聚楽第(じゅらくだい)

聚楽第の基本情報

通称・別名

聚楽城、聚楽亭、内野御構

所在地

京都府京都市上京区下石橋南半町他

旧国名

山城国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

豊臣秀吉

築城年

天正14年(1586)

主な改修者

主な城主

豊臣氏

廃城年

文禄4年(1595)

遺構

石垣

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

二条古城(京都府京都市)[1.0km]
二条城(京都府京都市)[1.3km]
船岡山城(京都府京都市)[1.7km]
本能寺(京都府京都市)[2.2km]
御土居(京都府京都市)[2.6km]
小泉城(京都府京都市)[3.1km]
霊山城(京都府京都市)[4.4km]
吉祥院城(京都府京都市)[4.9km]
中尾城(京都府京都市)[5.1km]
将軍山城(京都府京都市)[5.2km]

聚楽第の解説文



聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。前野長康が造営奉行を務めた。

歴史 

聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したために、秀吉は妙顕寺城より移った。

九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。

1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に2度も行幸が行われたのは稀有なことである。文禄3年ごろには北の丸が秀次により増築された。しかし、1595年(文禄4年)7月に秀次は、秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。

竣工から破却まで、聚楽第が存在したのは8年弱であった。

聚楽第を破却した豊臣秀吉は、御所に参内するための便宜上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。

規模 

image:Jurakudai 3.jpg|thumb|350px|『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第 (図面の左が北方向 聚楽第は、「第」(= 殿第、邸)とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、堀を巡らせていたため、形態としては平城であった。

建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が国宝「三井家本 聚楽第図屏風」や「洛中洛外図」(江戸初期)などに描かれている。さらに国立国会図書館・広島市立図書館(浅野文庫)などが所蔵する「聚楽古城図」では本丸北西隅に「天守」の書き入れがあり、天守の存在が推定されているが[1]、一方で天守はなかったのではないかという指摘もある[2]。秀次の家臣駒井重勝の『駒井日記』によると、本丸の石垣上の壁の延長は計486間、三つの曲輪も含めた四周に巡らされた柵の延長は計1031間であった。吉田兼見の『兼見卿記』によれば、堀の幅は二十間、深さは三間であった。

域内数カ所で堀の痕跡が発掘され、その内二カ所で石垣列が発見されている。そのいずれもが方位に対して時計回りに約三度の傾きを持っていることが最近発見された[3]。よって聚楽第の縄張りには三度の傾きがあったと考えられ、更に城下の街区にも同様の傾きがあった可能性が考えられる。従来からこの附近の通りには、時計回りに傾く傾向が認められ、聚楽第の縄張りには同様の傾きがあったのではとの憶測を生んでいたが、それが実際に確認されたことになる。聚楽第南方に位置する徳川家康創建の二条城にも同様に三度の傾きが見られるが、この傾きが聚楽第の影響によるものとの主張も生まれた。

「京都図屏風(地図屏風)」によれば本丸は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通付近にあったものと推定され、それに加えて北之丸北堀は横神明通、南二之丸南堀は出水通北方、西之丸西堀は浄福寺通付近にあったものと推定される。

『聚楽行幸記』には、内郭部堀の四周を囲んで「石のついがき」が「山のごとく」巡っていたとあり、その様子は聚楽古城図にもうかがえ(太線で表示)、また「聚楽第図屏風」を始めとする聚楽第を描いた全ての屏風絵からも確認できるから、外郭は堀を伴わない「ついがき」すなわち高塀であったと考えられる。北側は元誓願寺通付近、東側は黒門通付近、南側は下立売通と出水通との中間付近に築かれていたと考えられ、西側は土屋町通付近にあったものと推定される[4]。最近になって、当初外郭は高塀であったが、のちに外堀が掘られそれが未完成に終わったとする説[5]が現れた。ただし文献・伝承などに、外堀が掘られたことや高塀が取り壊されたこと、大名屋敷を立ち退かせたことなどは見えない。

「聚楽古城図」によれば、外郭内に豊臣秀長(大和大納言)、三好孫七(後の豊臣秀次)などの秀吉親族や、前田利家、黒田孝高、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政など秀吉配下にあって特に信頼されていた大名の屋敷が建ち並んでいた。千利休(「宗益」と記す)も外郭内北東隅の北御門近く、現在の元誓願寺通南側、大宮通と黒門通の間辺りに屋敷を与えられていた。

