磐城平城(いわきたいらじょう)
磐城平城の基本情報
通称・別名
- 龍ヶ城、龍城、飯野城
所在地
- 福島県いわき市平旧城跡
旧国名
- 磐城国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 鳥居忠政
築城年
- 慶長8年(1603)
主な改修者
- -
主な城主
- 鳥居氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀
指定文化財
- 市史跡(磐城平城跡塗師櫓石垣)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
高久の古館(福島県いわき市)[6.0km]
車城(茨城県北茨城市)[30.6km]
真壁城(福島県双葉郡)[31.5km]
小野城(福島県田村郡)[34.7km]
松岡城(茨城県高萩市)[39.1km]
三芦城(福島県石川郡)[40.2km]
羽黒山城(福島県東白川郡)[43.4km]
棚倉城(福島県東白川郡)[45.0km]
宇津峰城(福島県須賀川市)[45.8km]
常盤城(福島県田村市)[47.7km]
磐城平城の解説文
[引用元:Wikipedia「磐城平城」の項目]
磐城平城(いわきたいらじょう)は、陸奥国磐前郡磐城平(福島県いわき市平)にあった日本の城。磐城平藩の藩庁。別名龍ヶ城(りゅうがじょう)。遺構の一部(石垣)がいわき市指定史跡[1]。
沿革
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602年(慶長7年)に徳川幕府譜代の鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603年(慶長8年)に着工し、12年の歳月を費やして1615年(慶長20年/元和元年)に梯郭式平城を完成させた。
天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。
1868年(明治元年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した当時の磐城平藩家老・上坂助太夫は、磐城平攻防戦で明治政府軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。
地理
城周辺
城内には御三階櫓・隅図櫓・塗師櫓・八ッ棟櫓・追手門櫓・中門櫓・六間門櫓などがあった。また、茶室緑天庵も記録に残っている。
城下町・磐城平
鳥居忠政が磐城平城を本拠地とすると、城下町の形成は、城を中心に「階層別居住区を設けない」都市造りから、城を中心に武家町・町人町・寺町を分けて「階層別居住区を設ける」都市造りに変更された。「江戸」と「東京」が同地異質、「岐阜」と「加納」が同地異質であるのと同じく、「飯野平」と「磐城平」は同地異質で都市造りの性質が異なっている。
1604年(慶長9年)には基礎が完成し、町人たちに、防災のための手桶や梯子を用意することと、清掃の徹底・町木戸の使用を命じた。更に、十人組を作らせ、治安の責任の一端を持たせた。城下の人々の中で、特別な権利を持った商人の多くは、関ヶ原以前の岩城氏の家臣や、門閥商人出身者であった。
紺屋町は当初は現在の八幡小路にあり、磐城平城が建築される際に現在地に移された。八幡小路には、安藤氏が藩主となった時期には藩校・施政堂が立地した。
菩提院町は古くは禰宜町といわれたり、立町は御徒町といわれていた。磐城平城下5口(長橋口、久保町口、北目口、鎌田口、新川町口)を通る馬の数は、1口で760余りであった。また、磐城平城下には職人も多く、鍛冶町には、刀鍛冶の根本国虎や鈴木貞則などの名工がいた。
- 武家町
- :六間門・揚土・八幡小路・道匠小路・曲松・杉平・桜町・掻槌小路・田町・柳町・梅香町・四軒町・白銀町・番匠町・鷹匠町・仲間町など
- 仲間・足軽町
- :仲間町・風呂ノ沢・胡麻沢・新町・立町・久保町など
- 町人町
- :一町目・二町目・三町目・四町目・五町目・十五町目・久保町・紺屋町・研町・長橋町・材木町・菩提院町など
町人町は町奉行の管轄だったが、内藤氏統治下で作られた新川町・鎌田町・北目町は新しい町だったため、郡奉行の管轄となった。磐城平城下の玄関である長橋口・鎌田口・久保町口には、惣木戸が設けられた。現在では、長橋口が尼子橋北口(内郷御台境交差点)付近に、鎌田口が平大橋東口(鎌田交差点)付近に当たる。
