小泉城(こいずみじょう)
小泉城の基本情報
通称・別名
- 片桐城、(小泉陣屋)
所在地
- 奈良県大和郡山市小泉町2234-53
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 小泉氏
築城年
- 室町時代、元和9年(1623)[陣屋]
主な改修者
- 羽田長門、片桐貞隆
主な城主
- 小泉氏、片桐氏
廃城年
- 明治6年(1873)
遺構
- 横堀(水堀)、移築門
指定文化財
- -
再建造物
- 櫓、石碑、説明板
周辺の城
-
筒井城(奈良県大和郡山市)[2.5km]
大和郡山城(奈良県大和郡山市)[3.5km]
大和田城(奈良県奈良市)[3.5km]
椿井城(奈良県生駒郡)[3.9km]
稗田環濠(奈良県大和郡山市)[3.9km]
若槻環濠(奈良県大和郡山市)[4.0km]
下垣内城(奈良県生駒郡)[5.0km]
辰市城(奈良県奈良市)[6.0km]
宝来城(奈良県奈良市)[6.4km]
箸尾城(奈良県北葛城郡)[6.8km]
小泉城の解説文
[引用元:Wikipedia「小泉城」の項目]
小泉城(こいずみじょう)は、奈良県大和郡山市小泉町(大和国添下郡)にあった日本の城(平城)。別名、片桐城、小泉陣屋とも呼ばれている。小泉陣屋時代は小泉藩の藩庁でもあった。
沿革
小泉氏はもともと興福寺衆徒で1443年(嘉吉3年)に小泉重弘が大乗院門跡経覚と共に筒井氏と戦った。重弘はその後戦死するも、1455年(康正元年)に畠山弥三郎側についていた筒井氏が没落すると、古市氏、豊田氏、秋篠氏、尾崎氏、鷹山奥氏の国人らが勢力を拡大し、小泉氏と共に4年間興福寺衆徒についた。その後長い間筒井氏と対立していく。
1459年(長禄3年)、『大条院寺社雑事記』によると筒井順永軍が「小泉館」を攻めて小泉重栄、小泉今力丸等多くが切腹し、小泉館を破却するため奈良中の郷民に動員されたとされている。また『大条院寺社雑事記』には「館」と記載されているが、『日本城郭大系』によると「筒井城の場合と同様、城郭化していたものと思われる」と解説している。1475年(文明7年)にも落城し、またしても奈良の郷民に動員し破却させ筒井城の柱にしたと伝わっている。
筒井氏と小泉氏は反目していたが、天文年間には小泉秀元は筒井順昭の姪を娶って、筒井氏の重臣と活躍し、軍功によって1万4千石が与えられた。その後小泉氏は史料には記載されないようになる。『城と陣屋』によると筒井定次が伊賀国に移封すると小泉秀元とその一族は共に従ったとある。
その後豊臣秀長が大和国を治めるが、その家臣であった羽田長門がこの小泉の地に4万石で入った。この時に現在もあるナギナタ池、お庭池を含む外堀を造ったものと言われ、小泉氏の館跡を拡大したと思われている。 1601年(慶長6年)、豊臣秀吉に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城を含め1万5千石で大名の列に加わった。その後『茨木市史』によると「片桐氏の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」とあり、関ヶ原の戦い後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた龍田城や小泉城から、大坂城の近くにある茨木城に移って豊臣氏を補佐していた。
そして大坂の陣が終わると、今度は徳川家康より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石に加増され、片桐貞隆は1623年(元和9年)に小泉城に戻ってきた。ここより小泉陣屋として新たにスタートし、陣内にいた農民を街道筋に屋敷替えを命じ再び大きく改修した。
茶人として有名な石州流の元祖、片桐貞昌は小泉藩第2代藩主である。貞昌は弟の貞晴に3千石分知し、小泉藩は1万3千石となった。3代藩主貞房の時、庶兄の片桐信隆に1千石を分知したため、1万2千石となった。さらに収公され1万1千石となった。片桐氏は初代貞隆から12代貞篤まで代々と小泉の地を離れることなく明治維新を迎えている。廃城は廃城令によって取り壊されたと思われている。
小泉藩歴代藩主
