坂本城(さかもとじょう)
坂本城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県大津市下阪本3
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 平城、水城
天守構造
- 連結式[階層不明/1572年築/焼失(落城)]
築城主
- 明智光秀
築城年
- 元亀2年(1571)
主な改修者
- 丹羽長秀、浅野長政
主な城主
- 明智氏、丹羽氏、杉原氏、浅野氏
廃城年
- 天正14年(1586)
遺構
- (発掘調査:石垣、井戸、暗渠、建物礎石)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
壺笠山城(滋賀県大津市)[2.6km]
延暦寺(滋賀県大津市)[3.7km]
宇佐山城(滋賀県大津市)[4.2km]
大津城(滋賀県大津市)[5.5km]
山田城(滋賀県草津市)[6.2km]
衣川城(滋賀県大津市)[6.4km]
芦浦観音寺館(滋賀県草津市)[6.9km]
膳所城(滋賀県大津市)[7.3km]
将軍山城(京都府京都市)[7.4km]
中尾城(京都府京都市)[7.7km]
坂本城の解説文
[引用元:Wikipedia「坂本城」の項目]
坂本城(さかもとじょう)は、近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本)にかつて存在した日本の城。明智光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する平城。遺構は市街地化によりほぼ消滅している。
概要
坂本城は琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから天然の要害を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。
現在城郭跡地の大半は市街地化され、推定地の中央には国道161号が貫通している。
1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの豪壮華麗なものであった[1]。
沿革
元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取」(『永禄以来年代記』)とある。山領というのは延暦寺のことで、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われている。また元亀3年(1572年)12月24日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗していたと考えられる。短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が窺い知れる。また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として意識されていた。
その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指した。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山砦、今堅田砦も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。
天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる(『川角太閤記』)。
その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用された為、遺構はほとんど残っていない。
城郭
坂本城は歴史上重要な役割を果たしていたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていた。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。
水城
天正6年(1578年)1月11日に光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれている。この時の様子は、「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参」(『天王寺屋会記』)と記載されている。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かったようである。従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったと思われている。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫している。
大天主・小天主で構成される高層の天主を中心に城と内堀で囲まれた主郭があり、その西側に中堀で囲まれた曲輪、さらにそれを取り巻くように外堀で囲まれた曲輪があったと考えられる[2]。
発掘調査
1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほとんど注目されなかった。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画されたので、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきている。
1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、10cm-30cmの焼土層が発見された。これは秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと考えられている。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀時代のものと考えられている。
焼土層下部分(明智光秀部分)
焼土層上部分(丹羽長秀以降部分)
- 礎石建物:4棟
- 柵:1条
- 石組み井戸:1基
- 石組み溝:1条
が発見されている。本丸部分で発掘された遺構は、礎石の規模や配列から推察して邸宅遺構の可能性が強く、城主が使用されていた可能性が高いと考えられている。またこの周辺からは、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗の他、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘された。このことより贅を尽くした城内の様子が窺える。また金属製品としては、銭貨、鏡、刀装具、鋲等が出土した。これらの出土物は室町時代後期から安土桃山時代のもと判断された。
