大和郡山城(やまとこおりやまじょう)
大和郡山城の基本情報
通称・別名
- 郡山城、冠山城、犬伏城、雁陣之城
所在地
- 奈良県大和郡山市城内町2-18
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 輪郭式平山城
天守構造
- 型式不明[5重6階?/1583年築/焼失(火災)?]
築城主
- 郡山衆[雁陣之城]、筒井順慶[郡山城]
築城年
- 応保2年(1162)[雁陣之城]、天正8年(1580)[郡山城]
主な改修者
- 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛
主な城主
- 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
廃城年
- 明治6年(1873)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 国史跡(郡山城跡)
再建造物
- 追手向櫓、追手門、東隅櫓、多聞櫓、石碑、説明板
周辺の城
-
大和田城(奈良県奈良市)[1.9km]
稗田環濠(奈良県大和郡山市)[2.1km]
若槻環濠(奈良県大和郡山市)[2.7km]
辰市城(奈良県奈良市)[3.0km]
筒井城(奈良県大和郡山市)[3.4km]
小泉城(奈良県大和郡山市)[3.5km]
宝来城(奈良県奈良市)[3.6km]
超昇寺城(奈良県奈良市)[5.1km]
窪之庄城(奈良県奈良市)[5.3km]
古市城(奈良県奈良市)[5.8km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- (続)165 大和郡山城
設置場所
- 柳沢文庫[地図]
大和郡山城の解説文
[引用元:Wikipedia「大和郡山城」の項目]
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の異父弟(同父弟説もある)羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
概要
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石[1] 20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている[2]。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(165番)に選定された。2022年(令和4年)11月10日、国の史跡に指定された。
沿革
歴代城主 代 城主 入城年 代 城主 入城年 1 郡山衆 13 松平信之 延宝7年(1679) 2 筒井順慶 天正8年(1580年) 14 本多忠平 貞享2年(1685年) 3 豊臣秀長 天正13年(1585年) 15 本多忠常 4 豊臣秀保 天正19年(1591年) 16 本多忠直 5 増田長盛 文禄4年(1595年) 17 本多忠村 6 大久保長安 18 本多忠烈 7 山口直友 19 柳沢吉里 享保9年(1724年) 8 筒井定慶 慶長19年(1614年) 20 柳沢信鴻 9 水野勝成 元和元年(1615年) 21 柳沢保光 10 松平忠明 元和5年(1619年) 22 柳沢保泰 11 本多政勝 23 柳沢保興 12 本多政長 24 柳沢保申 雁陣之城
この城の築城時期は、応保2年(1162年)に、「郡山者件狼唳之輩張雁陣之城」(『東南院文章』)とある。「狼唳之輩」とは郡山衆を指しており、雁陣の城を築いていると記載している。この当時の城は盛り土と柵をめぐらした環濠集落のようなものであった。また正安2年(1300年には「郡山庄」が独立しており、この時から「郡山」という名が現れた最初となる。
郡山城の最初の攻城戦は、永正3年(1506年)の夏で、赤沢朝経が大和国に侵攻し、各諸城を攻め落とした。同年8月24日、赤沢朝経は郡山城を数千の兵力で取り囲んだ。この時、宝来衆、西京衆、生馬衆、郡山衆らが西脇衆と称して、郡山城に立て篭もったが、圧倒的兵力を前に、多くの武将が討ち死にした。その中には宝来九郎なども含まれていた。「郡山城没落」(『多聞院日記』永正三年八月二十三日条)と記載されている。
その後郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり複雑な動きを繰り返してきたが、永禄2年(1559年)松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して筒井氏から離反していく。
筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。
その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成する(『多聞院日記』)。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と指摘されている[3]。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も天正12年(1584年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。
豊臣時代初中期
天正13年(1585年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている[4]。
本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、「伝承でいわれるような五層の天守閣が建っていたかどうかは疑問」とされ、建築学的にはもう少し小さなものではなかったかといわれている。また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる(『郡山惣町日記』)。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。
豊臣秀長書状は壽福院に宛てた書状で、内容は豊臣秀長が着任した翌天正14年(1586年)3月筒井順慶の廟所や山林、筒井城の跡地等を壽福院に与える、としている。筒井定次が伊賀国に入封後、筒井城破却後の跡地や周辺の山林は壽福院に与え、筒井城があった添下郡の筒井村周辺は豊臣秀長が着任後も大きな変化はなかったと考えられている。
