越水城(こしみずじょう)

越水城の基本情報

通称・別名

小清水城

所在地

兵庫県西宮市満池谷町、清水町、桜谷町他

旧国名

摂津国

分類・構造

平山城

天守構造

不明

築城主

瓦林正頼

築城年

永正13年(1516)

主な改修者

主な城主

瓦林正頼、三好長慶、篠原長房

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

西宮砲台(兵庫県西宮市)[2.5km]
瓦林城(兵庫県西宮市)[3.1km]
鷹尾城(兵庫県芦屋市)[4.0km]
小松城(兵庫県西宮市)[4.8km]
富松城(兵庫県尼崎市)[5.9km]
七松城(兵庫県尼崎市)[6.3km]
小浜城(兵庫県宝塚市)[7.2km]
塚口城(兵庫県尼崎市)[7.8km]
平野城(兵庫県神戸市)[8.3km]
尼崎城(兵庫県尼崎市)[8.5km]

越水城の解説文



越水城(こしみずじょう)は摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。

沿革 

瓦林氏と三好氏の争い

永正13年(1516年)に瓦林城主の瓦林正頼が築城した[1]

永正15年(1518年)に管領細川高国を軍事的に支えていた大内義興が京を離れ周防に帰国すると、翌永正16年(1519年)11月に阿波に撤退していた細川澄元と阿波守護代の三好之長が挙兵し(両細川の乱)、瓦林正頼の越水城を落とした[2]。しかし、永正17年(1520年)5月、三好之長が細川高国に討たれると(等持院の戦い)、越水城も瓦林氏に戻ったとみられる。

大永7年(1527年)澄元の子・細川晴元が三好元長と共に上洛すると(桂川原の戦い)、越水城は三好氏に奪われたと考えられる。

享禄5年(1532年)、三好元長が一向一揆に討たれると、天文2年(1533年)9月6日瓦林氏の一族が一向衆と結託して阿波篠原氏の守る越水城を取り返しているが、同23日に三好伊賀守に奪い返された。

三好政権

越水城は、三好氏の本国阿波と畿内とを結ぶ重要な拠点であり、天文8年(1539年)8月には、元長の子、三好長慶が居城としている[3]。天文10年9月、伊丹城の伊丹親興が越水城に攻め寄せたが長慶はこれを撃退している(太平寺の戦い)。

六角義賢の書状

この書状は、天文21年(1552年)5月29日に近江の六角義賢が当時の越水城主三好長慶に送った書状。江口の戦いで長慶によって京を追われた細川晴元は六角義賢の仲介によって和解した。その条件は、晴元は出家し息子の聡明丸(後の細川昭元)に家督を継ぎ、成人するまでは高国の子・細川氏綱に管領職を任せるという内容であった。この書状の内容は、仲介役を果たした義賢が聡明丸の処遇を長慶に相談したものになる。書状の2行目に「越水帰陣」という記載が見受けられる。その書状が届いた後、聡明丸は越水城に移動することになる。

天文22年(1553年)長慶は居城を京に近い芥川山城に移し、越水城には松永久秀を置いた[4]。その後、松永久秀は滝山城を改修し、長慶を招いた。

三好長慶の死後は、芥川山城に入った三好長逸(三好三人衆)と松永久秀が反目し、永禄9年(1566年)2月、東大寺大仏殿の戦いにおいて、松永方の瓦林三河守が越水城主となっていたが、永禄9年(1566年)6月に阿波・讃岐の軍勢を引き連れた三好家の重臣・篠原長房により落城し、その居城となった。この時、足利義栄(後の14代将軍)が9月23日に越水城に入城し、12月5日には摂津富田の総持寺に、同月7日には普門寺に入っている。

篠原長房の拠点

篠原長房は越水城を拠点として摂津、大和など各地に転戦したが、永禄11年(1568年)15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が9月7日に岐阜城を出立、12日に六角義賢の近江観音寺城が陥落(観音寺城の戦い)、25日に大津まで進軍すると長房と三人衆の軍は崩壊、29日に山城勝龍寺城の岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城の細川昭元・三好長逸が退去、10月2日には長房も越水城を放棄し、阿波へ落ち延びた。越水城には足利義昭が入城した。足利義昭がその後帰京して将軍になると、近江の国人和田惟政が守った。

