椿井城(つばいじょう)

椿井城の基本情報

通称・別名

椿井山城

所在地

奈良県生駒郡平群町椿井、平等寺

旧国名

大和国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

椿井氏

築城年

室町時代

主な改修者

松永氏?、嶋氏?

主な城主

椿井氏、嶋氏、松永氏?

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、土橋、土坑

指定文化財

再建造物

周辺の城

下垣内城(奈良県生駒郡)[1.1km]
立野城(奈良県生駒郡)[3.5km]
小泉城(奈良県大和郡山市)[3.8km]
信貴山城(奈良県生駒郡)[4.5km]
片岡城(奈良県北葛城郡)[5.2km]
高安城(奈良県生駒郡)[5.3km]
大和田城(奈良県奈良市)[5.6km]
神感寺城(大阪府東大阪市)[6.0km]
筒井城(奈良県大和郡山市)[6.3km]
菜畑城(奈良県生駒市)[6.5km]

椿井城の解説文



椿井城(つばいじょう)は、奈良県生駒郡平群町椿井にあった日本の城(山城)。椿井山城とも呼ばれる。

概要 

椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏の居城であったとされる。室町時代から戦国時代までの間に築かれたとみられ、現状では山林内に全長310mの長大な遺構をよく残す。最近は地元有志によって遊歩道や標識設置などの整備が行われ、城跡の見学が容易になっている。2010年に地元住民の整備活動に便乗する形で、町による城跡を公園とする計画が立案され遺構破壊を含む内容の物であるとして物議をかもしたが、現在に至り遺構保護を最前提とした計画に変わって進行中である。

現存する椿井城は平群町と斑鳩町の境界に近い矢田丘陵南部山上に存在する。南北310m、東西110mの規模を有し最高所は北部の主郭部分241.5mである。縄張りの遺構は北群と南群に分かれる。尾根上の五ヶ所を堀切で遮断し、郭や横堀や土塁や土橋などを設ける。

中心となる郭は北群の主郭で、東側に土塁を置いて下に横堀を回して防御する。郭の組み合わせも複雑で、切岸による防御線を重ねつつ城内ルートの流れにも工夫がみられ、全体的に戦国時代末期の手法を示す。南の郭群は尾根上に郭を直線的に配し、東側に石積み遺構の一部が残る。土塁も部分的に散在して古い様相をとどめるため、南群が古く北群が新しいという特徴を指摘する声もあるが、最近の説では南北両群とも同時期のものとする説が出されている。従来は土豪椿井氏や嶋左近の居城としてそれらの築城が言われていたが、史料では確認がとれず、城郭研究者の側からは松永弾正久秀が関わっているとの新たな考え方も出されている。椿井城を信貴山城の出城とする考え方もある。

椿井城の縄張図は、これまでに日本城郭大系の掲載図、平群町教育委員会の報告書の掲載図などが知られていたが、最近の整備活動によったものか、こちらに掲載される縄張図のほか、検索すればネット上でも新たな縄張図が公開されていて自由に見ることが出来る。なお縄張り調査はまだ進行中ということであり、今後さらに新たな縄張図が発表されてくるであろう。

尚、平群町には椿井城以外の城郭遺構として、信貴山城、上庄北城、三里城、西宮城、下垣内城、高安山城、平等寺館等がある。

沿革 

[1]

  • 椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏の居城であったとされる。最終的には嶋左近の居城となったと言われているが、史料からは嶋左近の居城であった事実を確認できない。

  • 筒井氏家臣団の各伝承で「椿井ノ古塁」や「平群ノ塁」の名前が出てくるようだが、現在の椿井城にあたるかどうかは史料では確認できない。したがってこれらは伝承に過ぎないか、または他の城を指している可能性も考えられる。また、城主を「椿井右近大夫」と伝えるのも伝承に過ぎず、現存する椿井氏系図にみえる「椿井右京大夫政信」とは無関係かもしれない。なお「嶋城」の名前は長禄4年に畠山義就の攻撃を受けた城のことを指すと思われ、時代も全く違うために椿井城とは無関係とするのが適当であろう。従来の研究においては「嶋城」を現在の下垣内城にあてる説が知られるが、当時の椿井城が何城と呼ばれたか、または城として登場していたのかは全く分からないので、伝承をいくら挙げてみても史実は不明のままである。

