延暦寺(えんりゃくじ)
延暦寺の基本情報
通称・別名
- 比叡山、叡山
所在地
- 滋賀県大津市坂本本町4220
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 城郭寺院
天守構造
- なし
築城主
- 最澄
築城年
- 延暦7年(788)
主な改修者
- -
主な城主
- 延暦寺山門衆
廃城年
- -
遺構
- 根本中堂、文殊楼、大講堂、戒壇院他
指定文化財
- 世界遺産(古都京都の文化財)、国宝(根本中堂、金銅経箱他)、国重要文化財(根本中堂回廊、絹本著色天台大師像他)、国史跡(延暦寺境内)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
壺笠山城(滋賀県大津市)[1.9km]
坂本城(滋賀県大津市)[3.7km]
宇佐山城(滋賀県大津市)[4.1km]
将軍山城(京都府京都市)[4.9km]
中尾城(京都府京都市)[5.8km]
大津城(滋賀県大津市)[6.8km]
静原城(京都府京都市)[6.9km]
衣川城(滋賀県大津市)[7.6km]
二条古城(京都府京都市)[9.4km]
霊山城(京都府京都市)[9.4km]
延暦寺の解説文
[引用元:Wikipedia「延暦寺」の項目]
延暦寺(えんりゃくじ、)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する。
平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
比叡山、または叡山(えいざん)とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺(ほくれい)、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。[1]
概要
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である[2]。「日本仏教の礎」(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てたのが始まりである[3]。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった[4]。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている[5]。和歌などに「我が立つ杣」や「都の不二」と詠まれてきた[6]比叡山は文学作品にも数多く登場する[7]。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が弘仁8年(817年)に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。
歴史
前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(現・滋賀県大津市坂本にある生源寺)に生まれた(生年は天平神護3年(767年)説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。
20歳の延暦4年(785年)4月6日、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、隋の天台大師智顗の著述になる『法華三大部』(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』)を研究した。だが、青年最澄は思うところあって奈良の大寺院での安定した地位を求めず、同年7月中旬に郷里に近い比叡山(日枝山)に籠り、修行と経典研究に明け暮れた[8]。
延暦7年(788年)、最澄は大和国三輪山より大物主神の分霊を比叡山に勧請して「大比叡」とし、従来の地主神大山咋神を「小比叡」としたという。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。そして、比叡山麓の坂本にある日吉社を鎮守社としている。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持つこととなった。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち奈良の旧仏教から完全に独立し、延暦寺において独自に僧を養成することができるということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、全ての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家に認められたものであり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野国・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた[9]。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
大乗戒壇の設立は、弘仁13年(822年)、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。このことが重要なきっかけとなって、後に延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。弘仁14年(823年)、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして北嶺と呼ばれるようになった。なお、最澄の死後、義真が最初の天台座主になった[10]。
名僧の輩出と園城寺との対立
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794年 - 864年)と円珍(智証大師、814年 - 891年)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。
なお、比叡山の僧は後に円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円仁派はかつて円珍が住し、円珍派の根拠地となっていた千手院(山王院)などの堂舎を打ち壊すと、円珍派の僧約千人を追放処分にした。すると、円珍派の僧達は山を下りて延暦寺の別院であった園城寺(三井寺)に入り、延暦寺から独立した。以後、延暦寺の円仁派は山門(山門派)と呼ばれ、園城寺の円珍派は寺門(寺門派)と呼ばれ、対立・抗争を繰り返した。こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきたのである。
延暦寺による園城寺への攻撃、焼き討ちはすさまじく、中世末期までに園城寺は全焼7回を含む大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
平安時代から鎌倉時代にかけて延暦寺から多くの名僧が出ている。円仁、円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建、寺内の規律維持、学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。その一方で、当時の比叡山からすれば法然の専修念仏思想などは「異端」であったため、念仏停止を要求するなどの対抗措置・圧力をかけたり、武力衝突(嘉禄の法難)も起きている。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
- 良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
- 源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者。
- 良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖。
- 法然(円光大師、1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖。
- 栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖。
- 慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
- 親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖。
- 道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖。
- 日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖。
武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力をもってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが鎮守社の日吉社にある神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じ、強訴という手段で時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園感神院(現・八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺の末寺とされた。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。延久2年(1070年)には祇園感神院は鴨川西岸の広大な地域を「境内」として認められ、朝廷から「不入権」を認められた[11]。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力を付けた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執