しかし、元亀元年(1570年)9月篠原長房が阿波、讃岐勢2万を率い再び摂津に上陸(野田城福島城の戦い)、瓦林城を落とし、越水城を奪い返した。同年12月、織田信長と篠原長房の間で和議が成立し、長房は阿波へ軍を退いた。

篠原長房は、元亀2年(1571年)9月には、荒木村重、中川清秀、松永久秀と共に和田氏の高槻城(摂津)を包囲している(白井河原の戦い)。しかし元亀4年(1573年)5月、篠原長房は主君三好長治により居城の阿波上桜城を攻撃され、籠城戦の後7月に自害した(上桜城の戦い)。

越水城の廃城

その後、荒木村重が三好氏から越水城を奪ったと推測されるが定かではない。

西宮衆は、越水城のような大きな城があることで幾度も合戦が行われ、土地が荒廃することに嫌気が差していた。西宮衆はかねてより信長に金品を献上しており、越水城を廃城にして欲しいと願い出たのではないかという説もある。

いずれにしても、この後信長の命により越水城、瓦林城は廃城となり、西宮は商業都市としてながらく発展していくことになる。

越水城の戦い 

主な越水城の戦い
勝者 敗者 合戦開始年
第一次 三好之長 瓦林正頼 永正16年(1519年)11月21日 - 永正17年(1520年)2月2日
第二次 瓦林衆と一向衆 篠原某 天文2年(1533年)9月6日
第三次 三好伊賀守 瓦林衆と一向衆 天文2年(1533年)9月23日
第四次 三好長慶 伊丹親興 天文10年(1541年)10月2日
第五次 篠原長房 瓦林三河守 永禄9年(1566年)6月23日 - 7月13日
第六次 篠原長房 瓦林三河守 元亀元年(1570年)9月28日

元亀元年の戦いは越水城ではなく瓦林城ではなかったのかという説もある。

城主 

  • 瓦林正頼:細川高国の家臣。永正13年、越水城を築城した。
  • 三好之長:細川澄元の家臣。永正17年、等持院の戦いに敗れ死去。(第一次)
  • 瓦林正頼:永正17年、高国から謀反の疑いを掛けられ自害。
  • 三好元長:三好之長の孫。享禄5年、細川晴元に裏切られ敗死。
  • 篠原某:三好家の重臣。天文2年9月、瓦林衆と一向衆に城を奪われる。(第二次)
  • 瓦林衆:篠原某から城を奪う。
  • 三好伊賀守:天文2年、瓦林衆と一向衆から城を奪還する。(第三次)
  • 三好長慶:三好元長の子。京を制し三好政権を樹立する。(第四次)
  • 松永久秀:三好家の重臣。滝山城 (摂津国)に移る。
  • 瓦林三河守:松永久秀の家臣。永禄9年、篠原長房に城を落とされる。(第五次)
  • 篠原長房:三好長慶の家臣。三好三人衆を軍事的に支援する。
  • 瓦林三河守:永禄11年、織田信長・足利義昭に味方し城を奪う。
  • 篠原長房:元亀元年、越水城を奪還したが、元亀4年、主君・三好長治に攻められ自害。(第六次)

城郭 

越水城の跡地は、現在のニテコ池の南東、町名によると城山、桜谷町、満池谷町、清水町にまたがり、その範囲は南北200m、東西100mではないかと思われる。

「瓦林正頼記」によると、

  • 土居
  • 矢倉

を備え、小清水の丘に「本城」と「外城」を築城した。外城には息子の六郎四郎春綱や与力、被官を住まわした建物があった。また越水城の南に位置する当時の西宮町とは城下町のような関係にある。

天守の存在

伊丹氏の伊丹城は数多くの戦闘を繰り返してきた城である。天守の初見の一つと考えられている、伊丹城の天守については細川両家記[5]に徴証が見られる。伊丹氏、瓦林氏共細川高国方で地理的にも近く、両名とも文化的関心の高かった武士であることから、城郭を美しくしたと考えられている。「越水城にも天守閣があがっていたのではないか」と指摘されている[6]

