聚楽第(じゅらくだい)
聚楽第の基本情報
通称・別名
- 聚楽城、聚楽亭、内野御構
所在地
- 京都府京都市上京区下石橋南半町他
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 豊臣秀吉
築城年
- 天正14年(1586)
主な改修者
- -
主な城主
- 豊臣氏
廃城年
- 文禄4年(1595)
遺構
- 石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
二条古城(京都府京都市)[1.0km]
二条城(京都府京都市)[1.3km]
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聚楽第の解説文
[引用元:Wikipedia「聚楽第」の項目]聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区にあたる)に安土桃山時代の末期、豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。竣工して8年後に取り壊されたので、分からないことも多い。
【構造】
聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や2004年に発見された「洛中洛外図」(江戸初期)などの絵図に描かれているので、天守の存在が推定されているが、一方で天守はなかったのではないかという指摘もある。
聚楽第の周辺地域には、秀吉麾下(きか)の大名屋敷を配置し、その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川通、西は浄福寺通で囲まれた地域であったと推測されている。大名屋敷のほかに、側近である千利休の屋敷(黒門通から猪熊通の元誓願寺下ル付近一帯と推測)もあった。 聚楽第の本丸は、現在の一条通(北堀)、大宮通(東堀)、下長者町通の少し北(南堀)、裏門通(西堀)にあった堀に四周を囲まれていたとされ、面積は約120,000m²と計算される。北之丸、西之丸、南二之丸、外堀までを含めると約268,000m²と計算される。【比較参考:現在の京都御所 130,000m² 現在の二条城 208,000m²】。
【歴史】
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。
九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
1591年(天正19年)12月に秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子、当時23歳)豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第も秀次の居城となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ聚楽第に2度も行幸が行われたのは日本史上稀有なことである。しかし、秀吉は1595年(文禄4年)7月に秀次を和歌山県の高野山(こうやさん)に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却(破却、取り壊すこと)した。
聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたらしいが、翌年に起こった大地震で倒壊した。なお、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという伝承がある建造物も少なくないが、いずれも伝承の域を出ず、いまのところ研究者の間で聚楽第の遺構と確認された建造物はない。 廃却後、聚楽第に住んでいた住民は伏見の聚楽第町に集団で移り住み、現在も京都市伏見区の聚楽町として町名を残している。
【名称】
『後陽成天皇聚楽第行幸図』(堺市博物館収蔵)聚楽第は聚楽亭(じゅらくてい)ともいわれる。堀をめぐらしているので、聚楽城(じゅらくじょう)ともいわれるが、戦闘を目的とした城(城郭)ではない。
聚楽第は、建造中は「内野御構」(うちの おかまい/うちの の おんかまえ)と呼ばれていたことが知られており、その初見は『多聞院日記』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ内野御構普請」。「聚楽」の名が使われ始めるのは九州征伐から帰還した後のことである。
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聚楽第の口コミ情報
2020年10月28日 Rocky丹波守
聚楽第
ユニクロのすぐ近くに碑だけあり、伏見城に移築されたようです。今出川大宮にある京都市考古資料館で御城印が販売されています。
2020年09月26日 戸沢夜叉九郎正樹
聚楽第
町中に記念碑のみありますが、この場所は本丸跡ではなく東濠跡になるようです。又、北に数百メートル行くと晴明神社(祭神が安倍晴明)があるのでセットで訪れるといいかも。
2020年08月17日 福山右衛門尉武市
聚楽第
解体後、ほとんどが伏見城に移動されたので遺構らしいものはありません。古地図をもとに縄張りを歩いてみるのもいいと思います。
2020年08月15日 藤岡左馬允但馬
聚楽第
御城印は堀川今出川の典礼会館の前の京都市考古資料館で販売しています。そこで聚楽第の資料を貰えるので、その資料をもとに散策したほうが無駄なく回れると思いますよ。
2020年05月14日 ソバッソMG81.0
京都新城[聚楽第 周辺城郭]
秀吉さん最後の城郭として、今世紀最大の発掘と謳われた京都新城ですが、コロナウイルスの影響で仙洞御所は立ち入り禁止、発掘現場も公開されずに埋め戻されて埋蔵保存になるそうです。
すぐ東には秀吉さんが整備したとウワサの寺町通、果たして城郭規模はどの程度やったのか、そんなことを妄想しながら付近を散策してみてはいかがでしょうか?
あっ
コロナ落ち着いたらね。
2013年08月04日 てっちゃん掃部頭50
聚楽第
平成25年 8/17 ~ 9/1まで 向日市で
『天下人秀吉の聚楽第跡発掘調査の成果展とセミナー』が行われます。
第28回小さな展覧会
8月17日(土)から9月1日(日)
開館時間:10~18時
場所: 向日市文化資料館
第125回埋蔵文化財セミナー
8月24日(土曜日)
13時30分から 向日市民会館
定員 140人
内容 聚楽第跡の調査成果を紹介する展覧
会と講演会。重要文化財の金箔瓦も展示
[問い合わせ先]
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
TEL:075-933-3877 FAX:075-922-1189
2012年10月14日 尾張守ひろっちぃ
聚楽第
住所を頼りに探し回って見つかったのは石碑のみ。一般市民の家の前に石碑が有るのみ。怪しまれないようにポチ写真撮って撤収。
2012年10月06日 はせちゃん弾正忠
聚楽第
10/7 発掘調査現地説明会が実施されますね
石垣遺構が確認されたとのこと