伊賀上野城(いがうえのじょう)
伊賀上野城の基本情報
通称・別名
- 白鳳城、上野城
所在地
- 三重県伊賀市上野丸之内
旧国名
- 伊賀国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- 層塔型?[5重/1612年築(未完)/倒壊(台風)]、層塔型[3重3階/1935年築/木造模擬]
築城主
- 筒井定次
築城年
- 天正13年(1585)
主な改修者
- 藤堂高虎
主な城主
- 筒井氏、藤堂氏、服部氏、仁木氏、脇坂氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)、武具蔵
指定文化財
- 国史跡(上野城跡)
再建造物
- 模擬天守、石碑、説明板
周辺の城
-
千賀地氏城(三重県伊賀市)[7.2km]
柏野城(三重県伊賀市)[7.9km]
石打城(奈良県奈良市)[8.0km]
丸山城(三重県伊賀市)[8.2km]
百地丹波城(三重県伊賀市)[9.1km]
小川城(滋賀県甲賀市)[11.6km]
畑城(奈良県山辺郡)[12.6km]
桜町中将城(三重県名張市)[13.1km]
福地城(三重県伊賀市)[13.3km]
和田城(滋賀県甲賀市)[15.0km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 47 伊賀上野城
設置場所
- 大天守閣1階[地図]
伊賀上野城の解説文
[引用元:Wikipedia「伊賀上野城」の項目]
上野城(うえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった日本の城(平山城)である。白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれる。
概要
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
かつて上野城の場所には要塞としても利用された平楽寺や仁木氏館があった。織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の戦いの際に脇坂安治によって落城させられた。その後天正13年(1585年) に筒井定次によって改修を受け、慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
昭和42年(1967年)旧城域一帯が国の史跡に指定されている。城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿および芭蕉翁記念館や伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用され、各種イベントなどが行われている。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30mの石垣[1]や三重県立上野高等学校敷地内に武庫蔵が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。
歴史
平安時代
城のある丘は平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院があったと言われている。
室町時代
伊賀上野城西の丸と後世に呼ばれることとなる丘陵には伊賀の守護大名である仁木氏館(伊賀の守護所)があった。しかし仁木氏は室町時代半ばから衰退が始まり、戦国時代には名ばかりの守護となっていた。特に北・南伊賀には影響が及ばなくなり(仁木氏は伊賀中部に威力があった)、権威を回復しようと合戦を起こすもその都度敗走し、柘植氏と戦った際には当主が討たれた。遂に仁木氏の生活は貧窮を極め、伊賀中部の国人らの援助により体を成す有様で守護としての権威は没落、侮辱の対象とされるなど、領国経営は機能していなかった。 そのような状況にありながら、仁木兵部少輔は家宝として茶器を購入したり、実状に相応しくない行動が多くなった。これに怒った豪族らが守護所を襲撃した。仁木一族は信楽へ逃れ、大名としての仁木氏は一時滅亡した。後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲いたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にした(伊賀惣国一揆)。以降の仁木一族の動向は不明。
戦国時代
天正7年(1579年)9月、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の前に敗れ、天正9年(1581年)9月に信雄の父織田信長は4万5千の兵で伊賀を平定。信雄の家臣である滝川雄利を伊賀守護とした。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀を支配した。本能寺の変後豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣脇坂安治が伊賀守護となったが、天正13年(1585年)5月に摂津に移封された。
筒井氏時代