外郭外側には、縦横に街路を造り、秀吉配下の大名屋敷を配置した[6]。その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川、西は千本通で囲まれた地域であったと推測されている。のちに街区は堀川の東にも広げられ聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされたと考えられている。

名称 

聚楽第は、「聚楽亭」「聚楽城」「聚楽屋敷」「聚楽邸」「聚楽館」などとも記される。単に「聚楽」とのみ記した例[7][8]がある一方で、『聚楽行幸記』などには「聚楽第」「聚楽亭」の表記も見られる。[9]

読みに関して「じゅらくてい」「じゅらくだい」「じゅらくやしき」の各説あるが、「第」の漢音は「テイ」であり、正保期の版本小瀬甫庵の『太閤記』には「聚楽第」の表記に「じゅらくてい」のふりがなが振られており、当時「じゅらくてい」と読んでいたことが確認できる。また同書には「聚楽亭(じゅらくてい)」「聚楽と号し里第(りてい)を構へ」の、ふりがな付きの表記も見られる。明治以降の文献には「じゅらくだい」としたものもある。群書類従『解題』(1960年)には「『ジュラクダイ』とも訓むが、『第』『亭』相通じ、(中略)、古文書類にも『亭』としたものがあるから、正しくは『ジュラクテイ』と訓むべきであろうとしている」と書く[10]。なお桜井成広は、「じゅらくやしき」と読むべきとしている。

聚楽第は、建造中は「内野御構」(うちの おかまい、-の おんかまえ)と呼ばれていた[11]

「聚楽」という名の由来については、『聚楽行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。またフロイスの『日本史』には「彼(秀吉)はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とある。これら以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、秀吉の造語と考えられている。

現況 

上述のように、聚楽第は徹底的に破却されたので、明確な遺構は残っていない。

現在 『聚楽第址』の石碑が 中立売通大宮西北角(聚楽第本丸東堀跡【写真:右】)と中立売通裏門南西角(聚楽第本丸西堀跡)の2箇所に建てられている。

1992年(平成4年)、西陣公共職業安定所(ハローワーク西陣・大宮通中立売下ル)の建て替え工事の際に、本丸東堀跡が検出され、金箔瓦約600点が出土した。本丸側から投棄されたように層状に堆積していたため、本丸の建物に葺かれていた瓦と考えられる。2002年(平成14年)国の重要文化財に指定された。

1997年(平成9年)には、一条通松屋町西入ル北側のマンション建築工事の際に、東西に延びる底石列が二列検出された。この石列は京都図屏風などから北之丸北堀南側の石垣のものと考えられる[12]

2012年(平成24年)には、京都府警西陣待機宿舎(智恵光通上長者町下ル東側)の建て替え工事の際に、本丸南堀北側の石垣の基部(東西間の約32メートル)が検出された。

聚楽第の破却に際し、建物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承があるが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は大徳寺の唐門だけである[13]

また「梅雨の井」(松屋町通下長者町上ル東入ル)は聚楽第の遺構であると伝承されてきたが、近年の研究ではこの地点は東堀の中に当たるので、遺構ではない可能性が指摘されている。

また松林寺(智恵光院通出水下ル)付近一帯は周辺より3mほど低くなっており、古くから聚楽第の堀跡とされてきた。1997年に試掘調査[14]が行われ、報告者は外堀の一部としている[15]。 一方で、桃山期から江戸初期にかけての文献史料・絵画等に、聚楽第に外堀のあったことが見えないところから、江戸時代以降、壁土として盛んに利用された「聚楽土」の採掘跡の可能性を指摘する声もある[16]。1997年の試掘調査でも深さ3mほどで地山に当たっており現況からは深さ3間・幅20間あったという聚楽第の堀を想定することは難しい。また、平成27年(2015年)の京都大学防災研究所らによる「表面波探査」では、堀は確認できなかった[17]。 京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には加藤清正寄贈と伝えられている庭石が残る。

江戸時代の間は「聚楽村」と呼ばれる農村であったが、近代以降に市街地化された。町名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院(旧みだい)町」「東堀町」など、当時の名残が色濃く残っている。「黒門通」は聚楽第の東門(「くろがねの門」)にちなむとされ、また「藤五郎町」「如水町」「小寺町」「浮田町」「中村町」「飛弾殿町」「福島町」「中書町」「直家(旧なおゑ)町」など秀吉麾下の武将の名を冠した町名も多く残る。

