏していた事で有名な寺田屋近くに、黄桜酒造さんの博物館「キザクラカッパカントリー」なる居酒屋?レストラン?があります。

その向かいにある
「富栄堂」さんという和菓子屋さんの酒まんじゅうが美味いです。
酒かすの薫りと、こしあんがマッチして上品な甘みが楽しめます。

駐車場ないんで、僕は店の前に停車しました。が、そこは自己責任で。

殺三千世界鴉⚡️晋作様[2016年06月22日]
(続き)この久茂と竹庵の武功が江戸時代の上林家を決定付けたと言ってもよい。この両家が交互に宇治代官を世襲し、将軍家御用御茶師として江戸まで宇治茶を運んだ。この茶壺道中を歌ったのが「ずいずいずっころばし ごまみそずい・・・」である。

ちなみに、長男久茂と四男竹庵の間には肥後細川家や土佐山内家御用茶師の次男味卜、尾張徳川家や阿波蜂須賀家御用茶師の三男春松という兄弟もいる。
とりわけ春松家は現在も宇治で茶を生業とし、「綾鷹」というブランドでも有名である。

殺三千世界鴉⚡️晋作様[2016年06月22日]
宇治の茶師、上林久重の長男、久茂は信長・秀吉・家康と歴仕する。神君伊賀越えの時は宇治近辺の道案内もした。
一方、四男の政重は若き家康に仕え、元亀2年には三河岡崎城下の土呂郷の奉行となり、三河茶の栽培に着手する。
その後、政重は小牧長久手合戦でも感状を賜るほどの活躍をしたが、やがて家康の元を辞し、宇治に戻り剃髪、竹庵と号す。
その後も家康と連絡を取る仲だったようだが、慶長5年、西軍が伏見城を包囲する中、旧主家康への忠義心からか鳥居元忠に懇願して入城を果たし、城を枕に戦死。
長男の久茂は亡き弟の仇を討つかのように関ヶ原合戦に東軍として従軍して三成家臣を討ち果たす。(続く)

第35代征夷大将軍クララ姫様[2016年01月01日]
京都市が管理している関係でお正月は12/29~1/3は駐車場までオール休館です。

第35代征夷大将軍クララ姫様[2014年12月22日]
平成26年8月30日、京都市伏見区深草大亀谷敦賀町の墨染通沿いに『伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地』の石碑と案内板が設置されました。
我が家から2㎞範囲に黒田如水が亡くなったとされる黒田屋敷があったことに、少し誇りを感じます。

左近衛大将M三郎様[2011年10月16日]
現在ある天守、城門等の建物は、往時と場所も異なり、テーマパークの集客の目玉として建てられた模擬天守のようです。しかし、城門を潜る瞬間から古風な望櫓型の小天守と付櫓を伴い巨大な姿を現す天守は、五重の屋根を優雅に拡げ、360度、見る方向毎に変化ががあり、映画の撮影にも使われた理由が理解されます。また、意匠は、白壁に柱、梁を出したもので、洛中洛外図屏風の二条城天守にも似て、少し塗装が派手ではありますが、往時を偲べ、城好き心を刺激する何かがあります。閉鎖されていて登閣できないのは残念

石田治部少輔三成@雲龍様[2010年07月17日]
昨日、映画『茶々〜天涯の貴妃〜』見てたけど、伏見城がロケ地で、大坂城に見立ててたな和央さんの淀…本格的なヅカです(笑)

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