建武3年(1336年)には足利尊氏と戦うために後醍醐天皇が延暦寺に立て籠もっている。その際、延暦寺は天皇方に味方している。
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府第六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山の長であったが、還俗し、将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる比叡山制圧の機会にことごとく和議を諸大名から薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出して斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立て籠って義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは2月に根本中堂に火を放って焼身自殺した(永享の山門騒乱)。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工させた。
嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器のうちの剣璽の二つを奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て籠り、朝廷から追討令が出たことにより幕府軍や僧兵により討たれる事件が起きている。
宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残っていた本尊の一部から新しく本尊を彫り直し、根本中堂に安置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が嘉吉の乱で殺害されると延暦寺は再び武装化し、数千人の僧兵軍団を強大化させ、以前のように独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と、それに呼応しようとした延暦寺を攻めて焼き討ちを行った。これによって根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍が焼かれた。
その後、復興した延暦寺であるが、戦国時代末期に織田信長が京都周辺を制圧し、浅井長政・朝倉義景らと対立すると延暦寺は浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿うなど信長に敵対する行動をとった。元亀2年(1571年)、信長は自らに敵対する延暦寺とその僧兵4千人に対し、自らの味方になるか、それが嫌なら織田方、浅井・朝倉方どちらにも付かず中立の立場をとるように再三通達を行ったが、延暦寺は断固拒否した。それを受け、信長は自らに味方する園城寺に本陣を置いて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちを行った。これにより延暦寺や日吉社の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたともいわれている)。一方で発掘調査の結果、この時の焼き討ちは山上では根本中堂と大講堂くらいしか焼かれていないのではとの説もある。
この時の戦いの様子は比叡山焼き討ちも参照。
復興
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が自害すると、早速青蓮院尊朝法親王が延暦寺の再興を朝廷や諸大名、民衆に働きかけて勧進活動を始めている。また、日吉社も生源寺行丸によって再興への動きが始められた。
天正12年(1584年)5月1日に羽柴秀吉が山門復興の許可を出すと、正覚院豪盛、施薬院全宗、観音寺詮舜、恵心院亮信ら天台僧によって再建事業が行われた。さらに、正親町天皇からも諸大名に対して延暦寺復興の勧進を募る綸旨が出されている。
東塔の根本中堂は仮堂ではあるが、天正13年(1585年)から再建が始められて天正17年(1589年)10月に完成した。そして、出羽国(現・山形県)の立石寺から灯明を移し、「不滅の法灯」も復活させている。横川の横川中堂は天正年間(1573年 - 1593年)に恵心院亮信によって再建され、慶長9年(1604年)に淀殿によって改築された。西塔の釈迦堂(転法輪堂)は、文禄4年(1595年)11月に園城寺が秀吉の怒りを買って闕所処分にされると、秀吉は園城寺の金堂(弥勒堂)を延暦寺に寄進することとし、移築されたものである。
また、秀吉によって延暦寺は1573石の寺領が寄進されている。後に徳川家康によって3427石が寄進され、延暦寺の寺領は合わせて5000石となっている。こうして延暦寺は江戸時代に入ってからは天海の働きによって再興が続けられ、各僧坊の再建も行われた。
しかし、寛永2年(1625年)に天海により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は寛永寺に移された。その一方で、寛永19年(1642年)には徳川家光によって本格的な根本中堂の再建がなされている。
延宝9年(1681年)、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争いになるが、貞享元年(1684年)に日吉社は論争に敗れた。翌貞享2年(1685年)に延暦寺は日吉社に山王神道を守るようにと厳命し、日吉社に受諾させている。
近代
1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、延暦寺の鎮守社であった日吉社は独立して日吉大社と名称を改めたばかりでなく、境内にあった仏像や仏具を全て処分して仏教色を排した。この日吉大社の過激な動きは廃仏毀釈が全国の寺社に波及していくきっかけとなった。
こうして延暦寺の威勢は衰えたかに見えたが、慶応4年(1868年)に江戸で行われた上野戦争によって寛永寺が大打撃を受けたこともあり、延暦寺が天台宗の宗務を行うこととなり、再び天台宗の総本山としての威厳を取り戻している。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により本坊、文殊楼、無動寺、大剰寺、山麓の宿院などが倒壊する被害を受ける。山内の老樹も多数倒木となった[12]。
現代
1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟とその他の堂舎が全焼。阿弥陀如来像など仏像21体も焼失した。原因は山上事務所受付係の男による放火[13]。
1975年(昭和50年)5月26日、第26回全国植樹祭のために来県した天皇、皇后が行幸啓[14]。
1987年(昭和62年)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。
1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[15]。
延暦寺近辺への土砂の大量不法投棄
延暦寺が運営する霊園に隣接した残土処分場に、2004年以降に京都市内の建設会社の西日本開発が建設残土を大量に搬入するようになり、総量は大津市土砂条例で定められた9,900平方メートルをはるかに越えるようになった。大津市は2012年10月に当該の業者に中止命令を出すと共に、条例違反でこの業者を滋賀県警に告発したが、直後に処分地の所有者が変更され、不法投棄は継続された。土砂の崩落も相次ぐようになって負傷者も出るようになり、参拝者が危険に曝されるリスクが高まったことなどから、延暦寺と地域住民らが、滋賀県公害審査会に公害紛争処理法に基づく公害調停を申し立てることになった。この不法投棄問題で滋賀県警は、法人としての西日本開発とその男性社長を大津市土砂条例違反容疑で書類送検した。2014年7月7日に、大津市が行政代執行などで土砂崩落防止工事を実施することや、周辺の河川や水路の水質検査を2017年度まで実施することなどで調停が成立した[16]。
組織暴力団との関係
2006年4月21日、延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を実施した。この件については事前に滋賀県警察から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において法要式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。 同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人全日本仏教会は、約30年前の1976年、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。 後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べた。その後、同寺は5月18日に大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。 その後同寺は、歴代組長の家族ら少人数での位牌参拝を認めていたが、各自治体で暴力団排除条例が相次いで制定されるなど、暴力団排除への社会的気運が高まってきたことなどから、2011年に同寺は山口組に対し、参拝を止めるよう伝達し、山口組もこれを了承した。