  • 椿井氏は江戸時代に尾張徳川家に仕えて幕府に系図を提出しているが、戦国期の当主「政信」の三子である「幸通」の系統が「南八郎」を名乗り、これが「多聞院日記」永禄10年6月21日条にみられる「南夫婦」に関連する可能性がある。系図では椿井氏歴代の居住地に関して「下河原之館」の名も登場するが、「幸通」の系統に関する記載ではなく「幸通」の長兄であった「澄政」の第三子である「政矩」の第六子「良利」(椿井市朗馬助)が天文六年に「下河原之館」に居住し「下河原大明神」を鎮座した宮殿者として系図に登場するのみである[2]。よって、「下河原之館」と「南八郎左衛門尉」である「幸通」を積極的に結びつける根拠は確認できない。現在「下河原大明神」は椿井春日神社に祀られているが、旧社地は現在の平群南小学校付近にあり「下河原之館」もその近辺にあったと想定できる。以上の事から、系図にある椿井氏の面々「幸通」「良利」等の系統が椿井城に関連したかどうかは現在のところ謎のままである。

  • 現存する椿井氏系図には「椿井右京大夫政信」のほかに「澄政」「政矩」「政勝」「信政」などの歴代の名が見えるが、全て「政」の字を持ち、それとは別に「幸政」「幸通」「幸景」など「幸」の字を持つ系統があり、このうちの「幸盛」が「南八郎左衛門尉」とある。

  • 平群方面では筒井氏と松永氏の小競り合いがずっと続いたようだが、松永氏は滅亡する天正5年10月まで椿井城をおさえていたとみられる。伝承では筒井氏が椿井衆と共に「嶋城」を数度にわたって攻めて失敗したというが、この「嶋城」は前述の下垣内城かもしれない。椿井城がいつ筒井氏に渡ったかは不明だが、松永氏の滅亡後であることは間違いなく、嶋左近が入ったのも天正5年10月以降とみられている。その後、天正8年の織田信長の破城令によって廃城となったため、嶋左近の居城であったとしても三年足らずであった。

  • 伝承では、椿井城の最終段階においては筒井家重臣の八條長祐(はちじょうながひろ)が城番となっていたとされるが、時期が不明である。

  • 平群谷地域に現存する城郭遺構としては、椿井城の他に西宮城、下垣内城、上庄北城、三里城などが知られるが、上記の伝承類にみられる城名のどれに相当するか分かっていない。

縄張 

城郭遺構詳細 

  • 概要でも少し触れているが、椿井城の一番の特徴は北部と南部で築城プランに相違のある点である。それが築城年代の相違及び築城主の違いにあるのか、山稜の地形及び街道等の周辺環境による物かは現在推測の域を出ていない。おおよそ南北に連なる一本の尾根上に郭が並ぶ山城遺構ではあるが、北部と南部の中間点である鞍部には人の手の加わった遺構らしき物があるものの城郭遺構との判断が難しい為北部と南部の連絡性は明確で無く、相反する様に南北の遮断も明確では無い。形態的に「別城一郭」の様相を呈しており、従来言われている様に南北郭群や、南群、北群と呼ぶよりは北城、南城と呼ぶ方が正しいと思われる。但し、中間地点にある鞍部には西の平群谷椿井郷より北東の白石畑を経由して斑鳩及び松尾寺方面に抜ける街道が通っていたと考えられ、関所的な検門所が南北両城に挟まれる形で存在した可能性も考えられる。

  • 南城は南北に3枚の郭と2本の堀切にて構成されるが、主に急峻な切岸に頼るだけの構造である。南の堀切は城域内外を遮断する位置にあるが、進入路としての土橋を有する。中央部の堀切は南の副郭と北の主郭の間にあって両郭を遮断するが南北それぞれへの通路は存在せず城内ルートとしての活用は無かったと思われる。中央部の堀切の方が広く郭面との比高差も大きく立派であり西側に道の様な遺構が続いているが、堀切内には障壁が存在しており堀切が西側の道に繋がっていたとは考えにくい。西側への道は途中で確認できなくなるが、西麓にある椿井春日神社への道が登城道として繋がっていた事を想像させる。
  • 椿井春日神社方面西麓より登城道を来た者は障壁の為中央堀切内を通らず副郭西のステップより一旦副郭に入り、南の副郭北東隅より主郭東斜面の通路状虎口へ架かる木橋にて主郭へ至ったと思われる。
  • 主郭は中央部の郭で南城中一番の比高と広さを誇り東側斜面には石積及び竪掘状の溝が一本確認でき、西側斜面は非常に急峻で敵を寄付けない地形である。土塁は一本だけであるが、南の堀切及び東斜面の虎口防御用として南東側にある。
  • 南にある副郭は、堀切土橋から続く虎口を2本の土塁で防御し土橋を斜めに南東から北西に掛ける事によって西側土塁を障壁として一折れさせる工夫がされている。
  • 南城にある土塁は全て虎口防御及び南方警戒の為であり、東西斜面にはまったく存在しない。これが北城との大きな相違点となる。

