本能寺(ほんのうじ)
本能寺の基本情報
通称・別名
- 本能寺城
所在地
- 京都府京都市中京区元本能寺南町(旧本能寺跡)
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 城郭寺院
天守構造
- なし
築城主
- 日隆
築城年
- 応永22年(1415)
主な改修者
- -
主な城主
- 法華衆、織田信長
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
二条城(京都府京都市)[1.0km]
二条古城(京都府京都市)[1.6km]
聚楽第(京都府京都市)[2.2km]
小泉城(京都府京都市)[2.4km]
霊山城(京都府京都市)[3.0km]
吉祥院城(京都府京都市)[3.3km]
船岡山城(京都府京都市)[3.8km]
御土居(京都府京都市)[4.7km]
中尾城(京都府京都市)[5.2km]
将軍山城(京都府京都市)[5.8km]
本能寺の解説文
[引用元:Wikipedia「本能寺」の項目]
本能寺(ほんのうじ)は、京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山の寺院。山号はなし。本尊は本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。株式会社本能寺文化会館の株主であり、本能寺に隣接するホテル本能寺や境内にある博物館の本能寺大寶殿宝物館などを経営している。
住職は「貫首」と呼ばれており、現在は140世の桃井日英が福井県敦賀市の本勝寺より晋山し貫首を務めている。
現在の本能寺は、本能寺の変のあとに豊臣秀吉により移転の上再建されたもので、旧所在地は 京都府京都市中京区蛸薬師下る山田町513に位置し、石碑が置かれている。
歴史
本能寺は、当初は「本應寺」という寺号で、応永22年(1415年)に京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである[1]。寺地は北を五条坊門小路[2]、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった[3]。
日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永25年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った[4]。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本應寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて寺地を移すと、寺号を「本能寺」と改めた。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路[5]以北、櫛笥小路[6]以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた[7]。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。戦国時代の天文5年(1536年)、天文法華の乱にて延暦寺の僧兵により焼き討ちされて堂宇はことごとく焼失し、本能寺は一山まるごと堺の顕本寺に避難した。
日承上人・本能寺の変
後に本能寺は帰洛すると、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)、平安京は東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路、南・四条坊門小路にわたる一町約120メートル四方(4町々)[8](旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地を得て伽藍が造立され中興がなされると、子院も30余院を擁した。
日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。
本能寺は、早くから種子島に布教していたため、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、本能寺を宿所とすることは3回と稀であった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留しており、信長は本能寺を宿所としていた。その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起きその際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が切腹したとしているが遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている[9]。
現在の場所への移転とその後