天正19年(1591年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も文禄4年(1595年)に死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。
豊臣時代後期
五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物のほとんどは徳川家康により伏見城に移築された。しかし、天守は二条城に移されたという。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。
郡山城の戦い
『寛政重修諸家譜』によると、大坂の陣の頃の郡山城には筒井一族の筒井正次が入り、天正20年(1615年)4月に豊臣方の大野治房らに攻められて城を去り、5月3日に自害したとされる[5]。
また、郡山城に入城していたのは筒井定慶と慶之の兄弟ともいわれ、二人は徳川家康から1万石の知行と200石の与力36名を預けられていたとされる。
大坂冬の陣が終結し大坂城の内堀が埋め立てられ、再度の東西決戦の雰囲気となった際、豊臣方の使者細川兵助が郡山城に出向いて、筒井氏に合力を求めてきた。豊臣方が出した条件は「合力すれば兵1万を送る。戦勝した時には筒井定慶には大和国を、筒井慶之には伊賀国を与える。但し徳川方に付くのであるならば攻撃を開始する」という内容であった。細川兵助は説得を続けたが、筒井家は大坂方の要請を断った。
慶長20年(1615年)4月26日、豊臣方は大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2千余の兵を出陣させ、暗峠を越えて郡山城に迫ってきた。これに対して筒井定慶は、筒井順慶時代から恩義のある浪人衆、農民衆、商人衆を集結させ、1千兵程度になった。
大坂方(豊臣軍)は松明を掲げながらの夜間行軍であった。筒井軍は戦馴れしていなかったことから、大坂方の兵力を見誤り、実数よりも多い「3万の大軍」であるとの物見からの報告を受け、定慶は郡山城を撤収し福住城へ移動した。この動きに筒井慶之は「腑甲斐無し」と激怒し、手勢に徹底抗戦を命じたが、慶之に従う者は殆どおらず、自身もわずか4、5名の供の者と興福寺妙喜院に逃走した。
翌27日未明、大坂方は九条口と奈良口の2隊に分け攻城を開始した。郡山城にはわずかな兵が残っており、30人が討ち取られ、城下町の各方面に火が放たれた。その後大坂方は奈良方面に進軍し徳川方への備えを敷いたが、徳川方が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げていった。
福住城で1000兵余りで防備を固めていた筒井定慶は、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、一戦もすることなく郡山城を捨てたことに後悔し、大坂城落城から3日後の5月10日、弟の筒井慶之に遺書を残し切腹したとされる。『戦国合戦大事典』では「表向きは自害と称して、蟄居するうち病死したという説もある」という別説も紹介されている。筒井慶之も兄を追って自殺したとされている。
松平氏・本多氏時代
郡山城の戦いの後、水野勝成が同年7月19日三河国の刈谷から6万石で移封し、荒廃した城郭の修築を行った。石垣や堀の修復は公儀普請とされ、本丸と二ノ丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復は水野氏の手で行われた。水野勝成は修復途中の元和5年(1620年)8月に備後福山に転封となった。その後松平忠明が12万石で入城した。松平忠明も郡山城の復興に取り組み、二ノ丸屋形の造営をはじめ、以前伏見城に移されたかつての郡山城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが再び郡山城に移築された。しかし松平忠明も寛永16年(1639年)に播磨姫路に転封された。
次に郡山城に入ったのが本多政勝で、15万石で入部した。この時期に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分が完成した。武家屋敷、町屋ともに発展し、延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え、郡山城下の最盛期となった。しかし、寛文11年(1671年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続に伴う御家騒動が起こった。息子二人の争いに徳川幕府の裁定が入り、二人に対して分割相続とされ、それぞれが転封となった。その後、明石藩から松平信之が8万石で入城した。この時期の延宝8年(1680年)城下町に大火がおこり670軒が焼失した。松平信之が老中に任命されると、江戸に近い下総古河藩に加増転封となり、次いで本多忠平が12万石で入城した。その後本多氏が数代続いたが、本多忠烈が若年相続を理由に5万石に減封とされ、家臣団の大人数解雇および武家屋敷などの取り壊しも行なわれた。さらに享保8年(1723年)11月27日に忠烈が8歳で死去すると本多氏は御家断絶とされた。
柳沢氏時代
享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。
享保9年頃の郡山城下町の様子 家数:3656軒 人口:13258人 町数 持ち家:1465軒 借家:2191軒 男:6562人 女:6696人 40 柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。文久元年(1861年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、明治3年(1870年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち明治6年(1873年)郡山城は破却された。この際に櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。城下の永慶寺に城門が山門として移築され、現存している。
また柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわう。
近代以降
- 1873年(明治6年):廃城令によって廃城の扱いとなった。同年競売に掛けられるが詳細は不明。
- 1881年(明治14年)1月:堺県師範学校分局郡山学校(奈良県立郡山高等学校)が二の丸に移転。
