御土居(おどい)
御土居の基本情報
通称・別名
- 御土居堀、京都総曲輪
所在地
- 京都府京都市北区鷹峯旧土居町、大宮土居町、紫野西土居町他(地図は鷹ヶ峯の御土居を示す)
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 防塁
天守構造
- なし
築城主
- 豊臣秀吉
築城年
- 天正19年(1591)
主な改修者
- -
主な城主
- 豊臣氏
廃城年
- 寛文10年(1670)
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(御土居)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
船岡山城(京都府京都市)[0.9km]
聚楽第(京都府京都市)[2.6km]
二条古城(京都府京都市)[3.5km]
二条城(京都府京都市)[3.7km]
堂ノ庭城(京都府京都市)[3.8km]
本能寺(京都府京都市)[4.7km]
小泉城(京都府京都市)[4.8km]
将軍山城(京都府京都市)[6.1km]
高雄城(京都府京都市)[6.3km]
中尾城(京都府京都市)[6.6km]
御土居の解説文
[引用元:Wikipedia「御土居」の項目]
御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある。築造時の諸文献には「堤」「土居堀」「京惣廻土居」「洛中惣構え」など[1]と記される。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、国の史跡に指定されている。
位置
秀吉時代の御土居の位置に関する記録は現存しないが、現存する遺構や江戸時代の絵図からその位置が推定されている。
御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしており、全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川(天神川)に沿っており、これらが堀を兼ねていた。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。特に現在の北野中学校あたりにあった小さな凸部は「御土居の袖」と名付けられ、形状の理由についていくつかの説が挙げられているが謎の一つとなっている。
京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名[2]が残っている。『三藐院記』(近衛信尹の日記)によると[3]御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば鴨川に架かっていた八坂神社に通じる四条橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた(後に仮橋を架橋)。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。
構造
御土居についての最初の学術調査が1918年(大正9年)から1920年(大正9年)にかけて京都府史蹟勝地調査会により行われ、その実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状であった。土塁の外側(西部一条通以南では内側)に沿って堀があり、その幅は10数m、深さは最大約4m程度であった。これら堀の西側の多くは既存の紙屋川を利用し、また東部では鴨川を代用した。この土塁の出現により平安京では実施されなかった「羅城」が初めて実現したと言える。土塁のための土は膨大な量が必要だったと推測されるが、どのように調達されたのか未だ解明されていない。
御土居の上には竹が植えられていた。ルイス・フロイスの『日本史』によると、秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった[4]。また御土居の内部から石仏が出土することがあるが、その理由は不明である。
建造の目的
秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないため、さまざまな議論があるが、以下のような理由が推測されている。また、御土居が構築された場所がどのように選定されたかという観点からは、構築理由が複数並存した可能性も示唆される。
洛中洛外の区画
中世以降、京都市中を「洛中」、その周縁部を「辺土」のちに「洛外」と呼んでおり[5]、時代により洛中の範囲は変動し、応仁・文明の乱後に極小化したが、 御土居の築造により、以降その内部を「洛中」、外部を「洛外」と呼ぶようになったとされる[6][7]。 慶長年間の成立とされる『室町殿日記』[8]には、天下統一後に秀吉が荒れ果てた京都を復興するため、洛中の範囲を聞き、洛中洛外の境を定めるために御土居の築造を命じたとの伝承がある[9]。