脇坂安治の移封から3ヶ月後の8月、郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り住んだ。定次は天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにした。「迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草館ヲ造立シ屢比ニ幽栖ス。而後数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬師寺ニケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ヌ。三層ノ高楼ヨリ内外ノ曲輪要害太厳重也」(『伊水温故』)とあり、城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口とした。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられている[2]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍の徳川家康方につき会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子に攻撃された際、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。定次は家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た(上野城の戦い)。
関ヶ原の戦い後、新庄直頼父子は改易され定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩した。しかし、家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、近江彦根城同様重要な地点である上野城を強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けた(筒井騒動)。一説には、定次がキリシタン大名で棄教を聞き入れなかったためとも言われている。
藤堂氏時代
同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和・紀伊を抑えるためにも高虎の力が必要となったと思われている。高虎は慶長16年(1611年)正月より、上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。
「本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を開く南側の東西百三十間とし、北側の東西百三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い、西側は幾度新に南北百三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり」(『公室年譜略』)としている。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城のことを指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設した。筒井時代は、上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。
東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだした。
慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)の2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。
一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲とした。
近現代
- 1869年(明治2年) - 版籍奉還。明治維新後、廃城令によって廃城処分とされ、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。
- 1873年(明治7年) - 博覧会開催後、太鼓櫓、下之段米蔵が民間に払い下げになった。
- 東大手門を中心に、三重県庁上野支庁と第三警備駐屯所が置かれた。
- 1887年(明治20年) - 東大手門が解体。
- 1896年(明治29年) - 伊賀出身の実業家田中善助が、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。
- 1907年(明治40年) - 西大手門が解体。
- 1935年(昭和10年) - 衆議院議員であった川崎克の私財により復興天守が建設される。
- 1967年(昭和42年)12月27日 - 国の史跡に指定される。
- 1980年(昭和55年) - 4月に公開された映画『影武者』の撮影現場として用いられた。
- 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(47番)に選定された。
- 2011年(平成23年)9月1日-11月30日 - 築城400年祭が行われた[3]。
- 2021年(令和3年)4月8日 - 東京オリンピックの聖火リレーの三重県区間第2日目のスタート地点となる[4]。第1走者を務めたのは鳥羽一郎であった。
城郭
藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。
筒井定次時代の城を取り込み、大きさも約3倍となり7千坪に拡張した。筒井定次時代の本丸の西を拡張し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台と通称するようになった。東側の外堀は218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側は254間、堀幅12間、北側が17間、北の山下の土塁と堀は筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。