- 1906年(明治39年):奈良県生駒郡立農学校(旧奈良県立城内高等学校)が麒麟曲輪に建設される。
- 1953年(昭和28年):追手門を復元。
- 1960年(昭和35年):本丸・毘沙門郭・法院郭・陣甫郭・玄武郭などが奈良県指定文化財に指定された[6][7]。
- 1984年(昭和59年):追手東隅櫓と多聞櫓を復元。
- 1987年(昭和62年):追手向櫓を復元。
- 2013年(平成25年) - 2017年(平成29年):天守台の修復と展望台整備。
- 2016年(平成28年):極楽橋再建事業・白沢門櫓台整備事業が始まる[8]。
- 2020年(令和2年):麒麟郭跡を整備して麒麟広場に再整備する計画が立てられる[9]。
- 2021年(令和3年):本丸と毘沙門曲輪に掛かっていた極楽橋(長さ22.12m、幅5.4m)の復元工事が完了し一般公開された[10][11]。
- 2022年(令和4年):国の史跡に指定。
城郭
城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
本丸
- 天守台
- この天守は逆さ地蔵の祟りや大和大地震で倒壊したという俗説が残っている。『郡山城と城下町』によると「現存している天守台に5層6階の天守は建築学上から考えて建てられること不可能」としている。しかし2013年(平成25年)から2017年(平成29年)にかけて調査・整備事業が行われ、礎石が確認された。この調査で、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城更に淀城へ移築された話も事実と確定された[12]。2017年(平成29年)3月26日から展望台施設が公開された[13]。
- ; 転用石
- 天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。
- 石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。
- これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、市内東部の平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある。
- 毘沙門曲輪
- 現在の柳沢文庫がある一帯で、もともとは「本丸ニの郭」と呼称されていたが、柳沢氏入部以降に「毘沙門曲輪」と改名した。2021年(令和3年)に本丸と繋がっていた極楽橋が再建された[14]。
- 法印曲輪
- 現在の市民会館がある一帯で、一庵丸、常盤曲輪(常盤郭)とも呼ばれている。一庵法印良慶の屋敷があったので法印曲輪と呼ばれている。
- 陣甫曲輪
- 現在民家が立ち並んでいる一帯。もともとは城兵の調練の場として使われていた空き地。出軍の時は武者溜まりとしても使用されていた。
- 玄武曲輪
- もともとは納戸曲輪と呼ばれていたが、柳沢氏入部以降に「玄武曲輪」へ改名した。硝煙蔵が5棟建ち並び、西側には玄武門が建っていた。
復元櫓と復元門
二ノ丸
- 二ノ丸屋形
- 現在の奈良県立郡山高等学校が建っている一帯で、松平忠明時代に整備され、城主の居館があった。藩の政庁もここにあり、巨大な御殿群を形成していた。(上記郡山城旧観図も参照)
- 新宅曲輪
- 新屋敷が建てられたことに関係する名称であると思われているが、本多忠平時代にはすでに存在していた名称で、古くからあったと考えられている。別名緑曲輪とも呼ばれている。
- 御厩曲輪
- もともとは新宅曲輪であったが、松平忠明時代に別の場所にあった厩を、新宅曲輪の北半分に移し、厩を2棟と馬場を設けた。
- 松倉曲輪
- 二ノ丸屋敷や新宅で消費される米蔵が建っていた一画。
三の丸
- 柳曲輪
- 現在のやまと郡山城ホールのある一帯で、五軒屋敷掘の東岸と五軒屋敷を含む。4軒の家老屋敷と1軒の評定所が占めていた。またこの周辺に筒井時代の本丸があったとする説があり、1983年(昭和58年)マンション建設に伴う発掘調査が実施され、多数の注目すべき遺物が発見されたが、筒井時代の本丸があったという根拠は得られなかった。
- 麒麟曲輪
- もともとは「西ノ丸」と呼称されていたが、柳沢氏入部以降「麒麟曲輪」へ改名された。柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことから、柳沢吉里が命名したと言われている。
発掘調査
郡山城では、城内や城下町を含め大和郡山市教育委員会や橿原考古学研究所が1979年(昭和54年)以降、100回近くの発掘調査が実施され、一定の成果を収めている。文献などの間を埋める遺物、遺構が発掘され郡山城の実像が解明されつつある。
郡山城の歴史は古く、各時代によって大きく改修が重ねられた。近年の発掘調査などから各年代毎の城史が明らかになりつつある。
2013年(平成25年)から2016年(平成28年)にかけて天守台石垣が解体修復され、それに伴う発掘調査などの記録映像が「郡山城天守台展望施設整備事業 紹介動画(全4回)」としてYOUTUBEの大和郡山市公式チャンネルにて公開されている。発掘調査により確認された天守礎石や石垣に使われた地蔵や五輪塔・墓石などの転用石材、金箔瓦、天守台石垣内部の構造などが映像で確認出来る。
雁陣之城時代
第11次、及び第13次発掘調査から雁陣之城時代の城として三の丸にある麒麟曲輪周辺に、濠で囲まれた方形館が存在していたと考えられている。また新宅曲輪(緑曲輪)では地鎮遺構が検出されているので、筒井、松永の抗争記の遺構が周辺に存在している可能性が指摘されている。
筒井時代
明確にこの時期と断言できる遺構は発掘できていないが、遺物としては、多聞山城から流用された軒平瓦や安土城と同文の軒平瓦が、復元追手東隅櫓周辺から出土した。これにより、筒井時代の城としては追手東隅櫓周辺に存在していた可能性を示している。『郡山城および地下の発掘調査について』では「筒井期の城下の拡がり自体が案外に小規模であった可能性もあるだろう」としており、筒井順慶が筒井城から郡山城へ移った時の城郭は、それほど大規模なものではなかった可能性があると記している。
豊臣時代
この時代の遺物、遺構の検出は多くみられる。追手向櫓の礎石列、麒麟曲輪や追手門の遺構もこの時代である。しかし二ノ丸の同時代の該当発掘例はなく、二ノ丸は豊臣時代以降に開発された可能性がある。城下でも同時代の遺構が発掘されたが、礎石建物や大規模な整地の痕は認められていないので、大規模な城下町が整然と建てられた可能性は低いと考えられている。
