稲八妻城(いなやつまじょう)
稲八妻城の基本情報
通称・別名
- 稲屋妻城、南稲八妻城、狛稲八妻城、狛稲八間城、政ヶ谷城
所在地
- 京都府相楽郡精華町南稲八妻皿池他(推定地)
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 奥田甚助、稲八妻氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
高山城(奈良県生駒市)[5.3km]
木津城(京都府木津川市)[5.6km]
草路城(京都府京田辺市)[6.0km]
鹿背山城(京都府木津川市)[6.2km]
超昇寺城(奈良県奈良市)[6.9km]
津田城(大阪府枚方市)[7.2km]
北田原城(奈良県生駒市)[7.2km]
宝来城(奈良県奈良市)[8.3km]
多聞山城(奈良県奈良市)[8.5km]
田原城(大阪府四條畷市)[8.7km]
稲八妻城の口コミ情報
2022年01月03日 ファン掃部助トム治郎
稲八妻城
祝園駅から徒歩30分くらいです。政ヶ谷の部落は板塀をもつ古い家が細くまがりくねった道の両側に連なり歴史を感じます。京阪和自動車道のオーバーブリッジの先から竹山にはいり上っていくと尾根沿いに主郭があるようです。北側の武内神社、その近くに逆修の碑があり山城国人一揆のことを知れます。
2021年08月13日 ゆらキング⭐️左衛門佐信繁
稲八妻城
高速のオーバーブリッジを越えて直ぐ、行ったところです立ち入り禁止でした。無理せずここで引き上げました。
2021年07月25日 福山治部丞武市
稲八妻城
城マークの場所には立入禁止表示があり入れませんでした。そこから北に500mごらいかな、行った所に何の施設かわかりませんが白い丸い建物が立つ施設があり、そこが稲八妻城跡として有力なのだそうです。
2021年04月06日 土支田大膳大夫
稲八妻城
現在、城跡は立ち入り禁止となってました。
2020年12月15日 菊姫
下狛城館[稲八妻城 周辺城郭]
マークが若王寺辺りでしたのでお寺の方に尋ねると、このお寺はもっと大きかったそうですがお城の事は?
2020年09月21日 熊代左衛門佐
乾谷城山城[稲八妻城 周辺城郭]
乾谷城山城は、代々乾谷氏が居城したと言われている。乾谷源六郎延広は、高山城の高山氏と良好の関係を築き、高山家4代目の高山頼宗の時には、近所の北田原城の坂上氏の一族であろう南田原城の坂上氏より妻を迎えると同時に、乾谷源六郎延広は頼宗に従って、鳥見谷、生駒谷に進出したという記録が残っている。乾谷は、川沿いにあり、街道に近いこともあり、重要な拠点だったのではないかと考えられる。
2019年04月24日 課長大和守Ver.B
稲八妻城 説明板[稲八妻城 碑・説明板]
自治体は城山説に則ってこちらに説明板を設置しているようです。
2018年12月02日 ℵ新居泰之進ℵ
稲八妻城
《PART1》
この城は城跡所定地として、複数候補地があるが
「政ヶ谷遺跡」と言われるところに登ったので、こちらについて書く。
この遺跡は、京奈和自動車道によって分断されている。
【難易度・アクセス】
NOMAL(山城)
自動車道を渡る橋「南稲八妻跨道橋」の西側より直登する。
橋の西側に山へと続く道があるが、少し入ったところで小屋があり、そこより先は道がないので、そのまま直登する。
直登はしんどいが、主郭へはすぐに到着できる。
城跡は、全体的に倒木が多く非常に歩きづらい状態であった。
【駐車場】
有り?ただし、跨道橋の西側登城口の前の道路が少し幅があるので端に車を寄せれば、停められないこともない。(大きい車はしんどいかも)
【見所】
主郭周りには、低いが土塁と思しき盛り上がりと
北西側と東南側に人工的に削ったと思しき段差となっている尾根がある。
★見所①:主郭土塁?
主郭より東南側尾根を辿っていくと横堀&土塁、さらに巨大な堀切らしい尾根を分断した部分を確認。
★見所②:主郭東南側 横堀&土塁&巨大堀切?
2018年12月02日 ℵ新居泰之進ℵ
稲八妻城
《PART2》
主郭より北西側の尾根を辿っていくと横堀&土塁らしき凹みと盛り上がりがあった。
★見所③:主郭北西側 横堀&土塁?
ここで私は引き返したが、この北西側には古道があり、堀切らしい
尾根が分断されている箇所があるとのこと。
★見所④主郭北西側尾根 古道&堀切?
【雑記】
城跡らしい遺構は、かなり広く分布しており、全体を確認できなかった。
山城国人一揆の城としては、かなりの規模だと思う。
2018年05月01日 課長大和守Ver.B
稲八妻城
未だ城地の確定しない山城国人一揆所縁の城ですが南稲八妻皿池、政ヶ谷や北稲八間城山、焼山が推定地とされています。
城山にある武内神社から貯水タンクにかけての丘陵地と皿池、政ヶ谷にかけての京奈和道に分断された丘陵地に横堀や堀切、削平地などが確認されているようです。
ただ郷土史家と城郭研究者の間では遺構の認識に相違があるようでその辺が未確定の原因と思われます。
個人的には武内神社由緒書の記述や山城国人一揆の遺物とされる逆修の碑と呼ばれる五輪塔が北稲八間集落周辺にあることから、城山説に可能性を感じました。