  • 北城は南城よりも規模が大きく構造は複雑である。堀切は全部で3本、東西南北に幾重にも郭を並べ、西側には帯郭群による駐屯地、東側には土塁、塹壕としての機能を兼ね備えた横堀を持つ。更に東側の斜面には竪掘状の溝が数本確認できるが、判断が難しく竪掘であるかないかは今後の調査に期待したい。
  • 主郭は東側に土塁のある最高所の郭で、規模的に見て戦闘指揮所程の物であったと考えられる。
  • 副郭は一段低い虎口受け郭を挟んだ主郭と同じく東側に土塁を持った大きな郭で何らかの建物が存在した可能性のある郭である。中間にある一段低い虎口受け郭には、竪土塁で空間を制限された虎口が西側に開口している。
  • 北城に於いて何より注目すべきは、東西両側での構造の違いである。西側に広がる帯郭群は単純に切岸だけの防御に頼る構造であり、土塁も無く工夫はあまり見られない。西の平群谷よりの比高と急峻な地形も無視はできないが、防御正面とはあまり考えられず駐屯地として利用されていたと考えられる。一変、東側は複雑な構造を呈する。まず北城の郭にある土塁は全て東側を向いており、北の堀切の東延長線上には西側に無い土塁に遮蔽された横堀が有って、東の谷に対する射線を構築する塹壕としての機能も兼ねていたと思われる。又、一番北に有る郭と1本堀切を挟んだ主郭、そして大きな虎口受けを挟んだ副郭に至るまでの100m程の尾根上は緩く西側に弧を描き塁線がカーブする為、横堀を突破し斜面を攻め上がる東からの敵に対しそれぞれの郭より横矢を射掛ける工夫がされている。この様な東側の構造的な工夫は、東の谷との比高差が小さいという弱点を補う為の物か、若しくは東の谷沿いにあったと考えられる白石畑への街道を意識した物なのか判断が難しいところではあるが、北城の防御正面が東側にあった事は疑いの無いものと考えられている。
  • 遮断性も見事に徹底されており、南北堀切で囲まれた主郭周辺の中心部及び西駐屯地郭群が一つの区画となり、その区画内での移動は容易に可能であるが、それ以外の郭(区画)とは堀切や切岸にて完全に遮断され、現在に於いては移動する為のルートを地表面に見出す事は不可能である。恐らく作事に於いてルートが付けられていたと考えるべきであろう。純粋に戦闘意識に特化した縄張であると考えられる。戦う城である。

  • 以上、城の規模、敵対正面、城の詳細な構造等から、信貴山城の松永久秀に対峙する形で椿井城が造られたと言う説は遺構の検証から見て考えにくく、むしろ北城に関しては松永氏が築城、若しくは改修し東の筒井勢に備えたと見るべきであろう。椿井城に於ける嶋左近(島清興)の信貴山城対峙説は、最新の研究によって疑わしいとの声が多い。

整備後調査による仮説の推移 

2011年

  • 公園開発の立案がなされ、事前調査が2011年より行われる事となった。現在(2011年12月)のところ発掘による調査の予定は無いが表面観察による詳細な調査が三重大学大学院 中川貴皓氏によって進行中である。現在(2011年12月)までの調査結果を基にして中川氏の城郭への評価及び新説を確認の取れた事項のみまとめたい。

  • 以前までの城跡はブッシュに覆われ地表面の確認が非常に困難な状況であったが、2010年より地元住民の努力によって草が刈られ一部樹木も伐採され地表面調査に最適な状況になりつつある。そう言う状況下での見解である。

