小川城(おがわじょう)
小川城の基本情報
通称・別名
- 信楽小川城、小川鶴見城
所在地
- 滋賀県甲賀市信楽町小川
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 鶴見長実
築城年
- 嘉元3年(1305)
主な改修者
- -
主な城主
- 小川(鶴見)氏、多羅尾氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、虎口
指定文化財
- 県史跡(小川城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
伊賀上野城(三重県伊賀市)[11.6km]
望月城(滋賀県甲賀市)[13.2km]
笠置城(京都府相楽郡)[13.2km]
石打城(奈良県奈良市)[13.6km]
関津城(滋賀県大津市)[13.8km]
甲賀郡中惣城館(滋賀県甲賀市)[14.0km]
柏野城(三重県伊賀市)[14.4km]
禅定寺城(京都府綴喜郡)[14.4km]
柳生陣屋(奈良県奈良市)[14.9km]
白栖城(京都府相楽郡)[15.2km]
小川城の解説文
小川城の口コミ情報
2024年07月29日 まーくんHMMT
小川城
ここはリア攻めしんどかった。二輪オフ車推奨。
2023年01月20日 RED副将軍
朝宮城山城[小川城 周辺城郭]
近江では珍しい畝状竪堀群が配された山城跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不明。
赤松満祐が伊賀攻めの際に布陣したとも伝わり、赤松城とも呼ばれますが詳しくは分かっていません。
見所
標高362mの城山に築かれており麓からの比高は70mくらいでしょうか。登山道はない様子でいわゆる直登案件です。
大きく北郭と南郭から成り立っており、北郭と南郭の連絡道に桝形虎口が開口していることが特徴的。
東西に伸びた南郭の中央北側にも桝形虎口が開口しています。
また、切岸に畝状竪堀群や竪堀が多用されており近江では珍しい遺構です。
しかし、残念ながら畝状竪堀はかなり薄めです。
畝状竪堀があることと、近江、山城、大和の境目で、永禄年間(1558年〜1570年)は松永久秀が近江に侵攻していたことから松永久秀勢の築城または改修があったとの説が有力です。
2022年04月13日 啓次郎
小川城
山頂まで車で登る事は出来ますが山頂手前で急勾配となります。急勾配手前で1〜2台の駐車スペース有り 僕はそこで車を止めて徒歩にて登城致しました 徒歩ですぐです。
2022年02月04日 RED副将軍
多羅尾代官陣屋[小川城 周辺城郭]
江戸初期から幕末まで代々続いた多羅尾氏の居館兼代官所跡
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
多羅尾氏の居城、陣屋跡。
多羅尾氏は、1582年の本能寺の変の際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで三河に戻る際に手助けをした事で有名です。
1595年に豊臣秀次へ多羅尾光太の娘が嫁いでいたため、秀次の切腹に連座して改易。それまでの居城であった小川城は廃城となりました。
多羅尾氏はその後、徳川家康に仕え、1600年の関が原の戦い後、徳川家康より1500石を与えられます。
1638年に多羅尾光好は天領の代官として重用され、この地に築いたのが多羅尾代官陣屋です。
多羅尾氏の統治は明治まで世襲で続きました。
見所
江戸期の天領の代官陣屋であっただけに、上段、下段の曲輪に切り込みハギの石垣が施され、庭園跡も確認できます。
⚠️ 私有地で普段は立ち入り禁止で、一般公開は秋・春の期間限定です。
春は4月〜5月、秋は10月〜11月でした。
訪問前に確認しておいてください。
2022年01月12日 RED副将軍
小川西ノ城[小川城 周辺城郭]
