北田原城(きたたわらじょう)
北田原城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 奈良県生駒市北田原町イモ山
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 坂上氏?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
田原城(大阪府四條畷市)[1.6km]
高山城(奈良県生駒市)[3.2km]
飯盛城(大阪府大東市)[4.7km]
野崎城(大阪府大東市)[5.5km]
菜畑城(奈良県生駒市)[5.7km]
岡山城(大阪府四條畷市)[6.0km]
交野城(大阪府交野市)[7.0km]
三箇城(大阪府大東市)[7.1km]
稲八妻城(京都府相楽郡)[7.2km]
津田城(大阪府枚方市)[7.4km]
北田原城の口コミ情報
2025年05月12日 ʀᴇᴅ副将軍
北田原城
河内と大和の国境にある境目城
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。坂上氏の居城とされ、城主として坂ノ上丹後守の名が伝わります。
三好氏の飯盛城から東へ4.7kmに位置し、飯盛城の支城として機能した可能性が指摘されています。
多聞院日記には、1567年に「田原之坂上」が三好三人衆から松永久秀に再度寝返ったとの記録があります。
見所
河内と大和の国境であり清滝街道と伊賀街道が合流する標高196mの丘陵上に築かれた交通の要衝です。
山頂に主郭を置き、南下の二郭が主体となり構成されていますが、主郭には鉄塔が建ち改変を受けています。
主郭の東背後は弓形の大堀切で遮断され北東に伸びる尾根を遮断。
主郭から北西に伸びる尾根には小規模な段郭が五段連なります。
二郭は改変を受けていませんがヤブ化。二郭南下には竪堀群がありますが薄めです。
また二郭から南西に伸びる尾根には土橋が付いた堀切を隔てて三郭へと繋がります。
行き方は、西側麓の北田原集落内から登ることができます。比高は約40mですが特に案内板もなく分かりづらいです。
また集落内には駐車スペースもなく道も細いため、かなり離れた集落外の邪魔にならない路側帯に駐車しました。
2025年04月19日 よかぜや
駐車場(墓地)[北田原城 駐車場]
城内にある墓地の駐車場です。邪魔にならないように停めましょう。
2021年03月27日 熊代左衛門佐
春日城[北田原城 周辺城郭]
春日城
主な城主→小野氏、和田氏、(鳥見)福西氏
春日城は、築城年代や築城者は定かではないが、「郷土記」によれば和田右衛門、福西藤監が在城したとされている。
2020年09月21日 熊代左衛門佐
北田原城
「城主 坂上氏の記録」
・坂上田村麻呂の末裔と名乗っていた。
・高山城の高山氏の4代目?の頼宗は、北田原城坂上氏の一族であろう南田原坂上氏より妻を迎えている。
・本統(直系)の血統が絶えた鷹山(高山)氏が、大和の帯解に養子に出ていた頼円(四代頼宗の子)の孫の1人の頼一が鷹山(高山)一族の末裔として七代?頼貞の養子となり、頼一は生駒の南田原城主坂上清兵衛尊忠の娘と婚姻、生まれた子の頼茂を坂上氏に託したという記録が残っていることから、少なくとも、高山家4代目の頃〜7代目の頃は、高山家と婚姻関係を結ぶほどの仲であったことが分かる。
・ちなみに、『鷹山家略譜』には、「坂上尊忠、道明寺で戦死、甥鷹山頼茂(13歳)を高山へ帰す。」という記載があり、坂上氏は、大坂の陣に出陣していたことが分かる。
2019年01月05日 玉手箱刑部卿
北田原城
①163号線を大阪から奈良方面へ。北田原の交差点を過ぎた安全なところで、車を停車。
②縄張りの西側から城攻め。民家の隙間を通り抜け、民家横にある登山道をやっとの思いで見つけて登ります(正直、この登山道は見つけにくいので地元の人に聞くか、事前調査ヨロシク!)
③谷筋を登り始めて5分ぐらいで突き当たるので、藪をかき分け右斜面を登ります。
④虎口、土橋を見つけて、狂喜乱舞!!
最近、人工的に作られたものがわかるようになってきました。これも、皆さんのおかげです(謝々)
⑤虎口を登ると櫓台跡。櫓台跡のてっぺんには、貯蔵庫跡のような四角い穴がありました。遺構?
⑥さらに北へ進むと、すぐに堀切。
⑦さらに北にも(送電鉄塔という天守を持つ)郭がありますが、背丈が高い藪に阻まれ迷路のようですが、迷走しても必ず麓にたどり着けます。
近畿地方の山城は、2018年の台風21号で、木々大木は倒れまくり、荒れ放題です。その点、北田原城のようなコンパクトな山城は、すぐに民家にたどり着けるので安心。ただし、この時期、ズボンにひっつき虫がいっぱい付きます。そこは自己責任でね(笑)
北田原城の周辺スポット情報
田原口城 (俵口城)(周辺城郭)
春日城(周辺城郭)
駐車場(墓地)(駐車場)
駐車場入口(その他)