暴力事件
2016年4月、「延暦寺会館」副館長の男性僧侶が20代の修行僧ら3人に暴力をふるい、うち一人に左耳の鼓膜を破るなどの重傷を負わせた。男性僧侶は動機について「修行僧の態度にカッとなって頭に血が上り、殴ってしまった」としている。延暦寺は男性僧侶を厳重注意し、刑事告発しない方針。「厳粛に受け止め、伝統の名誉と信頼の回復に努めます」とコメントを発表した[17][18]。
比叡山の修行
籠山行
山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。
十二年籠山行では好相行(こうそうぎょう)が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もある。
千日回峰行
7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる[19]。第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在、14人。
境内
比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。境内には歴史的経緯から他宗派の管理する堂宇も存在する。
- 三塔十六谷二別所
- 東塔 - 北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷
- 西塔 - 東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
- 横川 - 香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
- 別所 - 黒谷、安楽谷
東塔
伝教大師最澄が開いた延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
- 根本中堂(国宝) - 詳しくは「延暦寺根本中堂」を参照。最澄によって延暦7年(788年)に建立された一乗止観院の後身で、延暦寺の総本堂である。延暦寺五大堂の一つ。現在の建物は織田信長による比叡山焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたもの。1953年(昭和28年)に国宝に指定されている。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏の本尊・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年(昭和63年)に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっているもの。中陣中央には玉座があり、その上にある勅額「傳教」は昭和天皇の宸筆である。
- 廻廊(重要文化財)
- 中門
- 伝教大師童形像
- 伝教大師像
- 文殊楼(重要文化財)[20] - 延暦寺の山門。寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東の丘の上に位置している。そもそもは慈覚大師円仁が唐の五台山・文殊菩薩堂に倣って創建したものである。
- 十三重石塔
- 文殊楼鐘楼 - 国連平和の鐘と呼ばれる。
- 星峯稲荷社 - 祭神:荼枳尼天
- 総持坊
- 蓮如堂 - 浄土真宗本願寺派の本願寺8世蓮如が18歳の時にここで念仏の修行をしたという。
- 八部院 - 1991年(平成3年)再建。
- 登天天満宮
- 大講堂(重要文化財) - 寛永11年(1634年)建立。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年(昭和39年)に現在地に移築したもの。重要文化財だった旧大講堂は寛永19年(1642年)に完成した裳階付きの大堂だったが、1956年(昭和31年)に放火による火災で焼失した。本尊は大日如来坐像。本尊の両脇には向かって左に日蓮、道元、栄西、円珍、右に法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。外陣には釈迦を始めとして仏教や天台宗ゆかりの高僧の肖像画が掲げられている。
- 鐘楼 - 開運の鐘、世界平和の鐘と呼ばれる。
- 瑞雲院
- 前唐院 - 慈恵大師良源(元三大師)の住房。
- 国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。「国宝殿」という名称は、最澄が著わした『山家学生式』の中の「一隅を照らす これ則ち国宝なり」という言葉から採られたもの。
- 鎮魂塚 - 1992年(平成4年)建立。元亀2年(1571年)に織田信長によって行われた比叡山焼き討ちで亡くなった人達の供養塔。しかし、法要では焼き討ちで亡くなった人達だけではなく、織田信長などの焼き討ちを行った側の人達も併せて供養を行っている。
- 戒壇院(重要文化財) - 延宝6年(1678年)再建。僧侶に戒律を授ける場所である。本尊の釈迦牟尼仏は1987年(昭和62年)に西村公朝によって作られたもの。
- 戒壇院鐘楼
- 阿弥陀堂 - 寂光殿とも呼ばれる。1937年(昭和12年)に山口玄洞の寄進により建立。本尊は阿弥陀如来坐像。先祖回向が行われている。
- 法華総持院東塔 - 1980年(昭和55年)再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来坐像、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する。最澄は日本全国に6か所の宝塔・六所宝塔を建てて日本を護ろうと考えた。この東塔はその総塔となる塔・近江国宝塔である。
- 灌頂堂
- 阿弥陀堂鐘楼(重要文化財)
- 山王院 - 智証大師円珍の住房。千手院や後唐院とも呼ばれる。正暦4年(993年)に円珍派(後の寺門派)が本拠地を園城寺に移す前はここが本拠地であった。
- 浄土院 - 宗祖最澄の廟があり、山内で最も神聖な場所とされている。ここには十二年籠山行に臨む侍真がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、境内一円を落ち葉一枚残さぬように一心に掃除している。西塔地区寄りの場所に建てられているが所属は東塔である。東塔地区から歩くと約15分の所にある。
- 伝教大師御廟(重要文化財) - 慈覚大師円仁が仁寿4年(854年)7月に最澄の亡骸をこの地に移して安置した場所。
- 拝殿(重要文化財)
- 庫裏
- 唐門(重要文化財)
- 万拝堂 - 日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安し、祀っている。
- 一隅会館
- 寺務所
- 大黒堂 - 日本の大黒天信仰の発祥の地である。本尊は三面出世大黒天。
- 山王社(重要文化財)
- 大書院(国登録有形文化財) - 昭和天皇の即位大典記念と比叡山開創1150年の記念事業として、1928年(昭和3年)に東京赤坂山王台にあった武田五一設計の村井吉兵衛邸の一部を移築したもの。迎賓館として使用されている。
- 庭園 - 枯山水庭園。
- 庭門(国登録有形文化財)
- 正覚院不動 - 正覚院に祀られていた不動尊を祀る。
- 延暦寺会館 - 宿坊。かつて灌頂が行われていた正覚院の跡地に建てられている。
- 法然堂 - 正式には金勝院という。皇円の住坊で法然が得度した功徳院の跡地にある。西山浄土宗が管理している。
- 聖尊院堂(亀堂)
- 天梯権現
- 慈覚大師円仁廟
無動寺谷
- 無動寺明王堂 - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにある、千日回峰行の拠点である。延暦寺五大堂の一つ。不動明王と弁才天を祀っている。貞観7年(865年)、回峯行の創始者とされる相応和尚が創建した。
- 法曼院
- 護摩堂
- 宝珠院
- 大乗院
- 玉照院
- 松林院
- 無動寺弁財天社
- 白龍大明神
- 建立院
- 西尊院堂 - 坂本ケーブルケーブル延暦寺駅の近くにあり、比叡山ドライブウェイの脇にある。
- 相応和尚墓所
- 紀貫之の墓
西塔
第2代天台座主・寂光大師円澄が開いた地であり、本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域である。東塔から北へ1キロほどの所にある。
- 釈迦堂(転法輪堂、重要文化財) - 西塔の中心堂宇。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂。貞和3年(1347年)建立)を豊臣秀吉が現在地に移築させたもの。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は秘仏の清凉寺式釈迦如来立像(重要文化財)。延暦寺五大堂の一つ。
- 寺務所
- 西塔鐘楼(重要文化財)
- 恵亮堂 - 大楽大師恵亮を祀る。
- 西塔政所 - 止観道場。
- 常行堂(重要文化財) - 法華堂とともに2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって左が阿弥陀如来坐像を本尊とする常行堂。文禄4年(1595年)再建。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから両堂を合わせて「にない堂」の称がある。武蔵坊弁慶が担いだという伝説がある。
