六波羅蜜寺
六波羅蜜寺([霊山城 寺社・史跡])
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六波羅蜜寺の口コミ情報
2024年09月17日 土支田大膳大夫
2013年に寺の旧境内にあたる京都市立開晴小・中学校六原学舎(六波羅蜜寺の北隣)で発掘調査が行われ、堀と櫓跡、門跡が出土した。そのため、端的に言ってこの寺は城である。
これら防衛施設が構えられる前の寺は次のようであった。元々、寺のある地点には弥生時代に集落があったが、古墳時代に入ると古墳が築かれた。境内にある阿古屋塚の土台には古墳の石棺の蓋が使われている。
応和3年(963)に空也上人が六波羅蜜寺の前身となる西光寺を建立するが、これより前の寺地は鳥辺野(京都三代葬地の一つ)であり、墓地が広がっていた。寺の北には東西方向に松原通(旧五条通)が通るが、平安時代から六道珍皇寺、清水寺、法観寺(八坂の塔)への参詣道であり、当時の様子が『梁塵秘抄』に記されている。
平安後期に平正盛がこの地に阿弥陀堂を創建する。後にこの阿弥陀堂が「六波羅第」と呼ばれる平家一門の屋敷に発展し、平清盛は六波羅蜜寺の西側、平資盛は寺の南西に屋敷を構えた。後に源頼朝がこの館に入ったときは資盛の屋敷の南側に屋敷を構え、六波羅探題が置かれたときには現在の本町公園付近に北庁、現在耳塚がある辺りに南庁が構えられた。南北朝時代の正平18年/貞治2年(1363)に現在の本堂が修造された。
16世紀中頃、京都では天文法華の乱が勃発していたが、ほとんど同じ頃に六波羅蜜寺は武装したようである。文頭にと書いた通り、平成25年(2013)に寺の北隣にある学校校舎の建設に伴う発掘調査で、堀や物見櫓跡、門跡が出土した。調査地西側からは堀と共に柵や門、物見櫓を組み合わせた虎口が検出されている。この時期の東山一帯は清水寺を始め、八阪神社、建仁寺などの寺社が武装しており、その様子が「洛中洛外図屏風」「清水寺参詣曼荼羅」「祇園社絵図」のよえな絵画資料の他、当時の公家の日記、寺社の記録などに登場する。
この虎口については図を用いた方が説明しやすいが、このアプリの性質や本来霊山城の周辺スポットとして書き込みしている以上、あまり進んで図面を載せられないので文章で全てを説明する。
16世紀中頃の寺の境内の西を限る薬研堀が調査地の北で東に曲がり、曲がった先で堀は一度途切れ、その延長上にある溝と共に土橋を形成する。土橋の上には2つの柵列が検出されており、その柵で道を区画している。この柵列に挟まれた土橋上の道を南に行くと正面で物見櫓に突き当たり道が西へ曲がる。その曲がった先に門があり、門を通り抜けると薬研堀の東肩に突き当たってすぐに南方向へ曲がる。そして、物見櫓と薬研堀の間を通って境内に侵入していくのである。
この虎口の西にはこれら防衛施設が造営される前の西限の溝も出土している。虎口から東へ溝(堀)が伸びている。この東へ伸びる溝が境内の北限と考えられており、検出された溝の中央付近には寺の北門があった。さらに、この北門の東側にももう一つ別の南北溝が検出され、この溝も北限の溝と合流している。また、寺周辺の地形を観察すると、寺の西側にあるグラウンドの辺りは周囲から見て一段高くなっており、地表面的に見える武装の名残のようにも見える。