古市城(ふるいちじょう)

古市城の基本情報

通称・別名

所在地

奈良県奈良市古市町他

旧国名

大和国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

古市氏

築城年

室町時代

主な改修者

古市澄胤

主な城主

古市氏

廃城年

天文12年(1543)

遺構

曲輪、横堀跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

窪之庄城(奈良県奈良市)[1.9km]
西方院山城(奈良県奈良市)[2.7km]
鬼薗山城(奈良県奈良市)[2.8km]
辰市城(奈良県奈良市)[2.8km]
若槻環濠(奈良県大和郡山市)[4.5km]
多聞山城(奈良県奈良市)[4.5km]
稗田環濠(奈良県大和郡山市)[4.5km]
椿尾城(奈良県奈良市)[4.5km]
豊田城(奈良県天理市)[5.5km]
大和郡山城(奈良県大和郡山市)[5.8km]

古市城の解説文



古市城(ふるいちじょう)は奈良県に存在した中世の日本の城(平山城)。

概要 

奈良市古市町に位置し、城跡は奈良市立東市小学校の校地となっている。当初は約150×200mの広い台地にあって堀を巡らせ、後に谷を隔てた南方の狭い丘陵も城地とされた。台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していた。最大時には5町四方で、南北西三方に各門があり、その大手を延命寺口といった。主要建物の屋根は板葺で、それ以外は茅葺等であった。主要建物の壁は白壁で、それ以外は土壁等であった。

歴史 

当城を拠点とした古市氏は、1320年代より史料に登場し、室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在となった。

古市胤仙は文安元年(1444年)の興福寺を二分する争乱では、経覚に従って当城から筒井氏と対峙し、筒井氏に代わり筒井氏に代わり衆徒の棟梁となるとともに、庶家の反抗を抑えた。文安4年(1447年)には奈良を追われた経覚を半ば強引に古市に移し、続く古市胤栄は応仁の乱に関わるとともに一族・家臣の統制を強化して権威の回復に務めた。古市澄胤の代に全盛を迎えると城内に堀や馬屋、風呂などを設け、連歌や茶の湯が催された。

明応6年(1497年)に筒井勢に敗れて落城し、城は破却された。同8年(1499年)に細川政元の支援で澄胤が復帰して翌年に城を再建したが、永正元年(1504年)に再び落城した。翌年さらに再々建され、同5年(1508年)に澄胤が敗死すると後継の公胤は城域の中心を南に移している。天文12年(1543年)に筒井順興に敗れた際、城は古市氏によって焼かれ(『明応六年記』)、さらに城跡の竹木が切り払われた(『大乗院日記目録』)[1]

古市氏の末裔

  • 加賀前田藩の小松中納言前田利常の御人持として3,600石で召し抱えられた。墓地は金沢市光覚寺、妙法寺、野田山、奈良市古市町にある。
  • 豊前小倉藩茶道頭をつとめた(絶家)。墓地は北九州市の峯高寺と安正山立法寺にある。
  • 肥後熊本藩茶道頭をつとめた。(肥後古流円乗坊流)
  • 三井寺山内円満院の坊官をつとめた。墓地は大津市の霊雲山新光寺にある。

参考文献 

  • 【書籍】「角川日本地名大辞典」
  • 【書籍】「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成-大和国古市氏を中心に-」/所収:【書籍】「中世後期畿内近国の権力構造」
  • 古市新城之図
  • 平成27年(2015年)1月18日発行、古市氏系図続
  • 平成27年(2015年)2月8日発行、西坊家口伝集続々

古市城の口コミ情報

2022年06月05日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
油山城[古市城  周辺城郭]



この城は古市城の北にある、通称:高円の杜と呼ばれる丘陵一帯にあったとされる。インターネットサイトでは「油山氏の居城で、古市城の支城」と記されているが、詳細は不明である。一応、現地には「戦国時代 古市氏の油山城」と記された表示がある。現在、私が見た限り遺構はない。唯一鳥居前にある表示だけが油山城跡ということを伝えるのみである。

2022年06月05日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
八反池と古市城南方の谷[古市城  遺構・復元物]



この池は古市城の南の堀と言われる。しかし、発掘調査では何も出土しなかった。

2022年06月05日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
藤堂藩古市陣屋(奉行屋敷)[古市城  周辺城郭]