  • 城郭全体像に於ける中川氏の見解を簡単に説明すると、城は概ね一つの城郭として評価すべきで南北に顕著な時代差は見られないと言う見解である。但し城は細分化すると三つの区画に分かれており、北の堀切から副郭南の堀切までを北区画[3] 、副郭南の堀切から方形郭と一つ南の郭までが中区画、鞍部を挟んだ南にある南城部分が南区画である。敵来襲の予想正面は主に南であり、南区画・中区画・北区画と段階を持って戦闘を行う意図が縄張に感じられると言う事だ。東の横堀、東を向いた土塁等は東谷の比高差の少ない弱点を補う物として評価しているが、東方よりの筒井勢の来襲にも当然備えていたと見るべきであるとの事だ。つまり、まず南区画で敵と交戦しいよいよ防げぬとなれば素早く鞍部を移動し中区画まで下がり、中区画の郭に再度篭って敵を迎え撃ち、そこも駄目となれば堀切に掛かる木橋から北区画へと更に下がって最終的に北区画(中心部)に於いて敵を迎え撃つという三段階の戦闘を想定した思想による築城であると分析されている。鞍部にあってもおかしく無い堀切が無いのは南区画より中区画への移動をスムーズに行う為と言う見解であり、中区画にある方形郭は中区画に於ける戦闘指揮所であって方形に整形され四方の眺望を良くしていると言える。

  • 残存遺構に於ける構造の詳細評価については、幾重にも寸断された城の中で最南の堀切に土橋があるのは重要な出入口であり、是非にも土橋を設けて移動を安易にする必要があったと評価している、主要な登城ルートを示唆するものか・・・。又、堀切土橋の土塁障壁による虎口の折れや木橋での移動、北中心部主副郭に挟まれた虎口受け郭への内枡虎口、そこから更に主郭に上がる際の二度折れする内枡虎口等の構造も優れた物であると評価されている。そして主郭部の南部塁線が竪土塁の線と一直線となり間に虎口への折れが挟まれる部分などは高度な技術が垣間見えるとの事である。

  • 東斜面にある横堀に関しては、城兵の配置は無かったのではないかとの分析もあり、敵兵に対する障害だけとして見る可能性も示唆されている。

  • 自然地形を巧みに利用し、無駄の無い縄張にて土木量を無理に増やさず大きな効果を得ている城として評価すべきだとし、近畿の城の中でも完成度のかなり高い城として評価すべきだとしている。

  • 最終的に築城主に関する検証は城の規模と高度な縄張から見て筒井順慶の一被官であった嶋左近では考えられず、松永配下の武将による築城であろうと推測されている。

  • まだ調査は続いており、ブッシュに覆われた部分も存在する。今後の整備と研究によって新たな評価、新説がでる可能性は大である。

城跡研究史 

  • 1976年「平群町史」 塚信一
鞍部より北東白石畑への道の存在。東谷にある井戸とバックヤードの存在。正確な測量による郭面のサイズ、堀切の深さ計測。築城主嶋左近説。
  • 1980年「城郭大系」 村田修三
土橋や土塁の遺構評価。周辺交通の要衝による選地説。椿井氏の関与の示唆と嶋左近及び筒井方築城説。
  • 1989年「平群町遺跡分布調査既報」 村社仁史
平等寺館とのセット関係。南よりの敵を想定した城構評価。平等寺方面よりの登城道示唆。横堀部分への役割評価。築城主筒井傘下嶋左近説。
  • 2004年「図説近畿中世城郭辞典」 村井毅史
南北それぞれの詳細評価。虎口防御の低評価。主城、南城との区分による別城評価。築城主は言及無し。
  • 2011年「椿井城・信貴山城跡整備構想立案業務による調査」 中川貴皓
南北一体一城及び北・中・南区画に分けた築城思想の初評価。南よりの敵を重視した構造。城内ルートに於ける作事面への言及。遺構面詳細分析による虎口の折れ、自然地形を巧妙に生かした普請への高評価。椿井郷より鞍部を通った白石畑への街道はなかったとの評価。詳細な測量による正確な図面の初作成。築城思想の新解釈。現存松永系城郭と現存筒井系城郭との比較及び、城郭全体規模及び地勢等の分析による築城主検証。築城主松永系武将説。

