高槻城(たかつきじょう)
高槻城の基本情報
通称・別名
- 久米路山龍ヶ城、入江城
所在地
- 大阪府高槻市城内町、大手町他
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 型式不明[3重天守/築年不明/破却]
築城主
- 近藤忠範
築城年
- 10世紀末
主な改修者
- 和田惟政、土岐定義
主な城主
- 入江氏、和田氏、高山氏、内藤氏、永井氏
廃城年
- 明治7年(1874)
遺構
- 堀、移築門
指定文化財
- 府史跡(高槻城跡)
再建造物
- 模擬石垣、模擬天守台、石碑、説明板
周辺の城
-
芥川城(大阪府高槻市)[1.6km]
普門寺城(大阪府高槻市)[3.0km]
枚方城(大阪府枚方市)[4.4km]
目垣城(大阪府茨木市)[4.9km]
茨木城(大阪府茨木市)[5.1km]
安威城(大阪府茨木市)[5.2km]
芥川山城(大阪府高槻市)[5.2km]
郡山城(大阪府茨木市)[6.4km]
楠葉台場(大阪府枚方市)[6.6km]
黒丸城(大阪府摂津市)[7.7km]
高槻城の解説文
[引用元:Wikipedia「高槻城」の項目]
高槻城(たかつきじょう)は、摂津国島上郡[1]高槻村(現・大阪府高槻市城内町)にあった日本の城(明治7年(1874年)まで存在)。入江城(いりえじょう)とも呼ばれる。大阪府指定史跡[2]。
概要
室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。
明治7年(1874年)に廃城となり、東海道本線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。
沿革
10世紀の末、990年に近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが高槻城の始まりと言われているが確証はない。高槻城の文献上の初見は、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野元清に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。
その後、芥川山城に三好長慶が入城した天文22年(1553年)には高槻城は支城となっていたようで、入江春継が城主となっていた。長慶が永禄7年(1564年)に亡くなると、三好三人衆の1人三好長逸がこの地域一帯をおさめていたが、織田信長が摂津に侵攻、永禄11年(1568年)9月28日に芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城に近い形で降伏した。
永禄12年(1569年)1月、本圀寺の変で15代将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する時に、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し、自害して滅んでしまったようである。この時逆に活躍したのが芥川山城主であった和田惟政で、信長より高槻城も与えられ高槻城を本城とした。この時から高槻城は近代城郭として大きく様変わりしていく。
キリスト教の最大の理解者であったのは、和田惟政の死後1573年に惟政の子惟長と格闘した結果惟長が城を出たことにより城主となる高山父子[3]であるが、和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動を活発にしていたようである。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585年)に船上城へ転封、高槻城は秀吉の直轄領となり城主となったが、同年末には亀山城へ移っていた。高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが関ヶ原の戦い後、今度は徳川氏の直轄地となる。徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。
元和元年(1615年)6月に内藤信正が城主に、元和3年(1617年)に土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修した。ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となる。
永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注いだ。その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至る。本丸にあった三重の天守は焼失したとの記録がないため、幕末まで存在した可能性がある。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により廃城。明治7年(1874年)には破却が始まり、向日町駅 - 大阪駅間の鉄道敷設用材として石垣などが利用された。
明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯した。昭和22年(1947年)に高槻市立第一中学校、昭和26年(1951年)に大阪府立島上高等学校(現・大阪府立槻の木高等学校)が設置された。本丸跡にあたる槻の木高校内には高槻城跡の石碑が建てられている。
規模
高槻城は主に4度の大規模な改修が実施されたと思われる。
高槻城改修の歴史 回数 年代 改修者 主な特徴 第1次改修 永禄年間