天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命令により、現在の寺域である(中京区下本能寺前町)へと移築させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。
天明8年(1788年)の天明の大火で焼失するが、天保11年(1840年)日恩上人によって再建する。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。だが、塔頭の龍雲院のみは焼失を免れている。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。
その後明治の廃仏毀釈などの影響もあり本堂の再建は遅れ、寺地も御池通の拡幅整備で削られるなどしたが、本能寺の学問所である大亀谷檀林・隆閑寺(現・伏見区深草大亀谷にあった)の講堂を移築し、仮本堂とした。
1928年(昭和3年)、京都大学教授の天沼俊一が設計した本堂が完成し、七つの塔頭全ての本堂も再建されて現在に至る。
旧地の発掘調査
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年(平成4年)廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)が置かれている。2007年(平成19年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、当時は「能」よりも広く用いられていた字形「image:能-Traditional_Script.svg|20px」がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている[10][11]。
本能寺の変遷[12][13][14] 建立 廃 位置 1415年 日隆が「本應寺」創建 1418年 妙本寺宗徒が破却 1429年 山本宗句の援助で「本應寺」が移転・再建 千本極楽付近? (現・二条城の北西) 1433年 如意王丸が願主となり、「本能寺」に改号・移転・再建 1536年 「天文法乱」で焼失 1545年 日承(第12代貫首)が再建 1582年 「本能寺の変」で焼失 1592年 豊臣秀吉の命で、日衍(第14代貫首)が移転・再建 1788年 「天明の大火」で焼失 1840年 日恩(第77代貫首)が再建 1864年 「禁門の変」で焼失[15] 1928年 本堂(現在)を再建 逸話
後述の写真の通り、本能寺の「能」の字は「image:能-Traditional_Script.svg|20px」という今では使われていない字になっていることでよく知られる。本能寺のサイト(http://www.kyoto-honnouji.jp/about/index.html)の説明によれば、このことについて「度重なって焼き討ちに遭っているため、匕(火)を嫌いimage:能-Traditional_Script.svg|20pxの字に替えたものである」としている。
ただし、この「image:能-Traditional_Script.svg|20px」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体(伝統的楷書)であり、前述のように本能寺の変以前の本能寺の瓦でもこの文字が使用されている。「能」が一般に用いられるようになったのは康煕字典が広まった明治時代以後のことである[16]。
境内
- 本堂(国登録有形文化財) - 1928年(昭和3年)に天沼俊一の設計により再建。
- 十三重石塔
- 信長公御廟所 - 織田信長の廟所。信長の三男織田信孝によって建立された。
- 御廟所拝殿(国登録有形文化財)
- 本能寺の変戦没者合祀墓 - 森蘭丸など変で討死した114名の信長の家臣を祀る。
- 徳川家重正室増子女王の墓 - 伏見宮邦永親王の第四王女。
- 菅中納言局五条庸子の墓 - 五条為庸の子で霊元天皇の掌侍。
- 島津義久継室円信院殿の墓 - 種子島時尭の次女。
- 日像聖人御墓
- 日承王の墓 - 伏見宮邦高親王の子。
- 浦上玉堂の墓
- 浦上春琴の墓
- ホテル本能寺[17]
- 本能寺文化会館 - 内部は寺務所と方丈になっている。
- 大宝殿宝物館
- 十三重石塔
- 表門(国登録有形文化財) - 1879年(明治12年)に妙心寺塔頭恭明院の門を移築したもの。
- 日蓮聖人像 - 1971年(昭和46年)造立。
塔頭
- 龍雲院 - 開基は龍雲院日政大徳。蛤御門の変の際、龍雲院のみは焼け残った。本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 源妙院 - 開基は本能寺13世日堯。本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 本行院 - 開基は本能寺12世伏見宮日承。本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 高俊院 - 本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 定性院 - 本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 蓮承院 - 本堂は1928年(昭和3年)再建。