遺構
現在残っている遺構は、石垣・土塁・水堀であり、一部は丹後沢公園として残っており、この外には、岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍ヶ城美術館が立地している。しかし、城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており[2]、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない(柵の外から眺めるのみ可能)。復元の話も何度かあったが、資金不足が原因でいずれも実現に至らなかった。1897年(明治30年)に常磐線を開通させる際には、水堀が一部埋め立てられた。塗師櫓石垣は、2001年(平成13年)4月27日にいわき市の史跡に指定されている。
建築物として、掻槌門が市内平藤間の民家に、長橋門が市内平新川町の民家に、どこの門か定かではないが城門が市内平沼ノ内賢沼寺に、それぞれ移築され現存する。尚、磐城平城跡の住所表記は、「いわき市平字旧城跡」となっている。廃城後に建てられたものでは旧仮藩庁が現存している。
2010年(平成22年)6月13日には、磐城平城跡の市民公園への移行を目指す「磐城平城史跡公園の会」が設立された[3][4]。又、2010年(平成22年)以後は、毎年9月に「龍ヶ城月見の宴」が開催されている[5]。
2020年(令和2年)1月11日には、三層櫓の形をした高さ13メートルの看板が本丸跡地に建てられ、2月末までライトアップされた。
整備と復元
民有地から市有地化(公有地化)を進め城跡の整備、櫓の復元を計画している。
観光
アクセス
- いわき駅北口より徒歩5分。
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磐城平城の口コミ情報
2025年09月30日 なるちゃん治部卿
磐城平城
前回、工事中で入れなかったので、近くまで来たついでに様子を見に行ってきました。令和8年2月までになっていました。板塀ができていて、完成予想図などがありました。
2025年09月03日 マグロ常陸介祐平
湯長谷藩館[磐城平城 周辺城郭]
2014年に佐々木蔵之介の主演で話題となった映画「超高速!参勤交代」の舞台となった湯長谷藩の陣屋です。磐城平藩主内藤忠興の三男政亮が寛文12年(1670年)に1万石を分知され湯本藩を立藩し遠山を名乗ります。延宝4年(1676年)になると、藩庁を湯長谷に移し陣屋及び城下町を建設し湯長谷藩が誕生します。
政亮は、増上寺の法要の際に、永井尚長を刺殺した内藤忠勝(同族ではない)を取り押さえたことで二千石を加増、さらに大阪定番に就き河内で三千石を与えられ、一万五千石となっています。遠山の姓から3代政貞の時に内藤に戻しており、本藩が延岡に移っても、湯長谷藩内藤氏はこの地に残り、廃藩置県を迎えています。
湯長谷藩は養子相続の多い藩で、6代藩主貞幹は、紀州藩徳川宗直の6男です。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍に攻略され、藩主政養は仙台に逃れ降伏し、千石を召し上げられて謹慎処分となっています。
陣屋はほぼ単郭で、磐崎中学校の敷地となっていますが、説明板の背後から熊野神社の裏側にかけて水堀が残っています。水堀の後ろには土塁もあるようですが、水堀ごと草に覆われておりよく分かりませんでした(写真1~3枚目)。
説明板には戦国期の館跡に築かれたと書かれていますが、誰の館だったのかは、ネットでは調べることができませんでした。Googleマップでは、中学校の東側約150m程のところに湯長谷城跡の位置登録がありますが、こちらもよく分かりません(先人様が位置登録、口コミ・写真なし)。
陣屋の南側に隣接する熊野神社には、土塁や虎口状のものが見られ、切り通しで折れの見られる参道は、一般的な参道とは趣が異なり、どことなく城郭遺稿的な雰囲気を感じます(写真4~7枚目)。また、参道の東側には沢とは異なる感じの竪堀状の溝が見られますが(写真8枚目)、なんでも城郭構造に見える病気にかかっているのかもしれません。
短い区間ですが、麓の通りは城下町の雰囲気を感じます。
2025年09月02日 マグロ常陸介祐平
泉陣屋[磐城平城 周辺城郭]