廃却後、聚楽第縁辺にあった聚楽町に住んでいた住民は町ごと伏見城下に移転させられ、現在も京都市伏見区には聚楽町の地名が残っている。同区内にはこのほか聚楽第ゆかりの「(東・西)朱雀町」「(上・下)神泉苑町」の地名も残る。

資料 

文献
* 『聚楽行幸記』 - 大村由己筆。『天正記』全6編の1つ(『群書類従』所収)。1588年(天正16年)成立。同年4月14日-18日の後陽成天皇行幸をその直後に記したもの[18]
  • 『日本史』 - ルイス・フロイス著 - 聚楽第についての記述がある。
  • 『輝元公上洛日記』- 天正16年に毛利輝元が大坂城や聚楽第を訪れた際の記録。
  • 『兼見卿記』- 吉田神社の神官 吉田兼見の日記。
  • 『言経卿記』- 当時の中流公家 山科言経(やましな ときつね)の日記。
絵画
聚楽第を描いた絵画は以下のものが確認されている[19]

  • 「聚楽第図屏風」 六曲一隻 桃山時代 三井記念美術館所蔵。聚楽第を描いたものとしては最も古いと考えられている。
  • 「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵
  • 「御所参内・聚楽第行幸図屏風」 六曲一双 桃山時代 個人蔵(上越市立歴史博物館寄託)[20]

  • 「洛中洛外図屏風(http://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics439.html)」 六曲一双 江戸時代前期 尼崎市教育委員会所蔵[21]
  • 「」 二曲一双 寛永初期 堺市博物館所蔵
  • 「洛中洛外図」南蛮文化館蔵。 廃城後の聚楽の姿を描く[22]
  • 『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 東京藝術大学資料館所蔵[23]
  • 「:File:Jurakudai1.jpg|豊公築所聚楽城之図」 名倉希言筆 豊國神社所蔵[24]

図面資料
以下の1~6はいずれも同じ原図によるものと考えられ、国立国会図書館蔵のものが一番オリジナルに近いと考えられる。堀、門、天守、櫓などの位置及び大名屋敷の位置と街路が書きこまれ、築垣と思われる太線も記入されている。

『京都図屏風』は一名『地図屏風』とも呼ばれ、寛永2年(二条城拡張工事)から4年(後水尾院御所着工)ごろまでに描かれたと考えられ、ほぼ6500分の1の正確な京都の地図で、聚楽第の堀の形状と位置を記す唯一の資料である。

この他、表千家には聚楽第内にあった利休屋敷の部分的な平面図が遺されている。

  • 1.『日本古城絵図』「聚楽古城之図」国立国会図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
  • 2.『諸国古城之図』(浅野文庫本)「山城 聚楽」広島市立中央図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
  • 3.『太閤御縄張聚楽城之図』個人蔵 安土城考古博物館寄託
  • 4.『聚楽古城之図』臼杵市教育委員会所蔵
  • 5.『聚楽城古図』尊経閣文庫 前田育徳会所蔵
  • 6.『太閤御縄張聚楽之図』京都大学文学部所蔵
  • 7.『京都図屏風』個人蔵。『慶長・昭和京都地図集成』所収 柏書房 1994
  • 8.『京聚楽大広間平面図』岸上家伝書
  • 9.『豊公築所聚楽城址形勝』名倉希言による天保14年の調査

参考文献 

  • 桜井成広『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(日本城郭資料館出版会、1971年)。詳細な聚楽第復元図を掲載する。
  • 学習研究社編 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  • 二木謙一『秀吉の接待』(学習研究社、2008年)
  • 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年(『日本近世武家政権論』、2000年)
  • 中西宏次『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年) ISBN 4900590622
  • 京都市歴史資料館 編『聚楽第と京都』(2000年)。京都市埋蔵文化財研究所調査員(当時)馬瀬智光作製の「聚楽第復元図」を掲載する。
  • 日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居伏見城』(文理閣、2001年) ISBN 4892593915。京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員(当時)森島康雄作製の「聚楽第跡考定図」を所収する。
  • 狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年) ISBN 978-4-86152-269-7
  • 松本利治『京都市町名変遷史』(紀伊国屋書店、1989年)- 町名の変遷と由来を考察し、貴重な伝聞も紹介されている。
  • 加藤繁生「聚楽第の石垣」『史迹と美術』(史迹美術同攷会)837・840・843号所収、2013-4年。残存地名、古絵図、発掘結果などから『聚楽第内外郭推定図』を提示している。
  • 加藤繁生「聚楽第余聞(1)国宝大徳寺唐門の素性」・「聚楽第余聞(2)聚楽第外郭と千利休聚楽屋敷」・「聚楽第余聞(3)聚楽第と二条城の縄張りについての試論」『史迹と美術』(史迹美術同攷会)905・906・907号所収、2020年
  • 古川匠・釜井俊孝・坂本俊・中塚良「中近世城郭研究における表面波探査法の活用ー京都府聚楽第跡を対象にー」『日本考古学』(日本考古学協会)45号所収、2018年。
  • 山田邦和「聚楽第復元への試論」『実証の考古学ー松藤和人先生退職記念論文集ー』(同志社大学考古学シリーズⅫ)所収、2018年。駒井日記と聚楽古城図を根拠に「聚楽第想定復元図」を示している。
  • 【書籍】「特集 豊臣の風景と洛中洛外図」