- 法華堂(重要文化財) - 常行堂とともに2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩坐像を本尊とする法華堂。文禄4年(1595年)再建。
- 椿堂 - 伝説では聖徳太子が建立したという。
- 椿堂鐘楼
- 箕淵弁財天社
- 本覚院
- 居士林研修道場 - 一般の方々の研修道場。
- 弥勒石仏(大津市指定有形文化財) - 釈迦堂の北の山林にある。
- 相輪橖(重要文化財) - 釈迦堂の北の山林にあり、青銅製で1895年(明治28年)に再建された。この塔は六所宝塔のうちの山城国宝塔である。
- 伝教大師像
- 瑠璃堂(重要文化財) - 西塔地区から黒谷青龍寺へ行く途中に位置するが、現在は道路の崩壊により瑠璃堂で行き止まりとなっている。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。延暦寺では珍しく禅宗様(唐様)で建てられている。
- 黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にある。法然が修行した場所として有名である。
- 狩籠の丘
横川
第3代天台座主・慈覚大師円仁が開いた地であり、本堂にあたる横川中堂を中心とする区域である。西塔から北へ4キロほどの所にある。嘉祥3年(850年)に円仁が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
- 横川中堂(よかわちゅうどう) - 旧堂は1942年(昭和17年)に落雷で焼失し、現在の堂は1971年(昭和46年)に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、舞台造りとなっている。新西国三十三箇所第18番札所で本尊は円仁作と伝えられる聖観音立像(重要文化財)。延暦寺五大堂の一つ。
- 根本如法塔 - 多宝塔。1925年(大正14年)再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
- 三十番神社
- 龍ヶ池弁財天社
- 龍ヶ池
- 西国三十三所石仏群
- 赤山宮
- 虚子の塔 - 高浜虚子の生前墓で、1953年(昭和28年)建立。
- 横川鐘楼(重要文化財)
- 比叡山秘宝館 - 現在は使われていない。
- 恵心堂 - 現在の堂は坂本・生源寺の別當大師堂を移築したもの。恵心僧都源信の住坊の跡であり、ここで『往生要集』や『二十五三昧式』が著された。
- 恵心廟
- 四季講堂(元三大師堂、重要文化財) - 康保4年(967年)に村上天皇の勅命により、四季に法華経の論議が行われたことから四季講堂と呼ばれる。元三大師(慈恵大師)良源の住坊跡地にあり、元三大師を祀る。天台宗やその流れをくむ寺院で授与されている魔除けの「角大師」(元三大師が鬼になったもの)の護符発祥の地であり、おみくじ発祥の地でもある。
- 庫裏
- 表門
- 箸塚弁財天社
- 甘露山王社
- 比叡山行院
- 定光院 - 日蓮宗の宗祖である日蓮の修行の地である。その経緯から日蓮宗が管理している。
- 元三大師御廟
- 御廟拝殿(重要文化財)
- 稲荷社
- 西塔峰道伝教大師ご尊像 - 西塔と横川の間にある「比叡山峰道レストラン」の前にある。高さ約12mで1987年(昭和62年)に建立された。
飯室谷
平安時代、良源が弟子の尋禅のために、飯室谷に妙香房を建立したのが始まりである。寛和元年(985年)、良源没後に尋禅が妙香院と改称し、整備拡充を行った。
- 飯室谷不動堂 - 本尊は不動明王。延暦寺五大堂の一つ。
- 長寿院
- 赤山明神
- 飯室弁天堂
- 回向三昧堂
- 鐘楼
- 文應大僧正像
- 玉広弁才天
- 地蔵堂
- 稲荷明神社
- 日吉権現十禅師社
- 護摩堂
- 拝殿
- 千手堂(八角堂)
- 御供所
- 松禅院
- 慈忍和尚廟
- 安楽律院 - 天台宗安楽律法流の道場。
- 霊空廟
葛川明王院
- 明王院
- 地主神社
坂本
比叡山上に建てられている坊である山坊に対して、麓の坂本にある坊は里坊と呼ばれる。もともとは山上に住んでいた老僧が隠棲するために建てられたものであるが、中世には主に僧兵集団の住坊となっていた。
現在、坂本には里坊が54か所ある。※印の付いた寺院の庭園は、国の名勝に指定されている。
神坂(みさか)
長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が弘仁8年(817年)に設けた広済院があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」である。 1958年(昭和33年)に建立された最澄の「遺跡顕彰碑」があり、最澄の遺徳をしのぶ法要が毎年営まれる。
文化財
国宝
- 根本中堂(附:須弥壇及び宮殿 3具)[21]
- 金銅経箱 1合 - 平安時代後期の金属工芸。横川から発掘された。[22]
- 宝相華蒔絵経箱(ほうそうげまきえきょうばこ) 1合 - 平安時代後期の漆工芸品。[23]
- 七条刺納袈裟 1領、刺納衣 1領 - 最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品。[24]
- 伝教大師将来目録 1巻 - 貞元21年(805年)跋、唐の越州から最澄が将来した経典類の自筆目録。[25]
- 羯磨金剛目録(かつまこんごうもくろく) 1巻 - 最澄自筆の将来品目録、弘仁2年(811年)。[26]
- 天台法華宗年分縁起 1巻 - 最澄筆。[27]
- 六祖恵能伝(ろくそえのうでん) 1巻 - 貞元19年(803年)奥書、最澄が持ち帰った、唐時代の写本。中国禅宗六祖恵能の伝記。[28]
- 伝教大師入唐牒(でんぎょうだいしにっとうちょう) 1巻 - 最澄の唐での通行許可書、明州牒(貞元20年・804年)と台州牒(貞元21年・805年)からなる。[29]
- 嵯峨天皇宸翰光定戒牒(さがてんのうしんかんこうじょうかいちょう) 1巻 - 「三筆」の一人嵯峨天皇の筆、弘仁14年(823年)。[30]
重要文化財(国指定)
(建造物)
- 根本中堂廻廊
- 大講堂(旧東照宮本地堂)
- 転法輪堂(釈迦堂)
- 大乗戒壇院堂
- 瑠璃堂
- 相輪橖(そうりんとう)
- 常行堂及び法華堂(附:廊下)
- 延暦寺 11棟[31]
- 文殊楼 - 2014年(平成26年)指定。
- 山王社 - 2014年(平成26年)指定。
- 浄土院伝教大師御廟(附:棟札 1枚) - 2014年(平成26年)指定。
- 浄土院唐門 - 2014年(平成26年)指定。
- 浄土院拝殿 - 2014年(平成26年)指定。
- 阿弥陀堂鐘楼 - 1963年(昭和38年)指定。
- 西塔鐘楼
- 四季講堂(附:厨子 1基、棟札 5枚) - 1967年(昭和42年)指定。
- 元三大師御廟拝殿(附:御廟瑞垣 1棟、鳥居 1基) - 2014年(平成26年)指定。
- 横川鐘楼
- 慈眼堂(附:厨子 1基) - 2006年(平成18年)指定。大津市坂本4丁目所在。
(絵画)
- 絹本著色天台大師像 1幅
- 絹本著色天台大師像 有賛 1幅
- 絹本著色相応和尚像 1幅
- 絹本著色不動明王三大童子五部使者像 1幅
- 絹本著色文殊菩薩像 1幅
- 絹本著色山王本地仏像 1幅[32]
- 紙本著色山王霊験記 1巻
(彫刻)
- 木造釈迦如来立像 - 釈迦堂安置の本尊。秘仏[33]。清凉寺式釈迦如来。
- 木造聖観音立像(横川中堂安置の本尊)
- 木造光定大師立像(旧所在山麓大師堂)
- 木造不動明王二童子像 3躯(旧所在無動寺明王堂)
- 木造降三世明王立像(旧所在無動寺明王堂)
- 木造軍荼利夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
- 木造大威徳明王像(旧所在無動寺明王堂)
- 木造金剛夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
- 木造四天王立像 4躯(旧所在根本中堂)
- 木造四天王立像 2躯(旧所在釈迦堂)
- 木造千手観音立像(旧所在山王院)
- 木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂)
- 木造維摩居士坐像(黒谷青龍寺旧蔵)
- 木造慈恵大師坐像(黒谷青龍寺旧蔵)弘安9年(1286年)銘
- 木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵)文永2年(1265年)銘
- 木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵)
- 木造吉祥天立像(滋賀院旧蔵)
- 木造大黒天立像(律院旧蔵)
- 木造薬師如来坐像[34]
(工芸品)
- 尾長鳥繍縁花文錦打敷 1枚
(書跡典籍、古文書、歴史資料)
(一山寺院所有分)
- 紺紙金銀交書法華経 8巻
- 紺紙銀字法華経 8巻
- 紙本墨書華厳要義問答 行福筆 2巻
- 悉曇蔵 8帖
- 伝述一心戒文 上中下 応徳元年良祐写 3帖
- 延暦寺楞厳三昧院解 天禄三年正月十五日 1幅
- 紙本墨書山門再興文書 4通
- 紙本墨書道邃和尚伝道文 1巻
- 宗存版木活字(付属品共)174,261点
- 以下の重要文化財(比叡山麓坂本の里坊の所有)については、延暦寺が文化財保護法第32条の2の規定に基づく「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている[35]。