歴代12代藩主(小泉陣屋主) 何代藩主 初代藩主 2代藩主 3代藩主 4代藩主 5代藩主 6代藩主 城藩主 片桐貞隆 片桐貞昌 片桐貞房 片桐貞起 片桐貞音 片桐貞芳 何代藩主 7代藩主 8代藩主 9代藩主 10代藩主 11代藩主 12代藩主 藩主名 片桐貞彰 片桐貞信 片桐貞中 片桐貞照 片桐貞利 片桐貞篤 歴代藩主の御墓は京都の大徳寺にある。
城郭
小泉城は大和小泉駅の西北約600mの台地上の先端部に建っていた。台地の東側は湿田で、更にその東側には富雄川が流れている天然の要害の地にあった。主郭部分は小泉城の西側にあり、150mの長辺で内堀に囲まれており、この内堀は1673年(延宝元年)に銀4貫目で完成したと『旧記』には記されている。この頃になると小泉城はほぼ完成され、外堀、薙刀池、お庭池に取り巻かれ、その中に家中の屋敷があり、内堀の内側には藩主の居館があった。
小泉城は小泉陣屋とも呼ばれているが、『ふるさと大和郡山歴史事典』では「城郭としての構えを十分に備えた大規模なもの」として、城下町は富雄川沿いの南北の並びに整然と出来上がっており、調練場も城外につくられた。これらは『小泉城復元地図』に記されており、今日の地割にそのまま残っている。
大手道は金輪院前にある鈎の手から西へ登る道が当時の大手道であった。門は3ヵ所設けられており、北、西北、南にあり、そのうちの1つは小泉神社の表門として残っている。この門は冠木門、高麗門と呼ばれるもので、この門が移築前と変化していないのであれば、その扉は透門形式で、外から見られやすい弱点がある。『ふるさと大和郡山歴史事典』では「内部を桝型形式もしくは通路を屈折させて遮断していたものと思われる」と記載しており、透門をカバーしていたのではないかと解説している。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR西日本 大和路線 大和小泉駅 → 徒歩約10分
- 車でのアクセス
- 西名阪自動車道 郡山IC → 国道24号 → 国道25号 → 奈良県道123号
- 近隣に駐車場無し
参考文献
- 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、458-460頁。
- 大和郡山市文化財審議会『ふるさと大和郡山歴史事典』大和郡山市、1988年5月、75-77頁。
- 鈴木良『城と川のある町-大和郡山歴史散歩』文理閣、1988年4月、94-97頁。
- 日本古城友の会『城と陣屋』浪速社、1970年8月、78-81頁。
- 茨木市史編纂委員会『茨木市史』茨木市役所、1969年6月、233-238頁。
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小泉城の口コミ情報
2022年09月25日 【羽柴】高猫宮内卿黒政
小泉城
この城は住宅街の中にひっそりとありました。
今回は時間がなく遺構は見に行けませんでしたが、石碑は見に行けました。
この城は元々小泉氏の城でしたが、江戸時代に入って片桐氏が中世の小泉城を利用して陣屋を築き、小泉藩が出来ました。片桐氏は幕末まで小泉藩の藩主として続いたらしいです。
先述述べたとおり住宅街の中にあり駐車場もないので、車での来城は辞めた方がよいかと。しかし、電車などの公共交通機関は近くに(多分)ないため、途中まで車🚗→徒歩🚶♀️と行った方が良いと思います。
2022年01月31日 しげしげ主税頭信繁
小泉城
付近の路地は極狭でとても車は停められません。ホームセンターに駐車させて頂き徒歩で10分程で小泉城碑に行けました、そこから少し下に降りると片桐城碑があります。
2022年01月20日 百済門徒衆修理大夫とら
多聞山城 移築門[小泉城 遺構・復元物]
所有者の石田家はここに住まわれていないので、現況のような状態です。
2022年01月03日 百済門徒衆修理大夫とら
中家住宅[小泉城 周辺城郭]
国指定重要文化財。いわゆる館城(やかたじろ)と呼ばれるものです。
中氏はもと足立氏と称したが、足利尊氏に従って大和入りし、中氏と改めて筒井氏の一族となりました。その後、筒井氏の伊賀転封に従わず大和に残り帰農しました。
主屋の創建は万治2年(1659)ごろで、屋敷は二重の濠と竹藪の土塁が廻らされており、中世の面影を色濃く残しています。また表門の前に架かる橋は板がはずれるようになっています。