(1558年 - 1570年)和田氏 一重の堀を巡らしたものではないかと推定される 第2次改修 天正年間
(1573年 - 1592年)高山氏 二重の堀を巡らしたものではないかと推定される 第3次改修 元和年間
(1615年 - 1624年)土岐氏 近代城郭が完成、三重の堀を巡らし、本丸、二の丸、三の丸、出丸が確認できる 第4次改修 寛永年間
(1624年 - 1644年)岡部氏 更に西側に堀を巡らし、西国街道に近い北側に城下町を整備したと思われる 最終的な高槻城の規模は、約南北に630m×東西に600mが推定される。
曲輪群
- 内曲輪
- 本丸
- 天守(三重天守)、門、櫓
- 二の丸
- 御殿、門、櫓
- 厩曲輪
- 弁財天曲輪
- 外曲輪
- 三の丸
- 櫓、門
- 帯曲輪
- 出丸
遺構
堀の一部が残るが、開発が進み多くの遺構は失われた。建造物としては、城内の建造物を移築したものとして、城下寺町の本行寺門および永井神社唐門が現存する。また、田部にある民家の蔵が、城内の建造物を移築したものであるとの伝承がある。
高槻城・尼崎城・明石城
大坂冬の陣、大坂夏の陣で豊臣勢力を駆逐した徳川家康は一国一城令を布告し、畿内でも茨木城、三木城等多くの城が廃城となった。逆に西国を抑える目的で、東播から摂津の地域では拠点となる城を近代城郭へ整備している。
これらの城は譜代大名が単独で実施した事業ではなく、公儀修築で全面的に城を築きなおしたと思われている。特に高槻城、尼崎城、明石城に関しては築城、修築時期が近く、城郭規模、工期など極めて似通っている点から同一人物による計画であった可能性が考えられている。
修築経過表 城名 城主 普請奉行派遣時期 普請時期 作事時期 高槻城 土岐定義 元和3年(1617年)12月 元和3年(1617年)12月 - 翌年中頃 元和4年(1618年)中頃 - 翌年初頃 尼崎城 戸田氏鉄 元和3年(1617年)10月 元和4年(1618年)1月 - 同年中頃 元和4年(1618年)中頃 - 翌年中頃 明石城 小笠原忠真 元和4年(1618年)10月 元和5年(1619年)2月 - 翌年中頃 元和5年(1619年)中頃 - 翌年初頃 史料的に高槻城と藤堂高虎の関係を明示したものは無い。しかし、その後実施される大坂城は藤堂高虎が修築したので、これら3城も藤堂高虎の手によって修築計画が立案されたのではないかと考えられている。
海外の文献に記録される高槻城
江戸時代に日本を欧州に初めて体系的に紹介したオランダ商館長エンゲルベルト・ケンペルは、1691年2月28日、長崎から江戸に行く途中、大阪から守口、枚方、橋本、淀、京都の順に旅をし、昼食をとった枚方から高槻を望み、そこに「左側のほうに、地元の君主の白い城が大変美しく際立って見えた」と記録している[4]。
地名など
かつて城域であった一部が現在「城内町」という地名になっており、そこに設置された郵便局は「高槻城内郵便局[5]」という局名がついている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 高槻駅(JR京都線) - 徒歩約10分
- 高槻市駅(阪急京都本線) - 徒歩約10分
- 車でのアクセス
- 名神高速道路・新名神高速道路高槻IC
- 近隣に駐車場
参考文献
- 『摂津高槻城-本丸跡発掘調査報告書-』 高槻市教育委員会、1984年3月。
- 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
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高槻城の口コミ情報
2023年02月07日 ぷうこ左衛門督
高槻城
近くに高槻市立しろあと歴史館があって、駐車場完備(8台)です。歴史館には湿地にどのようにお城を建てたかがわかる展示や高山右近の歴史などが展示されています。
2022年11月12日 小太郎大膳大夫南海道17國守
高槻城
まずは高槻市立しろあと歴史館に立ち寄り、高槻城の復元模型を見学後、近くの高槻城跡公園を散策しました。今も高山右近の銅像が、見守ってくれています。訪問日令和4年11月11日。
2022年08月07日 ひるちん大宰大弐
高槻城
住宅街の中の、のどかな場所でした。これから公園を整備するようです。
2022年06月23日 ファン掃部助トム治郎
高槻城
高槻駅ー芥川城ー高槻城。芥川沿いにあるいて南下しました。1時間くらい。高槻城址公園建設中です。
2021年10月20日 ゆもな
高槻城
公園なので気軽に散策出来ます。犬連れでも。高槻市駅から徒歩8分ほどです。高槻駅からは15分かな。
2021年02月21日 ラッキーマン筑前守
高槻城
公園としてきれいに整備されていました。ちびっ子が遊ぶ広場や池もあり植木なども手入れされています。お散歩やペット連れも多かったです。ハトもたくさんいました。
2020年11月23日 美濃守レスタト
高槻城
高槻市立しろあと歴史館では高槻市の様々な資料が勉強できます。しかも無料。高槻城跡公園には高山右近の銅像もあります。
2020年11月16日 かたつ蔵人頭
高槻城
阪急高槻市駅から歩いて10分程度で着きます。
付近のカトリック教会には高山右近の大理石像があります。
2020年09月27日 織田上総介晃司
高槻城
城跡公園には駐車場はありません。近くのコインパーキングを探して停めるようになります。
公園にある石垣と水堀は模擬品なのであまり長居せず遺構探しをしてました。
以前高槻城の障子堀が発見されたみたいですが、あれは現在工事中の場所なんでしょうか?