2014年(平成26年)9月、市教育委員会が天守台頂上の発掘調査を行い、礎石などの遺構や金箔をあしらった瓦を発見したと発表した[15]。これにより、これまで絵図などに一切描かれず、存在が確認できなかった天守が実在したことが判明した。大小の礎石の大きさや並びから建物の加重を分散・軽減する構造であったと推測されている[16]。
増田-松平時代
両時代の在城時期は短く、同時代の明確な遺構は殆ど確認されていない。
本多時代
城郭関係では、緑曲輪の検出遺構や三の丸の池状遺構がある。また城下では大規模な盛土地業や礎石建物も出現する。また同時代の武士の墓も出土しており、埋葬形態を具体的に把握した。
柳沢時代
城郭関係では、第13次調査で検出された二ノ丸屋敷の遺構がある。城下では非常に多くの調査例があり、金魚池遺構や廃棄土坑から大量の桟瓦が出土していることから、城下町の桟瓦の一般的な使用は柳沢時代以降であると考えられている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 近畿日本鉄道 近鉄橿原線 近鉄郡山駅
- 徒歩約15分
- 車でのアクセス
- 西名阪自動車道 郡山IC → 国道24号 → 奈良県道144号
- 城内に無料駐車場あり
参考文献
- 【書籍】「近畿の城 」 |pages= |ref=}}
- 【書籍】「郡山城の発掘調査 」 |pages= |ref=harv}}
- 【書籍】「日本城郭大系 」 |pages= |ref=}}
- 【書籍】「戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重」
- 【書籍】「郡山城および地下の発掘調査について 」
- 【書籍】「週刊名城をゆく 」 |pages= |ref=}}
- 【書籍】「郡山城跡公園基本計画改定 」
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大和郡山城の口コミ情報
2024年10月23日 百済門徒衆修理大夫とら
永慶寺柳沢家墓所[大和郡山城 寺社・史跡]
柳沢家歴代当主を祀る。永慶寺は元は甲府にあり、徳川綱吉の側用人から大老格まで上り詰めた綱吉政権ナンバー2で絶大な権力を誇った初代柳沢吉保が建立した。
2代吉里の時、柳沢家は甲府から大和郡山に入部し、その時、永慶寺も一緒に移転された。
以後最後の藩主柳沢保申(やすのぶ)まで柳沢家が大和郡山の藩主を勤めた。
柳沢保申は、英明な藩主で、明治の殖産産業で金魚の養殖を行い、現在も金魚の町として有名である。また資産の1割を出して現在の郡山高等学校を設立している。しかしながら、若くして亡くなったからか、名があまり知られていない。
柳沢家の祖先の柳沢信俊は、武川(むかわ)衆という甲斐武田氏の家臣であったが、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となる。その後、柳沢吉保の時、仕えていた館林藩主綱吉が将軍となった事で大出世する。そして吉保は、武田信玄の次男で浄土真宗の僧となっていた龍芳の玄孫武田信興を綱吉に引き合わせ高家武田家としてお家再興させている。
その後も、武田家と柳沢家の関係は続き、明治時代に養子縁組で親戚関係となっている。
柳沢家の家紋は武田菱を模した柳沢唐花菱である。そして、柳沢家から柳沢吉保が造った六義園を買い取ったのは、三菱の創業者岩崎弥太郎である。柳沢保申の三女·武子が岩崎家に嫁いでいる。
2024年10月14日 hatoken
大和郡山城
中規模ながら高低差や堀、升形の門など丁寧につくられた素晴らしい城跡でした。
2024年09月06日 nonki
大和郡山城
JR郡山駅から徒歩20分位です。立派な高石垣、水堀が残ってました。一部建物も復元されており、午前中に訪れた千早城ならこちらの方が100名城に相応しいのではと思いました。
柳沢文庫の続100名城スタンプは右下が欠けていて綺麗に押せません。市役所2階の地域振興課にもスタンプがあり、柳沢文庫開館日も押せるので、スタンプ目当ての方はこちらを利用した方が良いと思います。
2024年06月24日 黄金船右近衛大将
大和郡山城
外堀まで含めるとかなり広いと思います。南から行くと天守台へ行きやすいです。
2024年01月28日 宗睦の介
大和郡山城
冬の曇り空ではありましたが訪れる事ができました。幻と言われた天守閣ですが、天守台の遺構調査で実際に存在していた事が分かったそうです。ケチな秀長さんだからもしかして、と思いましたが失礼しました。
現地ではボランティアの方が熱心に説明下さり、想像が掻き立てられました
2024年01月16日 在来線男右京進
大和郡山城
駐車場は三の丸にあります。堀を一周しましたが麒麟曲輪は工事中で入れませんでした。二の丸に高校があり、こちらも入れません。天守閣の石垣はかなり小さいです。柳澤神社もあまり大きくありません。柳沢文庫は受付に人がいるので御城印は買えました。
2023年09月30日 宮内卿あさよし
大和郡山城
15年ぶりに訪城。格段に整備されて公園のようになっています。本丸沿いの堀の雑木雑草は綺麗に除去され見晴らしがとても良くなっていました。
2023年07月03日 上田図書頭雪娘
大和郡山城
外堀巡りも楽しめます。天守台は綺麗になってました。逆さ地蔵も看板があり探さなくても見えます。
2023年07月02日 しまさこ23
大和郡山城
まず九条駅からお城南東方面の総構えの堀、水路、ため池などを周り、本丸へ。天守台は10年以上ぶりに訪れたが、スロープがついて登れるよう整備されていた。未だ西方面は整備中で随時開放されるようで。最終完成は令和8年以降になる模様。
2023年03月30日
大和郡山城
四年ぶりにお城まつりが開催されました。途中露店から美味しい匂いの誘惑に惑わされながらの登城となります。
お城まつりは毎年3月下旬から4月上旬まで行われています。
みなさん桜とお城を楽しみながらお花見をしているのが印象的でした。この時期ライトアップも行われるので夜桜とお城もいいかも知れません。
お城と桜、楽しんでみてはいかがでしょうか
2023年01月01日 オルガン大宰少弐小僧
大和郡山城
流石に大和地方を支配する最大規模の城郭だけにスケールでかいです。三の丸駐車場からも10分くらいで着きますが本丸に近いところに無料駐車場もあるので混んでない時はおすすめ。
2022年11月26日 プリン丸
大和郡山城
私が訪れた時は交通量も少なく、駐車場にも停めることができました。(5,6台は可)
