交野城(かたのじょう)
交野城の基本情報
通称・別名
- 私部城
所在地
- 大阪府交野市私部6
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 連郭式平城
天守構造
- 不明
築城主
- 安見清儀
築城年
- 正平7年〔南朝〕/文和元年〔北朝〕(1352)
主な改修者
- 安見宗房
主な城主
- 安見氏
廃城年
- 天正3年(1575)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
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交野城の解説文
[引用元:Wikipedia「交野城」の項目]私部城(きさべじょう)は、河内国(大阪府交野市私部6丁目)に築かれた日本の城(平城)。別名交野城(かたのじょう)ともいう。
【概要】
交野城は交野市の北方にある、東西に延びる丘陵、免除川の南側に築城された。
室町時代の永禄8年(1565年)頃、河内の実力者安見宗房の一族である安見右近によって築城された。 右近は築城当時、松永久秀に属しており、その際、足利義昭が、津田城に入城した際、主戦力であった右近が、久秀の指示により、交野(片野)に城を築いたとされている。
正確な廃城時期は不明。織田信長が本能寺の変で没した後に廃城された可能性もある。
【沿革】
上記の概要の通り、築城をしたのは安見右近である。それより以前には城が存在していた可能性は低いであろうとの研究結果が出されており、築城以前の安見右近は、現在の交野市星田に居館を構えていたとの分析がなされている。
当時の交野は京都、奈良、摂津を繋げる交通の要衝であり、河内にとってもとりわけ重要な個所であった。
右近は、三好家と敵対関係にあった安見宗房とは一線を画し、三好長慶死後の永禄8年(1565年)頃、三好氏重臣松永久秀の配下に入り、永禄11年(1568年)になり、久秀の命により交野城を築城した。交野城の周りには自然の要害となる2つの川(免除川、百々川)や、小高い丘、池等があり、城が選定される条件があらかじめ備わっていた。
後に、安見右近と松永久秀は、摂津進出、平定を目論んでいた織田信長の配下に就くが、その最中の元亀元年(1570年)に交野城は完全に完成したようである。
織田信長もまた、この交野城を重要な拠点と位置付けしていたとされている。 元亀元年(1570年)には三好三人衆を牽制する為、信長公記にあるように「片野の安見右近」は城を堅固にかためていた。しかしその翌年、松永久秀は突如として信長を裏切った。そうとは知らない安見右近は久秀の策略にはまり、多聞城に呼ばれ、そこで自刃して果てた。 自刃後すぐに、久秀、久通父子は交野城に向け出陣、交野城を攻めるが、なんとかこれを持ちこたえる(多聞院日記)。
翌元亀3年(1572年)にも松永久秀は交野城を攻撃するが織田信長配下の柴田勝家、佐久間信盛らが城の救援に駆けつけ、これを退けているが、天正元年(1573年)に筒井順慶によって攻め落とされている。...[続きを見る]
交野城の口コミ情報
2020年11月01日 金森出雲守
交野城
交野郵便局南側の土塁遺構は消滅していました。
2017年09月24日 勘解由次官ささき
交野城
交野市役所からすぐ近くにある平城です。町の中なのによく遺構が残ってます。本丸跡の中に入れませんが外から土塁と空堀そして本丸跡が見れます。
2013年06月14日 課長大和守side-B
交野城
街中にあるにも関わらず郭・土塁・濠跡が明瞭で楽しい城跡です(^-^)城跡碑は春〜秋は隠れキャラ化しているので要注意です(笑)