天正13年(1585年)に行われた「京廻」の検地における区域を見ると、当時の市街地(洛中)を大きく上回る範囲であり、御土居によって区画された範囲に近い。また、以降に実施する検地の間に行った天正19年(1591年)9月の地子免除にあたり、洛中に土地を所有する公家や寺社に対して洛外の土地を替地として与えた[10]ことなどから、支配の仕組みが異なる「洛中」と「洛外」を視覚的に明示するという意味で、御土居は大きな役割を果たしている。 また、御土居西側にある凸部、いわゆる「御土居の袖」について、当時既に上の下立売通沿いに形成されていた寺院や町家を最大限取り囲んで「洛中」化しようとした意図が古地図の内容から読み取れることから、御土居の目的は洛中の明確化と、これに伴う都市と農村の分離ではないかと考察されている。 一方で、内部に既存の市街地とともに大量の田畑を抱え込んでいることを、将来的に発展を期待する地域を囲んでいるとみなすのはやや過大な評価と指摘される。
この点について、御土居の北西端にある長坂口と南西端にある東寺口に着目すると、御土居の建造には戦国期に在地化した流通上の結節点を囲い込み、商工業・流通の保護を図る遮蔽施設の機能があったとし、既存の「七口」まで御土居の延長を図ることで、結果的に御土居内部の西側に広大な田畑や村落を包含することになったとの指摘がある。 ただし、御土居が既存の七口をすべて囲い込んだわけではなく、鴨川東岸の粟田口や渋坂口は御土居の外側となり、在地性が否定された側面も存在している。
防衛
戦国時代後期の都市の多くには惣構と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。当時の京都は応仁の乱後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えられている。ただし、防衛のみを目的としたにしては以下に述べるような不自然な点があるとの指摘がある。
しかし以上の4点はいずれも御土居を「城壁」と解した場合の見方で、単なる障壁、例えば騎馬や車馬の通行を阻止する、あるいは弓矢や鉄砲の攻撃を防ぐことを目的としたとすれば十分その目的は達せられただろう。
- 御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。
- 御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常防壁上に作られるような櫓などもない。
- 絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られない。ただし、盗賊が現れた際、逃亡を防ぐためすばやく口の閉鎖をすることになっていたと『三藐院記』に記す
- 西部の一条以南ではしばらくの区間(いわゆる「御土居の袖」の部分)で御土居の内側に堀(紙屋川)が設けられている。これでは攻め手に御土居を占拠されてしまい、防衛の用をなさない。
堤防
御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その堤防としての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。
その他の目的
社寺勢力との分断
御土居建造時に祇園社(現在の八坂神社)は、四条通が閉塞されることを聞き、変更を申し入れたものの認められず、慶長6年(1601年)に開通するまで迂回を余儀なくされた。これを踏まえ、御土居には洛中と洛外の交通を制限することで、寺町の形成と同様に宗教勢力と都市住民との分断を図る目的があったとする説がある[11]。
歴史
建造
御土居の建造が始まったのは1591年(天正19年)の1月から閏1月(太陰暦)ごろであり、同年の2月ごろには大半が完成していた、との記録がある。当時の京都では方広寺大仏(京の大仏)、寺町など多くの工事が並行して行なわれていた。
江戸時代
秀吉が没して間もなく、政権が徳川に移ると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され、多くの出入口が設けられた。例えば現在の四条河原町付近で四条通を塞いでいた部分は、1601年(慶長6年)に撤去されている。
また市街地東部では、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削され、その畔に商家が立ち並び[12][13]。 など御土居の東側の鴨川河原まで町が広がり、1670年(寛文10年)に寛文新堤が完成して堤防としての必要もなくなったため、御土居は寺社や公家に払い下げられ、取り壊されて住宅地などになった。