- 恵光院 絹本著色不動二童子像 1幅
- 実蔵坊 絹本著色毘沙門天像 1幅
- 実蔵坊 水晶舎利塔 1基
- 大林院 絹本著色不動明王二童子像 1幅
- 大林院 木造不動明王坐像 1躯
- 寿量院 木造阿弥陀如来坐像 1躯
- 乗実院 木造阿弥陀如来立像 1躯
- 恵日院 木造慈眼大師坐像 1躯
- 求法寺 木造慈恵大師坐像 文永4年(1267年)銘 1躯
- 明徳院 絹本著色地蔵菩薩像 1幅
- 妙行院 木造地蔵菩薩立像 1躯
- 玉蓮院 木造不動明王二童子立像 3躯
- 弘法寺 金銀鍍水瓶 1口
- 弘法寺 法華経(装飾経) 8巻
上記のほか、以下の重要文化財についても、延暦寺が「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている[36]。
- 明王院(大津市葛川坊村町)所有
- 紙本著色光明真言功徳絵詞 3巻
- 絹本着色不動明王二童子像 1幅
- 木造千手観音・不動明王・毘沙門天立像 3躯
- 葛川明王院御正体(不動明王及二童子像 5面、宝塔 1面 附:御正体 5面)
- 葛川明王院文書 4336通 附:文保二年文書櫃 3合
- 葛川与伊香立庄相論絵図 1巻、1幅
- 葛川明王院参籠札 501枚
- 蓮台寺(滋賀県栗東市)所有
- 木造薬師如来両脇侍像
その他の子院所有の重要文化財。
- 安楽律院所有
- 絹本著色弥陀三尊二十五菩薩来迎図 1幅
- 絹本著色千手観音像 1幅
典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。2000年以降の指定物件については、個別に脚注を付した。
重要美術品
- 絹本著色普賢延命像 1幅
- 紙本墨書中御門天皇宸翰御願文 1巻
- 紙本墨書後水尾天皇宸翰御懐紙 1幅
国の史跡
- 延暦寺境内
国の名勝
- 延暦寺坂本里坊庭園
- 雙厳院庭園
- 宝積院庭園
- 滋賀院門跡庭園
- 佛乗院庭園
- 旧白毫院庭園
- 旧竹林院庭園
- 蓮華院庭園
- 律院庭園
- 実蔵坊庭園
- 寿量院庭園
国の天然記念物
- 比叡山鳥類繁殖地
国登録有形文化財
- 大書院
- 大書院庭門
滋賀県指定有形文化財
- 絹本著色山王本地仏曼荼羅図 1幅
- 絹本著色慈恵大師像 1幅 附:旧軸木 1本、旧裏書 2枚
- 木造厨子 1基
- 金銅独鈷杵 1口
- 往生要集 6冊(版本 4冊、写本 2冊)
- 明王院(大津市葛川坊村町)所有
- 梵鐘 1口
- 銅鉢 1口
- 弘法寺 所有
- 絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図 1幅
滋賀県指定有形民俗文化財
- 明王院(大津市葛川坊村町)所有
- 参籠札 58本
大津市指定有形文化財
- 石造弥勒仏坐像 1躯
- 紙本著色日吉山王社古図 1幅
- 明王院(大津市葛川坊村町)所有
- 香盤 1基 附:香印をつくる道具 2点
大津市指定史跡
- 穴太衆積みの石垣
- 延暦寺
- 寿量院
- 実蔵坊
- 律院
- 恵光院
- 金蔵院
- 円乗院
- 大慈院
- 双厳院
- 瑞応院
- 円教院
- 妙行院
- 延暦寺学園
- 佛乗院
- 松寿院
- 日増院
- 竜珠院
- 玉蓮院
- 延命院
- 薬樹院
- 金台院
焼失した文化財
1942年7月30日、落雷による火災で以下の建造物1件、工芸品1件が焼失した[37]。
- (旧)横川中堂 - 旧国宝建造物。
- 銅筒 - 金銅経箱(現国宝)の付属品だったもの
1956年10月11日、上司に叱られたのを恨んだ延暦寺受付係の18歳の少年による放火により以下の建造物2件、彫刻5件(いずれも当時重要文化財)が焼失した。[38]
- 旧大講堂
- 旧大講堂鐘台
- 木造大日如来坐像(旧大講堂 御本尊)
- 木造弥勒菩薩坐像
- 木造持国天・多聞天立像(平安時代初期)
- 木造阿弥陀如来坐像(平安時代初期)
- 銅造釈迦如来坐像(室町時代)
前後の札所
- 新西国三十三箇所
- 17 楊谷寺 - 18 延暦寺横川中堂 - 19 鞍馬寺
- 西国薬師四十九霊場
- 48 水観寺 - 49 延暦寺
- 近畿三十六不動尊霊場
- 25 円満院 - 26 無動寺明王堂 - 27 葛川明王院
- びわ湖百八霊場
- 107 福林寺 - 108 延暦寺横川中堂
- 法然上人二十五霊場
- 縁故本山 永観堂禅林寺 - 特別霊場 黒谷青龍寺
- 西山国師遺跡霊場
- 7 専念寺 - 客番 延暦寺文珠楼 - 8 永観堂禅林寺
- 真盛上人二十五霊場
- 1 西教寺 - 2 黒谷青龍寺 - 3 延暦寺浄土院 - 4 六角地蔵堂
- 播州薬師霊場
- 御本山 延暦寺 - 1 太山寺
- 東海四十九薬師霊場
- 特別札所 薬師寺 - 特別札所 延暦寺 - 1 福成就寺
- 神仏霊場巡拝の道
- 149 日吉大社 - 150 延暦寺
交通
バス路線
東塔
東塔区域の最寄りのバス停は、延暦寺バスセンターである。以下の路線が乗り入れ、江若交通・京都バス・京阪バスの各事業者によって運行されている。なお、叡山ロープウェイ比叡山頂駅を利用する場合は延暦寺バスセンター・比叡山頂停留所間はバスで約5分を要する。
延暦寺バスセンター停留所
- 江若交通
- 140系統:比叡山頂 行き、堅田駅西口 行き(西塔、横川、おごと温泉駅経由)
- 141系統:比叡山頂 行き(当停留所始発)
- 142系統:比叡山頂 行き、横川 行き
- 京都バス
- 51系統:比叡山頂 行き、京都駅 行き(出町柳駅前、三条京阪前経由)
- 京阪バス
- 57系統:比叡山頂 行き、京都駅 行き(京阪出町柳、三条京阪経由)
西塔
西塔区域の最寄りのバス停は、西塔バス停である。このバス停には江若交通の路線が発着する。
西塔バス停
- 江若交通
- 140系統:比叡山頂 行き、堅田駅西口 行き(横川、おごと温泉駅経由)
- 142系統:比叡山頂 行き、横川 行き
横川
横川区域の最寄りのバス停は、横川バス停である。このバス停には江若交通の路線が発着する。
横川バス停
- 江若交通
- 140系統:比叡山頂 行き、堅田駅西口 行き(おごと温泉駅経由)
- 142系統:比叡山頂 行き(当停留所始発)
ケーブル
最寄り駅である坂本ケーブルケーブル延暦寺駅より徒歩10分(東塔区域まで)。
その他
ドキュメンタリー
- 新日本風土記「比叡山」(2018年3月16日、NHK-BS)[39]
参考文献
- 延暦寺執行局編 『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』比叡山延暦寺刊、1993年
- 【書籍】「最澄と天台の国宝」
- 井上靖、塚本善隆監修、安岡章太郎、誉田玄昭著『古寺巡礼京都26 延暦寺』淡交社、1978年
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛南』駸々堂、1982年
- 『比叡山 天台宗開宗千二百年記念(別冊太陽)』平凡社、2006年
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』76号、朝日新聞社、1998年
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』角川書店
- 『国史大辞典』吉川弘文館
- 『日本仏教の礎』佼成出版社、2010年
[続きを見る]
延暦寺の口コミ情報
2024年10月18日 内匠頭 尾張津島 Bちゃん
延暦寺
初めて訪れましたが、歴史的に感慨深い場所で神聖でした。
2024年10月14日 ヨッシー
延暦寺
紅葉は始まっていませんでしたが、のんびりとした空気を楽しむことができました
2024年08月18日 てつ
延暦寺
東塔、西塔、横川の3地区が有り。其々を車で移動し、主要な建物をノンビリ散策。ザックリ各1時間、最低3時間は必要。(西塔地区は若干狭め)
2024年04月30日 ジュビ三河守
延暦寺
根本中堂は工事中でしたが上に登り工事中の見学ができるので一見の価値あり。
2024年03月25日 キムキム
延暦寺
国宝延暦寺根本中堂改修工事中なり。完成が待ち遠しい😁
2023年10月30日 ねこまる
延暦寺
2023.10.29
もみじ祭りは始まっていましたが、紅葉はまだまだでした。横川中堂は特別拝観されておりました。紅葉も少し色づき始めています。恵心堂は青紅葉でしたが、とても趣きがありました。
2023年10月24日 大和摂津守秀長
延暦寺
改修中の根本中堂が見れました。屋根の高さまで上がれて写真もOK得した気分です。
2023年09月19日 図書頭RedKing
延暦寺
もちろん伝教大師最澄が開山した、道元、栄西、親鸞や日蓮などが修行したと言われる大変なお寺です。根本中堂の大修理は今しか観ることができない所山盛り。東塔では書院も工事があって、何やら近々、VIPのご登山でしょうか。因みに石垣は、比叡山会館から見た書院です。京阪からケーブルまでの坂は、穴太積みオンパレードに対して、建造時代が違うのでしょうか。尚、高野山程有名ではありませんが、先の会館は宿坊で、お泊まり修行に精進料理に加えて琵琶湖の眺望付きです。千何百年も大昔、本当にこんな山中にどうやって、石や大木を運んで、大勢の職人が作業できたのでしょう。勿論、食う寝る飲むが現場にないと効率悪いでしょうから。電車、ケーブルカーもドライブウェーも重機もない。
2023年09月18日 前後北条安房守ぷいちー
延暦寺
国宝根本中堂改修工事しています。屋根など近くで見学できます。その際には、AR体験アプリをあらかじめダウンロードしていっとくのがおすすめです。写真可能エリアもあるので、せっかくだから行ってみてはいかが?