聚楽第の口コミ情報

2024年10月22日 noble権中納言弥勒菩薩
聚楽第



聚楽第跡を訪れるのは10回目くらいか。実に5年振り。

今回は、堀跡の“痕跡”と思しきところを、各種HP(たくさん紹介されてます)を参考に回ってみました。南外濠辺り、松林寺は、裏門通と新出水通が突き当たるところ、北側から入りますが、そこから南側の境内がガクッと下がります。

云うなれば、信州小諸城のような“穴城”の造り。これが、堀跡の窪みと言われています。

また、城域北側の“聚楽第”石碑があるところ、ここでたまたま、至近の家の初老の方にお声をかけられ、お話を伺うことができました。

『聚楽第見にきたの?この石碑は自費で自分が建てたんや。うちは堀跡に建ってるわけ。すぐ南で、前に金箔瓦が発見されてねぇ。』

貴重なお話でした。感謝です。こういうの、城跡巡りの醍醐味ですよね。

2024年10月21日 小太郎左衛門督南畿道19國守
聚楽第



街並みの一角に石碑がポツンと設置されている。徒歩にて訪問が良いように思われる。10月19日訪問。

2024年03月28日 阿波守カンチュリー
聚楽第



道の端っこにぽつんと石碑が建っていました。周りに駐車場は確認できず、市バスのバス停が近いので、行くならばバスと徒歩をお勧めします!

2024年02月21日 百済門徒衆修理大夫とら
奥渓家住宅[聚楽第  寺社・史跡]



奥渓家はキリシタン大名大友宗麟の長男の息子奥渓以三が初代として仁和寺門跡の御典医として8代続いた医者の家です。京都市指定建造物で屋敷内は非公開です。(京都市上京区天神道上ノ下立売上ル北町573)茅葺きの長屋門は享保9年(1724)の火災で焼失後,2年後の享保11年に再建されたものです。周りは閑静な現代京都の住宅密集地。屋敷の前の児童公園では子ども達が楽しそうに遊び回っていました。そこにぽつんとタイムスリップしたかのような茅葺きの建物。中々、京都の町中でこのような茅葺民家は残っていません。奇跡的です。この家を守り続けて来た奥渓家の先人方や今のご当主の努力の結晶で、頭の下がる思いです。

近年ヨーロッパにおいては、SDGsもあってか茅葺きの現代高級住宅が流行りになっているようです。
 
日本の文化財行政は遅れているので、茅葺民家は、ほぼ個人の努力で維持されている状況なので、全国で年々取り潰され無くなってしまいます。

数年前、大阪市内にあった旧渡辺家住宅は開発の名の下、旧大阪府文化財指定を解除してまで取り壊されました。渡辺の綱を先祖とする旧家で、大坂の陣でも焼けなかった茅葺民家でしたが、何と松井市長は「ただの古い家や」という認識でした。

それまでこの家を守ってきた先人方の苦労には全く関心がなく、開発で今生きてる者が目先の良い暮らしを出来たら良いという考えしかないようです。こういう政治家が増えてくると、日本の価値ある文化財がどんどん失われてしまいます。そのことにとても危惧しております。

北野天満宮の近くです。近くに趣のある銭湯もあり、風情のある所です。

2024年02月05日 Ko-Quixote宮内大輔
聚楽第



京都市バス50号に乗り最寄の停留所は「大宮中立売」です。
この石標の付近に聚楽第の東の端があるやうです。
聚楽第はかなり規模が大きく聚楽第のポイントはここにありましたが,本丸跡などはもう少し北のやうです。
ここだけではよくわからないと思ひますので,事前に規模や遺構を調べてからお越しになるのが良いと思ひます。

