福喜多将監城
福喜多将監城([伊賀上野城 周辺城郭])
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福喜多将監城の口コミ情報
2025年02月08日 ʀᴇᴅ副将軍
第二次天正伊賀の乱に際して活躍した福喜多将監の詰城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。室町時代に福喜多氏により築かれたと云われます。
約500m東にある土塁囲みの福喜多氏館が平時の居館とされ、福喜多将監城は福喜多氏の詰城とされます。
1581年の第二次天正伊賀の乱に際して、北伊賀の伊賀衆は約2,800人が比自山城に、約1,500人が平楽寺に籠り織田信長に抵抗したとされます。
比自山の麓に居城を構えた百田藤兵衛と福喜多将監が中心的な役割を担い、それぞれ比自山城に付随する長田丸・朝屋丸を守備したとされます。
この長田丸と朝屋丸は比自山城の南北の郭群とする説と、山麓にある百田藤兵衛城および福喜多将監城とする説があります。
比自山城の戦いは、比自山に城を築いたことを聞いた蒲生氏郷は滝川一益や丹羽長秀の到着を待たず攻撃を開始。
筒井順慶と筒井定次の父子は大手から突撃するも数多の石矢を浴び敗走。 搦手からの侵攻を目指した蒲生氏郷は町井貞信と福喜多将監の猛攻を受け、織田信長勢は退却したとされます。
勢いに乗った伊賀衆は長岡山で野営をしていた筒井順慶に夜襲をかけ、筒井順慶は兵力の半数を失ったとされます。
しかし、伊賀衆は兵糧庫であった平楽寺を焼き払われ苦しくなり、柏原城を目指して比自山城を脱出。 翌日に織田信長勢は総攻撃をかけるももぬけの殻であったとされます。
福喜多将監はこの際に土佐へ落ち延び、翌1582年に本能寺の変で織田信長が没すると伊賀に戻ったと伝わります。
その後、福喜多氏は藤堂氏に従ったとされます。
見所
比自山城の東麓の西蓮寺南側の丘陵先端部に築かれています。
伊賀特有の単郭の堀込式城郭であり、西側の尾根の基部と東側の尾根先端の二条の堀切で郭を形成し南側は横堀が設けられています。
主郭はコの字状に切込土塁で囲み、西側には一段高い物見台が設けられています。