- 恵昇院 - 天正2年(1574年)、久成坊隆詠によって開かれた。本堂は1928年(昭和3年)再建。
文化財
=== 国宝 ===
=== 重要文化財 ===
- 伝藤原行成筆書巻 - 平安時代後期、11世紀の古筆の遺品で、「本能寺切」(ほんのうじぎれ)と称して珍重される。料紙4枚を継いだ巻紙に小野篁、菅原道真、紀長谷雄(きのはせお)の3名の文章(漢文)を和様書法で書いた調度手本である。
- 花園天皇宸翰御賀札
- 銅鏡
国登録有形文化財
- 本堂
- 表門
- 信長公御廟所拝殿
京都市指定文化財
- 有形文化財
- 本能寺跡出土品 319点(考古資料) - 2020年(令和2年)3月31日指定。
前後の札所
- 洛中法華21ヶ寺
交通アクセス
- 京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩すぐ
- 京都市営バス(3・4・5・10・11・15・17・32・37・51・59・205系統)、京都バス(16・17・21・23・41・43・55・61・62・63・64・65系統)、京阪バス(19・84B・86B・87B・88B系統)「河原町三条」下車すぐ
参考文献
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号、朝日新聞社、1998
- 圭室文雄『日本名刹大事典』、雄山閣、1992
- 河内将芳「中世本能寺の寺地と立地について-成立から本能寺の変まで-」『立命館文学』609、2008年
- 「平安京左京四条二坊十五町跡・本能寺城跡」『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告』2007-11、2008(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト(http://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku.html))
- 「本能寺の変を調査する」『リーフレット京都』231、2008(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト(http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet.html))
- 「本能寺の変遷」『リーフレット京都』211、2006(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト(http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet.html))
- 河内将芳『日蓮宗と戦国京都』、淡交社、2013
- 河内将芳『信長と京都 宿所の変遷からみる』、淡交社、2018
- 河内将芳『戦国仏教と京都 法華宗・日蓮宗を中心に』、法蔵館、2019
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本能寺の口コミ情報
2024年10月21日 小太郎左衛門督南畿道19國守
本能寺
乱により現在は移転しているため、遺構はなく石碑、説明板のみ。付近にコインパーキングは散見されるが、満車のものも多く、二条城第一駐車場から徒歩15分程なので歩いて訪問しました。10月19日訪問。
2024年10月07日 百舌鳥
本能寺
現在の本能寺は京都市役所前、元の本能寺は四条堀川、二条城の南にあります。元本能寺は今は、住宅地の中にあり、跡地は学校になっています。ここで、明智光秀に織田信長が討たれた変があったのか?全く想像がつきません。今は碑が残るだけです。現在の本能寺は街中から近く、一見の価値ありです。
2024年08月27日 KOUICHI
本能寺
石碑は割とすぐ見つかります。木製看板は表から見えにくく、建物の出入口を入った左にありました。本能寺の変が起きた当時の建屋はありませんがこの一帯が取り囲まれ、一大事が起きた事に思いを馳せました。
2024年07月28日 あんどー主計頭
本能寺
二条城まで徒歩15分の距離。織田信忠も慌てたことでしょう。閑静な町中です
2024年03月10日 源山城守@ポンコ2…
西本願寺[本能寺 寺社・史跡]
大坂本願寺の戦いの和睦派と徹底抗戦派の対立、後継問題で西本願寺(龍谷山本願寺)と東本願寺(真宗大谷派)に分かれた本願寺。
西本願寺は、和睦派の顕如が豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け建立しました。一方の東本願寺は、徹底抗戦派の教如が徳川家康から七条烏丸に寺の寄進を受けました。
