大和郡山城(やまとこおりやまじょう)

大和郡山城の基本情報

通称・別名

郡山城、冠山城、犬伏城、雁陣之城

所在地

奈良県大和郡山市城内町2-18

旧国名

大和国

分類・構造

輪郭式平山城

天守構造

型式不明[5重6階?/1583年築/焼失(火災)?]

築城主

郡山衆[雁陣之城]、筒井順慶[郡山城]

築城年

応保2年(1162)[雁陣之城]、天正8年(1580)[郡山城]

主な改修者

筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛

主な城主

筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏

廃城年

明治6年(1873)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

県史跡(郡山城跡)

再建造物

追手向櫓、追手門、東隅櫓、多聞櫓、石碑、説明板

周辺の城

大和田城(奈良県奈良市)[1.9km]
稗田環濠(奈良県大和郡山市)[2.1km]
若槻環濠(奈良県大和郡山市)[2.7km]
辰市城(奈良県奈良市)[3.0km]
筒井城(奈良県大和郡山市)[3.4km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)165 大和郡山城

設置場所

柳沢文庫[地図

大和郡山城の解説文

郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。

概要
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。

17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。

桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(165番)に選定された。

沿革
雁陣之城
この城の築城時期は、1162年(応保2年)の『東南院文章』に、
郡山者件狼唳之輩張雁陣之城— 東南院文章
とある。「狼唳之輩」とは郡山衆を指しており、雁陣の城を築いていると記載している。この当時の城は盛り土と柵をめぐらした環濠集落のようなものであった。また1300年(正安2年)には「郡山庄」が独立しており、この時から「郡山」という名が現れた最初となる。

郡山城の最初の攻城戦は、永正3年(1506年)の夏で、赤沢朝経が大和国に侵攻し、各諸城を攻め落とした。同年8月24日、赤沢朝経は郡山城を数千の兵力で取り囲んだ。この時、宝来衆、西京衆、生馬衆、郡山衆らが西脇衆と称して、郡山城に立て篭もったが、圧倒的兵力を前に、多くの武将が討ち死にした。その中には宝来九郎なども含まれていた。『多聞院日記』に、
郡山城没落— 多聞院日記 永正三年八月二十三日条
と記載されている。

その後郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり離合集散を繰り返してきたが、1559年(永禄2年)松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して筒井氏から離反していく。
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大和郡山城の口コミ情報

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大和郡山城の周辺観光情報

春岳院

郡山城主柳澤家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際、当地に移築したもので、山門は旧郡山城城門を移築したもの。

郡山金魚資料館

ガラス水槽に日本に実在する金魚を収集し、泳ぐ図鑑のように展示しています。金魚に関する古書や錦絵などが展示されています。

情報提供:大和郡山市役所地域振興課

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