参考文献 

  • 村田修三編集「日本城郭大系」第10巻 331ページ「椿井城」1980年
  • 平群史跡を守る会「烏兔」第83・84合併号 椿井氏の資料「椿井氏系図(1)」(2)2009年
  • 平群史跡を守る会「烏兔」第85・86合併号 椿井氏の資料「椿井氏系図(1)」(3)2010年
  • 塚信一「平群町史」1976年
  • 村社仁史「平群町遺跡分布調査既報」1989年
  • 村井毅史「図説近畿中世城郭辞典」椿井城 2004年
  • 中川貴皓「城跡ウォッチングモニターツアー」椿井城 レジメ 2011年

椿井城の口コミ情報

2022年03月23日 イオ紀伊守
椿井城



矢田丘陵南端の南北ふたつのピークを中心に連郭式に曲輪群を配した山城で、北郭群が主城と考えられますが、北郭群は遺構保護のため見学路が整備されるまで進入禁止になっています。

道の駅の第二駐車場に駐めさせてもらって登城開始。東側に聳える山並みが椿井城のようです。登城口までは10分ほど歩きますが、あちこちに案内標識があって迷う心配はありませんでした。登城口は、地名の由来であり聖徳太子ゆかりの椿井井戸側と椿井春日神社側の二つあり、北郭群と南郭群の間の鞍部に続く椿井春日神社側が大手道にあたります。なお、椿井春日神社境内の西隣には宮山塚古墳と呼ばれる円墳がありますが、墳丘から大手口まで土塁が築かれ、墳丘は削平加工されて、大手口の防衛施設となっていたようです。

大手口から登ること約10分で鞍部に到着。北郭群側には進入禁止の案内表示と柵が設けられていますが、笹藪と化していて整備している様子は窺えません。鞍部から南に数段の曲輪を抜けると南郭群の主郭です。主郭には椿井城ののぼり旗がはためき、西側には平群谷と生駒山地の眺望が開けています。説明板によると主郭東下には石積と竪堀があるようですが、笹藪の中でよくわかりませんでした。主郭の南端には土塁があり、土塁の脇から下りて行くと副郭との間を隔てる深い堀切が設けられています。副郭には新しい説明板(2020年12月)とのぼり旗が建てられ、南端の浅い土塁の先には堀切と土橋があります。遺構保護のためでしょうか、土橋に人工芝が敷かれているのは残念ですが、土橋は細く両側は鋭く落ち込んでいて怖いほどでした。南郭群はここまで。土橋を渡って登城道を下って行くと山麓に宮裏山古墳があり、そのすぐ下が椿井井戸登城口です。

何年か前から北郭群の整備が済んだら訪れようと様子を見計らっていましたが、なかなか進展が見られないので、しびれを切らして来てしまいました。南郭群だけでは規模的に少々物足りなくはあるものの、眺望は良く、堀切は深く鋭く見応えがありました。説明板によれば発掘調査は済んでいるようなので、いずれ北郭群の整備が進められるんでしょうけど、以前は登城道すらない藪の中の城だったのがここまで整備されたんですから、気長に待つことにします。

2022年01月26日 ひろ兵庫頭
椿井城



道の駅第2駐車場に車をおいて攻城開始。20分もあれば最初の遺構に到着。北郭は立入禁止なのであっけない攻城でした。

2021年10月17日 さすらい
椿井城



投稿日現在、北曲輪への立ち入りは禁止されてました。南曲輪は見学可能で、堀切や土橋が出迎えてくれます。ロープを利用する箇所があるので、軍手があるといいですよ。

2021年01月12日 菊姫
三里城[椿井城  周辺城郭]



孤立ピークのほぼ単郭の城です。
城の南側を山道がありますけど城への道はありません。矢竹の藪です。
山頂(東)からは難しいので手前(西)から独立尾根に取り付きピーク主郭に向かえれば楽に上がれます。

2020年11月29日 大納言Z大納言369
椿井城

道の駅大和路へぐり第2駐車場に🚗を駐車して(無料、ただし午後6時で閉門)、徒歩5分で登城口。そして15分程度登れば、南副郭に到達できます。南主郭は堀切を隔てて隣接しています。
登城道は不安定な場所、滑りやすい場所が多くありますので、登城の際は慎重に進んで下さい(特に降りる時)。
また、2020年11月末現在、北主郭は何年か前の台風の影響で進入禁止となっております。

2020年11月29日 大納言Z大納言369
平等寺館[椿井城  周辺城郭]



椿井城の平時居館だったといわれている。嶋佐近もここに住んでいたのだろうか?

