古市城(ふるいちじょう)
古市城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 奈良県奈良市古市町他
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 古市氏
築城年
- 室町時代
主な改修者
- 古市澄胤
主な城主
- 古市氏
廃城年
- 天文12年(1543)
遺構
- 曲輪、横堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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古市城の解説文
[引用元:Wikipedia「古市城」の項目]古市城(ふるいちじょう)は奈良県に存在した中世の日本の城(平山城)。
【概要】
奈良市古市町に位置し、城跡は奈良市立東市小学校の校地となっている。当初は約150×200mの広い台地にあって堀を巡らせ、後に谷を隔てた南方の狭い丘陵も城地とされた。台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していた。最大時には5町四方で、南北西三方に各門があり、その大手を延命寺口といった。主要建物の屋根は板葺で、それ以外は茅葺等であった。主要建物の壁は白壁で、それ以外は土壁等であった。
【歴史】
当城を拠点とした古市氏は、1320年代より史料に登場し、室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在となった。
古市胤仙は文安元年(1444)の興福寺を二分する争乱では、経覚に従って当城から筒井氏と対峙し、筒井氏に代わり筒井氏に代わり衆徒の棟梁となるとともに、庶家の反抗を抑えた。文安4年(1447)には奈良を追われた経覚を半ば強引に古市に移し、続く古市胤栄は応仁の乱に関わるとともに一族・家臣の統制を強化して権威の回復に務めた。古市澄胤の代に全盛を迎えると城内に堀や馬屋、風呂などを設け、連歌や茶の湯が催された。
明応6年(1497)に筒井勢に敗れて落城し、城は破却された。同8年(1499)に細川政元の支援で澄胤が復帰して翌年に城を再建したが、永正元年(1504)に再び落城した。翌年さらに再々建され、同5年(1508)に澄胤が敗死すると後継の公胤は城域の中心を南に移している。天文12年(1543)に筒井順興に敗れた際、城は古市氏によって焼かれた。
古市氏の末裔
・加賀前田藩の小松中納言前田利常の御人持として3,600石で召し抱えられた。墓地は金沢市光覚寺、妙法寺、野田山、奈良市古市町にある。 ・豊前小倉藩茶道頭をつとめた(絶家)。墓地は北九州市の峯高寺と安正山立法寺にある。 ・肥後熊本藩茶道頭をつとめた。(肥後古流円乗坊流)
・三井寺山内円満院の坊官をつとめた。墓地は大津市の霊雲山新光寺にある。
【参考文献】
・角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(29.奈良県)』、角川書店、1990年
・田中慶治「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成 -大和国古市氏を中心に-」(初出:『日本史研究』406号(1996年)/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4)
・古市新城之図...[続きを見る]
古市城の口コミ情報
2016年10月16日 橘若狭守次郎吉
古市城
古市城は現在の東市小学校付近が城跡だと云われている。小学校の敷地が本丸跡で、その北側には二ノ丸があったと云う。確かに、小学校付近は周りよりも高台になっていて曲輪っぽい。
遺構はあまり残っていないが、小学校の南側にある八反池が堀跡である。付近の池は殆どが堀跡なのかもしれない。また、八反池より南の字「高山」と字「城山」の竹林の中には古市城の出城跡の曲輪と堀切が残っているらしい。
石碑と案内板は小学校のグラウンドの南端にある。どちらも校内にあるので、許可を取ってから見学した方が良い。
城跡付近には字「古城」や字「城ノ下」、字「城山」など城跡を思わせるような地名が多い。
2015年03月24日 なつりん河内守
古市城
周囲に駐車場はありません。
県道188号線沿いの東市小学校の坂の上に石碑はあります。