西本願寺には、
御影堂・阿弥陀堂・飛雲閣・書院「対面所及び白書院」・唐門・北能舞台・黒書院及び伝廊などの国宝、
玄関・浪之間・虎之間・太鼓之間1棟・南能舞台・附の橋掛・飛雲閣附の浴室(黄鶴台)と廻廊・経蔵・鐘楼・手水舎・太鼓楼・御影堂門・阿弥陀堂門・総門・御成門・目隠塀・築地塀3棟の重要文化財や大玄関門など文化財の宝庫で、
二条城などと一緒に世界遺産に登録されています。
なかでも、金閣寺や銀閣寺とともに洛陽三閣の一つに数えられ、今はネットの事前予約で¥800で観れる飛雲閣は聚楽第(異説として仙洞御所の京都新城)から、大徳寺や豊国神社と並ぶ京都三大唐門の唐門は伏見城(異説として豊国神社)から、それぞれ移築伝承があります。
唐門は、西本願寺南側の興正寺との間にある北小路に面して建てられ、4本の控え柱をもつ四脚門形式の屋根は檜皮葺、正背面は唐破風造、側面は入母屋造、総漆塗で各所を極彩色彫刻と鍍金金具で装飾されています。日暮れまで眺めても飽きないから「日暮門」の別名も。ただ伏見城からの移築の確証はありません。寺の記録『元和四戊午年御堂其外所々御再興ノ記』には、1617年の寺の火災の翌年に旧御影堂門を「御対面処ノ東」に移築したとあるから以前から本願寺にあったことが確認され、寛永期の御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築されました。数年前の大修理で、再移築の寛永期に極彩色彫刻と鍍金金具の装飾は改修された痕があったそうです。数十年前、近くの幼稚園に通ってた際の記憶がなんとなく残ってましたが、あらためて観てると時が経つのを忘れてしまいそうで「日暮門」やなと実感しました。
同じ北小路に面する重要文化財登録を受けてない大玄関門は、1847年に建築された左右に門番屋を持つ薬医門で、10万石以上の大名屋敷の格式に準じています。東大赤門など大名屋敷の門などと一緒に江戸時代の江戸藩邸に思い馳せるのに参考になります。
アプリ内を探したらどなたかが登録されてたので、のっからしていただきました。掲載フォトは、国宝唐門2枚、大玄関門、国宝御影堂、御影堂門、阿弥陀堂門、国宝阿弥陀堂、新選組の詰所となった太鼓楼です。
2023年12月08日 百済門徒衆修理大夫とら
京都市考古資料館[本能寺 関連施設]
写真は、本能寺跡から発掘された焼けた瓦の展示物。少し離れた西陣に在り、無料で見学出来ます。旧石器時代から近世の京都市の遺物を展示してます。フラッシュでなければ撮影可能です。
2023年05月04日 濃姫1783
本能寺
本能寺跡です。明智光秀が織田信長を襲撃した、あの『本能寺の変』(1582.6.21 天正10.6.2)があった場所です。現在は、石碑しかありません。よく見ると本能寺の能と言う字の、『ヒ』『ヒ』の部分が『去』になっています。火を連想させる字を避ける本能寺の習わしだそうです。阪急電鉄京都線 大宮駅より徒歩10分ほど
2023年01月20日 風鈴さん
本能寺
跡地はマンションになっていますが、石碑が遺っていました。
2022年12月05日 シゲシゲ三河守
本能寺
四条堀川交差点から2筋目の油小路通りを北上します。2本目の角の出前に本能自治会館前と建物の北東角に石碑があります。
2022年11月13日 中務大輔 ほげらばり
本能寺
本能寺跡のご近所に、石碑を管理している本能寺跡観光ボランティアの方がいらっしゃり、周辺の歴史遺産情報など教えてくださりました。お手製の地図もいただけました。地域の方が大切に守っておられることを実感しました。
2022年06月02日 RED副将軍
本能寺
ご存知、本能寺の変の舞台。440年前の6月2日に本能寺の変が起こりました⚔(旧暦なので正確には6月21です)
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1415年、日隆によって創建。当初は本応寺という寺号でした。その後、内部抗争により破却、移転を繰り返し、1433年に檀那・如意王丸により六角大宮の西、四条坊門の北に移転し、寺号を本能寺に改めます。この頃より法華経弘通の霊場として栄え、足利氏の庇護を受けるまでになりました。
布教地域は畿内、北陸、瀬戸内海沿岸、種子島にまでおよび、種子島からの鉄砲や火薬の入手により戦国大名との関係も強めていきます。故に織田信長も上洛中の宿所として利用することもありました。天正10年6月2日に本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し信長公は自害。本能寺も焼失しました。1591年に豊臣秀吉の命で現在の場所へと移築再建されました。
見所
現在の本能寺は、京都市役所の近くで寺町通りに山門を構えていますが、本能寺の変があった旧地は四条烏丸と四条堀川の中間地から上がった所にありました。
本能寺跡の碑は二つ存在しますが両方境内外。最新調査により、写真①の石碑の向かい住宅地から焼け瓦の出土により、ようやく特定されました。