2023年09月17日 すなちゃん武蔵守
延暦寺
イベントを暗くなる前に終了したかったので、写真は撮れませんでした。車で行かれる方は、細い道が右に左に登ったり降りたりクルクル回ったりで大変です。上から見る景色最高です、絶対見てほしいです!登上する方は4時で締め切りなので、時間厳守で行って下さい。
2023年08月29日 ふうふう
延暦寺
比叡山の寺域はアップダウンが多く、東塔、西塔、横川エリアに分散しています。比叡山山頂〜東塔〜西塔〜横川を往復するシャトルバスの一日券が便利。日本一長い坂本ケーブルは景色も楽しめました。
個人的には信長の「比叡山焼討ち」の惨劇の舞台だということが気になって仕方なかったけどね。
2023年07月29日 ぱぱ〜ん伊豆守
延暦寺
何度となく歴史に出て来る延暦寺。東塔、西塔、横川の3エリアから構成される。中でも国宝の根本中堂は不滅の法灯があるが現在改修工事中。だからこそ工事の様子も見れるチャンスですよ。
2023年04月08日 松平遠江守お利口
延暦寺
根本中堂は、令和9年12月まで改修工事をしています。本来の外観が見られないのが残念ですが、屋根の構造を上から見学できることは貴重ですね。
2023年03月13日 尼子周防守直寛
延暦寺
初めて延暦寺を訪れ、その広さにビックリ。根本中堂は修理中でしたが、屋根の修理を間近に見られて、満足な延暦寺訪問となりました。
2022年12月07日 尼崎城駿河守一口城主
延暦寺
12月4日登城(というより参拝)。阪急電車🚃で上洛し四条河原町から大原行きのバス🚍に乗り八瀬駅前で降車。叡山ケーブルカー🚠+叡山ロープウェイ🚡で比叡山山頂駅まで上がり約350m歩いて比叡山頂バス停に到着。比叡山頂↔️横川(よかわ)間のシャトルバスが乗り放題の一日乗車券を買って東塔地区(根本中堂)と横川地区(横川中堂)をお参り。※東塔地区をじっくり周りすぎて西塔地区をお参り出来なかったのが心残りでした。各境内の写真や口コミは数多く上がっているので私は一番境内で癒された横川中堂前の右手指を三本上げた平和地蔵菩薩を載せておきます。
帰路、バスで比叡山頂バス停🚏に戻り、周りを眺めていると東側山麓に琵琶湖西側山麓に田園地帯が見えるスポットがありバス停前の売店で軽食を注文がてら位置関係を聞いてみると、[写真③]東(右)から琵琶湖、比良山系、大原だよと教えて頂きました。帰りは下りなので叡山ロープウェイには乗らず叡山ケーブルまで歩いて行くと比叡ビュースポットという京都がよく見渡せる場所に辿り着きました。叡山ビュースポットの存在を初めて知ったのですが案内板やその場にいらっしゃった案内係の方に位置関係を確認しながら京都を眺めるのが面白かったです。
[写真⑤]まず、御所は広いのですぐ分かり山の上から見ると二条城と御所の近さを実感出来ました。次に京都タワーも発見して、写真のタワーやや左奥に見える山が岩清水八幡宮のある男山だと分かり、ということは男山の右側が山崎だなと気付きました。(私事ですが先月の本アプリでの敗戦のショックがよみがえってきました😱)
[写真⑥]気を取り直して尾根伝いの東山方面を眺めると東山の東側(写真左側)が山科ですよと教えて貰いました。山科は忠臣蔵の大石内蔵助公が一時住んでいた所だなと思い眺めていました。案内係の方が京都の夜景も綺麗ですよと教えてくれたので寒い中、暗くなるのを待っていました。山の上から京都の夜景を見るのは初めてで綺麗な景色が見れて良かったです。夜だと京都タワーも発見しやすくなっていました。[写真⑦]足元のライトのデザインが菊の紋章のようになっているのがなぜか気になってしまいました。帰りは叡山ケーブルで下山。気付けば景色の中継が長くなり失礼しました🙇🏻♂️
2022年10月10日 城跡右兵衛督
延暦寺
今回は改修工事中でしたが、根本中堂のある西の方だけでしたが、いろいろと整っていて、歴史奥深さに癒やされました(^o^)紅葉前で人も少なく穴場でした。景色もきれいでグッドです。
2022年08月16日 ㊉ちょw安芸守っw
延暦寺
安土城見学の後、琵琶湖大橋を渡り、比叡山ドライブウェイを走りリア城攻め。
最澄をはじめ鎌倉仏教の創始者お歴々ほぼ全員が学んだ地として肖像画が飾ってあります。
残念ながら国宝の根本中堂は2026年頃まで大改修中とのことでしたが、1200年以上点灯している灯明は必見の価値があります。雨上がりの荘厳な雰囲気の中をお参りしました。
2022年08月15日 たすく
延暦寺
ゆっくり楽しんでまわりました。ほぼ1日いましたが、時間が足らなくなり、横川は、ただ行っただけになってしまいました。次回は、横川から回って行くつもりです。会館の抹茶ティラミスは、美味しかったですよ。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
西塔西谷の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
西塔相輪橖のある丘には、城郭遺構が残る。いくつかの細かい削平地が残るのみで、詳細は不明である。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
横川恵心堂の西遺構[延暦寺 遺構・復元物]
横川恵心堂の西側にある丘には、城郭遺構が残る。ここの遺構は土塁、堀切、竪堀、曲輪などが複雑に構えられており、最高所にはL字状の土塁と櫓台状の土段がある。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
西塔東谷の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
居士林研修道場の北側には、城郭遺構が残る。土塁と横堀を伴う削平地と、丘を断ち切る3状の堀切が今なお残る。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
西塔釈迦堂(転法輪堂)周辺の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
西塔釈迦堂のあるエリアは城郭遺構とされる。西塔釈迦堂は周囲より一段低い場所に建っており、この地点は元々の地山を削り凹ませたような場所である。そのため一部を除いてほぼ全周を土手に囲われる。この釈迦堂から西には鐘突堂が建っており、京都側への眺望に優れている。この堂が有事の際に司令塔のような役割を果たしたと考えられている。
この釈迦堂を中心とする西塔は平安時代の仁安2年(1167)に赤袴の党により城郭が構えられたことが『天台座主記』に載る。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
東塔北谷の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
東塔の北、駐車場の北の斜面には大規模な城郭遺構が残る。
駐車場にある階段から斜面へ降りると、複数の段が見える。この段の縁には土塁が盛られ、段と段の間の斜面は切岸になり、部分的に竪堀、櫓台、虎口が確認できる。中でも善学院跡(駐車場から降りて3段目の削平地)はこれら遺構の中でも最大の面積を誇り、主郭に該当する場所であったと推定される。また、その一つ下の善光院跡(駐車場から降りて4段目の削平地)は発掘調査がされており、これら遺構は16世紀に作られたものだと判明している。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
阿弥陀堂の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
東塔阿弥陀堂北側には、城郭の遺構が残る。阿弥陀堂の北側にわずかであるものの、かなり大きい土塁が残存する。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
山王院堂-浄土院の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
東塔から西塔に行く道中にある山王堂、浄土院周辺には城郭の遺構らしきものが残る。
この2つの坊院を結ぶ尾根の上に土塁が巡り、尾根を下った場所(浄土院の辺り)には土塁と尾根を断ち切るように堀切状の溝、削平地が構えられている。
2022年07月21日 土支田大膳大夫
文殊楼の遺構[延暦寺 遺構・復元物]
東塔根本中堂前にある文殊楼の建つ丘は、城郭の遺構が残る。現在、根本中堂から文殊楼へ上がる階段を登りきった所(文殊楼から見て西)には土塁がある。この文殊楼の北の丘は、緩いながらも削平地がいくつかある。
2022年05月21日 ピロ能登守
延暦寺
有料道路通らないとゲットできません。自家用車で行くなら事前に割引券を印刷するかJAFの会員であれば通行料お安くなります。
2022年05月01日 土岐飛騨守…り
延暦寺
ものすごく景色がいいところでした。滋賀と京都の境目で少し遠くにいくと滋賀の街と京都の街、そしてとくに大阪が見えるスポットがありました
2022年04月27日 天羽蔵人頭斎如
延暦寺
桜も散りかけていて、この日は霧が出てて幻想的な風景でした
2022年01月05日
延暦寺
冬の比叡山延暦寺最高です!特に雪の降っている時は建物の朱色と雪の白さがいい具合にマッチしてます!