本丸の西、内堀を隔てた台地、現在の三重県立上野高等学校のグランド付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、二の町筋、三の町筋があり、三の町筋に家臣や住民の消費にそなえた商人町があった。三の町筋の南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外馬場となった。これ以外に馬場の南一帯は外輪と呼ばれる侍町、忍町が置かれ、更にその南に鉄砲組足軽の長屋が置かれ、鉄砲町と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる農家があったが、次第に町が形成され東の枝町と呼ばれていた。
嘉永7年(1854年)6月に、伊賀上野地震があり伊賀上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破損した。その後御殿、城代役所、武具蔵、米蔵をはじめ、東大手門、西大手門等、城として最小限のものが補修されたが、外郭の櫓は再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓櫓と菱櫓が残るものとなった。
古写真
高石垣
大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。
伊賀文化産業城
伊賀文化産業城(いがぶんかさんぎょうじょう)は、伊賀上野城跡に衆議院議員であった川崎克が私財を投じて建てた復興天守である。川崎の「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」との理想をもとに、「伊賀文化産業城」と命名された。昭和7年(1932年)10月14日地鎮祭を執行、工事に着手、翌年11月19日の棟上式、昭和10年(1935年)10月18日に完成した。
設計:渡辺虎一、施工:田中兼太郎[5]。
構造
川崎克の純和風への強い要望により、同時期にコンクリート建築で再建された大坂城復興天守とは異なり、木造で瓦葺き、白漆喰塗籠の層塔型3層3階、高さ23mの大天守と、2層2階の小天守が建てられた。史的考証による設計はなされておらず、五層天守の天守台に三層天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用していない。
所蔵文化財
復興天守内には、藤堂高虎の黒漆塗の兜などがある。また3階の天井には、横山大観らの色紙46枚が張られている。また模擬天守は昭和60年(1985年)3月18日に伊賀市有形文化財に指定された。
施設情報
- 開館時間
- 午前9時-午後5時
- (入館は午後4時30分まで)
- 休館日
- 12月29日-31日
- 入館料
- 大人600円、こども300円
現在の状況
- 現在、現存している建造物は武具蔵のみである。この武具蔵は三重県立上野高校の図書館横に立地している。
- また、高石垣には植物が生えているが、ピンク色のテープの付いた植物は希少種のため意図的に残されている。その他の石垣の雑草の手入れは訓練の一環として自衛隊が毎年行っている。
- 復興天守が存在するが、本来の天守のあった正確な場所には建造されていない。筒井氏時代の天守台もほぼ当時の容貌を残しているが、石垣の積み直しや発掘作業で立ち入りは禁止されている。
- 石垣が高いため、転落して死亡者が出ることもある[6]。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 伊賀鉄道 伊賀線 上野市駅
- 徒歩約8分
- 車でのアクセス
- 名阪国道 上野IC → 国道368号 → 国道25号
- 城内に有料駐車場有り
参考文献
- 【書籍】「日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山」
- 【書籍】「三重の城」
- 【書籍】「定本 日本城郭事典」
- 福井健二『伊賀上野城』伊賀文化産業協会、2009年4月。
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伊賀上野城の口コミ情報
2023年01月05日 虹ノ松能登守
伊賀上野城
高石垣で有名な伊賀上野城を見たくて訪問しました。
上野公園の西側に位置しているので、西隣にある高校横の道から堀を挟んで高石垣を見ることができます。
そのまま堀沿いに進むと天守閣へ上る道があるので、ぐるりと回って入口へ。天守閣は再建です。入口で靴を脱いで入りますが、スリッパがないため足が冷たかった。
高石垣は上から見ることもできますが、近づくとほぼ真下が堀なので、十分注意して下さい。
天守閣の東側には城代屋敷跡がありますが、建物などはなく、部屋や台所などの間取りが敷石で復元されていました。表門の扉の跡は見て取れます。
2023年01月02日 七星屋伊賀守黒龍
伊賀上野城
12/29〜12/31の間は、伊賀上野城の天守閣は閉館しています。スタンプも押せません。詳しくは、HPをご覧ください。お城の公園駐車場は600円です。30日に登城しようとして、、、無念!事前予習は大切ですね。せっかくなので、高石垣の見学と縄張りの散策をして楽しみました。
2022年10月23日 とん
伊賀上野城
攻略日はちょうどお祭りでした。だんじり会館でスタンプラリーのハンコを押そうと思ったら、なんと祭りの為休館・・また今度再攻略します
2022年06月27日 左兵衛督ゆーき
伊賀上野城
2022年に訪問。
敷地内に芭蕉翁記念館と伊賀忍者屋敷があります。伊賀上野城のみどころはなんといっても石垣でしょう!日本一二というカワイイ表現ですが、絶壁の石垣はかなり迫力あります
2022年06月27日 特にありません
伊賀上野城
やはり、藤堂高虎。天守閣も美しいと思う。高石垣も凄いけど、通常の石垣も見応えあり。文句つけようが無い。
