枚方城(ひらかたじょう)
枚方城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府枚方市上之町9(推定地)
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 本多氏
築城年
- 室町時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 本多氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
交野城(大阪府交野市)[3.8km]
高槻城(大阪府高槻市)[4.4km]
目垣城(大阪府茨木市)[4.8km]
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芥川城(大阪府高槻市)[5.9km]
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津田城(大阪府枚方市)[6.6km]
茨木城(大阪府茨木市)[6.8km]
岡山城(大阪府四條畷市)[7.0km]
楠葉台場(大阪府枚方市)[8.1km]
枚方城の口コミ情報
2023年06月25日 救援無用の丁稚主膳佑熊太郎
枚方城
枚方城跡とされている枚方小付近は遺構がない。しかし、3方向を急峻な崖で護られ枚方小学校は天然要害である。というか、小学生が登校するの大変です。写真の1枚目は枚小の東南側で黄色い車止めの向こうがいきなり崖になっていて坊主池公園となっている。2枚目は枚小の西南側でやはり急峻な崖で崖下は今は墓場になっている。枚小屋上から北西方面に淀川水運が見渡せる。お茶屋御殿は離れなのであるから意賀美神社近くの小さな丘の上で然るべき。
一方、城下町とも言える枚方宿は浄土宗の寺院の寺内町として発達していたが今は五六市(東海道五十三次が京都で終わりその後、大阪に向けて56番目の宿場町ということ)として月に一度街道筋に屋台が出てマルシェ風に賑わっている。
豆知識というか、今の枚方公園駅はもともと枚方市駅であった。現行の新枚方市駅が出来て駅名が枚方公園駅に変更された。そして、この辺りのひらパーも今や現存営業する日本最古の遊園地であるが、元々は近くの香里園にあったのが移転してきた。その跡地は今は成田山不動尊が鎮座している。
平安期には山城から加茂一族が走谷付近に移り住み河内一ノ宮として賀茂神社が栄えていたそうですよ。
枚方が今のベッドタウンとして発展する前は、伊勢物語にも出てくる禁野として狩場だったり、昭和まで陸軍の広大な敷地だったり何げにいろいろ面白い地域です。
2023年04月03日 青き巨星弾正少弼かみ
枚方城
車で行かれる方、付近に駐車場はありませんし、道は離合困難です。少し離れた駐車場に車を置いて、歩いて行かれる事をおすすめします。
2022年12月01日 鈴木剛
鷹塚山遺跡説明板[枚方城 碑・説明板]
弥生時代後期からこの辺りに集落があったそうで環濠が掘られていたようです。それが枚方城の元となったのでしょうか?
2022年07月14日 尼崎城駿河守一口城主
枚方城
6月18日、京阪枚方市駅から歩いて登城。Gマップを見ながら万年寺山周道を上がって行き、坊主池公園の横を進軍して城跡に辿り着きました。しかしながら城跡は小学校だったため帰路に意賀美神社にお参りしてきました。神社近くの御茶屋御殿跡展望広場にも立ち寄ってみました。御茶屋御殿跡の説明書きを読むと寛永3年(1626)に三代将軍家光公が逗留したと書いていました。広場内には万年寺山遺跡1号石棺もありました。
2022年05月17日 いのちゃん刑部卿吉法師
枚方城
枚方城の跡地は現在小学校となっており、お城の面影はほとんどありません。しかし高台にあった事は想像出来ます。大阪城の外堀的役割であったのでしょう。
2021年03月30日 ファン掃部助トム治郎
枚方城
先人様が話されるように小学校が跡地になっている枚方城よりも北にあるいてお茶屋御殿のほうが見ごたえはあります。御殿から駅方面に下る階段がありよい散歩です。
2021年01月11日 tectec675侍従
渚陣屋[枚方城 周辺城郭]
真木城とも呼ばれています。永井直勝の孫 尚庸がつくったと言われています。遺構は無くなっていました。
2019年04月23日 河内守ささき
御茶屋御殿[枚方城 周辺城郭]
観光案内板より
京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。
江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。この広場は平成17年度に枚方市がNTTから土地を借用し、枚方信用金庫から寄付を受け阿妻屋風休憩所を設け茶屋御殿展望広場として整備した。
2018年02月14日 勘解由次官ささき
枚方城
遺構もなく石碑や説明板もありません。構造が平山城だったことから城跡推定値とされてる枚方小学校は丘の上にあります。付近にある御茶屋御殿跡は豊臣秀吉が枚方城主本多政康の娘乙御前のために建てられた御殿跡です。現在は公園として整備され公園から見る枚方と高槻の街並みはなかなか綺麗です。
2016年12月25日 ねこ式部丞すずめ
枚方城
城めぐりのナビで案内されたところは、枚方小学校で遺構も何もありません。そこから歩いて5分ぐらいのところにある、御茶屋御殿跡はロケーションもよく、ホッと出来ます。