将軍山城(しょうぐんやまじょう)
将軍山城の基本情報
通称・別名
- 勝軍山城、勝軍地蔵山城、瓜生山城、北白川城
所在地
- 京都府京都市左京区北白川清沢口町
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 細川高国
築城年
- 永正17年(1520)
主な改修者
- 内藤彦七、足利義晴、明智光秀
主な城主
- 細川氏、足利氏、明智光秀
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
中尾城(京都府京都市)[1.3km]
宇佐山城(滋賀県大津市)[4.0km]
二条古城(京都府京都市)[4.6km]
霊山城(京都府京都市)[4.8km]
壺笠山城(滋賀県大津市)[4.8km]
延暦寺(滋賀県大津市)[4.9km]
聚楽第(京都府京都市)[5.2km]
船岡山城(京都府京都市)[5.5km]
本能寺(京都府京都市)[5.8km]
二条城(京都府京都市)[5.8km]
将軍山城の解説文
[引用元:Wikipedia「将軍山城」の項目]
将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、京都府京都市左京区北白川清沢口町(山城国愛宕郡)の瓜生山(標高301メートル)にあった戦国時代の日本の城(山城)。別名北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。
概要
将軍山城は瓜生山の山頂を本丸とし、近江より上洛する際の前線基地としての役割をもっていた。『ニ水記』(永正17年(1520年)5月30日条)によると、細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際戦勝を記念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。将軍地蔵は宝暦12年(1762年)に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転されて、信仰の対象とされている。
沿革
この城の初見は永正17年(1520年)である。越水城の合戦で敗れた室町幕府管領細川高国は京都を離れ近江園城寺に逃亡していたが、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、同年5月2日、初めてここに陣を構えた。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れで享禄4年6月6日(1531年7月19日)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取された。
天文15年(1546年)冬になると第12代将軍足利義晴と細川晴元が対立するようになり、義晴自身がこの城を大幅改修した。城に米や普請人夫を徴発したり、太さ五、六寸の竹を命じたことが、様々な史料から確認できる。「当城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有の中世城郭である。幕府は当城の修築のため、洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発したものと思われる」とし、戦国時代の修築方法を古文献で知ることが出来る珍しい城であると解説されている[1]。
修築をした将軍山城であったが、翌天文16年3月30日(1547年4月20日)、義晴は征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城するものの、晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出した。
- この時の状況は舎利寺の戦いも参照。
その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。
将軍地蔵山の戦い
- この時の状況は久米田の戦いも参照。
和泉守護代の松浦氏が幼少であった為、後見として岸和田城に入っていた「鬼十河」と恐れられていた十河一存が永禄4年(1561年)3月18日に死去した。
これに乗じて畠山高政軍は岸和田城を取り囲み、またこれに呼応して、六角義賢も家臣永原重澄に命じ同年7月28日に将軍山城に立て篭もり、義賢自身は神楽岡付近に陣をはり上洛を伺った。この時六角軍は総軍で2万兵であった。
これに対して三好長慶軍は、息子の芥川山城主三好義興ら7千兵で梅津城・郡城へ、信貴山城城主松永久秀7千兵を京西院小泉城へ入城させ、将軍山城と対陣した。
同年7月から11月までは小規模な交戦であったが、11月24日、三好軍は白川口に、松永軍は将軍山城にそれぞれ来襲し挟撃した。三好軍は白川口を突破し、細川軍が陣取っている馬淵に押し寄せての戦闘となった。この時三好軍の将であった三郷修理亮が馬ごと刺され転倒し、そこに堀伊豆守なる人物が襲いかかり首を討ち取った。細川軍の損害も大きく薬師寺氏や柳本氏などが戦死した。
一方、松永軍は永原重澄を討ち取り将軍山城を突破し、いよいよ六角義賢が陣取る神楽岡へ1万兵をもって突撃した。六角軍は三雲三郎に命じて、弓隊300兵をもって、高所より一斉射撃を加えた。松永軍は射撃を受け、多数の死傷者を出し敗走した。
義賢は直ちに追撃戦を展開しようとしたが、蒲生賢秀が大軍を持って追撃することの不可を説き、追撃戦を中止させた。翌永禄5年(1562年)正月に六角軍は三好軍に攻撃し何名かの兵を討ちとった。同年3月5日、久米田の戦いで三好実休が討ち取られるという報が伝わると、三好・松永軍は勝竜寺城まで引き揚げ、13代将軍足利義輝には岩成友通を警護につけ石清水八幡宮へ移した。六角軍は上洛し、「敵方江内通之輩」(『鳩拙抄』)とし、三好長慶軍をかくまう者、宿を提供した者は罪科とし京の人々を威圧した。