現在も中家当主家族が住まわれていて、定期的なイベントを開催され、開放されています。敷地内の見学は事前予約制となっており、非公開期間も有ります。グループで申し込むのが良いかと思います。
以前、週刊新潮で千田嘉博先生が紹介していました。
連絡先:
〒639-1064
奈良県生駒郡安堵町窪田133
Tel:0743-57-2284
非公開期間 (原則)
7月15日~9月15日
12月20日~1月10日
見学時間
午前10:00~午後5:00 (相談により午前9:00から対応)
●見学料(修理・維持管理協力金)
大人 :¥500
中高生:¥300
小学生:¥100
(団体割引あり)
2021年06月19日 課長大和守Ver.B
馬場塚[小泉城 寺社・史跡]
長篠合戦にて戦死した馬場信春の五輪塔が何故か遠く離れた大和の地にひっそりと残っています。
元々は方形の塚上にバラバラになっていた石材を組み直したモノだそうですが地輪水輪は往時のままだとか。
地輪には「前敬礼司 氏勝墓 民部少輔甲陽武田家臣百廿騎之大将仕信虎公信玄公勝頼公而有戦功後依信玄公之命改馬場美濃守信房矣戦于三州長篠引率七百人初戦既得勝敵者多勢而十倍於味方勝頼公諸勢不得防而敗北於是美濃守討死于時天正三乙亥年五月廿一日」
という銘文が彫られており長文で被葬者の略歴まで記されるのは珍しいのだそうですが、本人の墓ではなく縁者が移り住んで築いた供養碑と伝わるそうです。
現在でも周辺には馬場姓の方が複数住んでおられるらしく意外な御縁が興味深いですね☆
2021年05月07日 右近衛中将かじくん
小泉城
小泉城跡石碑の他、小泉神社にはかっての城門が見れます。小泉神社の駐車場利用が便利です(^^)
2020年08月27日 大納言Z周防守369
龍田城[小泉城 周辺城郭]
興福寺・一乗寺方衆徒の龍田氏によって築かれた城。1601年に片桐且元によって陣屋が築かれた。大坂夏の陣では豊臣軍によって放火されたといわれている。1694年、片桐家に嗣子がなく、小泉城の本家と合流する形で断絶となり、陣屋も廃された。
現在は宅地化されているが、城跡の前にある平太池と呼ばれる池が外堀跡としてわずかに遺構が残っている。
2018年04月29日 織田上総介晃司
小泉城
小泉城(小泉陣屋)は住宅街になっているのでわかりにくいうえ駐車場もありません。
住民の迷惑になるので路上駐車も止めましょう。
まずは小泉神社を目指して本殿裏の駐車スペースに停めます。
神社の正門は小泉城の移築門ですので、まず拝見して社務所脇の裏門をくぐり右に進むと御庭池と呼ばれる水堀と模擬櫓が見えてきます。
模擬櫓には城主様が暮らしてますので中に入ることはできません。
小泉神社で御朱印を頂くことができます。御朱印集めてる方は御朱印帳を持って行きましょう。
2018年01月01日 木下近江守湖一郎
小泉城
住宅街にある城跡です。グーグルマップで見ると堀に囲われ、丘陵の先端にある要害であることがわかります。堀はなかなかの規模ですが、主郭は住宅街になっていますので、目を見張る遺構といものはありません。
ただ、近くには小泉城の近世の城主 片桐石州(徳川光圀のお茶の師匠)が建立した表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席と境内全体が茶席となっている慈光院があります。
小泉城から移築門のある小泉神社、富雄川に沿って広がる城下町(雰囲気のみ)を歩き、慈光院でお茶を楽しむと半日ぐらいで、小泉の地を堪能できます。メジャーな奈良観光に飽きた方にオススメです。
2015年07月04日 太閤 なつりん
小泉城
跡地の周辺は住宅地で道も狭く路上駐車は控えましょう。
目と鼻の先に小泉神社があり境内には駐車場が若干あります。
お参りの後に徒歩ですぐ探索出来ます。
2014年05月04日 中務卿一之介
小泉城
スマホのナビとおりに行って、着いたところは説明板と石碑だけがある場所でした。近所に城跡があることを指してはいましたが、個人宅のようで、入れませんでした。
何人かの方が写真投稿している、水堀に復興櫓の場所は、ここからさらに先に5分ほど歩きます。住宅街の中を歩きます。「ナギナタ池」とされている場所が水堀で、その脇に復興櫓(櫓に似せた建物?)が建っています。片桐氏のご子孫のものと思われます。
※周辺を歩き回って、やっと櫓を見つけました。現地の状況が想定とは違っていたら、口コミに書きましょう…後から訪れる方のためにも…