泉藩の藩庁です。城ではなく陣屋ですが、歴代の藩主は城主格の大名です。初代藩主は磐城平藩主内藤政長の4男政晴で、2万石を分知され泉藩を立藩しています。内藤氏は3代藩主が安中に移封し、次に入った板倉氏は2代で相良に移封、延享3年(1746年)板倉氏と入れ替わりに本多氏(平八郎家)が相良から移り、以降明治4年の廃藩置県まで続いています。
本多氏(忠如)が泉に移されたのは、遠江を本拠とする盗賊の日本左衛門の取り締まりがいい加減だったことが原因の左遷です。幕末の藩主忠紀は戊辰戦争で幕軍につき、官位剥奪の上、2000石を召し上げられて隠居しています。
泉公民館の隅に、城址の標柱や変遷を記した石碑、本多赤玉の碑(登城の際に槍先を飾るもの)が建っています。市街地化しており、遺構は残っていないと勝手に思っていましたが、北西に隣接する泉西公園に土塁の残欠が残り、400m程東には陣屋の表門が移築されているようです(先人様が写真を投稿)。事前調査が足りず、見逃してしまいました。
最後の藩主忠伸の墓は、500m程西の墓地(旧泉住院?)にあります。
2025年09月01日 マグロ常陸介祐平
滝尻城[磐城平城 周辺城郭]
諏訪八幡神社が城址となります。伝説の域を出ませんが、安寿と厨子王丸の父親である岩城判官政氏の館と伝わります。建武年間には、周辺地域(菊田荘)は八条院領として後醍醐天皇に伝領され、南朝方の拠点となっており、下野小山氏の一族で南朝についた駿河権守朝郷が居城しています。
お城は単郭の居館的なものと思われ、北側の鳥居の両サイドに土塁が残っています。土塁の外側に堀は見られませんが、土塁の内側には、土塁に沿って幅の広い水堀風の池が見られます。風雲たけし城的な、土塁を乗り越えてきた敵兵が堀に落ちる仕掛けとは思えず、遺構ではないと思われます。
城址に鎮座する諏訪八幡神社は、平安時代初期の大同年間に岩城判官政氏により創建されたもので、延宝3年(1675年)に岩城判官の旧館跡に泉藩主により遷座されたものです。
2025年05月22日 左近衛少将軍曹
磐城平城
本丸跡に城址公園はまだ建設工事中でしたが、震災で半壊した塗師櫓の石垣の他にも石垣が見られます。丹後沢と呼ばれる水堀も美しく散策は楽しかったです。付近には飯野八幡宮、高月館と大館城があり、中世から近世に至る磐城平の変遷を学べます
2025年05月17日 藤陸奥守重真
上遠野城[磐城平城 周辺城郭]
ハイキングコースとして整備されてます。一部ロープを使って登り降りする箇所がありアドベンチャーな気分を味わえます。
2024年08月16日 池田紀伊守信輝
飯野八幡宮[磐城平城 寺社・史跡]
社伝によれば、康平6年(1063)源頼義が奥州合戦(前九年の役)出征の時、京都石清水八幡宮を必勝祈願のため勧請したという。その後文治2年(1186)関東御領好嶋荘の総社として、源頼朝の命により本社石清水より御正躰を奉じ、赤目崎見物岡(現いわき駅北の高台)へ奉祀した。元久元年(1204)火災に遭い社地を飯野平(現在地)に移し、北条政子が本願となって社殿を造営した。宝治元年(1247)北条時頼は幕府政所執事伊賀光宗(飯野家の祖)を好間西荘の預所に任命した。
慶長7年(1602)鳥居忠政が磐城平領主となり、新たに築城するにあたり、旧地を離れ、現在地に遷座したとされる。
2024年06月22日 もとより
磐城平城
磐城平城:城趾公園にすべく2024年9月30日まで工事中です。本丸に続く坂道の途中の石垣には石一つ一つにNo.が付けられていました。本丸跡地の真ん中に石碑が立っており、工事柵で囲われておりました。石碑は城に関係あるものかどうかは不明ですが。
駅前の自由通路北端広場には今までの発掘調査に関する簡単な説明の看板が立っています。
2023年08月13日 ひ〜ふ〜
磐城平城
磐城平城のガイダンス施設の建物は出来上がっていました。中の展示はどうなるのでしょうね〜いわき駅の北側も工事が進んでいました。公園全体が早く完成して欲しいですね。
2023年05月10日 zeke勘解由長官
磐城平城
いわき駅北口からすぐ。残念ながら工事中。
2022年09月04日 国府左京大夫城介
白土城[磐城平城 周辺城郭]
戦国大名岩城氏の初期の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、嘉吉の内紛(1442~1443)により、岩城氏の内紛を鎮圧し、岩城氏の当主となった庶流の岩城(白土)隆忠が築いた。その後、親隆・常隆の三代の居城として、岩城郡・菊田郡・楢葉郡を領有すると、文明年間(1469~1487)に、大館(飯野平城)に本拠地を移した。
