衣川城(きぬがわじょう)
衣川城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県大津市衣川2
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 山内義重
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 山内氏
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:溝跡、建物跡)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
木浜城(滋賀県守山市)[4.2km]
坂本城(滋賀県大津市)[6.4km]
芦浦観音寺館(滋賀県草津市)[7.4km]
延暦寺(滋賀県大津市)[7.6km]
壺笠山城(滋賀県大津市)[8.1km]
金ケ森城(滋賀県守山市)[9.0km]
山田城(滋賀県草津市)[10.1km]
宇佐山城(滋賀県大津市)[10.4km]
静原城(京都府京都市)[10.6km]
大津城(滋賀県大津市)[11.9km]
衣川城の口コミ情報
2020年05月10日 小野近江守湖青
今堅田城[衣川城 周辺城郭]
1340年代に堀口掃部介貞祐の築城という湖(うみ)城です。今堅田の湖岸沿いに湖に少し突き出ているような形をとり、三方を湖水に囲まれた要害の地であったと伝わりますが、城郭遺構は明確ではなく、現在では出島(でけじま)として地形や地名が遺っています。城域はスポットの泉福寺さんから出島灯台のあるあたりまでの範囲であったかと推測されます。
堀口貞祐は清和源氏の新田氏の一族で、父の貞満は新田義貞にしたがって活躍した人物です。太平記には、貞祐は堅田に居住し足利義詮の北国落ちの時、後陣にいた京極導誉の子秀綱を討ち取ったという話が描かれています。堀口氏はそののち今堅田に住み泉福寺歴代の住持職をつとめています。
今堅田城のすぐ近くに、各地に伝説の残る(というかその実在性自体がまず伝説ではありますが)勾当内侍のお墓(野神神社)がありまして、新田義貞の都落ちの際に彼女を留め置いた地とされています。何で京でも北陸でも関東でもなく此処だったのかなあ、とずっと自分の中で謎だったのですが、この地が当時新田氏の勢力下にあったというシンプルな理由でした^^;
時代はくだって戦国期には将軍・足利義昭に与した磯谷新右衛門久次と甲賀衆が入城し、織田信長と交戦することに。そして…以下、信長公記 巻六 元亀四年 石山・今堅田攻められ候事 より
「軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。
今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。」
このスタメン四将、贅沢ですね…。明智光秀が、この後の木戸・田中攻めの際の織田信長の役割を果たしているのも興味深いです。
写真は、堅田の(漁)港、出島の灯台(1875設置、1973復元)、今堅田城を中心に琵琶湖の南湖、北湖を俯瞰。
2020年01月18日 小野近江守湖青
真野城[衣川城 周辺城郭]
築城された年代は定かではありません。
佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏の分流が真野氏を称し城主として代々拠ったそうです。
1518年、真野土佐守信重が城主の折には浅井備前守亮政の命を受けた赤尾駿河守清綱の侵攻に、真野城は初めての落城を経験します。(浅井三代記)
1570年の城主は真野十郎左衛門元貞で、六角氏に従って織田信長に立ち向かいますが2度目の落城となります。真野城を脱した元貞はその後、出家して西養坊宗誉と号し、その子孫は江戸期にこの地域を領した旗本神保氏の代官を勤めたそうです。
現代においては、昌法寺の背後にある墓地が城跡とされていますが地形は改変されているようです。それでも、水運、陸運を見渡す高台の南端(赤色立体地図に切り替えるとわかりやすいです)に位置する立地条件は城址に思いを馳せるには(人によっては)充分で、少し離れて俯瞰すると、真野城も衣川城も、南湖と北湖を分ける最狭部に築かれていたことが見てとれます。
2012年08月19日 三河守コーキしゃん
衣川城
周辺は住宅地で石碑は公園にありました。
公園周辺は結構高低差があり、公園の北側も切削地になっていますが、当時の物かは分かりません。