天守跡までも遠くなく勾配もゆるやか、足腰が弱い私でも余裕で行けました。子連れの方でも、楽しめるかと思います。
2022年10月17日 きむねこ
大和郡山城
近鉄郡山駅からまっすぐ進めば良いと思っていたら、まさかの?線路を越えての直進。しかし、市役所横の門跡を横目に約15分程でたどり着くことができました。石垣もしっかり残っており、当日は残念ながら時間が余りなかったためお話を聞くことが出来ませんでしたが、ボランティアの方がガイドもしてくれますし、地図も提供してくれます。よく写真が載っている追手門へも迷うことなく進むことができます。
2022年05月24日
大和郡山城
■番屋カフェ
営業時間 :10時から16時
定休日 :月・火
モーニング :10時から11時
ランチタイム:11時から14時
毘沙門郭跡にオープンしたカフェです。テラス席からお城を楽しんでみてください。
①天守台
②番屋カフェ(天守台より)
2022年05月09日 小太郎左衛門督南畿道19國守
大和郡山城
場内無料駐車場は、十台前後のスペースで入口は狭く通りすぎてしまうとの情報どおり駐車できず、やまと郡山城ホール駐車場に止めましたが、徒歩約10分でした。天守閣こそないものの天守台や石垣、堀、曲輪など、秀長100万石の規模かと空想してしまいます。御朱印は、場内柳沢文庫で、販売しており、続名城百選スタンプも同所で押すことができます。
2022年05月04日 saizo
柳沢文庫[大和郡山城 御城印]
20220504現在 橋の限定御城印はありませんでした。
2022年04月02日 RED副将軍
大和郡山城
大和・紀伊・和泉100万石の中心で豊臣秀長の壮大な石垣造りの居城。
築城年代は不詳。
1506年には西脇衆が赤沢朝経軍の来襲に備えて籠城したとの記録があります。
戦国時代は筒井氏の支配となり、松永久秀との争いの拠点となりました。
1577年に松永氏が滅亡し、筒井順慶は織田信長から大和守護に任じられると、郡山城を本城とし改修を実施。本格的な城館となります。
1584年に筒井順慶が没し、筒井定次が継ぐと翌年に伊賀国上野へ転封。代わって秀吉の弟である豊臣秀長が入封し大規模な改修が続いた様です。
1591年に豊臣秀長が没し、継いだ豊臣秀保も早逝したため、1595年に五奉行のひとり増田長盛が入封するも、1600年の関ヶ原合戦で増田長盛は西軍に属したため改易。
その後は以後は徳川譜代大名の居城となり、水野、松平、本多、松平、本多、柳沢と城主は代わって行きました。
見所
本丸に修復、復元された天守台は転用石が多用され、さかさ地蔵は特に有名です。
二の丸には追手向櫓、追手門、追手東櫓、多門櫓が復元されています。
月見櫓跡から見下ろした枝垂れ桜は見事でした。
2022年02月14日 尼崎城駿河守一口城主
大和郡山城
近鉄郡山駅から歩いて二回目の登城。石垣と水堀の組合せは、何回見てもいいものです。天守跡を見学したあとお城周りを散策。鰻堀池を見たり、お城から離れた所にある石垣を見て在りし日のお城の広大さに驚かされました。秀吉の弟の秀長の大納言塚にも足を伸ばし拝んできました。大納言塚、住宅街のなかにあり探すのに苦労しました😅どこのお城も足を運ぶにつれ新たな発見があり楽しいです😃
2021年12月29日 楊近江守威利
大和郡山城
約10年ぶりに訪問しました。天守台や極楽橋が整備され新鮮な感じで訪問しました。立派な天守台や復元櫓、復元城門があるので、もっと観光客がいてもいいのにな…と思いました。
駐車場は復元城門前に10台ほど置けるスペースがあります。(駐車場への入口が狭くて分かりづらく通り過ぎてしまいます。)続100名城スタンプは、柳沢文庫が閉館中でしたが、入口に置いていただけて助かりました。
2021年11月16日 有栖川もぼ
大和郡山城
近鉄郡山駅からすぐのとこにあります!電車の車窓からも石垣や復元された櫓を見ることができるので、通過電車に乗ってると「おお、すごーい!降りたい!」ってなります✨
天守台には、転用石が使われていて、さかさ地蔵さんってのがありました✨外側の堀も、内側の堀もすごく深くてびっくり!復元されたらしい極楽橋からの堀の眺めはいいものですね。
入り口が、高校の入り口とダブっているので、ここから入っていいのかな?って思って、堀を一周してしまいました😅
入城は無料で、神社の中に駐輪場ありました✨
2021年11月04日 イオ左衛門佐
外濠跡[大和郡山城 遺構・復元物]
増田長盛の普請による惣構の外堀は、総延長約5.5kmにも及び、内側に土塁が設け、城下全体を囲んでいました。現在ではその多くは失われてしまいましたが、公園や道路、治水など都市整備を進める中で外堀の存在を伝えていこうとする活動が行われています。
スポットの位置は常念寺裏堀にあたり、石碑と説明板が建てられているほか、外堀緑地の北東端に城下の木戸をイメージした冠木門の外堀緑地北門(模擬門)があります。
2021年11月04日 イオ左衛門佐
外堀緑地[大和郡山城 関連施設]
外堀緑地は外堀を埋め立てて市民憩いの場として整備したもので、南北両端の模擬門のほか、水路や橋、築地塀を設けて外堀の雰囲気を伝えています。
2021年11月03日 イオ左衛門佐
総構土塁(郡山八幡神社)[大和郡山城 遺構・復元物]
郡山八幡神社の裏手には惣構の土塁が遺っていますが、神社側からは見づらいので、西側の民家の間からどうぞ。この辺りは大手堀から南にのびる中堀と東西に続く外堀の合流地点で、八幡神社に沿ってL字型に続いています。
2021年11月03日 イオ左衛門佐
大納言塚[大和郡山城 その他]
大和大納言は豊臣秀長の墓所で、大和郡山城で病死した秀長はこの地に埋葬されましたが、豊臣氏の滅亡により墓所も荒れ果てていたのを、江戸中期に菩提寺・春岳院の僧が郡山城下町の人々とともに土塀をめぐらせ、五輪塔を建てたとのことで、徳川の天下にあっても城下町を拓いた秀長が人々から慕われていたことが伺えます。
2021年11月03日 イオ左衛門佐
お土居の松[大和郡山城 遺構・復元物]
外堀の内側にはかつては土塁が設けられ、松や竹が植えられていましたが、広島下池沿いのお土居公園には往時の名残の松と説明板があります。
2021年11月01日 イオ左衛門佐
永慶寺[大和郡山城 寺社・史跡]
永慶寺は柳澤氏の菩提寺であり、山門は大和郡山城の南御門を移築したもので、豊臣期からの唯一の現存建造物です。
2021年10月29日 イオ左衛門佐
天守台[大和郡山城 遺構・復元物]