天文年間(1532~1555)の頃には、岩城成隆の弟・重隆(成隆の死後、岩城氏の当主となる)が白土城の城主となっている。その後、岩城氏の宿老である白土摂津守隆通が城主となっている。
関ケ原の戦いの後に、岩城氏が改易されると、同時に廃城となったと考えられる。
【遺構】
磐城平城の南東2.5kmに位置する阿武隈高地から伸びる支丘陵の先端(標高90m)に築かれている。
白土城は、東西1km・南北約900mもある巨大な山城で、複数の曲輪群で構築されている。
主郭には、虎口・土塁・堀切が残っている。また、岩城氏の菩提寺である増福寺の北西にも平場(現在は墓地)がある。増福寺から南に行くと、土塁と空堀が、更に南側の平場には居館跡(現在は個人宅)がある。
【感想】
明確な登城口はないので、北側にある花地稲荷神社(元は櫓台か?)から登城していきます。しかし、この神社の参道は傾斜に無理矢理九十九折の道としているため、かなり登りにくいです。更に前日の雨のせいか、かなりぬかるんでおり、より一層登りにくかったです(むしろ、降りる時の方が大変です😅)。
城内は、ほぼ藪で覆われており、遺構が分かりにくいのに加え、虫にまとわりつかれ、写真が撮りづらい状態でした。しかし、縄張り図や現地の一部遺構から中々面白そうなお城っぽいので、冬場の再訪も念頭に考えてもいます。
【アクセス】
いわき駅から徒歩で約30分。
【写真】
①遠景
②登城口(花地稲荷神社入口)
③九十九折の登城道
④堀切
⑤主郭付近の土塁と切岸
⑥増福寺付近の段曲輪
⑦土塁
⑧居館跡
2022年03月20日 十文字陸奥守鷹虎
磐城平城
2022年3月20日磐城平城へリア攻め行こうとしましたが、工事の方に「私有地に付き立ち入りできませんよ」と言われました。案内図には、物見台や芝生広場がありますが、立ち入り出来なくなったんですかね?
2022年01月05日 JUN
磐城平城
城跡はきっちり確認出来ますが、訪ねるなら朝早く!夕方近くに着いたので真っ暗な中での散策でした。
2021年06月04日 萌魏副将軍叡声
磐城平城
いわき駅東口からすぐ。いささか急な坂だが舗装されてるし、難儀でもない。駅の観光案内所に城案内図がある。
2021年02月01日 なるちゃん治部卿
磐城平城
他の方が投稿している通り、中に入れませんでした。理由が樹木の伐採となっていました。2月26日までの予定のようです。
2020年09月17日 アラン胆振守ポー
磐城平城
いわき駅北口から急な上り坂を歩いて行くと櫓の城郭跡に続いて本丸跡入り口に到着。2020年6月11日から発掘調査中です。期間未定なのでいつ入場できるかわかりません。当時は堀に囲まれた堅牢な城で戊辰戦争でもなかなか陥落しなかったそうです。本丸からの景色はきっと良いと思われます
2019年05月07日 ぷー姫=黄色頭巾の局
磐城平城
西側の内堀に沿って、木々がうっそうとした遊歩道を南東にどんどん進むと、木道の階段が設置された丹後沢公園が開けてきます。沢という名にもあるように、かつては北側に流れる天然の沢になっていたようです。今は、水はけが余り良くないのか、湿気のあるエリアになっていました。所々、石垣が残っています。
2019年05月06日 ぷー姫=黄色頭巾の局
磐城平城
本丸北側に残る櫓跡の石垣をズーム。荒々しくゴツゴツ感のある石は、阿武隈高地を水源とし、渓谷美で有名な夏井川、またその支流で滝が美しい江田川などから調達されたものとのこと。川は、平城から直線距離で8㎞余りの太平洋に注ぎます。磐城の国、海浜エリアに築城された城です。
2019年05月04日 摂政jumiy
磐城平城
GWに東北遠征。磐越東線乗り継ぎ1時間のあいだに訪問したら、5月3~5日は城跡がビアガーデンになっていました。ビールは嫌いではないけれど、城跡で賑やかな音楽、ちょっぴり複雑な気持ち。
2019年02月24日 大膳大夫九段の城弾正
磐城平城
磐城平城の前身、飯野平城は平市街地の北西に拡がる洪積台地(飯野平と呼ぶ)全面に立地し、近世の平城から、西は御台境町までを含む広大な地区を城地とした。飯野八幡宮の北部、伊賀氏(飯野氏)の高月舘、岩城氏の大館を含め飯野平城と呼ぶ。八幡宮宮司だった飯野氏の居館、高月舘は好嶋西荘政所が立地し、八幡宮には古い土塁が今も残り境内を囲っていた。慶長7年に鳥居氏が現在地に移した際に居館の一部を利用した可能性がある。高月舘が堀を巡らす構造であり、平時の居館か、若しくは政所が立地したのだろうか?