2022年06月14日 駿河守すみっこ
伊賀上野城
多気北畠神社から向かいましたが、できるならこのルートは避けた方がいいです。道幅激狭山道が延々と続き対向車来たらアウトです!しかもスマホの電波届かないです^^;参考までに…
伊賀上野城の高石垣は見応えあります。高所恐怖症の私は覗いた瞬間足が竦みました^^;時間ギリギリで訪れたので今度はゆっくりじっくりみたいです。
2022年05月31日 シゲシゲ阿波守
伊賀上野城
車での城攻略は駅前の駐車場を利用すると少し遠くはなりますが安くできます。
2022年04月29日 【城郭道】たっきー
伊賀国分寺[伊賀上野城 寺社・史跡]
奈良時代に聖武天皇の詔によって築造された伊賀にある国分寺。東西約220、南北約240の規模で手前から中門、金堂、講堂が存在し、塔が二つあった模様。また、中門と金堂は回廊で結ばれていたと見られる。なお、現在は建物は残っていない。
大正時代になってから注目され、様々な調査を経て、1923年3月に国史跡となったが1944年9月に海軍飛行場用地とするため指定解除となった。また、この時掩体壕(えんたいごう、と呼ぶ。人員、装備、武器などを敵の攻撃から守るための横穴のような施設)を造営したため、多くの遺構が失われてしまったという。
1948年1月に再指定。1961年2月に追加指定されて現在に至る。付近の長楽山廃寺跡は伊賀国分尼寺と見られ、国分寺とともに国史跡に指定されている。
行ってみると簡単な看板があるので気軽に散策することができます。当時の面影に思いを馳せて空を眺めることができます。伊賀上野城から車ですぐなのでおすすめの場所です。あ、駐車場はないのでご注意。
2022年04月13日 櫓守潔人
伊賀上野城
大石垣の上から覗きこむと、堀の水面まで相当の高さかあり思わず身震いするほど怖かたです。
2022年03月30日 マーヴェリック伊勢守
伊賀上野城
大阪の抑えのお城。西と東での差をよくご観察を。西へのお出かけの際は、自分は安全に戻ってこれたサインのお城となっています。平和を願ってのライトアップ(少し情報が遅いですが)。戦争をするための上野城ではありますが、平和の象徴として今後も見続けましょう。
2021年11月22日 右京大夫ぴょんすけ
伊賀上野城
日本一と言われる広大な高石垣を、見下ろした時の圧巻さ、素晴らしかったです。
2021年07月25日 おにどうせつ摂津守ずいふう
伊賀上野城
石垣が美しいと感じ、堀と石垣の雰囲気にうっとりしてしまいました。
藤堂高虎の城普請の名人ぶりが見え隠れします。
2021年07月24日 ラクダ。
伊賀上野城
久しぶりに行きましたが、よかったです!石垣も高いです!
2021年04月23日 源下野守ポンコ2今は…
伊賀上野城
伊賀上野城本丸は、西側の内堀に面した高さ約30mの打込接石垣をはじめ、東側の城代屋敷があった筒井古城の石垣などあります。実際登城して、西の対大坂城向けに改築されたのが高石垣でよくわかります。
これら石垣に使われた石は、城に近い荒木村、寺田村、中の瀬、服部、永田、夙河原産の花崗岩が主に使われており、一部に地元の安山岩も使われています。地産地消のはしりです。
柳生・信楽・阿保など伊賀地域周辺は、白亜紀後期の花崗岩が多くみられ、こうした恵まれた立地により石垣普請が可能でした。
1854年の大地震では、城代屋敷全壊や武家屋敷など城内の7割の建物に被害を受けました。石垣も、天守台や城代屋敷の虎口や南側など周囲で十数か所崩落しましたが、内堀に面した高石垣は、天端石落下や上野高校近くの3箇所の孕みなどで済んだと記録されてます。
以上、石垣にまつわる雑学でした。
2020年10月04日 しげしげ主税頭信繁
伊賀上野城
日本1か2の高石垣はお見事ですね。
全体が見たくて外周を歩きましたが、木や草が茂っていていまいち残念感あり。
9時開館のはずが、15分程遅れて門が開き入城しようとしましたが、忙しそうに掃除しており目の前のカウンターにスタンプが置いてあったので、そ〜と100名城のスタンプのみ押して帰りました。
2020年09月27日 ばらく~だ
伊賀上野城
伊賀鉄道の上野市駅と西大手駅、お城までの距離はそれほど違いは無いと思いますが、JR伊賀上野駅からの運賃は60円差があります。この差をどう考えるかはあなた次第デス。
2020年09月20日 fuchi
伊賀上野城
天守の最上階の天井には、横山大観はじめ、有名画家、書家の作品が貼られてますが、上向きで鑑賞しなければならず、首がつかれます。
2020年09月05日 大納言Z内大臣369
鍵屋ノ辻[伊賀上野城 碑・説明板]
1634年、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を討った事件があった場所で、曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入りと並ぶ日本三大仇討ちの一つである。
2020年09月05日 大納言Z内大臣369
俳聖殿[伊賀上野城 遺構・復元物]
1942年、芭蕉生誕300年を記念して建てられてた。
堂内にある芭蕉座像は芭蕉命日の「芭蕉祭」で公開されます。
2019年10月07日 首藤加賀守通宗
武家屋敷入交家住宅[伊賀上野城 遺構・復元物]
元長宗我部家家臣の屋敷。大坂の陣では旧主長宗我部家と交戦せねばならなかったとか。伝来の鎧が展示してあります。開館時間9:00~17:00(入館16:30まで)、入館料200円。休館日火曜日。
2019年05月29日 北海琉球守如水
伊賀上野城
映画「忍びの国」で伊賀衆頭領が密談を行った平楽寺が筒井城のこの地にあったそうです。
2019年05月29日 合戦もう秋田城介速水右近
伊賀上野城
高石垣の正面の山脈の手前に小さな森があるが、その右辺りがかの有名な荒木又右衛門仇討ちの場、鍵屋の辻!
鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。また、曾我兄弟の仇討ちに代わって浄瑠璃坂の仇討ちを加えて江戸三大仇討ちとすることもある。
2019年05月27日 長岡佐渡yosy興長
伊賀上野城
30メートル近くある高石垣を、上からと下から見る。ツアー参加者の皆さんの声のとおり有名な高石垣をしっかり見学できる場所を確保して欲しいですね。
2019年05月27日 【麒麟】大宰帥しらいとはま
伊賀上野城
慶長16年伊賀上野城西内堀に打込はぎの技法で積まれた≪高石垣≫…根石より天端まで15間(凡そ29.7m)
2019年05月27日 【麒麟】大宰帥しらいとはま
伊賀上野城
伊賀上野城の復興天守(伊賀文化産業城)…嘗て藤堂高虎の五層大天守は竣工直前の慶長17年9月2日に大暴風で被災倒壊してその後再建されることは無かった…
2017年08月13日 我流尾張守クール
伊賀上野城
鉄路で来ました。
JR伊賀上野駅から伊賀鉄道なら上野市駅まで260円、三重交通バスなら公園東口バス停まで210円です。どちらも1時間に1本です。伊賀鉄道上野市駅には「メーテル&鉄郎」が鎮座しています。
2017年08月06日 織田上総介晃司
伊賀上野城
市役所横の駐車場(有料)に駐車。
大天守3階の天井には天守復興を祝い、横山大観や川合玉堂たちの書いた色紙が張り付けてある。
高石垣は藤堂高虎の築城で日本有数の高さを誇る。
高虎の石垣は、反りのないのが特徴
上から見下ろしても下からみあげても石垣の高さを確認する事ができる。
2016年02月26日 シバヤン大和守忠肝義胆
伊賀上野城
近江出身の武将は武辺だけでなく人芸に優れている者が多いです。この伊賀上野城の築造者の藤堂高虎もその一人です。
関西本線の伊賀上野から伊賀鉄道に乗り変えて上野市駅か北にすぐに聳えたってます。入口より左側学校裏からの方が城へは近いです。天守閣内は三階からなり最上階からの眺めは気持ちいいですよ。窓は開けられるので吹き抜ける風は冷たいが心地いいです。東側からは筒井氏時代の石垣遺構が覗けます。
一通り見学したあと城入口横の「くのいち家」で昼食、今日の日替わりランチの伊賀牛のバラ肉入りの肉豆腐が大変おいしかったですね(ちょっと宣伝(^.^))。
この城は対豊臣戦用と言うよりも独立心の強いこの地を統治する為にはどうしても必要だったのでしょう。石垣が高くなったのも火攻めを恐れてのことと考えます。
この城は対豊臣戦用と言うより忍びの横行する伊賀を統治する為に築かれたんだなと感じました。
この城の職員達も大阪から来たと伝えると少し驚いて各階付いて来てくださり丁寧なご説明をされて嬉しかったです。
入館料500円、城パンフレット350円買いました。百名城1つクリア(^o^)
2016年02月04日 剣帝レオンハルト
伊賀上野城
市役所横の有料駐車場(500円、先払い)に車を停めて登城しました。駐車スペースが狭いので、大型車は注意して下さい。
天守入城も大人1人500円、小人200円です。支払いの際にJAFの会員証を提示したら、大人20%小人25%の割引が4人まで受けられるそうです。
1時間程あれば天守、高石垣等じっくり見ることができると思います。ただ、現在公園整備の工事の為、一部入れない場所がありました。
2016年01月26日 まるき〜
伊賀上野城
城の麓にある案内所の所から通常上方向へ登って行くと思いますが
バス駐車場の左側の道を歩いて行く方が天守、高石垣へは近いです。