技巧的な縄張りに加えて、極めて状態の良い横堀と土塁が縦横無尽に巡っています✨
超オススメのマイナー城🏯
オススメ度 ★★★★★
山頂の小川城は詰め城、麓の小川中ノ城は居館、谷間を挟んだ向かいの小川西ノ城は街道の監視として機能したと思われます。
戦国時代は多羅尾氏が城主であり、伊賀と山城を結ぶ交通の要衝で、神君伊賀越えの舞台にもなった地です。
見所
丘陵頂部に主郭を置き、東側の尾根筋に二郭、三郭が空堀で区画されて連なります。
特に二郭を巡る横堀は大規模で通路として巡り、残存度は極めて良好。
三つの郭は、直線上に少しズラして連ねることで至るところに横矢が効いている点も着目してください。
初めて訪れた時は、小川城と小川中ノ城だけで日没となり小川西ノ城は見送りました。
後日、ほかの甲賀の城のついでに立ち寄ったのですが、メインの小川城以上の遺構に吃驚。
デザート感覚では無く、メインの一つとして小川城訪城の際は必ず西ノ城へも立ち寄ることをオススメします。
場所は清光寺西側の丘陵にあり、案内板も設置され県道138号線から迷うことなく数分で辿り着くことができます。
2022年01月10日 RED副将軍
小川城
本能寺の変の後、徳川家康が堺から帰還した神君伊賀越えの舞台
この城で一夜を明かしたと云われています
オススメ度 ★★★★⭐︎
1305年に鶴見氏により築城と伝わります。
その後、小川氏と称し代々続くも、1487年に多羅尾和泉守に敗れ、当主の小川成俊は山城国へ逃亡。以降は多羅尾氏の支配となりました。
1582年に本能寺の変が勃発。堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで三河に戻る際に一夜を過ごしたと云われています。
1595年に豊臣秀次へ多羅尾光太の娘が嫁いでいたため、秀次の切腹に連座して改易。小川城は廃城。
多羅尾氏はその後、徳川家康に仕え、旗本として重用され幕末まで存続しました。
見所
標高470.4mの城山山頂にあります。麓の小川中ノ城は居館、小川西ノ城は街道の監視に対し、小川城は詰め城として機能したと思われます。
山頂の主郭は土塁で囲まれ、南西端に櫓台を置き、南側に虎口が開口。北面内部の一部に石垣が残ります。
主郭東側の斜面には畝状竪堀が確認できる。更に急峻な西側切岸も同様に敷設。
良く整備され、整備状況は抜群です。
そこそこの比高はありますが、登城時も地元のお年寄り5名(チョコを貰い、色々教えて頂きました)と三世代のファミリーがいらっしゃいました。
遺構も素晴らしいですが、全国の城巡りをしていて現代でも地元に愛されている城跡は風格があり、純粋に良いお城と思う次第です。
2021年12月17日 RED副将軍
多羅尾城山城[小川城 周辺城郭]
主郭の西側背後に高い土塁が聳え、さらに深い大堀切で遮断されています✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
多羅尾氏の城郭と考えられますが、詳細不明です。
見所
台地先端に削平地が広がり、その西側背後に高さ10mの土塁が聳えます。
さらにその背後に深い堀切が西側を堅めています。
行き方は、上出集落の橋を渡ったところの西側に「多羅尾9」と書いた赤い消防ホース格納箱があります。これの脇に細い階段があり城域に繋がります。
多羅尾代官屋敷の駐車場を利用しました。
2021年01月05日 RED副将軍
小川中ノ城[小川城 周辺城郭]
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
小川城の麓にある小川中ノ城は小川城の居館
とも言われ、中世は多羅尾氏が城主であったとされます。
歴史的に注目を浴びるのは神君伊賀越えの舞台。本能寺の変後、三河へ逃げる家康が多羅尾氏の居館で宿泊したのが小川中ノ城とされています。
主郭は馬蹄形の土塁が三方を巡る曲輪ですが、最大の見所は背後の大堀切。深さ、幅とも10m近くあり、小川城域で最大の堀切と言えます。