2017年05月10日 まさ宮内卿猛虎
磐城平城
磐城平城の残存遺跡は、石垣・土塁・公園の水堀です。鉄道施設・学校にて遺稿が消滅。
関連する遺稿として、白水阿弥陀堂(国宝)に阿弥陀仏を安置が有ります。磐城家の始祖とも言われる磐城則道の妻(徳姫)の造営。徳姫の出は平泉、奥州藤原家(藤原清衝の娘)です。則道を弔う為に造営したと。
毛越寺・無量光院を参考に、バックの山を背に、池に中島を配し2つの橋を渡って阿弥陀堂に参拝。《浄土庭園の様式》造る事で、自らが平泉に想いを馳せた事でしょう。
白水阿弥陀の名称は、泉の字は上が白(しろ)、下が水(水みず)で泉です。平は、磐城平の城の建築前は飯野平と言われた。平泉の平を取ったのか不明です。
2017年05月09日 大膳大夫九段の城弾正
磐城平城
磐城平城は現在、鉄道敷設と宅地化により破壊され、僅かに堀、土塁、石垣が残るに過ぎない。その石垣も東日本大震災で被災し、塗師櫓台石垣も半分くらいの高さになり、未だ復旧のメドが立たない(崩壊した石材は市が番付し保管。石垣にも番号あり)。
本丸の一部には明治の版籍奉還後に建築された旧仮藩庁が建ち、御三階櫓、八棟櫓址が南側に位置する。御三階櫓は二層三階、一・二階が同大の名古屋城本丸に現存する西南隅櫓と同じ形式である。八棟櫓は比翼千鳥破風をあしらった櫓だった。東側には白蛇堀が遺存し、本丸側には城主が茶の湯に使用したという湧水がある。白蛇堀の更に東には水の手曲輪の一部が土塁をともない残り、曾ては弓櫓、矢ノ櫓の2基の櫓が存在した。この本丸・白蛇堀・水の手曲輪は私有地であり通常は非公開で立ち入りはできないがイベントなどの催しがある時に限り公開する。
城の北側には大規模な水堀が丹後沢公園として現存し、内記曲輪は宅地化してしまったが六間門の堀は現在、国道399号が通っている。
2016年10月01日 まー刑部卿
磐城平城
市制50年イベントのため、いわき駅西駐車場などイベント会場として使用され駐車出来ません。交番向かい側の有料駐車場に駐車。昨日いわき市役所観光課から本丸跡地へは今イベントは立入を予定いないそうです。周りの石垣は観ることが出来ます。三階櫓のパネルを撮影するなら駅西駐車場から撮るといいみたいです。
2016年09月30日 磐城守 j
磐城平城
磐城平城本丸跡地に三階櫓が出現?!