堀の外側から高石垣を見ようと堀を降りたあとが何ヶ所かありましたけど、草木が生茂り足場が見えづらく勢い余って水に落ちる可能性があるので注意です(汗
上野高校運動場前辺りから見える高石垣が無難な所かな…
割と草木が多くて、もう少しスッキリと天守が見える様にして欲しい所。
駐車場500円
天守入城500円
100名城スタンプあり
近くに伊賀上野民俗資料館があり無料で見学出来ますが城関係の資料はありませんでした。
2015年03月28日 ООトマシ
伊賀上野城
私財を投じて再建した川崎克氏が木造にこだわった天守が80周年を迎えます。
当時、自らの銅像を贈るといわれ、それよりも城再建にその資金をだしてほしいといわれたといいます。
上がり口と最上部の一角にホットカーペットが敷かれていて登城者の冷たい足もとを暖めてくれる心遣いがうれしいです。
有名な高石垣は日本一、ニの、というファジーな案内が笑いを誘いますが、実際うえから覗きこむと足がすくみます。
2014年10月14日 タバスコ
伊賀上野城
天守閣のなかのかべをよく見ると忍者が居ます
2014年01月25日 左近衛中将ぶぶ之助
伊賀上野城
平成26年1/6〜1/31まで、補修工事中です。
天守に足場を組んでました。
2012年11月11日 OHMSS井村
伊賀上野城
この秋から松坂城と鳥羽城との三城連携で、城郭めぐりスタンプラリーが始まりました。スタンプ台紙は大天守閣にあります。
2012年08月23日 勘解由次官ぷんちゃん
伊賀上野城
伊賀なので、忍者博物館で忍者衣装が借りられます。コスプレして城の潜入もおすすめです。
2012年01月18日 桑名中務大輔はまぐり〜
伊賀上野城
天守の内に高虎が秀吉から拝領した兜が展示してあります。
2011年05月05日 三河守コーキしゃん
伊賀上野城
未完成のお城ですが、本丸西側には高さ、30メートルもある高石垣があって、上から見ても下から見てもその高さが実感できます
天守閣は天守台より一回り小さく作ってありました
2010年09月18日 古楽侍従広家
伊賀上野城
高石垣を積んだ天守より筒井古城や城代屋敷の方が高い位置にあります。不思議な縄張りですよね。
伊賀上野城の周辺スポット情報
高石垣(遺構・復元物)
城代役所跡(遺構・復元物)
白鵬門(遺構・復元物)
武家屋敷入交家住宅(遺構・復元物)
俳聖殿(遺構・復元物)
蛇谷堀(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
本丸西側内堀(遺構・復元物)
成潮平馬家長屋門(遺構・復元物)
成潮平馬家屋敷跡(遺構・復元物)
武家屋敷-赤井家住宅(遺構・復元物)
小天守閣(遺構・復元物)
大天守閣(遺構・復元物)
崇広堂(遺構・復元物)
筒井天守跡(碑・説明板)
鍵屋ノ辻(碑・説明板)
東大手門碑(碑・説明板)
西大手門跡(碑・説明板)
音羽氏城(周辺城郭)
藤堂家墓所(上行寺)(寺社・史跡)
藤堂玄蕃家墓所(大超寺)(寺社・史跡)
平楽寺跡(寺社・史跡)
伊賀国分寺(寺社・史跡)
寺町(寺社・史跡)
大天守閣1階(スタンプ)
観光案内・トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
城北駐車場(駐車場)
上野公園第2駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
模擬天守(関連施設)
上野公園(関連施設)
忍者伝承館(関連施設)
伊賀流忍者博物館(関連施設)