辰市城(たついちじょう)

辰市城の基本情報

通称・別名

所在地

奈良県奈良市東九条町

旧国名

大和国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

井戸良弘

築城年

元亀2年(1571)

主な改修者

不明

主な城主

井戸氏(筒井氏家臣)

廃城年

不明

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

稗田環濠(奈良県大和郡山市)[2.4km]
若槻環濠(奈良県大和郡山市)[2.7km]
古市城(奈良県奈良市)[2.8km]
窪之庄城(奈良県奈良市)[3.0km]
大和郡山城(奈良県大和郡山市)[3.0km]
鬼薗山城(奈良県奈良市)[3.2km]
西方院山城(奈良県奈良市)[3.3km]
多聞山城(奈良県奈良市)[4.6km]
筒井城(奈良県大和郡山市)[4.7km]
大和田城(奈良県奈良市)[4.8km]

辰市城の解説文



辰市城(たついちじょう)は、奈良県奈良市東九条町にあった日本の城(平城)。短期間で築城され、大和最大の合戦である辰市城の合戦の舞台となった城である。

概要 

辰市城は奈良駅より南西の2.6kmの旧辰市小学校、現在の辰市幼稚園周辺にあった平城で、城郭についてはほとんど不明である。『多聞院日記』や『筒井家記』より、短期間で堀と塀が築かれたと思われている。現在辰市幼稚園の周辺は宅地化、耕作地となっており石碑もなく、城跡をうかがい知れるものはほとんど無い。

辰市城の合戦 

辰市城の沿革もこの辰市城の合戦のみで、いつ頃廃城になったか、辰市城の合戦のみ存在していたのか、詳しい事は解っていない。

開戦までの経緯

筒井順慶は筒井城の戦いで居城を奪われ福住中定城に在城していたが、十市城の奪回を計画していた。そんな中松永久秀軍に属していた十市遠勝が病死すると、十市城では内訌が生じ松永派と筒井派に城内が分裂した。その分裂を利用し『多聞院日記』によると筒井軍と興福寺軍500兵が連合軍となって永禄13年(1570年)7月27日夜半より攻撃を開始し、城内にいる筒井派の手引により、十市城は順慶が攻略することとなった。筒井軍は郡山城を攻城させようと迫っていた松永久秀軍を破ったほか、窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城した。

この時期、久秀は大規模な反撃部隊を派兵していない。これは織田信長に反抗した北近江の浅井長政の討伐軍に大半を投入していたからと考えられている。

甲斐の武田信玄が元亀2年(1571年)3月に信長の同盟者徳川家康の領国三河に侵攻、同年4月には足助城野田城を落城させた。信長の要請に応じて柔軟に兵力を出すことに不満をもっていた久秀は、前年の元亀元年(1570年)5月、武田信玄と本願寺法主顕如が同盟を結ぶと、自らも信玄と同盟を結び信長に謀反をおこす。反信長であり東大寺大仏殿の戦い等で戦った三好三人衆とも信玄の仲介で和睦する。

順慶が久秀の居城多聞山城を本格的に攻城しようと、強力な拠点となるべく着目したのは辰市村で、現在の奈良市東九条町に位置している。筒井城から東北に6kmの距離になる。ここに順慶の命をうけた井戸良弘が向城を築き、同年7月3日に築いたとされている(『筒井家記』)。また同年8月2日に「辰市二筒ヨリ用害沙汰之」(『多聞院日記』)とあるが、『日本城郭大系』によると、その後すぐに辰市城の合戦が始まる事から『多聞院日記』の記述は「あわただしすぎる」と記載している。

戦いの状況

信長に謀反をおこした久秀は筒井軍討伐を開始した。同年8月4日信貴山城を出立した松永軍は三好義継の援軍と多聞山城を出立した息子の松永久通の軍と大安寺で合流し、辰市城での合戦が開始される。この時の戦いの様子が「筒井松永ノ両勢対陣シ、互二時ノ声三度合シテ 弓鉄砲ヲ居掛タリ、ソノ声四方二響渡リ、樹海二応ヘテ、天地モ震動スルカト覚ヘタリ」(『和州諸将軍伝』)と記されている。

