霊山城(りょうぜんじょう)
霊山城の基本情報
通称・別名
- 東山霊山城、東山御城
所在地
- 京都府京都市東山区清閑寺霊山町
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 足利義輝
築城年
- 天文21年(1552)
主な改修者
- 不明
主な城主
- 足利氏
廃城年
- 天文22年(1553)
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
本能寺(京都府京都市)[3.0km]
山科本願寺(京都府京都市)[3.0km]
二条古城(京都府京都市)[3.4km]
中尾城(京都府京都市)[3.7km]
二条城(京都府京都市)[3.8km]
聚楽第(京都府京都市)[4.4km]
将軍山城(京都府京都市)[4.8km]
小泉城(京都府京都市)[5.3km]
吉祥院城(京都府京都市)[5.3km]
船岡山城(京都府京都市)[5.9km]
霊山城の解説文
[引用元:Wikipedia「霊山城」の項目]
東山霊山城(ひがしやまりょうぜんじょう)、あるいは霊山城(りょうぜんじょう)は、京都府京都市東山区清閑寺霊山町(当時は山城国愛宕郡)の霊山(標高176m)にあった戦国時代の日本の城(山城)。
室町幕府の13代将軍・足利義輝によって築城された。東山霊山城の存在する霊山は、東山三十六峰の一つであり、周辺には京都霊山護国神社や高台寺、清水寺等が位置している。霊山の中腹には正法寺が存在している。
歴史
16世紀には、東山に将軍などの公権力が中尾城や将軍山城のように山城[1]を築くことが多くなり、霊山城もその系譜に属している[2]。霊山城の縄張図は「洛中洛外の城館と集落―城郭研究と首都論―」に掲載されている。
天文17年(1548年)、細川晴元に叛いた三好長慶は、翌天文18年(1549年)に江口の戦いの勝利によって入京を果たし、晴元、将軍・義輝とその父・ 足利義晴らは近江坂本へ退却した。
そこで、義晴・義輝父子は京都奪回を期し、天文19年(1550年)に中尾城、将軍山城を築城・増築した(義晴は5月に死去)。
しかし同年11月、京都に入った三好長慶以下4万の軍勢を前に、義輝方は一戦も交えずに坂本へ撤退し、これらの城は自焼没落あるいは三好方の城割りによって破却された。
その後、義輝方と三好氏の争いが続いたが、天文21年1月に義輝と長慶の間で和睦が成立し、10月27日に霊山城の築城が開始されることとなる。これは、義輝と長慶は手を結んでいたものの、京都奪還を狙う細川晴元らの脅威が存在していたためである。
清水坂の戦い
まさに築城開始から1ヶ月後の11月27日、晴元が西岡に現れ周辺を放火し、嵯峨に着陣した。その際に、三好方の小泉秀清及び中路修理らは不安を感じたのか西院小泉城を自焼して霊山城に合流した。翌28日に霊山城に向けて晴元は進撃した。『言継卿記』天文二十一年十一月廿八日条[3]に
とあるように、晴元は五条坂を焼き払い、建仁寺も炎上したが、清水坂における合戦に勝利できず、晴元方は東山霊山城を攻撃することは出来ずに撤退した。
落城
その後も築城は継続されたが、天文22年(1553年)3月8日、義輝と長慶は再び敵対することとなり、義輝は霊山城に入った。
8月1日、三好勢の攻撃によって落城し、城は火に包まれた(東山霊山城の戦い)。そして、城は廃城となった。
霊山城陥落によって、義輝は5年間にもわたって朽木に幽居した[4]。
遺構
霊山の山頂を中心に東、西、南の三方向に曲輪が展開し、東側に二箇所、南側に一箇所堀切が確認できる。東側の京都一周トレイルから城址に入ることが可能である。正法寺、高台寺、興正寺、清水寺などの周辺寺院の影響によって遺構の少なくない部分が破壊されたと考えられている。なお、西側の曲輪に「春畝伊藤公遺詩碑」(「春畝伊藤公」とは伊藤博文のこと)という石碑がある。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 清水五条駅(京阪本線)
参考文献
- 今谷明『戦国時代の貴族』講談社、2002年。
- 京都大学考古学研究会「東山霊山城について」『第53とれんち』2012年。
- 福島克彦「洛中洛外の城館と集落――城郭研究と首都論――」高橋康夫編『中世のなかの「京都」』新人物往来社、2006年。
- 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 六 京都・兵庫・岡山』P139 - P140、新人物往来社、1989年。
- 長江正一『人物叢書 三好長慶』P120 - P135、吉川弘文館、1968年(新装版、1989年4月)。ISBN 978-4-642-05154-5
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』P169 - P182、洋泉社、2007年。
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』P105 - P108、吉川弘文館、2009年。
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霊山城の口コミ情報
2024年09月17日 土支田大膳大夫
六波羅蜜寺[霊山城 寺社・史跡]
2013年に寺の旧境内にあたる京都市立開晴小・中学校六原学舎(六波羅蜜寺の北隣)で発掘調査が行われ、堀と櫓跡、門跡が出土した。そのため、端的に言ってこの寺は城である。