ただし、これらを除く部分の御土居は多くが残り、幕府によって竹林として管理されていた。江戸時代中期(寛文9年(1669年)から寛政3年(1791年)の間)には角倉家(すみのくらけ)が管理を担当し、以降は町奉行による直接管理となった[14]。
御土居は取り壊されるだけとは限らず、移築されることもあった。1641年(寛永18年)に始まる東本願寺の新たな寺内町の開発に伴い、御土居は高瀬川とともに東側に移された。枳殻邸(渉成園)の築山の位置は移築前の御土居に重なるため、土塁を再利用したと考えられている。
また、洛中西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられた。
明治以降
明治に入ると、それまで幕府の所有していた部分も民間の所有となり、土塁上の竹を伐採して畑などに転用された。この時点では土塁自体は取り壊されていなかったが、大正期には市街地の拡大により住宅開発などのため、多くの場所で御土居が壊された。こうした中、残る御土居を保護するため、1930年(昭和5年)に8箇所が国の史跡に指定された。また1965年(昭和40年)に1箇所が追加指定されている。史跡指定地以外ではその後も撤去が進み、1960年代には史跡指定地の御土居が宅地造成業者によって破壊される事件が何度か起こった。
1967年7月9日には、集中豪雨により発生した山崩れで約100mの区間で崩壊した[15]。
今なお「土居町」の地名が市内各所に残るが、いずれも御土居消滅後の土地にできた町と考えられる。
御土居の跡
遺構
1930年(昭和5年)史跡指定
1965年(昭和40年)史跡指定
- 北区紫竹上長目町・堀川町(加茂川中学校敷地など)
- 北区大宮土居町
- 北区鷹峯旧土居町2番地
- 北区鷹峯旧土居町3番地(御土居史跡公園)
- 北区紫野西土居町
- 北区平野鳥居前町
- 上京区北之辺町 (廬山寺)
- 中京区西ノ京原町 (御土居上に市五郎神社社殿)
これら指定地以外にも、北野中学校校庭(中京区西ノ京中保町)や大宮交通公園(北区大宮西脇台)に御土居が残っている。
- 上京区馬喰町 (北野天満宮境内)
地名・道路・地割
北区大宮土居町、鷹峯旧土居町などは御土居の跡がそのままひとつの「町」となったため、細長い形をしている。中京区東土居ノ内町、土居ノ内町、西土居ノ内町などの地名、また下京区の土手町通、中京区の西土居通といった通り名も御土居に由来する。南区にはバス停「御土居」があり、北区の「大宮交通公園」バス停はかつて「大宮御土居」といった。旧土居町に御土居餅を販売する店舗がある[16]。
中京区と右京区、上京区と北区の区境の一部は御土居の線と一致する。また御土居に沿った線が道路となって残っている例もある。
京都駅0番ホーム
『JR京都駅の0番のりば(旧1番線)のホームは御土居の盛土を利用したものである』と書籍などで紹介されることがあるが、これは誤りである。このホームは1914年(大正3年)の2代目京都駅開業時に作られたものだが、それ以前の明治時代の地図でも御土居は描かれていない。また、駅の位置にあった東塩小路村の記録によると、1877年(明治10年)の鉄道開通に先立ち、この地域の御土居は取り壊されたという。なお、1993年(平成5年)に行なわれたホーム西端での発掘調査で、堀の跡と思われる泥土層が見つかっている。また、山陰本線高架橋(七条通架道橋)通過時には、車窓からほんの数m先に目線と同じ高さで現存する御土居の石垣を見ることができる。
文化財
国の史跡
- 御土居 - 1930年(昭和5年)7月8日指定(8箇所)、1965年(昭和40年)10月27日に史跡範囲の追加指定(1箇所)。
京都市指定文化財
- 有形文化財
- 御土居跡出土品 477点(考古資料) - 京都市考古資料館保管。2019年(平成31年)3月29日指定。
参考文献
- 【書籍】「御土居堀ものがたり」
- 【書籍】「天下人の城」
- 【書籍】「京都市の地名」
- 【書籍】「京都古地図めぐり」
- 【書籍】「京都歴史散策マップ8御土居跡」
- 【書籍】「遺跡見て歩きマップ御土居跡[北半]」
- 【書籍】「遺跡見て歩きマップ御土居跡[南半]」
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御土居の口コミ情報
2024年11月07日 深草少将
御土居
京都市市内数か所で見ることができます。北野天神の御土居です。
2024年08月06日 尼崎城駿河守一口城主
御土居