そして日の目を見るのでしょうか?それとも埋め戻されるのでしょうか?
2020年09月21日 おちょりんご兵庫允
高槻城
2020年9月30日より御城印及び三好長慶と松永久秀の武将印が販売されます☆しろあと歴史館にて(月曜日は休館日です)
2019年06月23日 長月河内守十六夜
高槻城
城跡公園にはほぼ遺構は残っていない。城郭内には高校や中学校などが建てられている。
しかし、歩いてみるとやはり城下町の雰囲気はあり、散策は楽しめた。
立派な旧家や、曲がり角だらけの道がツボ。
2018年02月15日 おにくまん
高槻城
高槻は、河内国ではなく、摂津国では?ちなみに摂津国には他にも大阪城と尼崎城があります。
2018年02月14日 勘解由次官ささき
高槻城
河内で唯一一国一城令で残ったお城です。元は高山右近のお城でしたが大坂夏の陣の後土岐氏が城主となると完全な近代城郭として生まれ変わった。本丸には3重天守を建てたが廃城令で破却された。現在本丸には槻の木高校が建っており高槻しろあと公園は当時二の丸だった跡地を公園として整備したものである。遺構は少ないものの天守台や石垣が模擬復元されてます。一様高山右近さんの像もあります。近くにはしろあと歴史館もあり高槻城復元模型などが置かれてます。
2017年06月05日 橘若狭守次郎吉
高槻城
『高槻城移築建造物一覧』
①高槻市大手町2-43(本行寺) 高麗門 説明板
②高槻市下田部町1-30-16 衣装櫓
(注)
ネット上に野見神社(永井神社)の唐門が高槻城の移築門だという情報がありますが、誤りです。
実際には嘉永元年に永井直輝が初代永井直清の「高槻城入城200年」を記念して、社殿を修復した時に併せて造立したのが唐門です。
正しくは「移築門」ではなくて「江戸期から三之丸の野見神社にあった門」となります。
2017年05月14日 ねこ刑部丞すずめ
高槻城
城跡公園のすぐ近くに、高槻市しろあと歴史館があります。とてもきれいな館内に加え、入館料が無料とは思えないぐらい、展示物は充実しています。せっかく来たら、立ち寄ってみては如何でしょうか。芥川城についても触れられています。しかも、特別展示物は、一定期間毎に換わるようです。正直、高槻市の方は羨ましいですね。
2016年08月08日 課長大和守Ver.B
高槻城
高槻城跡より北へ車で30分、高槻カントリークラブというゴルフ場入口付近に高槻城を模した建造物と高山右近像が建っています。
ゴルフ場の敷地内ですので一声掛けてからの見学が無難でしょう。
入口より駐車場へ向かう坂道脇の細長い敷地に三層の模擬櫓(天守?)と土塀・冠木門・東屋風の資料館がありますが、全て閉じられていた為中がどうなのかは不明です。
しっかりと「高槻城」と記された碑も有り公園化されている城跡よりある意味お城感はあるかもしれません(笑)。
2012年03月25日 加賀美 摂津守遠光
高槻城
高槻城横にお城博物館が有り、高槻城、城主永井氏の展示等してますので是非
2010年07月26日 徳川内大臣源朝臣康武
高槻城
[武将像]高山右近像
城跡に高岡城モデルと同じ立像、近くの教会に膝立ち像が鎮座。
また、大坂城近くの大阪カテドラル聖マリア大聖堂にも立像があり、共に細川ガラシャ像も立ち。