交野城(かたのじょう)

交野城の基本情報

通称・別名

私部城

所在地

大阪府交野市私部6

旧国名

河内国

分類・構造

連郭式平城

天守構造

不明

築城主

安見清儀

築城年

正平7年〔南朝〕/文和元年〔北朝〕(1352)

主な改修者

安見宗房

主な城主

安見氏

廃城年

天正3年(1575)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

再建造物

周辺の城

津田城(大阪府枚方市)[3.3km]
枚方城(大阪府枚方市)[3.8km]
高山城(奈良県生駒市)[5.2km]
岡山城(大阪府四條畷市)[6.0km]
北田原城(奈良県生駒市)[7.0km]
飯盛城(大阪府大東市)[7.5km]
高槻城(大阪府高槻市)[8.0km]
田原城(大阪府四條畷市)[8.0km]
目垣城(大阪府茨木市)[8.2km]
野崎城(大阪府大東市)[8.4km]

交野城の解説文



交野城(かたのじょう)は、河内国交野郡交野庄私部(現在の大阪府交野市私部)に築かれた日本の城(平城)。別名を私部城(きさべじょう)。交野市指定史跡に指定されている[1]

概要 

交野城は交野市の北方にある、東西に延びる丘陵、免除川の南側に築城された。

発掘調査成果から永禄期(1558 - 1570年)頃の築城と考えられるが、正確な時期については諸説ある。築城主は河内の実力者安見宗房の一族である安見右近とする説が有力と見られる。

正確な廃城時期も不明。織田信長が本能寺の変で没した後に廃城された可能性もある。

また、城の名称については当時から「キサイヘ(私部)ノ城」と呼ばれることもあったが、頻出するのは「片野」・「カタノ」である。広域地名の交野で呼ばれた理由として、交野城が単なる防御拠点ではなく、広域支配を意識した城だったということが考えられる。

沿革 

上述の通り安見右近による築城が有力ではあるが、鷹山弘頼が交野城の前身となる居館を構えていた可能性や、安見宗房や息子野尻宗泰が私部を押さえていた時期に築城した可能性もあるとされる。

当時の交野は京都、奈良、摂津を繋げる交通の要衝であり、河内においても重要な場所であった。

永禄4年(1561年)1月に現在の交野市星田に居を構えていた安見右近は、永禄8年(1565年)12月以降には松永久秀の配下に入っていたと見られる。

永禄11年(1568年)9月になると織田信長が足利義昭を伴い上洛し、安見右近と松永久秀は義昭に帰参。交野城はこれ以前に松永方の城として築城されたとも、織田信長の上洛後に信長の権力を背景に築かれたとも考えられている。 元亀元年(1570年)には三好三人衆への備えとして「高屋に畠山殿、若江に三好左京大夫、片野に安見右近、伊丹、塩河・茨木・高槻、何れも城々堅固に相拘へ」とあり(『信長公記』)、交野城の安見右近は畠山秋高・三好義継の両守護に並ぶ扱いを受けている。

しかしその翌年、安見右近は松永久秀によって奈良市中の「西新屋小屋」に呼び出され自刃した。自刃後すぐに、松永久秀・久通父子は交野城を攻めるが、これを持ちこたえている(『多聞院日記』)。

翌元亀3年(1572年)にも松永久秀は交野城を攻撃するが、織田信長配下の柴田勝家、佐久間信盛らが城の救援に駆けつけ、これを退けている。

この時、交野城を守っていたのが、安見右近の一族と見られる安見新七郎である。天正6年(1578年)、堺に停泊していた鉄甲船を見物した織田信長は、京都に帰る途中の10月1日に「安見新七郎の居所で休息した」と『信長公記』にある。しかし、これが交野城を指しているのかどうかは確証を得ない。

信長が三好康長を降伏させて河内国を平定し、「高屋城を初め、河内国中の城を悉く破却した」(『信長公記』)[2]とされるのは天正3年(1575年)である。この時に同時に廃されたのであれば、上記の新七郎居所は別の場所ということになり、廃されていなければ上記の居所こそが交野城を指していると思われる。