- その後の状況については教興寺の戦いを参照。
永禄12年(1569年)1月6日、三好長慶没後の戦乱の結果、京都を追われていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らは、織田信長が擁する15代将軍の足利義昭を京の六条本圀寺に襲撃したが(本圀寺の変)、この二日前の同月4日に三人衆は東福寺近辺に陣を置くと、翌5日に洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断ち、準備を整えた上で6日に将軍らの籠る本圀寺を攻めた。この5日に将軍山城も放火されているため、この時点では有事の際の将軍の詰の城、織田方の詰の城などの役割を果たしていたと推測される。
最後は、元亀元年(1570年)9月から12月まで行われた志賀の陣に際し、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制したが、織田信長の京都支配が確立するとその軍事的意義を失い、廃城になったと見られている。
城郭
この城は、西隣にある東山新城の城郭部分と将軍山城の城郭部分がどの範囲なのか、議論になっている。また幾度も焼失と修築を繰り返しており、当初の東山新城の城郭部分が修築後には将軍山城に組み込まれ一体化したり、東山新城の曲輪の一部では修築の痕跡がなく放置され複雑にしている。遺構の年代別新旧の判断基準は土塁や空堀の構造をあげ、「単なる遮断・防御用」、「防御の土塁・攻撃の土塁」、「攻撃ポイントが確定している」等の視点で一定の評価ができるとしている[2]。これらに基づき、山頂部分の曲輪群について「東側の長大な空堀を設けている。この空堀と主郭との間には数段の削平地があるが、防御的色彩に欠け、居住的な空間と考えられる。また主郭の南方尾根にも数段の削平地が認められるが、土塁も認められず、削平の配置にも規則性に欠け、切岸も甘い。これらのことより、この瓜生山山頂部は時代がやや古いものと考えられ、天文十五~六年の義晴・義輝の普請であろう」としている[3]。
しかし『図説近畿中世城郭事典』では、『図説中世城郭事典』の見方と別の見方をしている。山頂部分の曲輪群について「東側に長大な箱状横堀・坪堀を設け、さらに二本の横堀・馬出機能を果たす小曲輪・土橋・二ヶ所の長枡形虎口と連係した一連の複合防御パーツの配置から、むしろ「強固な防御装置群を構築している」と評価する」とし複雑な曲輪をしており、結論として「連係した防御パーツ群を評価すると、元亀元年の織豊系普請であると判断する」とし、山頂部の居住空間は義晴・義輝時代のままとしながらも、周辺の曲輪群については明智光秀時代に修築された可能性を示唆している[4]。
また瓜生山の南方600メートル、標高212メートルの地点を中心に曲輪群が4つある。このうち3つの曲輪群は東山新城と呼ばれ、若狭国の武田氏が築いたとしているが、1531年(享禄4年)以降の記録には表れてこない。この3つの曲輪群は「瓜生山以前の享禄の城とは考えられない。現存遺構は享禄の東山新城をある時期に大幅改修したものか、東山新城を別のところに求めるかであろう」としている。しかし、この3つの曲輪群の中にも「土橋と大竪堀」による複合パーツ、枡形パーツなどの分析から、織豊系普請の遺構が確認できるとし、東山新城と呼ばれているかなりの部分が明智光秀時代に改修されたとしている。但し部分的な曲輪には足利義輝、六角義賢の改修遺構も存在している。
「現存遺構には時期差が認められ、天文~元亀に登場する北白川城、将軍山城は一定の場所ではなく、京北郊の北白川山地に随時築かれたものだったのであろう」と結論付けられている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 叡山電鉄叡山本線一乗寺駅→狸谷山不動院
- 車でのアクセス
- 阪神高速道路京都線鴨川東出入口→国道24号→京都府道32号→京都府道30号→狸谷山不動院
- 周辺に駐車場無し(狸谷山不動院に礼拝者用の駐車場あり)
- 徒歩でのアクセス
- 狸谷山不動院→徒歩約15分→瓜生山山頂
参考文献
- 『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』平凡社、1979年。ISBN 4582490271
- 『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』P51 - P52、新人物往来社、1980年9月。
- 村田修三編著『図説中世城郭事典 第二巻』P318 - P320、新人物往来社、1987年6月。
- 【書籍】「 城郭における防御パーツ類構築編年の研究 」
- 池田誠「将軍山城」『図説近畿中世城郭事典』P92 - P95、城郭談話会、2004年12月。
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』P136 - P137、洋泉社、2007年4月。
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』P124 - P125、吉川弘文館、2009年7月。
- 『戦国期の城郭』
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将軍山城の口コミ情報
2022年11月20日 別損山城守瓶割公園前派出所
将軍山城
将軍山城、京都トレイル上にあります。前日雨だったので泥岩は滑りやすいですねートレッキングシューズで挑みましょう。登山好きの方に最適です。
2022年09月05日 たまちゃん
将軍山城
狸谷山不動院の250段の階段を登った先から山道です。主郭の社の裏に土塁があります。
2021年12月18日 鳥栖大蔵卿
将軍山城
狸谷山不動院 叡山電鉄の一乗寺駅から徒歩30分あれば辿り着きます。不動院は清水寺と似た景観でお薦めです。階段が250段あり、頑張って登りましょう!