戦いは長時間に渡って続いたと思われる。大軍で押し寄せた松永軍は、塀を引き落とし、堀に橋をかけて攻城戦を仕掛けてきた。当初松永軍は優勢であったが、高樋城、椿尾上城、郡山城から順慶への援軍が到着し松永軍へ反撃していく。これに加え福住中定城にいた福住順弘、山田順清隊が来援し始めると松永軍は崩れ始めてくる。松永軍の多くの武将をはじめ首級500の他に手負い500を数え、鉄砲、槍、刀等を捨てて多聞山城にたどり着き、「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてのことだ」と記載されている(『多聞院日記』)。一方、筒井軍も援軍に駆け付けた山田順清をはじめ多くの武将が討ち取られた。

戦後の影響

この戦いで敗れた久秀は筒井城を手放してしまい順慶に奪回された。同年8月6日、順慶は信長の元に松永軍の首級240を送っている。また翌8月7日、松永軍に属していた高田城を落とし40の首を挙げた。その後佐久間信盛、明智光秀の仲介で同年11月1日に久秀と順慶は短期的な和睦をしたとされている(『和州諸将軍伝』)。しかし本格的な和睦は翌天正元年(1573年)4月に武田信玄が上洛中に病死、同年7月19日に槇島城の戦いで足利義昭が追放され、8月20日の一乗谷城の戦いで朝倉義景が、8月28日の小谷城の戦いで浅井長政が、11月の若江城の戦いで盟友でもあった三好義継が攻め滅ぼされ信長包囲網が崩れた後で、久秀は信長に帰服を申し出、条件として12月26日に多聞山城を明け渡すことになる。翌天正2年(1574年)正月に順慶も岐阜城に赴き信長へ正式に従う事になる。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • JR西日本 大和路線 郡山駅 → 奈良交通バス 辰市農協下車 → 徒歩約5分
  • 車でのアクセス
    • 西名阪道 郡山IC → 国道24号 → 奈良県道44号
    • 周辺に駐車場無し

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、305-306頁。
  • 籔景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年8月、93-103頁。
  • 筒井順慶顕彰会『筒井順慶の生涯』筒井順慶顕彰会、2004年3月、48-50頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』第四巻 大阪・奈良・和歌山・三重、新人物往来社、1989年4月、155頁-160頁。

辰市城の口コミ情報

2022年06月05日 土支田大膳大夫
城の前(しろのまえ)[辰市城  遺構・復元物]

倭文(しずり)神社の東側一帯には「城の前(しろのまえ)」という通称地名が伝わっていた。

2022年06月05日 土支田大膳大夫
通称地名「じょうのまえ」[辰市城  遺構・復元物]

この奈良市西九条町2丁目1と2の辺りは通称地名として「じょうのまえ」という地名があった。

2021年05月10日 藤岡雅楽助但馬
辰市城



辰市幼稚園が本丸跡のようですが、敷地内のため入れませんでした。特に高低差もないので、遺構という雰囲気は全く感じません。

2020年12月21日 課長大和守Ver.B
今市城[辰市城  周辺城郭]



今市城は室町時代の土豪今市氏の館跡に越智氏が築いた城で筒井氏の古市攻めの際に共に滅んだとされています。

城跡は長方形の縄張りを堀で仕切った形であったようですが、現在は住宅が建ち並んでおり堀と土塁の痕跡が城を偲ばせています。
堀は南側外堀の跡としてガマ池が残り、北側外堀は昭和後期に埋め立てられた跡が遊歩道として整備されており説明板もこちらに設置されています。
また遊歩道に沿う形で土塁の痕跡も一部残っていました。
個人的にはガマ池越しに望む城跡が一番城を感じられるように思います(^^)

周辺は狭路が巡っており駐車場も無い為JR帯解駅からの訪問がオススメです☆

2020年10月16日 首藤但馬守通宗
辰市城

周辺の道路はものすごく狭く、譲りあいをしないと通れないところが多いのでご注意ください。

2010年07月21日 治部少輔しん@蓋と城
辰市城

松永弾正と筒井順慶が決戦した歴史的な城ですが、現在は幼稚園なので、写真撮影にはご注意

辰市城の周辺スポット情報

 通称地名「じょうのまえ」(遺構・復元物)

 城の前(しろのまえ)(遺構・復元物)

 今市城(周辺城郭)

 東九条城(周辺城郭)

 永井城(周辺城郭)

 西福院(寺社・史跡)

 倭文神社(寺社・史跡)

 時風神社(寺社・史跡)

 辰市神社(寺社・史跡)

 安楽寺(寺社・史跡)

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