また関西学院大学の永島福太郎名誉教授によると「伊丹城に天守閣があったのなら、越水城にもあったといえようし、むしろ日本の最古の天守閣の初見は越水城といえそうである」としており、越水古図の北側には天守台らしきものが確認できる。

これらのことにより瓦林正頼は当時としては大規模な城郭を築いたのではないかと考えられている。

越水井戸 

越水という名前は、小清水のあて字である。この地域には昔から良質の水が湧き出ていた。平安時代より西国街道を旅する人の喉をうるおしてきた。

越水の名前の言われは、この越水井戸からきている。1箇所はマンション建設の為埋められてしまったが(中所)、他の2箇所(西所、東所)は現存する。

現在、越水城跡地には住宅地、学校、公園が建設されており遺構が確認できないが、西宮市遺跡分布図によると越水城跡にこの「越水井戸」が含まれる為、越水城の井戸ではなかったかと言われている。

なお、この「越水井戸」は阪神大震災で被害を受けた人々の重要な水資源になり、周辺の苦しむ人々を助けた。

越水山遺跡 

越水城が築城されたと言われている場所に、越水山という比高24mの小丘陵がある。この一帯は昭和30年(1955年)までは石積み遺構や曲輪が残っていたようであるが、昭和30年以降急速な宅地化が進んで越水城の遺構も消滅してしまい十分な発掘調査ができない状態になってしまった。しかしそのような状況の中、西宮市教育委員会は何度か発掘調査を実施した。

第三次発掘調査までは越水城の遺構、遺物らしきものは確認されなかったが、弥生時代から古墳時代の竪穴式住居や土器が数多く出土し、越水山遺跡とも言われている。

その後大社小学校の改築工事に伴う第四次発掘調査で、東西、南北溝2条と、ある程度の規模を想像される瓦が検出された。これにより直ちに越水城のものであると断定できないが、越水山遺跡では中世期以降の遺構、遺物は第四次発掘調査が初見である。なお第四次発掘調査でも弥生土器が出土している。

主な越水山遺跡発掘調査
回数 調査開始日 越水城の遺構 越水城の遺物
第一次発掘調査 昭和52年(1977年)7月16日 確認されず 検出されず
第二次発掘調査 昭和55年(1979年)7月21日 確認されず 検出されず
第三次発掘調査 昭和62年(1987年)4月15日 確認されず 検出されず
第四次発掘調査 平成3年(1991年)8月5日 掘削、溝2条 丸瓦、瓦器羽釜

現在も正確な位置が特定できない越水城だが、竪穴式住居の上に越水城が築城され、現在は宅地化されている。

城跡へのアクセス 

  • 車でのアクセス
    • 阪神高速道路 神戸線 武庫川出口 → 国道43号 → 国道171号
    • 近隣に駐車場は無し
  • 電車でのアクセス
    • 阪急電車神戸線 夙川駅 → 徒歩15分

参考文献 

  • 『西宮市史(第二巻)』
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典(六)』(新人物往来社、1989年)
  • 西宮市教育委員会編『越水山遺跡発掘調査報告書』(1990年3月)
  • 西宮市教育委員会編『越水山遺跡発掘調査報告書Ⅱ』(1992年3月)
  • 都道府県教育委員会『近畿地方の中世城館 4 兵庫・和歌山』(東洋書林、2003年4月)
  • 山下忠雄『町名の話-西宮の歴史と文化-』(西宮商工会議所、2003年5月)
  • 西宮市郷土資料館編『新西宮歴史散歩』(西宮教育委員会、2003年9月)
  • 【書籍】「戦国期畿内の流通構造と畿内政権」
  • 滋賀県立安土城考古博物館『信長と安土城』(2008年1月)
  • 若松和三郎『中世武士選書シリーズ17 戦国三好氏と篠原長房』(戒光祥出版、2013年10月) ISBN 978-4-86403-086-1