6月中旬、金閣参拝後に進軍。本アプリの御土居スポットを確認したところ金閣から約1キロで、日の長い季節だったのでPM5時過ぎでも明るかったので見学に向かいました🚶🏻♂️現地を散策したところ説明板がなかったので、当日金閣の前にお参りしていた北野天満宮境内にあった<御土居>の説明板(写真①)をあげておきます。説明板によると史跡指定されている御土居は9ヶ所とのことで、本アプリの御土居スポットは写真①の4番の鷹ヶ峰旧土居町でした。(G-MAPには御土居【鷹ヶ峯南】と出ていました。)
金閣からG-MAPを頼りに進軍していくと堤防のような御土居(写真②)が現れました。町内の掲示板(写真③)の住所も旧土居町とありました。現在の住所に史跡の名が残っていてなぜだか嬉しくなってしまいました‼️
御土居の遺構のような雰囲気の石段(写真④)を上がっていくと、石碑(写真⑤)が建っていました。散策してみると御土居を寸断しているフェンス(写真⑥)があり、寸断面を外側からも撮ってみました(写真⑦)御土居を眺めていると近所の方がいらっしゃって御土居の解説をしてもら頂き幸運でした‼️昔は当地にも説明板があったとのことで、その名残のようなフレーム(写真⑧)を撮影。近くの玄琢というところにも御土居(写真①の6番)があるとのことでそちらにも向かってみました🚶🏻♂️
2024年08月06日 尼崎城駿河守一口城主
御土居[御土居 遺構・復元物]
[御土居・大宮]
本アプリの御土居スポット(鷹峯南)見学中に近所の方に近くの玄琢というところにも御土居があると教えてもらったので見学に向かいました。玄琢下の交差点を西に入った所(写真①の信号が玄琢下の交差点)に御土居【大宮】がありました。こちらの御土居はフェンスに囲まれているので(写真②③)外観のみ見学。
一部かすれている部分がありますが説明板(写真④)がありました。秀吉公が1591年に都市計画で築いた土塁(土居)もしっかりと築かれたお陰か現在は木が何本も生えていました(写真⑤)400年以上経った歴史の流れが感じられます。
写真②③とは反対側からも眺めたところ、シートが掛けられていました(写真⑥)史跡保護又は調査中かなと思いながら見上げていました。
2024年08月06日 尼崎城駿河守一口城主
御土居跡[御土居 遺構・復元物]
[御土居・紫野]
本アプリの御土居スポット見学後に紫野の御土居も見てきました。京都市立柏野小学校の近く(南側)の御前通という通りの住宅の間にありました。(写真①)
説明板(写真②)に外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として築いた土塁とありました。
住宅の間に残る御土居の断面を眺めながら秀吉公が1591年に築いたのち、江戸時代から現代にかけて平和な時代や治水技術の発達によって街も発展していくにつれて御土居もその役割を終えていったように思えてきました。
2023年01月25日 るん山城守⛄️
金閣寺[御土居 寺社・史跡]
最強寒波襲来翌日、こんな綺麗な景色を見れるチャンスは滅多にないので、立ち寄った金閣寺。
正式名称は、『鹿苑寺』といいます🙂臨済宗のお寺で、かつては足利義満(足利三代将軍)さまがここで舎利殿を造ったそうです🙂
四季折々、春は桜、夏は菖蒲、秋は紅葉と、いつ来てもいつでも素敵な風景です✨京都駅から、市バス205番で🚌その他、各方面より市バスあります🚌参拝料400円です✨
御土居攻略の際には、ぜひお立ち寄りください😊
2022年08月27日 るん山城守⛄️
廬山寺御土居[御土居 遺構・復元物]
現存の御土居のなかで、京都御所の東側に唯一あるのが、ここの御土居のようです🙂
御土居に行くには、境内の中にある駐車場に停めて、本殿南側から墓地に続く道を行き、墓地の東側に50メートルほど残っていました🙂
御土居は、無料で見れますが、せっかくここまで来た上に、ちょうど今の季節は本殿の源氏庭に桔梗がきれいに咲いていたので拝観してきました😊
拝観料は500円です✨
紫式部さんは、ここで、源氏物語の執筆をしたそうです✨
2022年08月25日 るん山城守⛄️
御土居
戦国時代に、豊臣秀吉さんが京都をぐるりと土塁で囲んだという、御土居。今の時代にも、点々と残されています。保存状態もよく、巡るとどこに御土居があって、どんな風に京都を守っていたのか、よくわかります🙂
①加茂中前の御土居
②大宮交通公園の御土居
③玄琢下の御土居
④鷹峯の御土居
⑤御土居史跡公園
⑥紫野の御土居
⑦平野鳥居町の御土居
⑧市五郎稲荷神社
2021年04月02日 うっちー外記幸村
御土居
(初めて御土居に行く方へ)御土居は何箇所か残っている所があります。
石碑が立っているところもありますし、名残りがあるだけの所もあります。高さも、低いところもあれば高いところもあるので、どこに行くのか、下調べが大事だと思います。
御土居は豊臣氏の京都改革事業のため、京都の広い範囲、いろいろな所にあります。
そのため、京都の他の城に行ったついでに見ることだって、車で通りすがることもできます!