2020年11月29日 大納言Z大納言369
大手道登城口[椿井城  碑・説明板]



北側からの登城道で、北主郭へはこの道が近道なのだが、ぬかるみや枯れ葉の堆積物が多く、滑りやすくなっている。また、北主郭は2020年11月末現在、何年か前の台風の被害の影響で進入禁止となっているので、要注意の登城道である。

2020年11月29日 大納言Z大納言369
宮裏山古墳[椿井城  寺社・史跡]



椿井城南登城口を40m程登った登城道沿いにある直径約15m、高さ約4.5mの円墳。横穴式石室で築造は6世紀後半から7世紀初頭と推定されている。

2020年11月29日 大納言Z大納言369
宮山塚古墳[椿井城  寺社・史跡]



直径約26m、高さ約7mの円墳で、近畿地方でいち早く横穴式石室を取り入れた古墳といわれている。
椿井城への登り口に造られた土塁施設に取り込まれたようで、墳頂部が平坦に削られており、円墳だが方形に加工されているようです。

2020年11月29日 大納言Z大納言369
椿井井戸[椿井城  遺構・復元物]



聖徳太子が物部守屋を征伐する際、この地に椿の杖を立てて戦勝を祈願された。
すると、一夜にして冷泉が湧き出し、兵士達にも振る舞ったところ士気が大いに上がり、守屋との戦いに勝ったという井戸。

2018年05月30日 カーネル
椿井城

近鉄生駒線の竜田川駅から

駅前に、椿井城までの丁寧な地図があり、歩きだしても各所に標識があるので分かりやすくて、助かります
住宅街の坂道を登り始めると井戸があり、その奥から山に入ります。ここには、『注意:椿井城には建物はありません』の案内が涙を誘います

山道を登り尾根を左折すると、堀と土塁を超えて南郭に、到達。説明板が多数で、見逃しそうな石垣にも標柱があります

北上して北郭が整備中の看板で左折して山を下ると古墳と春日神社に下山できます

東へ向かい、川と線路を超えたら北上して平群神社を目指します。その西側が西宮城と下垣内城ですが公園です
休憩するには、いいところです

ここから竜田川駅に戻り、全行程で2時間でした

2018年04月30日 生駒守大和守
椿井城

昨年(2017年)4月より北郭跡は、教育委員会による発掘調査が始まり、未だ立ち入りが禁止されています。
また北側ルートで南郭へ上がる際、雨上がりは相当、道がぬかるみ、スニーカー等では困難です。

2016年11月07日 中山刑部少輔
椿井城

山道登ること30分、椿井城を攻略!
普段の運動不足を痛感しました。
もう一度鍛え直さないとね(^_^)


2016年06月22日 シバヤン近江守雲外蒼天
椿井城

(続き)
南側主郭の山頂からベンチで腰を下ろし道の駅へぐりで買ったお好み焼き(コロッケ入り)を食べて一服。
左彼方に信貴山城が見えます•••。そして道の駅へぐり裏にも城があり、麓の国道を左右から監視するかのようです•••。
松永久秀さんは茶道のセンスも抜群ですが、城作りのセンスも抜群なようです。
この椿井城は先に行った多聞山城と信貴山城の中間点にあることに気づきました。
また東にのばすと龍王山城に繋がります。
松永久秀の大和国の完全支配に執念を垣間見えて驚きました。
筒井順慶の島左近らを派遣させるも旗色が悪くて悔しがる姿が目に浮かぶようです。
久秀も信長の家臣になるも順慶の立ち回り?が上回り久秀は冷遇されて苦労して治世した大和国を順慶に奪われるに至り、反旗を翻すことに•••。難攻不落を自慢の城の信貴山城も多聞城、椿井城等との兵站の連携ネットワークを断たれては、持たない!
最後は自慢の平蜘蛛と爆死。
「くそったれが~」(言葉きたなくすみません)彼の叫び声が聞こえてきそうです。

松永久秀、悪いイメージが定着してますが、好きですよ私は•••(^_^)