南側に付櫓台のある複合式の天守台で、野面積みの石垣にはさかさ地蔵をはじめとする多数の転用石が用いられています。天守台は展望台として整備されており、奈良盆地を一望することができます。
天守についての史料がほとんどないため、「幻の天守」と言われていましたが、石垣の解体修理に伴う発掘調査で礎石列や金箔瓦が出土し、豊臣期に天守が存在したことが明らかになりました。
2021年10月29日 イオ左衛門佐
極楽橋[大和郡山城 遺構・復元物]
本丸と毘沙門郭を隔てる内堀に架かる橋で、構造の詳細は不明ながら、江戸期の史料や発掘調査の成果に基づき令和3年3月に木造で復元されました。
本丸へ至る大手道だけに高欄に擬宝珠を設けた立派な造りで、橋の上から内堀を見下ろすと、堀の深さと幅広さを実感させられます。
2021年08月09日 【城郭道】たっきー
鉄御門跡[大和郡山城 遺構・復元物]
三の丸から二の丸への出入り口にかけられていた城門。1619(元和5)年、松平忠明が郡山城主として入場した時、伏見城から移築された。現在、東側櫓台石垣が残る。
2021年08月08日 ken右近衛少将
柳沢文庫[大和郡山城 スタンプ]
100名城スタンプだけじゃなく3種のオリジナルスタンプが捺せます。
2021年07月22日 あ~るぐれい【黄昏】
桜御門跡[大和郡山城 遺構・復元物]
桜御門のとこに弁慶定型石というのがありました。伝承によると武蔵坊弁慶の足形だそうです。石碑の左側の石に足形?らしき窪みが…。
2021年04月07日 けいご主殿頭
大和郡山城
お城祭りを3月に行くとやっていました。
桜がとても綺麗でしたよ。極楽橋という橋が再建され,まだ新しさがありますが,なかなかの良い橋でした。天守台方面から橋を渡って行くと柳沢文庫があり,御城印を購入できます。極楽橋竣工記念版もありました。橋を渡って天守台を見て右側に逆さ地蔵がおられます。天守が焼けたのは地蔵ので祟りとも言われたそう。櫓もあり楽しめました。駐車場は近くの立体駐車場ニュース止めました。
2021年03月31日 ほむら「近江守」
大和郡山城
桜と郡山城…城門に石垣見るところたくさんあり凄く良い景色です♪ぜひ一度
2021年03月29日 :::真田越前守持郎❖
柳沢文庫[大和郡山城 スタンプ]
令和3年3月に完成した極楽橋、限定御城印が販売されていて、手書きで日付を入れてくれます。
なくなり次第終了となってました。
極楽橋の完成に伴って柳沢文庫正面の東屋も修復が予定されているそうです。
柳沢文庫、素敵な建物。
丸みが可愛く感じます。
2021年03月28日 モーリシャス俊影
大和郡山城
極楽橋は完成しており渡れました。
本丸の石垣も壮大で、天守台からは大和盆地を一望できました。
無料です。
以前天守台から望めた郡山高校の城内校舎は既に解体されており、学舎が無くなって更地になっていたことは少し寂しくもありました。
2021年01月11日 ばらく~だ
大和郡山城
再建中の極楽橋はもうすぐ完成でしょうか。ほぼ出来上がっている感じでした。
百万石のお城だけに、本丸の石垣も壮大で、天守台の石垣からの眺望も素晴らしかったし、幻と言われた天守の礎石や、さかさ地蔵(石垣に組み込まれたお地蔵様)も間近に確認できました。
これが無料で見ることができ、ありがたいと思いました。
2020年11月30日 鼓舞式部卿勘助
大和郡山城
現在、極楽橋は再建工事中で渡れませんが、修復された天守台石垣は見事です。個人的には本丸西側と南側の外堀跡(鰻堀池と鷺池)が気に入りました。
2020年11月21日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
大和郡山城
豊臣秀長公供養塔
西国三十三所第八番札所大和國長谷寺に豊臣秀長さんの供養塔が歴代住職の供養塔共に安置されてます。紀州根来寺が焼き討ちされた際に根来寺の僧侶達を保護して長谷寺に入山させたそうです。来月の8日くらいまで秋の特別拝観やっているのでお参りに行ってみてはどうでしょう。期間限定の御朱印もあります。
2020年09月22日 戸沢夜叉九郎正樹
大和郡山城
天守台石垣積み直し後、初めての登城です。逆さまに積み込まれていたお地蔵様は抜かれていました。現在、極楽橋を再建中でした。完成したら又着たいな〰️!
2020年09月22日 駿河守かわ
大和郡山城
天守跡からの眺めはかなり良かった。
駐車場が門前に数台なので気をつけてください
2020年09月21日 右近衛中将かじくん
大和郡山城
かって存在した大和郡山城の正面玄関ルートである〝極楽橋〟を復元建設中。2021年春にお披露目予定。
2020年02月12日 えるパパ左京大夫
大和郡山城
大和郡山城リア攻略しました。天守台からの眺望は絶景です。ぜひリア攻略してください。石垣も素晴らしい。
2019年11月25日 雅楽助。
大和郡山城
ボランティアの語り部さんが説明して下さいました。滞在時間を確認した上での説明開始。質問にも答えて頂きました。羅生門の定石らしい石も触れました。
2019年06月16日 雅昌 備前守朱龍
大和郡山城
6/30迄白澤門櫓台石垣整備中との事。まだ先の話だが、極楽橋跡に復元橋を架ける計画が推進中です。楽しみですね(^^)
2019年04月23日 橘若狭守次郎吉
郡山古城[大和郡山城 周辺城郭]
筒井氏の頃の郡山城の跡。遺構は消滅している。
2018年06月17日 虎御前民部卿
大和郡山城
柳沢文庫内で、天守台石垣調査の映像が流れていました。石垣の積み方がよくわかり、お勧めです。
2018年06月02日 まるき〜陸中守
大和郡山城
通常の三倍…?
大和郡山城には福知山城の三倍…
何がって?転用石で有名な福知山城の三倍の量の転用石が使われている。
もともと石の産地ではない奈良、城を造る時にどこから石を調達するか!?
周りにお寺や神社があるじゃないか!という事で近辺の神社仏閣からいろんな石を集めたとか…
中でも有名な天守台の一部に逆さ地蔵、
神仏を恐れぬ罰当たりな行為を見せつける事で権威の象徴としたらしい。です!
そして大和郡山城の堀の水が汚い理由
ここの水は地下水と雨水が溜まってるのみ!昔は農業用水に使われていたが最近はそれもなくゴミや泥が溜まる一方
イケチョウガイという貝で水質改善の実験等が行われているが成果は上がってないよう…
たまに見学に来る方から堀が汚くてガッカリとお叱りをうけるそうです…。
最近は天守台の積み直しや極楽橋の再現に向けて整備がされていたり、土日祝にはボランティアのガイドさんが居られたりと
前に来た時には無かった探索マップ等も配布されておりちょっと隅まで行ってみよ〜!っと思わせる内容になってましたのでオススメ〜!
