本能寺(ほんのうじ)
本能寺の基本情報
通称・別名
- 本能寺城
所在地
- 京都府京都市中京区元本能寺南町(旧本能寺跡)
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 城郭寺院
天守構造
- なし
築城主
- 日隆
築城年
- 応永22年(1415)
主な改修者
- -
主な城主
- 法華衆、織田信長
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
二条城(京都府京都市)[1.0km]
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本能寺の解説文
[引用元:Wikipedia「本能寺」の項目]本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。
【歴史】
本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。
寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。
日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。
〜日承上人・本能寺の変〜
天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。
日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。
本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。
〜現在の場所への移転とその後〜...[続きを見る]
本能寺の口コミ情報
2021年02月10日 shin
本能寺
京都市バス「四条西洞院」から北に徒歩数分くらいです。地下鉄四条もしくは阪急烏丸駅からも歩いて行けない距離ではないです。歴史的な大事件が起こったとは思えない質素な佇まいです。
2020年11月22日 源摂津守@ポンコ2①〜
本能寺
フォトは油小路通に面したとこのものです。
かつて寺域東側は、明治時代に暗渠となった西洞院川に面しており、西洞院川が堀の役目をはたしていました。
寺域西側は油小路通までですが、更に西には昭和に暗渠になった平安京造営に由来する運河の堀川があります。
堀川が水源断ち暗渠になったのは、何度か氾濫を起こしたためと小学生の時の授業で聞いた記憶があります。
東西を川に挟まれたこうした防御面を見込んで、織田信長公の宿舎に使われていたのかもと思わされました。
2020年11月01日 本郷弾正忠teru
本能寺
正直なんにもありません。
周りの道路をよく見ると高低差が、感じられます(ブラタモリ風)。
2020年08月15日 中垣内征夷大将軍瑞賢85/86
本能寺
小学校に建っている本能寺石碑の通りを挟んで反対側が本能寺跡です。
2020年01月11日 摂津守いくpika
現在の本能寺[本能寺 寺社・史跡]
現在の本能寺。本堂の裏手に信長公廟があります。直ぐ隣には本能寺の変戦没者合祀墓もあり多くの家臣が犠牲になった事が分かります。
2020年01月11日 摂津守いくpika
明智光秀の首塚[本能寺 寺社・史跡]
明智光秀の首塚。誰が植えたのか初夏には桔梗の花が咲くそうです。
2020年01月11日 摂津守いくpika
此付近二条殿址[本能寺 碑・説明板]
織田信忠最期の地。京都国際マンガミュージアムの裏側(西側)に石碑が残るのみ。
2020年01月11日 摂津守いくpika
此附近本能寺址の石碑[本能寺 碑・説明板]
織田信長最期の地。現在の本能寺とは場所が違います。
2017年05月09日 #式部大輔沙月#
本能寺
現在の本能寺からは2km弱離れた、特別養護老人ホームが本能寺の変があった場所です。春には碑の上に見事な桜が咲きます。南側(本能寺の変の碑に対して右手方面)には浄土真宗のお坊さんがやってるbar、北東には信長茶寮があります。また京都の有名カフェうめぞのも近いですよ。
2017年05月08日 仙石権兵衛駿河守秀久
本能寺
2017年5月1日に攻略。
城めぐから連動している地図アプリを使ってリア攻する場所は、現在の本能寺ではなくいわゆる本能寺跡で、街中のとても狭い道路脇にポツンと「此付近 本能寺址」と書かれた石碑となります。
道幅の割にとても交通量が多く、付近に駐車スペースはありませんので車で行くのはお勧め出来ません(恐らく素通りするか一瞬確認出来るくらい)。
私は自転車で行きましたが、自転車か徒歩で行くのがお勧めです。撮影の際には往来する車に十分した方が良いでしょう。
2017年03月05日 橘若狭守次郎吉
本能寺
遺構は何もありませんでした。アプリの地図が示しているところに石碑と説明板があるのみです。
2015年07月31日 如月内匠頭籠城中
本能寺
街の中にぽつんと石碑が建っていました。
後ろの建物は炎に落ちてしまった本能寺を
教訓にするように、消防団の分隊本部になっていました。
2010年07月17日 石田治部少輔三成@雲龍
本能寺
月並みだが、言っておくか…
「敵は本能寺にあり!」
(笑)
19日まで信長展やってるよ(いまの本能寺の宝物館…森乱丸のアレが展示されてます(^^))
2010年06月26日 もとい兵庫助
本能寺
今の本能寺ではありません。