越水城の口コミ情報

2022年03月06日 尼崎城淡路守一口城主
越水城



尼崎から自転車🚲で登城。住宅街の中にある小学校🏫の東南角に石碑と説明板がありました。訪れてみて起伏に富んだ地形に築城しているように感じました。地形を巧みに利用していると思うので高低差好きの日本坂道学会副会長のタモリさんにいつかブラタモリで検証して欲しいです❗️小学校近くに城山町というバス停🚏がありお城の名残が残っているように感じました。

2021年07月27日 萌魏大納言叡声
越水城

阪急夙川と西宮北口の間の小高い丘に越水城碑があります。今は、大社小学校と住宅地に覆われて、昔日の戦乱にて係争の地であったことを示す遺構はありませんが、京都と西国を結ぶ要地にあることは、地形から偲ぶことができます。

2021年03月21日 副島摂津守信之
越水城



坂をゆるゆると登った上の学校の側に石碑があります

2020年12月10日 杉ちゃん淡路守
越水城

今谷明「戦国三好一族」に記載されていた、昭和10年石割氏による城郭図から推定しながら歩いてみると現在のニテコ池が堀跡で奥畑の塞神社あたりが一番の高台でいわゆる主郭だったのではないかと思います。まわりは高級マンションと高級邸宅ばかりで高低差以外に往時をうかがうものはありません。高低差を実感するなら夙川駅かさくら夙川駅から北に上がったあとで苦楽園口から帰る(あるいはその逆)ルートをお薦めします。

2020年10月20日 百済門徒衆修理大夫とら
コインパーキング[越水城  駐車場]

城址前は道も狭く駐車スペースはありません。

2020年03月01日 天道民部卿早雲
コインパーキング[越水城  駐車場]



昼間
40分200円
最大800円
コインパーキングスペースは4台のみ
ここから徒歩で越水城跡石碑と2つの井戸をめぐって最短で20分ほどです。
前の道は一方通行でご利用のさいは住宅街の細い道を迂回することになりますので、お気をつけ下さい。


2020年03月01日 天道民部卿早雲
越水井戸(東所)[越水城  その他]



清水が豊富な土地だったらしいです。
残っている2つの井戸の一つ
東所(ひがしんしょ)
今でも水が枯れておらず、阪神大震災のとき白く濁ったが洗濯・掃除などに大いに役立ったらしいです。
車でお越しのかたはほぼ進入できませんので、近くのコインパーキングなどを利用して下さい。

2020年03月01日 天道民部卿早雲
越水の井戸[越水城  その他]



越水(こしみず)の由来の清水が湧く井戸 西所(にしんしょ)

2017年03月28日 明石根室守則実
越水城

城の遺構としては伝井戸跡くらいしか残っていませんが、ブラタモリ風に城跡を見ていと興味深いです。

まず阪急電車沿線側が大手で、現在の171号線が実は大手道にあたります。
ちょうどその付近に城ケ堀町という地名も残っていますので、城域の広さから考察すると相当堅固な堀と土塁に囲まれていたと考えられます。
そこから北に向かって緩やかに傾斜になっており、その丘の頂点は城山と呼ばれています。なので、越水城は丘城もしくは平山城だとわかります。

逆に搦手は天然の地形を生かした造りとなっており、北西側は満池谷の湿地帯で守られ、北東の廣田神社側はかなりの断崖となっており、現在でも急傾斜の道路や地形が残ります。これは近くを流れる御手洗川の河岸段丘だと思われます。

城山を頂点としたかなりの規模であり、西国街道を扼し、海にも近い。当時の文献にもいかに重要な城だったかが伺い知れます。おそらく付近の町家なども取り込んだ総構えの構造を持った城だったのかも知れません。

2017年03月27日 柴崎中納言幸助
越水城

石碑及び説明板は、学校敷地の南東隅に有ります。阪急夙川駅から徒歩で20分余りで、最後は緩やかな登りです。

越水城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 真光寺(寺社・史跡)

 西次神社(寺社・史跡)

 海清寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 コインパーキング(駐車場)

 コインパーキング(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 越水の井戸(その他)

 越水井戸(東所)(その他)

 城々堀公園(その他)

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