2021年08月18日 HS兵部大輔
将軍山城
阪急烏丸駅から市バス5系統のバスで一乗寺下り松町下車、バス停近くにコンビニがあるのでトイレと食料を調達。そこから狸谷山不動尊を目指して15分ほど歩きます。狸谷山不動尊の1番奥にある登城口からスタート。ハイキングルートにもなっているので10分ほどでお堂と石室のある本丸跡に到着。縄張り図がなかったので勘で歩き回りましたが多くの曲輪があり比較的まだ歩きやすいです。ただ同じような曲輪が多く縄張り図なしでは全く太刀打ちできないので必ず持っていきましょう。帰りはトレイルルートで遠回りして下山しましたが たくさん雨が降った後のせいか ところどころ道が川になっていたり崩れてなくなっていました。
2021年01月14日 ko+
一乗寺山城[将軍山城 周辺城郭]
2020年3月の投稿では、北郭群について書き込みました。
今回、南郭群について追記します。
アクセスは前回の投稿と被ります。曼殊院南比叡山登山口から入山。
最初の分岐では「瓜生山」方向へ、
次の分岐・京都一周トレイル64番では「水飲対陣碑、比叡山」方向へ、
そのまま京都一周トレイルを進み、66番で「てんこ山」方向へ。
道なりに進むと、やがて堀切(写真①)が見えてきます。
その堀切から城域(北郭群)
北郭群の南側に置かれた道(白鳥越え)を南西方向へ進んで行くと、道が大きく北西へ向きを変えます。(写真⑤②)
その辺りから、南郭群となります。
道の南の高まりに取り付けば、そこが南郭群最高所。
さらに南に向かって尾根上に郭群が展開。
南郭群最高所の北には端が櫓台状になる土塁が置かれる(写真③)
展開していく郭群は土塁により仕切られ、また、郭群の西側にも土塁が置かれる(写真④⑥⑧)
土塁と連携して西側には畝状竪堀が置かれる(写真⑦)
まとまった広さを持つ郭を展開する北郭群に対し、南郭群は土塁で仕切られ、西側(京都側)の防備を強固にしています。
尾根を南へ500m進むと織田軍が入ったとされる将軍山城となり、南郭群は朝倉・浅井連合軍の最前線となったと考えられています。
整備されたトレイル道、比較的しっかり残る遺構。
熊や猿等の目撃情報があるエリアですので、それなりの装備の上、下草の少ない季節に是非!
2020年04月14日 美濃守ヒーロー
将軍山城
京都府中世城館跡調査にある縄張図、瓜生山から点在する北白川(勝軍山)の城域を巡ってきました。城域1から城域4まで半端ない広範囲で山中を登ったり降ったりの往復でした。
城域2は京都トレイル上から直接アクセスでき白鳥山の主郭曲輪(北白川出丸)を中心に南東側に伸びる尾根を削平した段の広い曲輪が麓付近まで広がってます。又、西側には山の頂きにある曲輪群と切岸、土塁らしき遺構も有り。
南西側にも段々の曲輪があり、北東側は堀切で遮断し京都トレイルに合流。更にトレイルを進むと谷を挟み山尾根の曲輪群がありますが、自然地形に近く緩やかでした。
城域2から南側にある城域3までの尾根道は比較的平坦で一条の堀切と土橋があります。
城域3は尾根を削平した曲輪が段状に続き、低めの土塁も有りますが、この辺りの尾根の斜面は比較的なだらかで輪郭が分かりづらいです。
城域4は、京都トレイルより道無き尾根に取りつくこと10分ぐらいで到着。一部、倒木や藪など通行困難な場所も有りますが堀切や高い切岸がくっきりと視認できます。
城域1から4は広範囲で各々距離が有り、時代背景が違う城跡かもです。それなりの装備は必要ですが丸一日山の中の散策、徘徊、楽しめます^ ^
リア攻めマップに城域3と城域4−2を追加しときます。アプリにある国土地理院地図と現在位置で自分位置を適度に確認し続ければ迷う事はないと思いますが動物類は注意が必要です。
写真は城域2から4まで土塁、堀切など抜粋して載せておきます。
2020年03月12日 ko+
一乗寺山城[将軍山城 周辺城郭]
先にして頂きました関連城郭登録に便乗させて頂きます。
関連城郭登録ありがとうございます。
曼殊院南登山口から入山します。
暫く東に進みますと、東・比叡山、南・瓜生山の案内が出てきます。
比叡山方向の道で辿り着くはずなのですが、川沿いの道は足元が悪く、特に上流では砂地の上、倒木もあり、途中で道が途絶えてしまいます。