2023年12月02日 金森出雲守
妙覚寺大門[聚楽第  遺構・復元物]

妙覚寺の大門は聚楽第の裏門を移築したと言われる。

2023年09月29日 RED副将軍
聚楽第



豊臣秀吉が建てた政庁・邸宅・城郭🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1586年、豊臣秀吉により築造。平安京跡地である内野に権力の象徴として築いたもので、1587年に完成すると九州征伐を終えた豊臣秀吉は大坂城から居城を移して聚楽第を邸宅として政務を行いました。

1591年に豊臣秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、聚楽第も秀次に譲り渡しました。しかし、自らは太閤として権力は握り続けます。

1593年に拾丸(豊臣秀頼)が誕生すると、1595年に豊臣秀次は突然、謀反の罪で自刃させられます。聚楽第も徹底的に破却され、伏見城の資材として使われました。

見所
絢爛豪華であったとされますが徹底的な破却により遺構は消失。中立売通大宮の西北角に石碑が立ちます。

大宮通りを南へ下ると聚楽第の井戸跡とされる梅雨の井跡があるみたいですが下草で判別できませんでした。

2023年06月10日 KEIKYU1000
聚楽第



残念ですが小さな石碑しか残ってません。しかし京都市考古学資料館に行けば資料や御城印があります。でも夢がありますね。

2023年04月10日 黄金船右近衛大将
聚楽第

聚楽第跡、目立たないから探すの手間でした(・・;)

2023年02月12日 金森出雲守
梅雨の井跡[聚楽第  遺構・復元物]

聚楽第にあった梅雨の井跡とされてます。バブルの頃地上げで取り壊されそうになりました。周辺は更地となりフェンスで囲まれてます。

2023年02月12日 金森出雲守
聚楽第跡[聚楽第  碑・説明板]

本丸東堀跡。この石碑南側のハローワーク西陣建て替え工事の際に堀跡と金箔瓦が見つかった。

2023年02月12日 金森出雲守
堀跡の段差[聚楽第  遺構・復元物]

北の丸北堀跡の段差とされてます。石垣は後世のもの。マンション奥の駐車場にあります。

2022年12月26日 ごん式部大輔でござる
聚楽第

石碑たった一つのあっけなさではありますが、聚楽第そのものも儚い運命であったことにかえって思いを馳せる気持ちになりました....

2022年12月01日 鈴木剛
聚楽第本丸西濠跡[聚楽第  碑・説明板]

聚楽第の本丸西濠がこの辺りにありここから東の大宮通りに東濠がありこの間に聚楽第があったと説明看板に京言葉で書かれています

2022年04月15日 尼崎城駿河守一口城主
聚楽第



4月14日、二条古城をリア攻め後に登城。二条古城から応仁の乱の時の東軍、西軍の境目といわれている堀川沿いを上がっていき、中立売通まで辿り着いたところで左折(西進)。ハローワーク西陣の交差点で道の反対側(北側)に石碑を発見👀

説明板を読んでいると別の場所にも石碑があるとのことでさらに西進。中立売智恵光院の交差点をもう少し西進すると石碑が見えてきます。石碑を撮って満足し、二条城を目指してくだって(南下)いくとお寺の山門脇にも聚楽第の石碑を発見しました👀

2022年02月17日 宮内少輔 雷蔵
聚楽第

場所は通り沿いなので簡単なのですが、家の片隅に石柱が建っているだけなので見逃さないようにして下さい。

2022年02月14日 583系備前守きたぐに
聚楽第



敷地の片隅に碑と玄関脇に看板が置いてあります。住んでる方の迷惑にならない程度に写真を撮ってすぐに立ち去りました。

2021年12月30日 宇治☆ 隼人正三朗
聚楽第

とても豪華に造られた秀吉のお城。観てみたかったなぁ。石碑がUNIQLOのすぐ横にありました。

2021年09月20日 大納言Z周防守369
名和長年戦没遺跡[聚楽第  寺社・史跡]



まず、この場所は平安時代の「一条院跡」と呼ばれていた場所で、あの紫式部が、藤原道長の娘彰子に仕えていた時の里内裏跡です。

その後、建武2年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したので、命を受けた名和長年と楠木正成と新田義貞が尊氏と戦い、一度は破りますが、再度尊氏が京に攻め上った時に、ここで防戦し討ち死にしたと伝えられています。