2018年05月26日 cinelli2
大和郡山城
近鉄郡山駅から徒歩で10分ほど、関西本線の郡山駅からも西へすぐにアクセスできます。
2017年08月08日 織田上総介晃司
大和郡山城
運がよければ追手門前の無料駐車スペース(7台くらい)に停められます。
水堀越しの追手向櫓と追手門を撮影
法印郭から水堀越しに天守台と天守郭(本丸)の石垣を撮影。
天守台の整備工事が終わり、天守台及びさかさ地蔵が見ることができます。
ただ天守台の周りは舗装されてました。
公園としては歩きやすいけど、史跡としてはいかがなものかと…
大和郡山市は金魚の町。金魚すくいの大会も行われています。
2017年05月16日 課長大和守Ver.B
大和郡山城
2013年より行われていた天守台整備事業は今年3月完了し一般開放されています。
以前は樹木に遮られていた天守台周囲ですが綺麗に舗装され、天守台上には展望デッキと発掘された天守礎石の一部が見学できる箇所が設けられていました。(公開時間は4〜9月が7:00〜19:00、10〜3月が7:00〜17:00)
また説明板の類いも新調され、逆さ地蔵も見易くなっていました。
天守台や石段の手すりや舗装に
(´・_・`)と思わなくもないですが全体的に明るく見易くなったのは良いと思います。
余談ですが今後隣にある郡山高校城内学舎が二ノ丸にある冠山学舎に統合され敷地が公園化されるらしいのでどう整備されるのか今から楽しみです☆
2016年08月04日 ドラガン尾張守店長
大和郡山城
JR郡山駅から外堀公園と大和郡山市役所を経て、徒歩20分程度。
追手門から入り、内堀の向こうに天守台があるも、平成29年3月まで工事中。
城の遺構は巨大かつ優美で、往事の秀長公の権勢の大きさが窺われる。
柳沢文庫や柳沢神社など、甲府へ移る前の柳沢吉保公の史跡を訪ねる。
また城の南西、少し離れた所に秀長公の墓所「大納言塚」がある。
学問を司り、砂を奉り、秀長公を偲ぶ。
2016年04月30日 橘若狭守次郎吉
大和郡山城
この時期躑躅が咲いていてきれいですが、蜂も結構います。城郭散策の際には十分に気を付けてください。
大和郡山城はなんといっても 水堀と石垣 の組合せが綺麗です。これに躑躅も加わると尚更綺麗です!
2016年03月19日 梨畑中務卿四十郎
大和郡山城
やまと郡山城ホールは駐車場2時間以内は無料です。
天守台周辺は平成29年3月末頃まで工事中で入れず逆さ地蔵は見られませんでしたが周りから天守台の石垣がよく見えたので満足です。
2016年03月07日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
大和郡山城
先程辛口になりましたが、線路沿いに北に続く遊歩道は感じよくあり水を利用した街づくりでいい感じです。
城下に国道があり交通量の多いことを鑑みれば城内の車の出入り、駐車も仕方なしかなと。
豊臣秀長がに今の郡山城の原型を作ったと思いたいですね~。
秀長さんの質素な中に真面目な性格が表れているようです。櫓、天守台が何故か計ったように東西南北に合わせて建てられています。
五層の天守閣があったと謂われてますが、天守の土台はそれに耐えれない弱いと見て感じました。本当小さな3層ぐらいの天守だったと思います。
彼が家康みたいに長生きしてたらと想像してみたいと思うほど彼の早死にを惜しいと思いました。秀吉の死後も豊臣政権は盤石だったとしたら•••妄想は尽きませんね(^_^;)
帰りはJRの郡山駅からにしました。東に歩いて行くと途中に外掘公園があります。
この場所こそが郡山城の外堀だと思います。時間があればこの場所も散策して見て下さいませ( ^o^)ノ
では水と緑の郡山城を楽しんで下さい(^.^)
2016年03月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
大和郡山城
最初にお断りしておきます。只今天守閣跡周辺部は発掘調査中なので天守閣跡には平成29年3月まで入れません、ご注意下さい(^_^;
柳沢文庫で発売中の郡山城パンフレット購入(350円)。郡山高校から南に周り込み追手門へ到着です。石垣の景観、高低差が少ないので堀の水もすぐ足元に見えます。
大変美しいです、来て良かったと追手門までは思いました•••。しかし追手門を何台も車の出入りを見るにつれて気分が落ちこみました( -_-)。砂埃をかきあげてる姿は正直ガッカリです。この日は梅林展でしたが見る気分になれずにパス。この城の規模美しい石垣、堀、豊富な水と緑があるのに百名城の選考に外されたのはこのあたりに原因があるのでは? 周辺にきちんと駐車場を作って下さい。
しかし来年の天守台の発掘調査の発表に期待して帰路につきます(´-`).。oO
2015年12月04日 Ninja河内守青影
大和郡山城
最近、九州各地の城を攻めて分かったこと。我が故郷の郡山城は巨城とまではいかないが、かなりの規模を誇る城である。なぜ100名城に含まれないのか不思議なくらい。
2015年11月09日 まるき〜陸中守
大和郡山城
2015年11月11日(水)8時〜14時頃まで
追手門付近でテレビ東京系の新春時代劇の撮影が行われます。
11月14日、15日は石垣修復作業見学会、小雨決行、10時〜15時まで駐車場はありません。
2015年07月16日 ひろり
大和郡山城
【↓補足、と云うか感想?】
現在、柳沢文庫で流されているのは『天守台展望施設整備プロジェクト 第二回 発掘調査』です(約40分)。
天守台の調査を密着取材されたもので、どんな風に調査が行われているのかがわかります。
調査に関わる人びとのコメントや、音楽のチョイス(クラシック)も楽しいです。ほかの石垣に混じる転用石についてもお話されていて、出るわ出るわ(笑)。
大和郡山市製作で、YouTubeにもアップされているそうです。
ご自宅やスマホでも視聴できますが、ぜひ柳沢文庫の展自室で畳に座ってのんびり楽しんでみて下さい。
2015年07月16日 石畳治部少輔三成
大和郡山城
柳澤文庫で、郡山城天守台の発掘調査結果のDVD(40分)が上映されてます。DVDプレイヤーのリモコンが置かれているので、最初から見れます。天守があったのは確実なようで、最大五層くらいの天守だったようです。
2014年05月05日 中務卿一之介
大和郡山城
26年9月21日まで、城内の柳沢文庫で「郡山城・郡山藩の歴史」展が開催されています。
ただし、祝日と月曜日は見られませんので、ご注意ください。
http://www.mahoroba.ne.jp/~yngbunko/event.html
2013年06月08日 大納言きよまさ
大和郡山城
私の地元の大和郡山城へ登城いただきありがとうございます。
2013年02月26日 邦順大和守大八郎宗久
大和郡山城
概要は解説や他の皆様に任せて…
盆梅展が開催中(平成25年は2月2日~3月10日)。入場料が必要ですが、追手門・多聞櫓・追手向櫓の中で梅の花が楽しめます。
また入場者は柳沢文庫入館料が割引されます。こちらでは柳沢氏の歴史に触れられる他、郡山城再現CGを放映していましたので、時間があれば足を運んでみては如何?
