若槻環濠(わかつきかんごう)
若槻環濠の基本情報
通称・別名
- 若槻平城、若槻塁
所在地
- 奈良県大和郡山市若槻町
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 環濠集落
天守構造
- なし
築城主
- 若槻氏、吉岡氏、番条氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 若槻氏、吉岡氏、番条氏
廃城年
- -
遺構
- 横堀(水堀)
指定文化財
- 市史跡(若槻環濠及び集落)
再建造物
- 碑
周辺の城
-
稗田環濠(奈良県大和郡山市)[0.7km]
筒井城(奈良県大和郡山市)[2.0km]
大和郡山城(奈良県大和郡山市)[2.7km]
辰市城(奈良県奈良市)[2.7km]
窪之庄城(奈良県奈良市)[3.3km]
小泉城(奈良県大和郡山市)[4.0km]
古市城(奈良県奈良市)[4.5km]
大和田城(奈良県奈良市)[4.6km]
豊田城(奈良県天理市)[5.8km]
鬼薗山城(奈良県奈良市)[5.9km]
若槻環濠の解説文
若槻環濠の口コミ情報
2025年02月06日 ʀᴇᴅ副将軍
若槻環濠
環濠の形成過程が特定された貴重な中世環濠集落
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
若槻集落の歴史は古く鎌倉時代に形成されたと云われ、応仁の争乱期に環濠が整備されて武装化したと考えられています。
記録に残るのは1466年の若槻荘土帳からであり、集村して環濠が形成されて行きました。当初は東端の庄屋屋敷と西端の宮地を中心に集合した屋敷の2ヶ所に堀が造られました。
1595年の検地帳では、二つの堀をつないで東西に長い環濠となったことが記録されており、環濠形成の過程が判る貴重な事例となっています。
見所
若槻集落内に東西に約200m、南北に約70mの長方形をなした環濠が巡ります。大半が水路となっていますが南西部の天満神社周辺は残存度が高いです。
集落内の道は非常に狭く、車で入ると大変なことになります。近くに駐車スペースもありません。
かなり離れた場所に駐車し歩いて散策をしました。
駐車スペースを探すのと徒歩移動で散策中に日没となりました…
2024年08月01日 だんしゃく
若槻環濠
若槻環濠の説明板は北側に有ります。見つけにくいですが建物と田圃の境界に。
2022年02月28日 583系備前守きたぐに
若槻環濠
地図でもそれとわかる稗田環濠と違い、マップではなかなか環濠とわからなかった若槻環濠ですが、近づいて見て、初めて環濠だと実感しました。
稗田環濠から徒歩20分ほどです。郡山側からアクセスすると、団地や運送会社やグランドしか見えず、本当にこの先にあるのか?と思いますが地図を信じて進めば必ずたどり着けます。
城跡ではなく、現に人が住んでるところを見るので、集落の人とすれ違ったときは挨拶をしてたのですが、地元の方は城巡りの人に慣れている感がありました。
2012年03月01日 June02
若槻環濠
環壕及び環濠集落は、知ってはいましたが、訪れたのは初めてでした。
食わず嫌いで、お恥ずかしい…。
集落入口には標柱があり、集落内は狭い道、鉤型?と想わせる道、そして板塀や土蔵のある家、雰囲気のある風情にちょっとnostalgiaな気分をあじわいました。
写真は集落の北側西入口風景をアップします。
また、天満宮には濠と土居が残ってはいますが、周囲の濠はコンクリート化されてはいるものの、集落の自治と独立性を感じました。
尚、北側中央入口に説明板があります。
(ファミマ?5分?)
歴史
文正元年(1466)の『若槻荘土帳』に堀や屋敷の記載がある。これ以降、若槻集落が集村化して環濠を備えたとみられ、応仁・文明などの戦乱を機に軍事力の向上を目的に環濠が整備されたと推定される。文禄4年(1595)の検地帳では、2つの堀をつないで東西に細長い環濠が形成されている。遺構
若槻環濠は若槻荘園域内にあり、東西200m×南北70mの東西に長い形態だ。環濠はほとんどが細長い水路となってしまっているが、集落の西端部分は比較的よく残り、幅約3mほどが現存している。交通
・西日本旅客鉄道関西本線・郡山駅から車で約6分参考文献
・『若槻環濠発掘調査報告書第1次』大和郡山市教育委員会、2000年。・『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。