現在は公園になっていますが、太平洋戦争が終わるまではこの場所に宮が置かれていて、一般人は立ち入り禁止だったようです。

2021年06月06日 御弾正大弼
聚楽第



まずアプリ登録地点にて、リア攻めを完了。口コミにある通り聚楽第趾(東堀)の碑があるだけでした。そこから西へ300メートル先に西側堀跡の碑があり、さらにそこから500メートル南へ行くと、松林寺の門前に聚楽第南外堀跡の碑があります。この寺は堀跡に建てられているので、門から石段を降りた窪地が境内となっています。他の堀は埋められましたが、ここだけは当時の堀跡が残されているようで、貴重なスポットです。アプリの登録地点もこちらの方が良いのではと思いました。


2020年10月28日 Rocky丹波守
聚楽第



ユニクロのすぐ近くに碑だけあり、伏見城に移築されたようです。今出川大宮にある京都市考古資料館で御城印が販売されています。

2020年09月26日 戸沢夜叉九郎正樹
聚楽第



町中に記念碑のみありますが、この場所は本丸跡ではなく東濠跡になるようです。又、北に数百メートル行くと晴明神社(祭神が安倍晴明)があるのでセットで訪れるといいかも。

2020年08月17日 福山治部丞武市
聚楽第

解体後、ほとんどが伏見城に移動されたので遺構らしいものはありません。古地図をもとに縄張りを歩いてみるのもいいと思います。

2020年08月15日 藤岡雅楽助但馬
聚楽第

御城印は堀川今出川の典礼会館の前の京都市考古資料館で販売しています。そこで聚楽第の資料を貰えるので、その資料をもとに散策したほうが無駄なく回れると思いますよ。

2020年05月14日 ソバッソ80.0
京都新城[聚楽第  周辺城郭]



秀吉さん最後の城郭として、今世紀最大の発掘と謳われた京都新城ですが、コロナウイルスの影響で仙洞御所は立ち入り禁止、発掘現場も公開されずに埋め戻されて埋蔵保存になるそうです。

すぐ東には秀吉さんが整備したとウワサの寺町通、果たして城郭規模はどの程度やったのか、そんなことを妄想しながら付近を散策してみてはいかがでしょうか?


あっ
コロナ落ち着いたらね。

2013年08月04日 てっちゃん掃部頭50
聚楽第

平成25年 8/17 ~ 9/1まで 向日市で

『天下人秀吉の聚楽第跡発掘調査の成果展とセミナー』が行われます。

第28回小さな展覧会
8月17日(土)から9月1日(日)
開館時間:10~18時
場所: 向日市文化資料館

第125回埋蔵文化財セミナー
8月24日(土曜日)
13時30分から 向日市民会館
定員 140人

内容 聚楽第跡の調査成果を紹介する展覧
会と講演会。重要文化財の金箔瓦も展示

[問い合わせ先]
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
 TEL:075-933-3877 FAX:075-922-1189

2012年10月14日 尾張守ひろっちぃ
聚楽第

住所を頼りに探し回って見つかったのは石碑のみ。一般市民の家の前に石碑が有るのみ。怪しまれないようにポチ写真撮って撤収。

2012年10月06日 はせちゃん弾正忠
聚楽第

10/7 発掘調査現地説明会が実施されますね
石垣遺構が確認されたとのこと

聚楽第の周辺スポット情報

 聚楽第 南外濠跡(遺構・復元物)

 堀跡の段差(遺構・復元物)

 梅雨の井跡(遺構・復元物)

 妙覚寺大門(遺構・復元物)

 千利休居士聚楽第屋敷跡(碑・説明板)

 聚楽第本丸南堀石垣跡(碑・説明板)

 聚楽第本丸西濠跡(碑・説明板)

 聚楽第跡(碑・説明板)

 加藤清正邸跡推定地(碑・説明板)

 上杉景勝屋敷跡(碑・説明板)

 黒田如水邸跡(碑・説明板)

 直江兼続・上杉景勝屋敷跡(碑・説明板)

 聚楽城武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地(碑・説明板)

 京都新城(周辺城郭)

 島左近墓所(寺社・史跡)

 名和長年戦没遺跡(寺社・史跡)

 晴明神社(寺社・史跡)

 奥渓家住宅(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 堀川第一橋(関連施設)

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