2012年10月10日 根室守大ちゃん
大和郡山城
平城京羅城門礎石は天守台石垣のさかさ地蔵より左側の角にある白っぽい石3つです。
案内板などがないので見落とす人は多いと思います
知ってる人のみが楽しめるレアな遺構ですね。
2011年08月23日 摂政M三郎
大和郡山城
大和郡山城は、豊臣秀吉の弟、大納言秀長の居城として改修された城です。所領100万石にふさわしい広大な城域を持つ城であり、丘陵地の南端部に城の北から西側を二重に掘り切る形で設けられています。このため、本丸は、西側外郭との高低差が小さく、とても深い堀で防御されているのが特徴です。主郭から東側には石垣が築かれ、東ほど新しい時代のもののようです。現在、梅林門や周辺の櫓、城壁が復元されていますが、その長押形を出し下見板張で仕上げられた外観は、古風で高い格調を感じます。水と緑豊かな落ち着いた城です
大和郡山城の周辺観光情報
大和郡山城の周辺スポット情報
松蔭門跡(遺構・復元物)
追手東隅櫓(遺構・復元物)
追手向櫓(遺構・復元物)
追手門(遺構・復元物)
総構土塁(郡山八幡神社)(遺構・復元物)
総構土塁(正願寺上池)(遺構・復元物)
外堀(大職冠裏池跡)(遺構・復元物)
外堀(尼ヶ池)(遺構・復元物)
外堀(番鐘池)(遺構・復元物)
月見櫓(遺構・復元物)
埋門跡(遺構・復元物)
鉄御門跡(遺構・復元物)
柳御門跡(遺構・復元物)
坤櫓跡(遺構・復元物)
厩向櫓跡(遺構・復元物)
表門跡(遺構・復元物)
裏門跡(遺構・復元物)
竹林門跡(遺構・復元物)
本丸坤櫓跡(遺構・復元物)
白坂門跡(遺構・復元物)
極楽橋(遺構・復元物)
砂子の間前櫓跡(遺構・復元物)
南御門跡(遺構・復元物)
外濠跡(遺構・復元物)
天守台(遺構・復元物)
桜御門跡(遺構・復元物)
白沢門跡(遺構・復元物)
馬場先門跡(遺構・復元物)
中仕切門趾(遺構・復元物)
松蔭堀(松蔭池)(遺構・復元物)
頬當門趾(遺構・復元物)
大手堀(遺構・復元物)
左京堀(遺構・復元物)
西御門趾(遺構・復元物)
お土居の松(遺構・復元物)
内堀(遺構・復元物)
外堀(遺構・復元物)
弓櫓跡(遺構・復元物)
麒麟曲輪(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
五軒屋敷堀(遺構・復元物)
鰻堀(遺構・復元物)
鷺堀(遺構・復元物)
法印曲輪(遺構・復元物)
毘沙門曲輪(遺構・復元物)
十九間多聞櫓(遺構・復元物)
新宅曲輪(遺構・復元物)
厩曲輪(遺構・復元物)
旧大和郡山城移築南御門(遺構・復元物)
平城京-第一次大極殿正殿(遺構・復元物)
平城京-朱雀門(遺構・復元物)
平城京-南門(遺構・復元物)
平城京-宮内省(推定)(遺構・復元物)
平城京-小子部門(遺構・復元物)
平城京-若犬養門(遺構・復元物)
平城京-壬生門(遺構・復元物)
平城京-玉手門(遺構・復元物)
平城京-佐伯門(遺構・復元物)
平城京-建部門(遺構・復元物)
平城京-東院(遺構・復元物)
平城京-第二次大極殿(遺構・復元物)
平城京-朱雀大路(遺構・復元物)
平城京東院庭園(遺構・復元物)
修羅と石 展示(碑・説明板)
石碑(碑・説明板)
郡山城外堀案内板(碑・説明板)
郡山古城(周辺城郭)
平城京(周辺城郭)
柳澤神社(寺社・史跡)
永慶寺(寺社・史跡)
新城神社(寺社・史跡)
通元院(寺社・史跡)
稲荷神社(寺社・史跡)
平城京羅城門跡(寺社・史跡)
極楽寺(寺社・史跡)
妙善寺(寺社・史跡)
勝山神社(寺社・史跡)
葉本家住宅(寺社・史跡)
洞泉寺町(寺社・史跡)
薬師寺(寺社・史跡)
唐招堤寺(寺社・史跡)
新木山古墳(寺社・史跡)
八幡神社(寺社・史跡)
願正寺(寺社・史跡)
郡山八幡神社(寺社・史跡)
実相寺(寺社・史跡)
大和郡山城(寺社・史跡)
垂仁天皇陵(寺社・史跡)
ウワナベ古墳(寺社・史跡)
西大寺(寺社・史跡)
大職冠鎌足神社(寺社・史跡)
田中垣内遺跡(寺社・史跡)
永慶寺柳沢家墓所(寺社・史跡)
南林寺(寺社・史跡)
常念寺(寺社・史跡)
柳沢文庫(御城印)
柳沢文庫(御城印)
柳沢文庫(スタンプ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
やまと郡山城ホール(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
外堀緑地南門(模擬門)(関連施設)
外堀緑地(関連施設)
郡山城跡公園(関連施設)
大和郡山城跡公園(関連施設)
城趾公園(西公園)(関連施設)
奈良県立民俗博物館(関連施設)
郡山城情報館(関連施設)
鰻堀池(その他)
大納言塚(その他)