岡山城(おかやまじょう)
岡山城の基本情報
通称・別名
- 御勝山
所在地
- 大阪府四條畷市岡山2-7-12
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 平山城(古墳利用)
天守構造
- -
築城主
- 三好長慶
築城年
- 永禄3年(1560)頃
主な改修者
- -
主な城主
- 三好氏、結城ジョアン、徳川家康、徳川秀忠
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
飯盛城(大阪府大東市)[2.5km]
野崎城(大阪府大東市)[3.0km]
三箇城(大阪府大東市)[3.1km]
古橋城(大阪府門真市)[4.1km]
田原城(大阪府四條畷市)[5.7km]
交野城(大阪府交野市)[6.0km]
北田原城(奈良県生駒市)[6.0km]
黒丸城(大阪府摂津市)[6.1km]
守口城(大阪府守口市)[6.9km]
枚方城(大阪府枚方市)[7.0km]
岡山城の解説文
[引用元:Wikipedia「岡山城」の項目]
忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)は、大阪府四條畷市岡山にある神社。式内社で、旧社格は村社。神社名は、附近にある忍ケ丘駅の駅名の由来となっている。「にんりょうじんじゃ」と読まれることもある。
忍岡古墳の墳丘上にあり、戦国時代に岡山城が築かれた地と伝えられる。
祭神
藤原鎌足を主祭神とし、熊野大神・品陀和氣命・馬守大神・大将軍神を配祀する。
歴史
忍陵神社は、明治44年、津桙神社に近隣の2社を合祀し改称したものである。津桙神社の元の祭神は藤原鎌足・品陀和氣命・熊野大神であった。
津桙神社は、創建の年代は不詳であるが、元は当地の古代豪族・津桙氏が祖神を祀っていたものが、後に応神天皇を氏神とされるようになったものとみられる。江戸時代までは新宮大権現と称し、天武天皇の時代に役行者が開基したとの伝承もある。平安時代に熊野信仰がさかんになると、熊野大神が合祀された。元の鎮座地は現在地より南、岡山村坪井の通称・赤山であったが、江戸時代に現在地に遷座し、当地にあった鎌足社(祭神 藤原鎌足)を合祀した。明治5年(1872年)に旧岡山村の村社に列格した。明治44年に以下の2社を合祀した。
- 旧砂村の村社・馬守神社(祭神 馬守大神)
- 旧砂村の無格社・大将軍社(祭神 大将軍神)
境内
忍岡古墳
昭和9年(1934年)、室戸台風により社殿が倒壊した。その修復作業中に前方後円墳の竪穴式石室が発見され、「忍岡古墳」と名附けられた。昭和47年(1972年)3月31日、忍岡古墳の石室が大阪府指定文化財に指定された。
忍岡古墳は全長87mの前方後円墳で、4世紀中ごろの古墳時代に作られたものである。
岡山城
岡山城は、三好長慶が飯盛山城を居城とした永禄3年(1560年)頃に飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城として伝えられている。永禄、天正年間には当時の城主である結城氏が熱心なキリシタンで、キリシタン信仰の拠点となる。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方の本陣として同地が使われ、勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになるが、当時の遺構は殆ど破壊されており 今では名残を見る事は出来ない。
交通アクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)学研都市線「忍ケ丘駅」
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岡山城の口コミ情報
2024年09月05日 源山城守@ポンコ2…
岡山城
JR忍ヶ丘駅を西に出て、関西みらい銀行横の車が通れない生活道を西に歩いて5分ほどで城址推定地の忍陵神社に着きました。車だと、神社隣の自治会館近くに駐車できるようで、登城した際にはそこにタクシー2台が休憩されてました。
神社は丘陵の西端に位置し南や西側はわりかし鋭い断崖になっており、南東の飯盛城の支城として江戸時代まで南西に広がっていた深野池(ふこのいけ、4世紀まで存在した河内湖が縮小した大きな池)や近くの東高野街道の監視などを担っていたようです。この神社南側の一段下に帯曲輪のような削平地がありますが、遺構かどうか不明です。明確な遺構は見つけられませんでしたが、地形や立地が城址を物語っているようでした。
神社境内の社殿隣に覆屋があり、格子を除くと竪穴式石室が見え、ここが前方後円墳の後円墳が明らかになり、恐らく神社北東に続く行者堂や大正寺のある丘陵が前方墳なんかな、見張りとしてならこちらに土塁や堀切など不要なんかなと藪蚊に刺されながら思いつつ散策しました。
徳川秀忠は大阪冬の陣で大阪市生野区の前方後円墳の岡山砦に陣を、また夏の陣ではここ岡山城と、古墳と地名岡山のつながりは偶然なんでしょうか。。
以上、第二十八弾スタンプラリーと異なる大阪府の岡山城からでした。
2022年08月05日 尼崎城駿河守一口城主
岡山城
6月30日、四條畷神社をお参り後、岡山城を目指して進軍すると忍陵(しのぶがおか)神社に辿り着きました。
境内を散策していると大阪夏の陣のときに徳川秀忠公が本陣をしいた場所だということがわかりました。当日は真田丸や生野区の岡山砦もリア攻めしてから四條畷の岡山城にママチャリ🚲で向かったので、大阪城を攻めるにあたって本陣にする場所にするには私の体感的にはちょっと遠いような気がしたのですが🧐、作戦・戦略的な意図があったのだろうと感じました。
当地ですが、古墳時代前期(4世紀ごろ)は忍岡古墳という前方後円墳だったようです。
下城後、三箇城を目指しました。
2021年04月27日 天下勘解由長官龍昇
岡山城
忍ヶ丘駅から西へ200mほどでしょうか?小高い丘にあります。かつての忍岡古墳が忍ヶ丘神社になっています。狭い道を登れば神社専用の駐車場もあるようです。私は日の出食堂の向かいのコインパーキングに停めました。城の遺構はほぼ残ってないのですが、神社から南を見下ろすとなんとなく3段の曲輪?が想像できます。墳墓石室も確認できます。古墳好きの方も城好きの方も共に楽しめます。
2016年08月28日 ねこ式部丞すずめ
岡山城
健康の為に、三箇城から頑張って歩いて行きました。45分ぐらいかかったでしょうか?
四條畷駅の近くで、楠正行公のお墓に寄りました。樹齢550年の楠の巨木は見応えありました。
岡山城から忍ヶ丘駅までは、5分ぐらいで行けました。