南東に向けた尾根筋を登って行くと小川城に辿り着きますが、その尾根筋にも三重の堀切が明確に残っています。
また、谷を挟んで東側の尾根には段曲輪が連なっていましたが、この辺りはあまり整備がされていません。
小川城への登城は、先人の方の口コミの通り林道からの別ルートもありますが、やはり中ノ城の大堀切、尾根筋の連続堀切も見てもらいたいので、個人的には中ノ城からの登城をオススメします。
案内板には小川城まで1.5kmとありますが、それよりも短いと思います。1kmくらいの印象です。
写真
①小川城との尾根を分断する大堀切
②東側には馬蹄形の谷があり左尾根筋に段曲輪を確認
③三重の堀切
④段曲輪
⑤主郭
⑥段曲輪
⑦主郭背後の大堀切
2020年11月01日 近江守Silvine
多羅尾代官陣屋[小川城 周辺城郭]
多羅尾代官陣屋は信楽町多羅尾にあります。
多羅尾氏は当地を中心に信楽に勢力を持った土豪で、家康の伊賀越えに協力しました。豊臣政権下で秀次配下となり側室を送るなど勢力を拡大しましたが、その為に秀次事件に連座し改易される事となります。徳川政権となり、伊賀越えの功績として再びこの地に領地を与えられ、幕末まで治めました。
現在は石垣、庭園跡、井戸跡などが残り、5年ほど前から春(4〜5月)、秋(10月〜11月)に公開されています。
2018年04月15日 釆女正佐吉。
小川城
西ノ城の出入り口と三の丸付近に猪除けの電流線あり。十分お気をつけ下さい。
鶴見城、中ノ城にも猪と鹿の糞多数あり。鹿は同行者が実物見ました。
2017年07月28日 まるき〜陸中守
小川城
Googleマップはプレビューできても現地でない所を表示してる場合がありますので注意が必要です。
車で小川城址に行くのにGoogleのナビを使うと到達できませんでした…理由は アクセスするための蔵骨林道の起点付近の地図が無いのでおそらく林道終点からのアクセスを示すようです。(二輪、歩きは可能かと)
終点から小川城址に向かうとドンドン道は狭くなり挙げ句の果てに車では行けない道になりました…なので民家の庭先でUターンするハメになりましたので報告しておきます。
2017年07月26日 まるき〜陸中守
小川城
小川城址に行くまでの道のり、かなり困難です。YouTubeでアップされている「林道蔵骨線と小川城址」という動画がとても参考になります。こんな道ですが、よかったら行って下さいね。城址は公園として整備されています、東屋や簡易トイレもありました。縄張り図が無いので城としての規模や各曲輪の名前等がわかりませんでしたが見応えはありますよ、いろんな意味で…結構広いし。この時期は城全域に草が生い茂り石垣や礎石を見落とします。シダ類が全体を覆っていました、冬の写真を見ると形がよくわかりますが夏場はダメですね、危険生物?も居てそうで(笑
イノシシが掘った穴からは水が湧いているので水には困らなかったのか…と。あと、約10キロ程先に家康が命からがら越えたといわれる御斎峠や多羅尾代官所跡地、処刑場があります…映画忍びの国を観た後だったので行きたくなって…織田軍の総攻撃、伊賀忍者が逃亡、御斎峠を越えた頃、お国の一言で無門が戦に戻る…あの場所です。御斎峠の展望所は伊賀盆地が一望できます、処刑場は今や心霊スポットになっているようで…行く勇気があれば是非どうぞ〜(=゚ω゚)ノ
2016年12月03日 木下近江守湖一郎
小川城
行く途中の林道が若干の不安を煽りますが、城跡は整備されとてもみやすい。
看板によると小川城は多羅尾氏の城とのことで、周辺の西の城、中の城とあわせて、機能したそうです。16世紀末の改修とのことですが、何備えて、改修したのですかね。
天正伊賀の乱か秀吉の滝川攻めとかですかね。
2016年02月19日 近江守Silvine
小川城
城郭は公園化されており、遺構は見やすいです。
