関津城(せきのつじょう)
関津城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県大津市田上関津町
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 宇野守治
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 宇野氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、竪堀、堀切
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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瀬田城(滋賀県大津市)[5.2km]
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膳所城(滋賀県大津市)[8.2km]
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山田城(滋賀県草津市)[11.0km]
大津城(滋賀県大津市)[11.0km]
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山科本願寺(京都府京都市)[12.1km]
伏見城(京都府京都市)[13.1km]
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関津城の口コミ情報
2024年11月16日 RED副将軍
妙見山城[関津城 周辺城郭]
大石内蔵助を輩出した大石氏の詰め城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の城史は不詳。
南麓に大石内蔵助祖先館跡及び大石家菩提寺旧跡があることから、大石氏に築かれた大石東館の詰め城と考えられています。
見所
瀬田川に合流する大石川と信楽川の流域に広がる大石荘の中にあり、瀬田川東岸の浄土寺背後の妙見山頂部に築かれています。
山頂に主郭を配し、北側に二郭、西側に三郭で構成された小規模な山城。
主郭は南側と北側に土塁が付き、南側に平虎口が開口しスロープ状の土橋が付いた堀切で防御線が張られています。また主郭西側斜面は鋭い切岸が施されており、二郭と三郭の端部は堀切で遮断されています。
小規模ながら技巧的な縄張りであり、残存度も高くオススメです。
行き方は、大石東館から険しい斜面を直登すれば辿り着きます。比高は100mほどで15分程度で辿り着きました。
2024年11月15日 RED副将軍
大石東館[関津城 周辺城郭]
大石内蔵助を輩出した大石氏の居館🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。大石氏に築かれたその居館です。
大石氏は古くは藤原鎌足の系譜で藤原秀郷の末裔とされます。近江国大石荘下司職を務めていた在地豪族でしたが、応仁の乱で討死したため嫡流は途絶えましたが、遠縁の小山氏が小山久朝を迎えて大石氏の名跡を継承し再興しました。
天文年間から永禄年間(1532年~1569年)には数家の分家を出して繁栄し大石党と称したとされます。
大石良信は近江八幡城の豊臣秀次に仕えましたが、1595年に豊臣秀次は粛正され自刃。大石良信も連座し浪人となりましたが、嫡男の大石良照が本貫地の大石本家を守り、次男の大石良勝が1604年に浅野長重に仕え大坂の陣で活躍し、後に筆頭家老となりました。
ちなみに大石良勝の孫が忠臣蔵で有名となった大石内蔵助良雄です。
見所
瀬田川に合流する大石川と信楽川の流域に広がる大石荘の中にあり、瀬田川東岸の浄土寺背後の妙見山麓に築かれています。
浄土寺の墓地を登り詰めると、当主であった大石良信ならびにその室志茂の墓等があります。⑦
その東側の削平地が館跡で、虎口や土台に石積みが確認できます。
更に背後の妙見山には山頂には詰め城である妙見山城がありますので併せての登城をオススメします。
周辺にもいくつか曲輪跡と思われる削平地が確認できますが、後世のものか判然としませんでした。
妙見山城へ登り始めると堀状の遺構がありますが、おそらく後世のものと思われます。⑤⑥
2022年05月20日 RED副将軍
関津城
素晴らしい山城でしたがバイパス開通により主郭部は消失。今でも土塁囲みの曲輪が一部残ります。
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。宇野氏代々の居城。鎌倉時代に清和源氏の流れをくむ宇野守治が、承久の乱の戦功により、この地を与えられて築いたと伝わります。宇野氏は佐々木六角氏の一族である青地氏の旗頭として勢力を伸ばしました。
見所
かつては素晴らしい遺構でしたが、バイパス開通により主郭部は発掘調査の上、消失しています。元々は、丘陵のピークに主郭を置き、西側と北側に土塁囲みの曲輪が配されていました。現在でも北の曲輪が1/3、西の曲輪が2/3程度残っています。
2021年03月27日 梅鉢近江守Silvine
関津城
主郭はバイパス工事により削り取られてしまいましたが、二郭と三郭の一部が残っています。瀬田川令和大橋から関津トンネル方面へ向かい、関津の信号を越えると200mほど先の右手に池があり、この南が城跡です。
最北の曲輪は木も伐採され現在は道路からも土塁が見えています。この脇から奥へ入ると虎口があり、四方を土塁に囲まれた二郭となっています(東側の土塁は道路建設に伴う盛り土)。
2020年09月28日 梅鉢近江守Silvine
妙見山城[関津城 周辺城郭]
妙見山城は大津市大石地区(旧栗太郡大石村) にある城で、大石氏の居館である大石東館の詰の城です。
大石氏は同地の豪族ではじめ六角氏に与していましたが、大石良信の頃に豊臣秀次に仕えました。秀次事件により浪人になった後、子の大石良勝が浅野家に仕え、大坂夏の陣で戦功著しく、家老となります。その曾孫が忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄です。
遺構は館方面に繋がる主郭の南と西に土塁と虎口、堀切を築き、尾根続きの北にも堀切を設けています。
城へは大石東館の背後から道なき道を山頂を目指して直登する事になります。大石東館から城までは15分ほどです。
2020年09月22日 課長大和守Ver.B
大石東館[関津城 周辺城郭]
忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助良雄を輩出した大石氏本家側の居館跡です。
現在は浄土寺の敷地となっており、門をくぐった本堂裏手から豊臣秀次配下であったという大石久右衛門良信他2名の墓所の右手にある数段の削平地が居館跡になります。
大石城のように立派な石碑が建っていたハズでしたが訪問時は根元から折れて横倒し状態でした(T_T)
目立つ遺構があるわけではありませんが気軽に立ち寄れますので大石城と併せて訪問されると良いと思います。
2020年09月20日 課長大和守Ver.B
大石城[関津城 周辺城郭]
忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄を輩出した大石氏の居館跡でこちらは分家筋が居城としていたとか。
県道783号線大石中町南交差点より東に入り1つめの角を曲がった先の道路が狭くなる所からすぐで、駐車は1台分ならば可能です。細い舗装路を挟んで東側に土塁で囲まれた削平地と堀切、石碑が残り西側にもかなり荒れていますが削平地や土塁が見られます。
2011年03月08日 忠左近将監
関津城
承久の乱の際、戦功のあった宇野源太郎守治が恩賞として鎌倉幕府から与えられたと伝わっており、城郭の遺構としては曽根池に入る谷の南北の尾根上に約10ヶ所の曲輪と空堀・土塁を残し、特に最大の曲輪は30×26メートルの規模を持っています。虎口付近は複雑な構造も見受けられ戦国末期の縄張りの改修もなされていたようです。(現地説明会資料より)
2010年08月08日 治部少輔エンジェル
関津城
中日新聞にも掲載されてましたが、2010年8月8日現在発掘調査中です!いずれバイパスが通る為…なくなります(T ^ T)