2016年06月22日 シバヤン近江守雲外蒼天
椿井城

道の駅へぐりにて椿井城の資料を仕入れて登城開始、国道から南に歩き第二駐車場から東進めば案内プレート等あり迷わず着けます。椿井神社脇の椿井井戸を見て通過したら登城口。なかなかの急坂に息が上がります(笑)、この時は薮蚊も多く登城の際は対策怠りなく!
右に左に山道をヒーハー言いながら30分かけて登り•••南側主郭かと思いきや大きな堀切ありびっくりです!
をロープを頼り堀切に降り登ると副郭でした。汗だくの身体に渇をいれ主郭へ•••するとまたしてもさっきより大きな堀切!またロープを頼り上がれば南側主郭です。椿井城の旗が翩翻とたなびき気分は椿井城主です(^o^)。
山頂にトイレは無く、ベンチあるのみ。この城の見所はこの2つの堀切です。堀切を降りて山肌を散策すると一部石垣が残っていますが、急坂な為足元が危ないので注意して下さい。
北側の主郭は立ち入り禁止の表示あり今回は、ここまででした。
北側は南側より更に高所らしく平群の町並を睥睨する感です。
春日神社内からも登城口がありますが、藪が深く足元が危ないので椿井井戸側の登城口からをお勧めします(;^_^A

(続く)

2016年02月01日 まるき〜主殿助
椿井城

道の駅大和へぐり くまがしステーションから見える山の上に椿井城があります、よ〜く見れば幟が二本立っているのがわかります。
道の駅は混雑している事がありますので オススメは道の駅の南の信号(T字の交差点)を山側に入った所にある第2駐車場が案外空いています
(こちらの方が城に近い…)

国道168号線より一筋山側の道を南に歩き竜田川駅まで0.7キロの目印の所を山側に、後は椿井城まで目印があちこちにあり迷わず春日神社の横の登城口まで行けるかと思います。
かなりの急坂ですが約15〜20分位で南廓群まで到達できるかと…
最近見学する人が多いのか遺構の傷みが激しい為、土橋部分は人口芝のシートが掛けられ廓内はブルーシートで保護されている部分も目立つ、北廓の方は立ち入り禁止となっていました…
ロープを伝って上り下りする所もあるので必ず両手が使える格好で

登りよりも下りが落ち葉等で厳しいように思えます、怪我のないよう城攻めして下さいね
(=゚ω゚)ノ

2014年12月29日 友弥
椿井城

主郭、北郭にはまだ入れず。。

2014年05月05日 大宰大弐あさよし
椿井城

北郭は未だ入れませんでした。また車を置くスペースはありません。近くの道の駅をお借りするしかむつかしいかもです。

2013年05月13日 邦順大和守大八郎宗久
椿井城

昨日久しぶりに訪れた所、多数の見学者が訪れて遺構が傷んだ為に北郭は当面見学不可に、南郭は柵による区切りや土橋に芝シートなど保護措置がされていました。
またツツジが満開ですが、毛虫、羽虫、蜂(雀蜂?)、蛇などに遭遇するので、見学の際はご注意を。

2012年06月19日 【隠者】史学会帰新参
椿井城

ふもとの道の駅に椿井城の簡単なパンフレットがあるので、パンフレットを見てからの城見学がオススメ。城の北側は備え付けのロープで登り降りする事になる。

2012年06月07日 ステイゴールド弾正少弼久秀
椿井城

10年くらい前に焼却場側から難儀して登った時の頃とはガラリと様変わりし、中世の城らしく、見えてはきましたが。。この地表が見えそうな今の状態では、雨風によって遺跡が崩壊していくような気がしますね。大丈夫だろうか?心配です。

2012年05月22日 ひろり
椿井城

2012/04/29 南郭群で雀蜂を目撃しました。登城される方はご注意を。

2011年11月05日 イワン式部大輔ナイショビッチ
椿井城

「ブッシュだらけで難攻不落」と聞き及びましたが、今はキレイに整備されてます(^^)/今日も数名の地元の方が下草刈ってました。

椿井城の周辺スポット情報

 椿井井戸(遺構・復元物)

 登城口(碑・説明板)

 大手道登城口(碑・説明板)

 椿井城 案内板(碑・説明板)

 平等寺館(周辺城郭)

 三里城(周辺城郭)

 上庄北城(周辺城郭)

 宮山塚古墳(寺社・史跡)

 宮裏山古墳(寺社・史跡)

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