これら防衛施設が構えられる前の寺は次のようであった。元々、寺のある地点には弥生時代に集落があったが、古墳時代に入ると古墳が築かれた。境内にある阿古屋塚の土台には古墳の石棺の蓋が使われている。
応和3年(963)に空也上人が六波羅蜜寺の前身となる西光寺を建立するが、これより前の寺地は鳥辺野(京都三代葬地の一つ)であり、墓地が広がっていた。寺の北には東西方向に松原通(旧五条通)が通るが、平安時代から六道珍皇寺、清水寺、法観寺(八坂の塔)への参詣道であり、当時の様子が『梁塵秘抄』に記されている。
平安後期に平正盛がこの地に阿弥陀堂を創建する。後にこの阿弥陀堂が「六波羅第」と呼ばれる平家一門の屋敷に発展し、平清盛は六波羅蜜寺の西側、平資盛は寺の南西に屋敷を構えた。後に源頼朝がこの館に入ったときは資盛の屋敷の南側に屋敷を構え、六波羅探題が置かれたときには現在の本町公園付近に北庁、現在耳塚がある辺りに南庁が構えられた。南北朝時代の正平18年/貞治2年(1363)に現在の本堂が修造された。
16世紀中頃、京都では天文法華の乱が勃発していたが、ほとんど同じ頃に六波羅蜜寺は武装したようである。文頭にと書いた通り、平成25年(2013)に寺の北隣にある学校校舎の建設に伴う発掘調査で、堀や物見櫓跡、門跡が出土した。調査地西側からは堀と共に柵や門、物見櫓を組み合わせた虎口が検出されている。この時期の東山一帯は清水寺を始め、八阪神社、建仁寺などの寺社が武装しており、その様子が「洛中洛外図屏風」「清水寺参詣曼荼羅」「祇園社絵図」のよえな絵画資料の他、当時の公家の日記、寺社の記録などに登場する。
この虎口については図を用いた方が説明しやすいが、このアプリの性質や本来霊山城の周辺スポットとして書き込みしている以上、あまり進んで図面を載せられないので文章で全てを説明する。
16世紀中頃の寺の境内の西を限る薬研堀が調査地の北で東に曲がり、曲がった先で堀は一度途切れ、その延長上にある溝と共に土橋を形成する。土橋の上には2つの柵列が検出されており、その柵で道を区画している。この柵列に挟まれた土橋上の道を南に行くと正面で物見櫓に突き当たり道が西へ曲がる。その曲がった先に門があり、門を通り抜けると薬研堀の東肩に突き当たってすぐに南方向へ曲がる。そして、物見櫓と薬研堀の間を通って境内に侵入していくのである。
この虎口の西にはこれら防衛施設が造営される前の西限の溝も出土している。虎口から東へ溝(堀)が伸びている。この東へ伸びる溝が境内の北限と考えられており、検出された溝の中央付近には寺の北門があった。さらに、この北門の東側にももう一つ別の南北溝が検出され、この溝も北限の溝と合流している。また、寺周辺の地形を観察すると、寺の西側にあるグラウンドの辺りは周囲から見て一段高くなっており、地表面的に見える武装の名残のようにも見える。
2020年09月20日 JC遠江守VD
六波羅第[霊山城 周辺城郭]
発掘調査により堀と石垣が検出されたため、周辺城郭として、登録させていただきました。写真は発掘現場の東山区五条橋東4-450ですが、スポットは一般的に六波羅第の中心地とされている、六波羅蜜寺に置かせていただきました。
2020年08月21日 中垣内征夷大将軍瑞賢
霊山城
遊歩道の復旧工事のため、現在将軍山から霊山城へは行けません。
2018年05月13日 ぽこりどん^_^権六
霊山城
坂本龍馬のお墓など行かず、城跡だけの探索なら、東山ドライブウェイを通って、将軍塚の駐車場(無料)から京都周遊トレイル道で向かうのがよろしいかと思います。
主郭部周辺はやや熊笹が繁っていますので、長袖、長ズボンをお勧めします。蚊も出没し始めました。
2017年05月12日 橘若狭守次郎吉
霊山城
霊山の頂上(主郭)を中心に西、東、南に曲輪が広がっています。主郭西側の曲輪には「伊藤博文詩碑」があります。西法寺墓地側より登ってきた場合には、この碑の所から城域です。
主郭東側には2条の堀切と土橋状の道(一騎駆けか?)があります。この堀切が東山霊山城跡で一番の見どころです。そのまま東へ進めば京都トレイル道に出れます。トレイル道には円山公園や将軍塚、清水寺口…から入ることができます。
主郭南側には斜面を曲輪が連なっていて段曲輪になってます。段曲輪の切岸は一部、崩れかけのもありますが、保存状態抜群のもあります。他にも竪堀があるようです。
2014年11月05日 邦順大和守大八郎宗久
霊山城
10月下旬、登頂。
霊山護国神社の墓地からはフェンスや有刺鉄線に阻まれるので、同じく城の西側にある正法寺の墓地より進入、フェンス沿いに斜面をつたい、測量用?の道より登頂した。
山頂には主郭、その東西に郭があり、東側には堀切2ヶ所、最東の堀切には土橋を持つ(元々在ったのか、近年に造成されたのかは不明)。土橋の先は草が繁るが道が続く。
主郭南の緩やかな斜面には郭の様な平地・小傾斜が群を成す。土塁は特に見当たらず、防備は傾斜頼みの古い山城なのだろう。往時は柵や板塀が在ったのかも知れない。
最南端に広めの郭があるそうだが、到達寸前にスズメバチに遭遇、身の安全を考え、遭遇した南の堀切らしき場所より惜しみつつ退避した。
…が、進入した正法寺より出ようとした所、なんと門に閂が掛けられていた(午後4時過ぎ)為、フェンスに巻き付く有刺鉄線が甘い箇所を乗り越え、神社の墓地より脱出、神社で入場料代わりの賽銭と謝罪の祈りを捧げて帰路についた。
神社の墓地には人が来るので、進入及び脱出時に見つかって怪しまれないか不安を覚えた探訪だった。