安見新七郎は天正9年(1581年)の馬揃に河内の「取次者」として招集されており、交野城が存続していたかどうかは不明だが、織田末期まで北河内の抑えとしての役割を担っていたものと考えられる。

また、天正元年(1573年)に筒井順慶によって攻め落とされたという伝承があるが、これは偽文書とされる椿井文書に由来するものであり、鵜呑みにはできない。

交野市では国の史跡指定認可に向けて調査を実施している。2020年(令和2年)1月29日に交野市指定史跡として、二郭と本郭の一部を指定。

城郭 

現在城跡は1 - 3m高くなっている本郭、二郭、三郭と呼ばれる曲輪と、光通寺が出曲輪だったと思われる部分が確認できる[3]。それ以外に昭和後期までに東側に1か所、北側に3か所の曲輪があったが、現在は宅地化され破壊されてしまったようである。

本郭
3つある主曲輪のうち、中央の曲輪跡は字「城」と呼ばれており、東西約50m×南北約60mの方形で、北側の半分が1段高くなり、北端の段高は5mを有している。位置的に見て本郭だったと推定される。
二郭
本郭からみて西側に二郭がある。ここは字「天守」と呼ばれており、東西約25m×南北約100mの長方形で、北側は幅10mの道路で分断されているが、当初は繋がっていたと考えられる。西側には土塁跡があったと思われ、東南部には交野城の井戸跡と考えられる野井戸があったようである。
三郭
本郭からみて東側、10mの空堀が間をあけて三郭がある。東西約30m×南北約60mであるが、南側が宅地化されており、当初の姿を判断するのは難しいと思われている。

またこれ以外にも、光通寺の位置する地に堀がめぐらせられ、出丸、出曲輪の備えがあったと推察されている。

この主曲輪から北側には免除川が流れており、おそらく外堀の役割を果たしていたと思われ、交野城の北限と考えられている。主曲輪と免除川の間にはいくつかの曲輪があったと推定されているが、これらは屋敷跡ではないかと思われている。また南側には水堀跡の名残と思われる池が3か所があったようであるが、今は埋め立てられている。第6次発掘調査によると、この本郭部分からこの池と呼ばれる北端まで約75mもあり、城に付随する堀としては間隔が広いことから、2重の堀があるのではないかと推察され調査したが、堀状の落ち込みは認められず、この調査では2重の堀は発見できなかった。交野郵便局の道路を隔てた場所に土塁が数m現在も残っている。

遺構

縄張り推定図(現行地図に合成)と「私部城跡」案内板[4]が城址に設置。「私部城想像復元鳥瞰図」が交野市役所で不定期に公開される場合がある[5]

  • 曲輪、堀、井戸[6]

発掘調査

交野市教育委員会では周辺の開発に伴い幾度かの発掘調査を実施している[7]

発掘調査 和暦 西暦 発掘調査目的 発掘物
第1次発掘調査 昭和40年 1965年 道路建設工事に伴う調査 焼けた礎石、布目瓦、土器片出土
第2次発掘調査 昭和44年 1969年 水道管、配水管敷設工事に伴う調査 弥生時代中期の石包丁、土器片出土
第3次発掘調査 昭和52年 1977年 大阪市水道建設工事に伴う調査
第4次発掘調査 昭和61年 1986年 交野郵便局の建て替え工事に伴う調査 遺構、遺物は発見されず
第5次発掘調査 平成2年 1990年 本郭南接地を調査 遺構、遺物は発見されず
第6次発掘調査 平成7年 1995年 本郭中央部分の調査 瓦、土師皿、銅銭、石器などが出土