2021年10月19日 釆女正佐吉。
延暦寺
今回は城郭研究家が解説して下さるツアーで延暦寺を訪れました。 ですので、駆け足での見学となりました。
・根本中堂
変わらず大改修中〜令和8年3月まで。 ポジティブに考えれば、修学ステージから根本中堂を見ることができるレア期間。
見どころはやはり「不滅の法灯」
・国宝殿
特別展「戦国と比叡〜信長の焼き討ちから比叡復興へ〜」〜令和3年12月5日まで。
見どころは天海所用と伝わる甲冑。 数量限定パンフもぜひ。500円という安価ながら57Pフルカラー。
・戒壇院
最澄の教えを受け継ぐ僧侶が戒律を受け、正式な僧侶となる為の儀式が行われるお堂。
827年に建立されるが、1571年の焼き討ちによる焼失を経て、1678年に現在のお堂が再建された。
今年が最澄没後1200年の大遠忌にあたることによる827年創建以来初の一般公開中!〜令和3年12月12日まで。
この機会を逃したら、もう生きてる間に一般公開のチャンスは巡ってこないかもしれません!
入って感じたのは、薄暗い。そして良い香り。(多分根本中堂も同じ香り) 何だろうこの香り…。
お寺の匂い(白檀)に混じりお花のような香しさ。天国があるとするならばきっとこんな香りオッと!暗いからボーッと生きてたら前の人にぶつかっちゃう!
このお香があまりにもツボで、その正体を僧侶にお尋ねしたところ、「叡山香」というお線香。朝のお勤め時に焚くお線香だそうです。
売店に800円で売っています、と仰るのでダッシュ!ざっと75本入り税込800円。こんな高貴な香りがこんなお手頃価格で手に入るなんて!よくある東南アジア系ショップの、鼻にツーンとくる、頭が痛くなるような香りとは全くの別物。気分が落ち着きます。線香って、イイな!
あ、戒壇院…
同行者によると、仏様の白毫が光の当たり具合により青色や緑色に光って見えたそうです。 私はそこまで見ていなかった…。(中外日報に戒壇院内部の写真があります。検索してみて下さい)
先人様の口コミにある、一本杉西城も将門岩も見たいし、叡山香も買い溜めしたい。 秋深まった頃に今度はケーブルカーで再訪したい!
もうドライブウェイで、ヒェェー山、エーンエーン(´;Д;`)暦寺とは言いたくない…。
寒いの嫌い…。
2021年10月10日 大八
延暦寺
京都側から滋賀へ、滋賀から京都へと抜けてもええと思われます。滋賀側の方がケープル綺麗で琵琶湖もええ感じに見れます。京都側はアクセス種類もあるので。下山する交通機関の時間は押さえておくべきと思います。
2021年10月08日 在来線男右京進
延暦寺
坂本からケーブルカーに乗りました。ケーブルカーの駅に5台ほど車が置けます。往復1660円でした。乗っている時間は11分で時速11kmくらいで着きます。長さは日本一だそうで、カーブやトンネルもあります。眼下に見える琵琶湖は絶景です。
2021年04月02日 有栖川もぼ
延暦寺
京都側よりケーブルカーとロープウェイで山頂へ行きました。
平地よりも気温がかなり低いので、山の天気を調べてから行けばよかったと思いました。
延暦寺は世界遺産で、見るものも多いですが、根本中堂は10年かけての改修工事をしているのでちゃんと見れるのはまだまだ先になりそうです。
ですが、内部の見学はできますので、改修工事を直に見ることは出来ます。
食事をする場所もあるので、1日かけて朝から夕方までゆっくりするのも良いかもしれませんね☺️
2021年03月29日 うっちー外記幸村
延暦寺
この城は僧侶が武家化し城郭化し、軍事的な大名のような勢力を誇り、立て籠もったといえる。
2021年03月24日 しろざえもん配下
延暦寺
桜花咲きはじめの季節。穏やかな日差しの中、延暦寺に見参しました。ケーブルより無動寺谷、東塔、西塔を歩きました。根本中堂は改修でカバーされていました、残念!よかったのは、にない堂。実家は真宗なので、とくに印象深く。何かテーマを持って行かれるとよろしいかと。自然歩道を歩くとか、ご自分の宗旨をたどるとか、信長の焼き打ちの歴史を巡るとか。ケーブルの途中には焼き打ちで亡くなったひとの供養の小仏があるようです。帰りまして、万歩計は23000越えでござりましたぞ。
2021年01月09日 ko+
一乗寺延暦寺山城(一本杉西城)[延暦寺 周辺城郭]
曼殊院南側にある比叡山登山口から登ります。
途中、①最初の分岐では「瓜生山」方向。
②次の分岐・京都一周トレイル64番では「水飲対陣碑、比叡山」方向。
そのまま京都一周トレイルを67番まで進み、
③石鳥居前の分岐67番では「比叡アルプス、比叡山ドライブウェイ、一本杉」方向へ進みます。
この分岐で林道から尾根道へ。
そして、北東方向へ進んでいた尾根道が東へ向きを変える辺りが城域です。
途中、落し物を拾い警察へ連絡をする等のハプニングがあり、時間が正確にはわからないのですが、登山口から60分〜90分程で着くかと思われます。
…ここまでダラダラと書きましたが、比叡山ドライブウェイ、当仙台駐車場から4〜500mほど尾根道を西へ行けば城域。通行料金を払えば、アクセスは比較的簡単です。
標高約560mの地に約300m四方の規模の城を築く。
城域最高所に主郭群を置き、その南から西へかけ多数の郭群を展開。
写真
①主郭部北西、通路として利用されたと思われる堀切
②③⑥白鳥越えと郭群
④主郭
⑤⑦一本杉へ向かう尾根道
山城国と近江国を結ぶ横断路が比叡山系には複数あります。
そのうちの修学院地区(曼殊院)から坂本穴太を結ぶ道は白鳥越えと呼ばれます。
この白鳥越え沿いに、山城国側には一乗寺山城、近江国側には壺笠山城、他にも多くの城館が築かれました。
これらの城館は織田軍と対立する朝倉・浅井連合軍が近江国から山城国に侵攻する拠点として築かれたと考えられます。
白鳥越えを取込み山城国、近江国の国境に築かれた一乗寺延暦寺山城。
雪の装備をせずに入山してしまい、取り付いてみたものの、足元が不安な為、時間をかけての散策は断念。
が、通路からも見えるドキドキする遺構達。
再挑戦必須です٩( 'ω' )و
2020年12月14日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
延暦寺
三井寺(園城寺)
天台宗の宗派の一つである天台寺門宗の総本山です。
此処も城郭寺院だった痕跡があっちこっちにありました。参拝者用駐車場の入り口の石垣とか境内の石垣とか、参道脇に土塁らしき盛り土も…
後、三井寺の金堂(本堂?)は、秀吉さんの正室の北政所さんが再建に尽力したみたいです。
西国三十三所第十四番札所の観音堂を含めて御朱印を頂けるお堂が4箇所あるので御朱印巡りでお参りしてはどうでしょう。