古市城本丸(字「上ノ段」、現:東市小学校周辺)の北西に位置する。延宝5年(1677)に藤堂高久が城和地域の統治のために築いた。築かれた場所は元々古市城の出郭の一部と言われている。宝暦6年(1756)に火災で焼失するが、すぐに再建される。さらに文久年間には天誅組征伐のために派遣された鉄砲隊がこの陣屋に入った。また慶応2年(1866)には天理教開祖である中山みきは、真言宗醍醐派からの提訴によりこの陣屋に勾留された。

現在、移築門と土倉の他は残っていない。またこの陣屋の門が帯解寺の近くにある龍象寺に移築され、現存する。

2022年06月05日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
古市高山城[古市城  周辺城郭]



古市城の南にある城である。詳細不明だが、古市城南方の出城とされており、廃城の頃からほぼ改変を受けていない。そのため、遺構が極めて良好に残る。

城は丘の端部を利用して築かれており、東側に穿たれた大堀切(というかほぼ横堀)によって城域を画する。主郭は城内の最高所に構えられ、堀切と接する部分には大きな土塁が構えられる。主郭の下には2段の曲輪が確認でき、近世の城郭用語で言う所の梯郭式、輪郭式の様な曲輪配置になっている。

現在、城に入るには北側の八反池沿いを通る小道から行くのが良い。

2022年06月05日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
藤原城[古市城  周辺城郭]



この城は別名「古市城山城」といい、古市城の南の丘陵上に位置する。多くのインターネットサイトだと、古市氏被官、藤原道順(箸尾氏の一族、藤原道長などの藤原氏とは無関係)ら藤原氏の居城と紹介されている。その一方で『奈良県中近世城館跡調査報告書』によれば、発掘調査の結果と「永禄元年の新城」の伝承から古市城の出城としている。また同書によると、その廃城年は織田信長による一国破城により破却された可能性があるとして天正8年(1580)頃と推定している。

城のある丘は東、南麓には小さな川(堀?)が巡っており、城の南西部で地蔵院川と合流する。その構造は丘の頂部に主郭を構え、東側に堀切を穿たれている。主郭の西には小さな長方形の曲輪が配置される。これの西側に3段の曲輪が配置され、一番したの曲輪の西側には空堀が掘られていた。

この城はほぼ全域発掘調査がされており、曲輪、堀切、建物跡、溝などが検出された。これら遺構の年代は16世紀中葉であった。現在(2022年6月4日時点)、城跡に入ることは不可能である。

2021年05月10日 藤岡主計助但馬
古市城



ぐるっと一周回ってみました。南側の池が堀のようです。かなり広いです。竹藪の中までは入らなかったので堀切とうが見れなかったのは残念です。小学校のある本丸と南側の堀とはかなりの高低差がありました。東側に小川の流れる溝がありましたが、堀の名残りなのかな?

2016年10月16日 橘若狭守次郎吉
古市城

古市城は現在の東市小学校付近が城跡だと云われている。小学校の敷地が本丸跡で、その北側には二ノ丸があったと云う。確かに、小学校付近は周りよりも高台になっていて曲輪っぽい。

遺構はあまり残っていないが、小学校の南側にある八反池が堀跡である。付近の池は殆どが堀跡なのかもしれない。また、八反池より南の字「高山」と字「城山」の竹林の中には古市城の出城跡の曲輪と堀切が残っているらしい。

石碑と案内板は小学校のグラウンドの南端にある。どちらも校内にあるので、許可を取ってから見学した方が良い。

城跡付近には字「古城」や字「城ノ下」、字「城山」など城跡を思わせるような地名が多い。

2015年03月24日 摂政 なつりん
古市城

周囲に駐車場はありません。
県道188号線沿いの東市小学校の坂の上に石碑はあります。

古市城の周辺スポット情報

 字「古城」(古市氏居館跡)(遺構・復元物)

 八反池と古市城南方の谷(遺構・復元物)

 藤原城(周辺城郭)

 古市高山城(周辺城郭)

 藤堂藩古市陣屋(奉行屋敷)(周辺城郭)

 油山城(周辺城郭)

 奈良縣護国神社(寺社・史跡)

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