実はこの三階櫓、歴史資料を基に地元の学生がペンキで描いた高さ13メートルの看板です。
磐城平城本丸跡地は現在、民有地。市は、本丸跡地の公有化を目指すとともに公園としての活用を検討しており、三階櫓をモチーフとした施設整備も視野に、本年度は基本構想や基本計画を取りまとめる方針。
そして、いわき市市制施行50周年に当たる明日10月1日午後6時30分から、三階櫓のライトアップイベントが行われます。観覧会場はいわき駅南側の住吉屋駐車場。ライトアップは10日まで、午後6時30分~同11時に行われる予定で、三階櫓は来年3月末まで設置する予定だそうです。
2016年03月27日 磐城守 j
磐城平城
いわき市市制施行50周年を迎える2016年は、磐城平城にて様々なイベントが開催される予定です。
4月9・10・16・17日には磐城平城本丸跡地にて「磐城平城さくらまつり」開催。
10月1日には戊辰戦争で焼失した三階櫓が一夜限りの「一夜城」として復元されます。(一夜城の詳細は不明)
また4月~10月まで磐城平城本丸跡地にて毎月イベントが開催される予定だそうです。
2015年03月12日 磐城守 j
磐城平城
磐城平城本丸跡地が期間限定で無料開園されます。
開園期間:平成27年4月~6月の土・日・祝日
開園時間:午前10:00~午後5:00
旧仮藩庁や白蛇堀など普段見れない遺構を間近で見れます。また、開催期間中は華道体験会・お茶会・ライブ等の様々なイベントが行われるそうです。
これを機に本格的な城跡公園としての整備、かつて「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた本丸三階櫓の復元が実現されることを期待します。
2014年06月05日 磐城守 j
磐城平城
磐城平城本丸跡に建つ「龍ヶ城美術館」は現在休業中ですが、いわき駅前ビル「LATOV(ラトブ)」内いわき総合図書館に、磐城平城や戦国大名・岩城氏、磐城平藩初代藩主・鳥居氏などの資料が有ります。
磐城平城の周辺スポット情報
白蛇堀(遺構・復元物)
丹後沢(遺構・復元物)
塗師櫓石垣(遺構・復元物)
中門櫓石垣(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
本丸跡案内板(碑・説明板)
丹後沢公園案内図(碑・説明板)
磐城平城下之図(碑・説明板)
飯野平城(周辺城郭)
大舘城(周辺城郭)
白土城(周辺城郭)
湯長谷城(周辺城郭)
湯長谷藩館(周辺城郭)
泉陣屋(周辺城郭)
滝尻城(周辺城郭)
上遠野城(周辺城郭)
鯨岡館(周辺城郭)
幕ノ内館(周辺城郭)
鎌田館(周辺城郭)
中塩館(周辺城郭)
鬼馬塚A城館(周辺城郭)
鬼馬塚B城館(周辺城郭)
新城山館(周辺城郭)
塩館(周辺城郭)
岩間館(周辺城郭)
中平窪館(周辺城郭)
平窪古館(周辺城郭)
神明館(周辺城郭)
堰ノ内屋敷(周辺城郭)
高見館(周辺城郭)
田中島内館(周辺城郭)
小楮館(周辺城郭)
福岡屯(周辺城郭)
高崎館(周辺城郭)
吹揚館(周辺城郭)
高萩城館(周辺城郭)
小松館(周辺城郭)
中柴外城(周辺城郭)
西小川館(周辺城郭)
赤井館(周辺城郭)
愛谷館(周辺城郭)
小谷作館(周辺城郭)
西館(周辺城郭)
高月館(周辺城郭)
大館城A(周辺城郭)
大館城B(周辺城郭)
館岡(周辺城郭)
横根館(周辺城郭)
久世原館A(周辺城郭)
久世原館B(周辺城郭)
小館館(周辺城郭)
大利館(周辺城郭)
篠登城(周辺城郭)
小屋ノ沢館(周辺城郭)
合戸館(周辺城郭)
椚合館(周辺城郭)
上代館(周辺城郭)
宮上館(周辺城郭)
北郷館(周辺城郭)
高坂館A(周辺城郭)
高坂館B(周辺城郭)
高坂館C(周辺城郭)
秋山館(周辺城郭)
白水館(周辺城郭)
鳥館(周辺城郭)
湯本館(周辺城郭)
台ノ山館(周辺城郭)
関館(周辺城郭)
関館(周辺城郭)
水野谷館(周辺城郭)
上船尾館(周辺城郭)
下船尾館A(周辺城郭)
下船尾館B(周辺城郭)
下船尾館C(周辺城郭)
下船尾館D(周辺城郭)
下船尾館E(周辺城郭)
湯長谷館(周辺城郭)
柳生館(周辺城郭)
西郷館(周辺城郭)
登館(周辺城郭)
岡部城(泉田館)(周辺城郭)
白水阿弥陀堂(寺社・史跡)
飯野八幡宮(寺社・史跡)
江尻家住宅(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)









