多聞山城(たもんやまじょう)

多聞山城の基本情報

通称・別名

多聞城

所在地

奈良県奈良市法蓮町多聞山

旧国名

大和国

分類・構造

平山城

天守構造

高矢倉?[4重?/築年不明/解体]

築城主

松永久秀

築城年

永禄3年(1560)

主な改修者

不明

主な城主

松永久秀、柴田勝家、塙直政

廃城年

天正4年(1576)

遺構

土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鬼薗山城(奈良県奈良市)[1.7km]
西方院山城(奈良県奈良市)[1.8km]
超昇寺城(奈良県奈良市)[3.8km]
木津城(京都府木津川市)[4.1km]
古市城(奈良県奈良市)[4.5km]

多聞山城の解説文

多聞山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市法蓮町にあった松永氏の居城となった平山城。多聞城とも呼ばれる。

概要
松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115m、比高30mの山に築城された。城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ、現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている。東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点となった。

城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四重天守(四階櫓とも)は、安土城をはじめとする近世城郭における天守の先駆けともいえる。その様子は、宣教師ルイス・フロイスによってヨーロッパにも伝えられた。江戸時代に記された『和訓栞』(谷川士清著、1777年 - 1887年)では天守の始まりを安土城とするが、『甲子夜話』(松浦静山著、1821年 - 1841年)では多聞山城を挙げている。壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられていたようだ。塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりであるとされ、『和事始』(貝原好古著 1696年)には、「多門 今世宅外の長屋を多門と云、松永弾正久秀和州志貴の毘沙門堂の上多門の城を築き、長屋を建しを、後世是を法として、多門と号く。」とある。このように先駆的な要素を併せ持った城で、中世の城郭様式から脱し、その後の近世城郭に移行する過程の城郭発達史における重要な城であったと位置づけられている。

永禄3年(1560年)に築城開始。永禄4年(1562年)には久秀が入城した。天正元年(1573年)、久秀は15代将軍足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城に立て篭り、ほどなく降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌2年(1574年)、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取ったのはこの折である。天正4年(1576年)に信長は筒井順慶を大和の守護に任じ、多聞山城の破却を命じる。石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移されたという。天正5年(1577年)、久秀は再び反旗を翻したが信貴山城で自害した。

現在の城跡は奈良市立若草中学校になっている。周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。

沿革
松永久秀は三好長慶の右筆として仕えていた。三好長慶は畿内をはじめ最大時には8カ国を手中に治め、南北朝時代以降、信長の上洛以前は最大の勢力であった。そのような中、大和も支配に治めるべく久秀に命じ、永禄2年(1559年)8月、当時実質的な大和の支配者であった筒井順慶を含めた国人衆を追い出し信貴山城を改修、以後久秀は大和の最大の実力者として台頭していったと思われている。

築城前は発掘調査によって墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土されており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。『多聞城と松永久秀』では、この墓地がいずれの寺院のものだったかはっきりしていないとしており、『奈良市史』では築城前には眉間寺がありその関係を指摘している。

多聞山城の築城時期は『日本耶蘇会士日本通信』によると、
「彼(松永久秀)は最も信任せる家臣と最も富たる大身達を招き、圍の中に敷地を分与し、家を造らしめたり。着手以来五ヶ年になるが皆競うて、他よりも良く高価なる家を造りたり。」
とあり、信貴山城の改修時期と同時期に、侍屋敷から建設が始まったのではないかと考えられている。多聞山城は築城途中であったが永禄4年(1561年)よりすでに使用されていたようである。このように政庁的役割は多聞山城、戦闘の城、河内への出軍の城として信貴山城を使い分けていたと考えられている。

永禄7年(1564年)7月、飯盛山城で三好長慶が病死すると久秀の権力はますます増大し、永禄8年(1565年)8月、永禄の変で三好三人衆と組んで第13代将軍足利義輝を暗殺してしまう。しかし同年11月には三好三人衆とも仲違いし分裂してしまい、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄9年(1566年)6月筒井城を奪還(筒井城の戦い)、ついで久秀を大和より追い出すべく進軍を開始し、永禄10年(1567年)4月には南都をほぼ制圧した。境地に陥った久秀であるが、同年10月10日、順慶と三人衆連合軍が陣をひく東大寺に多聞山城より襲いかかった。東大寺大仏殿の戦いである。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄11年(1568年)6月の信貴山城の戦いでは信貴山城を失った。...

多聞山城の口コミ情報

シバヤン大和守交友莫爭様[2016年05月04日]
私の中で松永久秀さんの存在感が気になり出して再度の訪城。
城メグラーさんからの一筆から多聞山城の城案内書が残り僅かと聞き朝から出動。
若草公民館にて城案内書いただきました!ありがとうございます_(._.)_
館内の上がった正面のショーケース内に
多聞山はの予想ジオラマ模型があります。
佐保川の流れと地勢を利用した要害です。
若草公民館に駐車場をお借りして記憶に新しい若草中学校。またインターホンを鳴らし散策。
前回から一つ変わってたのが城址碑の側に城説明板が設置されていたことです。
少しずつではあるがこの城の位置付けが上がったことの証しと思いました。

松永久秀•••何かと悪いイメージ(アプリのアニメも)の彼も再評価される日も遠くない気がしました•••(o´∀`)b

シバヤン大和守交友莫爭様[2016年02月15日]
今度は信長に逆らった武将松永久秀の城です。東大寺前の369号線を北に進み転害門を東に曲がり二つ目の辻を北に進むと多聞山城です。手前の若草公民館に城案内所があります。受付で校内の入館の仕方を聞き暫し多聞山城の雑談。公民館から真っ直ぐ北に行くと佐保川、橋を渡り若草中学校の門をくぐり入口の受付で許可をいただきました。有り難い!
右手を進みますとグランドをつなぐ橋があります。下は大きな堀切跡。舗装路ですが、往事を想像させます。今度は元に戻り左手に行くと校舎裏には土塁跡が残ってます。土塁跡下はかなり切り立っています。周囲を歩きますとこの学校は本丸跡に建築されたのがわかります。こういう形で時代を生き続けてきた城に感慨得ました。
先の信貴山城が戦う城ならこの多聞山城は見せる城です。ここに四階建ての櫓、天守閣にあたる建物があったことに興奮します。安土城もこの城を模倣したとする説があるそうです。堅固であり政治向きにも作られたこの多聞山城。これからの調査に期待します。
最後に公民館勤務の方、職員室の方には親切に説明•案内していただき大変気持ちが良かったです。

修理大夫あさよし様[2014年07月21日]
車での訪問は厳しいです。それにしても東大寺大仏殿がすぐそこによく見える(^^)

内野遠江守勘助改メ家康様[2013年02月07日]
本丸跡は若草山中学校になっているので残念ながらはいれません。 山城らしい空堀や曲輪跡などを周辺からお楽しみ下さい。もちろん駐車場もありませんので、公共交通機関をご利用下さい。 解説には最寄バス停が「鴻池」となっていますが、「今在家」の方が近いです。しかし、事前に地図でルートを確認しておかないとハマってしまいます(笑) 正解ルートの最後部分には階段があり、そこを登りきると若草山中学校の運動場@バックネットほぼ真裏にでます。それを正面にみて左に行きますと本丸跡方面です。

古楽侍従広家様[2010年09月13日]
解説長い(笑)
ここから見える東大寺大仏殿の近さは驚きです。この距離なら燃えても仕方ない。

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