第2次発掘調査で弥生時代の遺物が三郭で発見されていることから、『交野市史 考古編』ではこの場所に弥生時代の環濠集落があった可能性が指摘されており、交野城も複合遺跡の可能性がある。また『私部城跡』によると第6次発掘調査で数多くの遺物が発見されたが、これらの出土した層が客土されて現在の交野城の地形が作られた時期がいつなのかは具体的に特定するには至らなかった。第1次、第3次、第6次調査では焼土層が確認され、具体的な時期は特定できていないが、火災が発生したことなどが考えられている。

交通アクセス 

  • 鉄道
    • 京阪電気鉄道 京阪交野線 交野市駅 → 徒歩約10分
  • 乗用車
    • 第二京阪道路 枚方東IC → 国道307号 → 府道736号
    • 交野市役所周辺にコインパーキング有り

周辺の城 

1里(約4㎞)の範囲に高槻城枚方城が存在した。

参考文献 

  • 【書籍】「日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫」
  • 【書籍】「私部城跡 ―発掘調査概要報告書1―」
  • 【書籍】「私部城跡発掘調査報告」
  • 【書籍】「由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に」初出: - 書籍には『私部城跡発掘調査報告』を受けての追記あり。

交野城の口コミ情報

2022年02月01日 源出雲守ポンコ2…㉓火の車
交野城



交野市役所で仕事終えた後、私部城が最寄りにあったことを思い出し、登城してきました。市役所から徒歩3分ほど、交野市駅からも徒歩10分かからないです。
車やと、市役所ホームページには「平日であれば交野市役所別館駐車場に駐車可能です。」と掲載されてますのでご参考まで。

遺構は、北側の道路からよくわかる本郭と二郭、本郭と二郭間に畑になってる空堀などと、交野郵便局南東向いに土塁、堀跡などが確認できます。城マークがあるのは二郭にあたり、現況は駐車場で、案内板も置かれてます。この案内板、背景が模型図になっており、撮っておくと歩く際の参考になりました。住所は、ニ郭が字(あざ)天守、本郭が字城です。

二郭は、道路により分断されてますが、道路南の駐車場部分は公有地、本郭は南の一部除き私有地となっており、関係者以外立入禁止の表示やロープが張られてるので、二郭や北側から眺める程度にとどめました。なお、本郭北側の田は、空堀跡にあたります。
本郭南東の雑木林の際に「私部城址」碑がありますが、私有地・1月でも草木繁茂で立入ませんでした。本郭南側には、道と民家の間の空地に「本丸池」と呼ばれる浅い深さの空堀跡や竹藪付き土塁があります。この本丸池は、字出屋敷という住所です。
縄張図では、本郭の東に空堀と三郭があったようですが、宅地化が進んでおり、また三郭南の出郭にあたる部分は、光通寺・無量光寺・想善寺となっており、若干高台にあるのがわかりました。

周囲の散策含め、所要時間は30分程度でした。

2021年06月11日 御勘解由長官
交野城



写真では見たことはありましたが、現地を訪れたのは今回が初めてです。見る方により、評価は分かれると思いますが、自分は気に入りました。このような城跡は珍しいと思います。城跡の南側は寺や大きな屋敷が並び、北側の本丸周辺は田畑や駐車場に転用されてますが、復元保存に注力を期待したいところです。市役所のそばで、ここまで残されているのは良い方でしょう。二の丸跡に設置の復元図、気に入りました。

2020年11月01日 金森出雲守
交野城

交野郵便局南側の土塁遺構は消滅していました。

2017年09月24日 勘解由次官ささき
交野城

交野市役所からすぐ近くにある平城です。町の中なのによく遺構が残ってます。本丸跡の中に入れませんが外から土塁と空堀そして本丸跡が見れます。

2013年06月14日 課長大和守side-B
交野城

街中にあるにも関わらず郭・土塁・濠跡が明瞭で楽しい城跡です(^-^)城跡碑は春〜秋は隠れキャラ化しているので要注意です(笑)

交野城の周辺スポット情報

 堀跡(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 交野代官所(周辺城郭)

 犬田城(周辺城郭)

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