遺構としては何もありませんが、歴史的大事件があった地です。近くに来たら是非立ち寄り往時を偲んではいかがでしょうか。
写真
①②本能寺跡に建つ碑
③現在の本能寺
2022年05月30日 日向夏隠岐守
本能寺
子どもの頃から誰もが知っている本能寺。今はデイサービス施設と消防団の屯所が建って居ますが、そこに立つだけで感慨深いものがあります。
2022年03月03日 snowsurfer
本能寺
本能寺。
こちらは再建された移転後の場所で、本能寺の変のあった場所はもう少し西に跡地があります。
火事🔥の跡地は本能消防団になっているw
2021年02月10日 shin
本能寺
京都市バス「四条西洞院」から北に徒歩数分くらいです。地下鉄四条もしくは阪急烏丸駅からも歩いて行けない距離ではないです。歴史的な大事件が起こったとは思えない質素な佇まいです。
2020年11月22日 源山城守@ポンコ2…
本能寺
フォトは油小路通に面したとこのものです。
かつて寺域東側は、明治時代に暗渠となった西洞院川に面しており、西洞院川が堀の役目をはたしていました。
寺域西側は油小路通までですが、更に西には昭和に暗渠になった平安京造営に由来する運河の堀川があります。
堀川が水源断ち暗渠になったのは、何度か氾濫を起こしたためと小学生の時の授業で聞いた記憶があります。
東西を川に挟まれたこうした防御面を見込んで、織田信長公の宿舎に使われていたのかもと思わされました。
2020年11月01日 本郷弾正忠teru
本能寺
正直なんにもありません。
周りの道路をよく見ると高低差が、感じられます(ブラタモリ風)。
2020年08月15日 中垣内征夷大将軍瑞賢
本能寺
小学校に建っている本能寺石碑の通りを挟んで反対側が本能寺跡です。
2020年01月11日 摂津守いくpika
現在の本能寺[本能寺 寺社・史跡]
現在の本能寺。本堂の裏手に信長公廟があります。直ぐ隣には本能寺の変戦没者合祀墓もあり多くの家臣が犠牲になった事が分かります。
2020年01月11日 摂津守いくpika
明智光秀の首塚[本能寺 寺社・史跡]
明智光秀の首塚。誰が植えたのか初夏には桔梗の花が咲くそうです。
2020年01月11日 摂津守いくpika
此付近二条殿址[本能寺 碑・説明板]
織田信忠最期の地。京都国際マンガミュージアムの裏側(西側)に石碑が残るのみ。
2020年01月11日 摂津守いくpika
此附近本能寺址の石碑[本能寺 碑・説明板]
織田信長最期の地。現在の本能寺とは場所が違います。
2017年05月09日 #十勝守沙月#
本能寺
現在の本能寺からは2km弱離れた、特別養護老人ホームが本能寺の変があった場所です。春には碑の上に見事な桜が咲きます。南側(本能寺の変の碑に対して右手方面)には浄土真宗のお坊さんがやってるbar、北東には信長茶寮があります。また京都の有名カフェうめぞのも近いですよ。
2017年05月08日 仙石権兵衛駿河守秀久
本能寺
2017年5月1日に攻略。
城めぐから連動している地図アプリを使ってリア攻する場所は、現在の本能寺ではなくいわゆる本能寺跡で、街中のとても狭い道路脇にポツンと「此付近 本能寺址」と書かれた石碑となります。
道幅の割にとても交通量が多く、付近に駐車スペースはありませんので車で行くのはお勧め出来ません(恐らく素通りするか一瞬確認出来るくらい)。
私は自転車で行きましたが、自転車か徒歩で行くのがお勧めです。撮影の際には往来する車に十分した方が良いでしょう。
2017年03月05日 橘若狭守次郎吉
本能寺
遺構は何もありませんでした。アプリの地図が示しているところに石碑と説明板があるのみです。
2015年07月31日 如月宮内大輔瓶割中
本能寺
街の中にぽつんと石碑が建っていました。
後ろの建物は炎に落ちてしまった本能寺を
教訓にするように、消防団の分隊本部になっていました。
2010年07月17日 石田治部少輔三成@雲龍
本能寺
月並みだが、言っておくか…
「敵は本能寺にあり!」
(笑)
19日まで信長展やってるよ(いまの本能寺の宝物館…森乱丸のアレが展示されてます(^^))
2010年06月26日 もとい兵庫助
本能寺
今の本能寺ではありません。
本能寺の周辺スポット情報
本能寺-本堂(遺構・復元物)
本能寺-表門(遺構・復元物)
此附近本能寺址の石碑(碑・説明板)
此付近二条殿址(碑・説明板)
本能寺跡 石碑(碑・説明板)
新選組壬生屯所(八木邸)(周辺城郭)
新選組壬生屯所(前川邸)(周辺城郭)
明智光秀の首塚(寺社・史跡)
現在の本能寺(寺社・史跡)
極楽院(寺社・史跡)
八幡太郎 源義家 生誕地(寺社・史跡)
平清盛の終焉推定地(寺社・史跡)
東本願寺(寺社・史跡)
西本願寺(寺社・史跡)
本能寺(寺社・史跡)
南蛮寺跡(寺社・史跡)
瑞泉寺(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
本能公園(関連施設)
京都市考古資料館(関連施設)
牛若丸(源義経)・弁慶の像(その他)