2020年11月25日 Hide中務少輔
延暦寺
瑠璃堂が11月いっぱい公開されています。
2020年09月18日 弾正尹 山城守pi_pua
延暦寺
坂本ケーブルからの眺望は素晴らしかったです。我が国最長ケーブルを楽しんでください。延暦寺駅からは、ゆっくり琵琶湖の景色が楽しめますよ。
2020年09月06日 芦屋能登守虎吉
延暦寺
坂本ケーブルから登り、東塔、横川と巡りました。この山に逃げ込んでしまえば、それは織田軍も手を焼くわ…と思うような急峻かつ広域の伽藍群。見事です。
2020年08月30日 右大将蔵人頭
延暦寺
今回は車で東塔、西塔、横川をまわりました。 東塔は、根本中堂が修復中。全容が見られず残念でしたが、修復現場を見られました。迫力満点です。
2019年05月02日 陸奥守仙臺むすび丸JUN
根本中堂[延暦寺 遺構・復元物]
根本中堂は現在平成の大修復工事中(平成28年3月から10年間、令和7年3月までの予定)。
2019年05月01日 ケロ助
延暦寺
比叡山延暦寺西塔エリア「親鸞聖人御修行の地」の石碑側の石垣。穴太積みの美しさに立ち止まり暫く見惚れました。
2019年03月11日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
延暦寺
根本中堂や大講堂に参拝した後、延暦寺の国宝館(宝物館)に寄ってみてはどうですか? 延暦寺に置かれていた仏像(多分、レプリカ)が見られます。中には、どっかの国の連中がイチャモン付けて来そうな仏像も・・・(^_^;)
2018年08月13日
延暦寺
有料道路のことが書かれていないので一応。一応有料道路でも延暦寺には来れますがかなりきつい山道とちょっとお高い料金なので公共交通機関以外の方はお試しを。料金も細かく設定されているのでどこを見るかを検討しておいたほうがいいかも。
2018年07月01日 これも教育?征夷大将軍クララ姫
延暦寺
天台宗総本山『比叡山延暦寺』国宝根本中堂は平成28年度から約10年をかけて大改修中です。7月1日の30度越えの日にお参りしましたが、改修中の根本中堂内部は、エアコンが効いているような爽快感があり、汗が一気に引きました。パワーを頂けた気分で、明日からの意欲が湧いてきました。
2018年05月30日 カーネル
延暦寺
東の麓から登り、西に下りました
京阪線の坂本駅の改札をでたら左折します
大きな日吉大社の鳥居をくぐると、参道の左右の石垣は穴太積とのとこでテンションあがる
日吉神社で癒されつつお参りして、早尾神社の南側の南善坊への階段を登り、同寺の参道とのY字の分岐を左へ進みます
この後は荒れた林道を黙々と登り続けるけのですが、40分くらい延暦寺の文字が一切出てこないので不安になります。山道を50分登ると舗装路になり延暦寺会館にでます
あとは、文殊楼、根本中堂を経由して東塔へ。次いで少し距離がありますが、西塔へを見てから下山しました
ロープウェイに行こうとしたら、少し登るらしいので、下りのみで行けるもう一つ先のケーブルカーを目指しました
坂本駅からケーブル比叡駅まで3時間半歩きましたが、見所だらけで、あっという間でした。朝イチで行ったので、観光客が皆無で最高でした
2016年07月10日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
延暦寺
最澄が開いた天台宗本山。幾多の名僧を排出した寺。
比叡山ドライブウェイを入り進むと、延暦寺バスセンター、そこの第1駐車場に入り、拝観料700円払い中に。根本中堂、阿弥陀堂、文殊楼。この位なら30分位で見て回れます。各建造物の周りをよく見ると穴太衆の野面積みらしい痕跡が見えます。文殊楼の裏は人気も少なく遺構が見られます。
次の目的地、将門岩に向かいます。今はガーデンミュージアム比叡の中にあると聞き来た道を戻って比叡山山頂に。入口で入館料1000円(高い!)心踊りながら進むも見つけられず、奥の受付のお姉さん(清楚な美人)に尋ねたらこれですと•••唖然!完全に花壇の中の飾りとしてる姿に猛然と悲しみが(ToT)。館内の趣向に合わないからと案内碑も外されたそうです。
(純友)将門、あんた桓武の子孫だから天皇になれ、俺は藤原氏だから関白だ!東で兵をあげろ!俺は西で。約束だぞ!
あの名シーンの場が•••(ToT)。主任さんも来てそのことは気になってたんで上の人に必ず伝えますと聞き少し気持ちが収まりました。
開発と整備、間違った方向に行かないように気をつけていただきたいものです。
2016年01月05日 かげちゃん参號
延暦寺
根本中堂の中は、修復作業が行われていて所々に足場が組まれいるので、中を歩く時は、注意が必要です。
2013年05月19日 出羽守景綱
延暦寺
松尾芭蕉の奥の細道で有名な山形県にある山寺立石寺は建立時に比叡山延暦寺から『御法灯(灯り)』を分けていただき、以来ずっと消えることなく灯し続けているそうです。
信長による延暦寺の焼き討ち後、延暦寺の再建にあたっては立石寺より延暦寺に『御法灯』を分けて現在まで灯し続けているとのことです。
以上、立石寺の御住職のお話でした。
2012年09月18日 ヤマト紀伊守タケル
延暦寺
雨が降ってたので、霧ってましたが、その中でたたずんでいる建物が一層神秘的に見えました。
2010年09月19日 古楽侍従広家
延暦寺
織田信長の焼き討ちばかりが有名ですが、信長の前に足利義教も焼いてますし、信長が焼いたのは一部で、今もそれ以前の物が残っています。
2010年08月26日 堀久太郎秀政
延暦寺
良いところです!是非とも、お越し下さい
延暦寺の周辺観光情報
延暦寺の周辺スポット情報
根本中堂(遺構・復元物)
文殊楼の遺構(遺構・復元物)
山王院堂-浄土院の遺構(遺構・復元物)
阿弥陀堂の遺構(遺構・復元物)
東塔北谷の遺構(遺構・復元物)
西塔釈迦堂(転法輪堂)周辺の遺構(遺構・復元物)
西塔東谷の遺構(遺構・復元物)
横川恵心堂の西遺構(遺構・復元物)
西塔西谷の遺構(遺構・復元物)
施薬院全宗の碑(碑・説明板)
雲母坂(きらら坂)と雲母橋(碑・説明板)
一乗寺延暦寺山城(一本杉西城)(周辺城郭)
一本杉南の城(周辺城郭)
一本杉南の尾根先の遺構(周辺城郭)
夢見ヶ丘の北東の尾根上遺構(周辺城郭)
夢見ヶ丘城砦(周辺城郭)
夢見ヶ丘城砦の北側の遺構(周辺城郭)
比叡山ホテルの東遺構(周辺城郭)
阿弥陀堂(寺社・史跡)
生源寺(寺社・史跡)
公人屋敷(旧岡本邸)(寺社・史跡)
延暦寺東塔(寺社・史跡)
延暦寺西塔(寺社・史跡)
横川中堂(寺社・史跡)
元三大師堂(寺社・史跡)