豊田城(とよだじょう)
豊田城の基本情報
通称・別名
- 豊田山城
所在地
- 奈良県天理市豊田町城平
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 豊田氏
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 豊田氏、松永氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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豊田城の解説文
[引用元:Wikipedia「豊田城」の項目]
豊田城(とよだじょう)は、奈良県天理市にあった中世の日本の城(山城)。
概要
天理市の現・天理教迎賓館の裏山に城跡が位置する。室町時代に付近に勢力を張った興福寺大乗院方の衆徒・豊田氏が居城とした。奈良県の城としては空堀が最も発達しており、二つの郭群を複雑な横堀が囲むほか、尾根の奥にも横堀がある。
室町時代中期に豊田頼英が台頭、明応年間まで豊田氏は越智氏・古市氏に属していたが敗れて没落し、筒井氏に属するようになった。永禄11年10月15日(1568年11月14日)に松永久秀に攻められ落城し、その後は松永方の支城となった。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(29.奈良県)』、角川書店、1990年
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豊田城の口コミ情報
2024年04月16日 金森出雲守
豊田城
曲輪の中心部は薮化しており、帰りは道に迷いかけました。倒木もあり、足元に注意が必要です。
2022年10月11日 百済門徒衆修理大夫とら
豊田城
先人のご案内のとおり県道51号側の登城口より登りました。10月11日の時点で、藪と蜘蛛の巣が酷く南郭までで断念しました。冬を待ち再度登城したいと思います。
2022年05月11日 前栽 大和守 重敏
豊田城
日暮直前に看板を発見。駆け足で見て回り、帰路、近くの玉英寺さんを門前から遥拝させて頂きました。
2022年03月12日 課長大和守Ver.B
内山永久寺跡[豊田城 寺社・史跡]
内山永久寺は永久年間鳥羽天皇の勅願により創建された寺院で、江戸末期までは多数の壮麗な堂宇を連ね西の日光と呼称される程に隆盛を誇ったものの明治に起こった廃仏毀釈の波に呑まれやがて廃寺となりました。
現在は浄土式庭園を構成していた本堂池がその面影を伝えるのみで、周囲は果樹園や畑となっており開きかけた梅の花が侘しさを際立たせていました。正に盛者必衰…(´ω`)
因みに近隣にある石上神宮には内山永久寺の鎮守社拝殿が移築されているそうです。
アクセスは国道25号旧道沿いより案内があり、クルマは本堂池脇に駐車スペースがあります。
2019年11月16日 課長大和守Ver.B
登城口[豊田城 碑・説明板]
県道51号側の登城口となります。
手前にある鰻料理店の看板前に駐車可能なスペースがありますがあくまでも自己責任で。
畑の間の小路を進んでいくとやがて石畳となり、石上神宮ルートと城跡への分岐点に至ります。
2019年04月29日 大隅守上
駐車場[豊田城 駐車場]
豊田城へは石神神宮に車を停めて歩いた方が良いです。途中で交わります。
2019年04月29日 大隅守上
登城口[豊田城 碑・説明板]
石神神宮側からの登城口
2018年02月25日 大隅守上
豊田城
車で来た場合登城口周辺には駐車場はありません。
天理教の駐車場を拝借するか
登城口から約2キロ先の石上神宮の駐車場に停めて石上神宮から歩くかどちらかです。
実際豊田城への別れ道に石上神宮方面って書いていたので道はあります。
僕は天理教の駐車場を拝借しました。
曲輪事は藪で見にくいですが
堀など遺構は見応えあります。
2017年01月14日 邦順大和守大八郎宗久
豊田城
登り下りを除き1時間半程滞在し、主・副郭、出郭、東郭周辺の散策、城南方の堀を見るならもう少し時間が必要ですね。
主・副郭と東郭を隔てる横堀は幅は広くないが長さがあり、入り込む谷をも利用した堀切の印象があります。
北側は傾斜強めの竪堀となり、主郭北側の横堀に逃げようにも土塁が邪魔して崖に転落、いや、主郭北側の横堀に虎口があるので、土塁で侵入者の侵攻を抑え、越えて堀を登る者を迎撃するのかも。南側は傾斜緩めですが段差のある箇所があり、侵入を遅らせる意図か。
主・副郭周囲は堀で囲まれ大勢の侵攻が妨げられる造りですが、主郭に土塁が見当たらず、副郭には少々あり。
南側の出郭は所々段差があり、どこかの段差の縁に僅かに土の盛り上がりと虎口のような凹みがあった気がしますが、空堀外側以外に土塁はなく、空堀内側は切岸だけで防備が心許なく感じます。
東郭は土塁あり。うろ覚えで申し訳ないですが囲みが半端だった印象があります。
藪が繁り、空堀は所により倒木ありと、散策や撮影に影響あれど、竪堀・横堀がしっかり残った城です。
2012年05月13日 治部少輔しん@蓋と城
豊田城
大和永享の乱の原因となった豊田氏の城。松永弾正の改修を受けた横堀や馬出しは見応えあり。看板も新しくなり、訪城しやすくなっています。