アクセスですが県道138号に小川鶴見城と書いた看板があります。林道が城まで繋がっていますが、軽自動車以外は避けた方が無難かと思います。
県道138号をさらに少し南下すると、小川中の城、小川西の城があります。看板もありますが、こちらはあまり整備はされていません。入口付近のみ看板があり、登城口がわかりにくいです。
小川西の城は堀切が技巧的で、小川中の城は主郭背後の高土塁と10m幅の大堀切が見応えあります。
なお、小川中の城から尾根伝いに小川城まで行けるとの事でしたが、そちらは藪がひどく、どこが道か分からない状態でした。
2014年01月14日 治部少輔しん@蓋と城
小川城
林道車で行くこともできますが、徒歩で登り尾根を歩いて降りることをお勧めします。山上の小川城と麓の小川中ノ城を結ぶ尾根上には三重堀切、そして10m幅の素晴らしい堀切は甲賀地域では黒川や新宮以上に見応えがあります。道はかなり悪いので、それなりの準備は必要です。
2013年10月21日 如月宮内大輔勤労中
小川城
台風での崖崩れの為、で大津~信楽間が通行止めとなっております。
行軍の際はお気をつけくださいませ。
2010年09月19日 古楽侍従広家
小川城
徳川家康が神君伊賀越えの時に、一泊した城(中之城の方らしい)。当時は多羅尾氏の城で、この縁から多羅尾代官が大名並の支配地をもったとか…
2010年06月12日 まったり丹波守屋
小川城
国道422から県道138を西へ約2km位の所に案内板が有りそこから南へ行くとまた案内板が有り登り口の林道になります。林道は離合が困難なので車は乗り入れない方が賢明です。
本丸付近は土塁が残っています。
余裕があれば館跡?の西側麓の中之城跡もご覧ください。
歴史
築城年代、築城者は諸説あり定かではないが、鎌倉時代末期に鶴見長実が築いたとされる。鶴見氏が前関白近衛家基に従って入部する前には、興福寺信楽荘下司職の小川氏がこの地を支配していた。鶴見氏は小川氏に代わりこの地を支配したが、後継者がなく小川氏から養子を迎え、実質的に鶴見氏と小川氏は融合したとされる。室町時代になると、鶴見氏は南方勢力の多羅尾氏に敗れこの地を追われ、小川集落一帯は小川氏の支配下となった。
小川城麓の集落寄りには小川中之城、街道を挟んだ北側の山腹には小川西之城がある。多羅尾氏の段階では、小川中之城と小川城は居館と詰城の関係にあったようだ。
発掘調査や文献史料から、天正13~18年(1585~1590)に多羅尾光俊によって東国への防備強化のため大規模な改修がされたと推定される。光俊の娘は豊臣秀次に嫁いでおり、豊臣家とは縁戚関係にあった。
文禄4年(1594)、豊臣秀次事件に連座して多羅尾氏は改易。小川城も廃城となった。
多羅尾氏は、天正10年(1582)の本能寺の変の後に徳川家康が三河へ逃げ帰った「伊賀越」において、伊賀境まで警護にあたったことが記録にある。窮地の家康一行が一夜を明かしたのが小川城で、ここでいう小川城は小川中之城である可能性が高い。伊賀越えの功績もあり、多羅尾氏は江戸時代には代官に登用され、幕末まで世襲代官として存続した。
遺構
小川集落の南、標高470mの城山に築かれている。城内は整備され、歩きやすい。山頂一帯に主郭をはじめ複数の曲輪を雛壇状に置く構造だ。主郭は土塁で囲まれ、虎口や櫓台らしき高まりがある。土留めの石垣で固めた、周囲を土塁で囲まれた穴蔵のような正方形の区画があり、礎石建物跡が確認されている。
大手虎口の西側には土塁に囲まれた曲輪があり、その西側にある大きな曲輪も低い土塁で囲まれている。南へ続く尾根は堀切で遮断され、堀切と土塁が残る出丸を経由して、小川中ノ城へと降りられる。
交通
・新名神高速道路信楽ICから車で約20分参考文献
・『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年。・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。