2021年03月16日 御弾正大弼
御土居
これが京都を囲んでいたとは恐れ入ります。
2020年09月25日 あんせい近江守
御土居
車で行かれる際は、近辺、狭いのでお気をつけて!
2020年08月15日 中垣内征夷大将軍瑞賢
御土居
実物遺構を見て、この巨大土塁が洛中を囲んでいた時代を想像しましょう。車は停めにくいので、早朝か公共交通機関利用をお勧めします。
2020年01月11日 tosh
御土居
鷹峯は結構不便な場所ですが、最近ラグジュアリーホテルのアマンが開業しました。
2017年11月01日 あまそう右衛門督
御土居
前のお餅屋さんで南京錠の鍵を借りて中に入ることかできます❗美味しいお餅なので帰るときは買ってね❗
2017年06月26日 まるき〜陸中守
御土居
御土居…それは京都を囲む巨大な土塁
散歩中のおじさんに聞きましたら、昔は万里の長城のように全て繋がっていて敵?の進入を防いだりしていたそうです。今はほとんどの部分が破壊され所々遺構として残っているらしいです。
史跡指定されている御土居の場所
案内板より記載
①北区鷹ケ峯旧土居町2
②北区大宮土居町
③北区紫竹上長目町上堀川町
④上京区広小路上ル
⑤中京区西ノ京中合町
⑥上京区北野馬喰町
⑦北区平野鳥居前町
⑧北区紫野西土居町
⑨北区鷹ケ峯旧土居町3
その他あちこちにも御土居は残っている模様…
ちなみに城めぐりアプリで登録されている場所は⑨の場所…かな
北大路道から進入しましたが住宅街で御土居の先の道は狭いです。
2017年05月07日 木下近江守湖一郎
御土居
北野天満宮の青もみじの特別公開にて、御土居を訪れました。(秋の紅葉の時期にも公開されます)
見所は、綺麗なもみじ(春は青もみじ、秋は紅葉)と御土居に二例しか確認されていない暗渠。そして、紙屋川との10mに及ぶ高低差、御土居の上から見る北野天満宮と満載です。
拝観料を払って入場し、軽い坂を登ると御土居の上です。土塁の上には、本殿の展望台などが設けられています。
堀として、利用されている紙屋川の河原へ降りるとその高低差に圧倒されます。
紙屋川の河岸段丘の上に3mの盛土がされており、紙屋川河原と土塁の頂上部の高低差は10mあります。基底部は18mとのこと。
この高さ、幅の土塁が何キロも続き、京都市街を巡っているのを想像するだけで、ワクワクします。
暗渠は、北野天満宮本殿の排水路だったようです。
帰りは、同じ今出川通り沿いにある京都市考古資料館(資料館の方針で、一部を除き展示物の写真撮り放題)や応仁の乱の跡が残る千本釈迦堂に寄って、京都の歴史に想いを馳せてはいかがでしょうか。
2016年09月14日 如水大膳大夫ターボー
御土居
北区の加茂川中学校の北側や西側にも御土居があります。居ながらにして京都の歴史が学べる学校です
2015年07月18日 ソバッソ80.0
御土居
鷹峯や玄琢下が有名ですが、北野天満宮境内の御土居跡を見て来ました。
境内北側のもみじが植えてある近辺に「御土居跡」の説明板と石碑を発見したので近づいてみると、その奥にそれっぽい土塁らしき物があります。恐らくこれが御土居跡かと。
ただこの場所からはあまりハッキリとは確認出来ないっす。すぐ左に鉄の柵があり、中は整備されている様子でした。
もしかしたら中に入らせてもらえないだろうかと、その辺りを見回したらめっちゃカワイらしい巫女さん発見!早速交渉してみましたが、「今は公開時期じゃないので」と素敵な笑顔で断られました。あの笑顔が見れただけでも良かったです。
あ、違う御土居の話や。秋に解放されるそうで、その時は遠慮なく中に入れるとの情報をゲットしました!紅葉と御土居跡のコラボ。そして素敵な巫女さん。
あー行くっきゃないっす。
2015年05月30日 ウッキー
御土居
歩いて散策しましたが、中々発見難しかったです。かなり暑かったので疲労もあったかもしれません。見つけたのは大学から近く住宅街に丘ぽっい頂上に石碑があった。
御土居の周辺スポット情報
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