遠回りになりますが、道幅が広く勾配も緩やかな南・瓜生山方向をおすすめします。
やがて、京都一周トレイルコースに合流し、64番から66番まで進みます。
66番からトレイルコースを外れ、北・てんこ山方向へ進むと、直ぐに城域東端の二連続堀切に辿り着きます。(追記:登山口から30分弱)
標高約430mの尾根上に二連続堀切から始まる一乗寺山城は、白鳥越えにより二分される。
城域の北東、主郭と思われる大きな郭の北東に堀切を置き尾根を遮断。
各郭の北西側に折れを伴う土塁、さらに、その外側には帯郭、畝状竪堀群により防備を固める。
写真は城域東端二連続堀切跡、そこに架かる土橋跡、主郭北東堀切跡、土塁跡です。
地元の渡辺氏の築城とされていましたが、最近では朝倉氏・浅井氏が築いた陣城とする見解が有力で、朝倉氏の越前一乗谷城との共通点も指摘されています。
今回、北側郭群だけの訪城となりました。
頼もしい諸先輩方の追加情報をお待ちしています。
どうぞ宜しくお願いします。
2020年03月11日 ko+
修学院雲母坂城[将軍山城 周辺城郭]
修学院離宮東側、比叡山への京都市側の入口、雲母坂登山口から登ります。
深く掘り込んだ山道は平安京と比叡山を結ぶ道として、古くから使われていたと伝わります。
登山口から30分、稜線が緩やかになった辺りから城域に。
西端から切通しに沿って、尖端が折れた長さ70mほどの土塁が置かれる。
土塁は一部、二重になり、その南側斜面には土塁を伴う小郭がある。
東側、最高所が主郭と思われ、石材が散在する。
写真は、山道、土塁、主郭、主郭に散在する石材です。
城の歴史について詳細は不明ですが、浅井・朝倉勢が南側500mの位置にある一乗寺山城の支城として築いた、とも。
比叡山を巡る戦いに幾度と登場する雲母坂。
修学院雲母坂城に残る土塁、そして、細尾根道や深く掘り込んだ山道は一見の価値があると思います。
2019年02月16日 左近衛中将かめかめ
将軍山城
公共交通機関を使用して行きました。一乗寺駅から徒歩25分程で狸谷山不動院にある登城口に着きます。そこから5分程で城域に入ります。城域は大きく分けて4箇所。細かく分けると8箇所あります。時間に余裕をもつことと城郭縄張り図入手して訪城することをおすすめします。また、京都一周トレイルコースが城郭のどの辺りを通っているかを頭に入れていくと、効率良くまわれます。帰りは仕伏町へ抜けるコースを30分程下ると病院近くのバス停に着きます。歴史を考えながら遺構を見てると時間を忘れるくらい楽しいですよ。
2017年06月07日 ソバッソ80.0
将軍山城
狸谷不動院から城域に入れます。
縄張り図ありませんので、事前に準備してから登った方が楽しいです。
僕は事前準備を怠ったため、主郭を見て満足きてしまいましたが、「京都府文化財保護課ホームページ」から縄張り図を引っ張りだすと、4つの城域から形成されているとの事です。
登城に15分
主郭散策に60分
主郭東端の大堀切を超えて、更に東へ進むと次の城域へ辿り着けます。
遺構や見所は先人様の口コミの通りです。全て見て回るとどれくらい時間かかるんかなぁ。
涼しくなったらリベンジしてきます。
ちなみに、楽しいですよ。
2017年05月18日 橘若狭守次郎吉
将軍山城
狸谷不動院のところから登りました。予想以上に縄張りが広くてびっくりしました。北白川出城も含めるともっと広いです。
将軍山城の主な遺構は曲輪、空堀、堀切、竪堀。段曲輪が多く、切岸が高いのが特徴です。主郭の祠の裏には城の名前の由来となった「勝軍地蔵」が安置されてます。
一方、将軍山城の出城の北白川出城の主な遺構は曲輪、堀切、竪堀、一騎駆け。将軍山城よりも新しめの縄張りのように感じました。
将軍山城と北白川出城は土橋で結ばれていました。
2015年06月28日 勝之助若狭守
将軍山城
日本バプテスト病院の駐車場奥から登って行きます。
京都一周トレイルコース上にあるのでルートは分りやすいと思いますが、倒木や岩などが転がっているので注意が必要です。
麓から約30分で山頂にたどり着けます。
将軍山城の周辺スポット情報
北白川城出丸(北城)(周辺城郭)
一乗寺山城(周辺城郭)
修学院雲母坂城(周辺城郭)
宮内少輔城(渡辺氏館)(周辺城郭)
無料駐車場(駐車場)
登り口(その他)