- 礎石建物:2棟
- 掘立柱建物:1棟
- 石組み溝:1条
- 石組み溜升遺構:1基
- 石垣
坂本城は後に築かれた大津城、膳所城も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していることなど、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が先行した城ではないかと考えられている。
坂本城址公園
現在本丸跡地は企業(キーエンス)の所有地となり一般人は立入できず、二の丸・三の丸跡地は市街地になっている為、城址公園は城外の当時琵琶湖だった場所(後世の埋立地)に作られており、明智光秀像や歌碑などが設置されている。園内に存在する石積等は公園造成時の物で旧城時代の遺構ではない。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線「比叡山坂本駅」 → 徒歩約10分
- 京阪石山坂本線「松ノ馬場駅」 → 徒歩約15分
- 車でのアクセス
- 西大津バイパス 滋賀里ランプ → 国道161号
- 坂本城址公園に無料駐車場有り
参考文献
- 【書籍】「明智光秀」
- 【書籍】「日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井」
- 【書籍】「城と湖と近江」
- 【書籍】「近江の山城-ベスト50を歩く-」
- 【書籍】「戦国の大津 天下統一の夢 坂本城・大津城・膳所城」
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坂本城の口コミ情報
2022年03月21日 織田上総介晃司
坂本城
坂本城址公園の駐車場の閉鎖が解除され駐車。台数は多く停めれますがバス釣りの方が駐車してるので駐車場の回転率は悪い。
琵琶湖の水位が増えたため本丸の石垣は再び水没。
西教寺と聖衆来迎寺に坂本城移築門があります。
日吉大社のある坂本の町並みには穴太積みの石垣が多く存在します。ブラ散歩するのも良いでしょう。
2021年12月10日 しろちゃん
坂本城
駐車場が閉鎖中で車が止められなかったので、坂本観光案内所で自転車を借りて坂本城跡まで行きました。楽しさ倍増でした🎵御城印も観光案内所にありました
2021年12月05日 八咫烏紀伊守鉄龍
坂本城
10数年ぶりに坂本城の石垣が湖中から姿を現したと言うので見に行って来ました。城址公園の駐車場が、渋滞緩和のため閉鎖されてますので、車の方はご注意ください。
2021年12月04日 鵜乃 左近衛少将 朋征
坂本城
近くの坂本城址公園の駐車場が閉鎖されてました。車で来る方は事前の確認が必要ですね。
2021年12月01日 RED副将軍【新宮党】
坂本城
14年振りに湖中に沈む本丸石垣が出現✨ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどのものでした🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1571年の比叡山焼き討ち後、宇佐山城の城主であった明智光秀に対して織田信長は滋賀郡の支配を命じ、京と延暦寺の抑えと琵琶湖の制海権を目的として坂本城を築城させました。
丹波を平定すると、1580年に亀山城の城主となりましたが、坂本城もそのまま城主として南近江支配の拠点とします。
1582年、本能寺の変後、山崎の戦いで敗れた光秀は勝龍寺城に退き、坂本城を目指している途中で敗死。
その後、丹羽長秀が城主となり、賤ヶ岳の戦いでは軍事上の拠点として使用されました。
その後は浅野長政が城主となったが、1586年に秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城となった様です。
見所
琵琶湖に沈む本丸の石垣。かつて渇水期は確認できましたが近年は水位が制御され困難。滅多に現れません。
現在城郭の大半は宅地化により消失。
まぁ、坂本城の石垣が現れるくらい琵琶湖の水不足が深刻な状態ということです😿
2021年11月22日 つぼすけ
坂本城
琵琶湖の渇水により、14年ぶりに姿を現した坂本城の石垣。『麒麟がくる』の十兵衛も見たであろう景色を堪能しました。
2021年11月18日 別損山城守灼熱994重砲隊
坂本城
場所は県道558号のすき家さんから、約30m大津方向に行きますと、小さな案内板があります。そこのあぜ道を琵琶湖方向に進むと石垣遺構にたどり着きます。坂本城駐車場からは右折し、徒歩約50メートル程であぜ道に行けます。
おそらく、あぜ道など私有地だと思いますご好意により見学可能なので、その辺のご配慮よろしくお願いします。後、石垣には触れ無いようにとのことです。
諸注意を守り、琵琶湖渇水による石垣遺構見学を楽しんでくださいませ。
2021年09月25日 呉竹
坂本城
2020年、大津市の埋蔵文化財センターより、坂本城の屋根が二色の瓦で構成されていた可能性が高い旨、研究成果として発表されている。
(従来、赤色系の瓦は落城時の炎上で黒瓦が褐変したものだとされてきたが、部分的な熱変性ではなく全体が均一な赤色系の瓦が複数確認されたことにより、元々赤色系に作られた瓦が黒色の瓦と共に葺かれていたと推測される、という概要)
同年夏には、市内滋賀里にある市埋蔵文化財調査センターにて、その赤色系の瓦が『歴史ひもとく古瓦』の企画展にて公開されていた。
2021年09月25日 呉竹
坂本城
残念ながら、本丸跡と確認されている範囲と現在の城址公園とは、所在が一致しません。
(本丸城址の大半が道路か私有地である為、南寄りの湖岸側に城址公園を設けたという経緯)
なお湖岸側の石垣は、水利用制限かかるレベルに渇水すると露出します(近年では1994年だったか?)
2021年09月13日 仁左衛門尉友
坂本城
道標があったのであぜ道を行ってみましたが湖岸まで行けません 湖中石垣も見れません。近くの公園に新しい記念碑があります。
2021年08月31日 ともとも
坂本城
坂本城には駐車場ありますが、夜間はロープ貼られて使えません。路肩に一時停止して、見学になります。車に気をつけて下さい
2021年04月04日 太閤
坂本城
当時を偲ばせる遺構などはありませんでしたが、公園のようになっていて、坂本城址の石碑と光秀の石像が置いてありました。駐車場もあり、訪れやすいと思います。
2021年03月08日 修理亮さとぴ~
坂本城
土日祝は、ボランティアさんが解説してくれます。
2021年02月28日 島津図書允義弘
西教寺[坂本城 寺社・史跡]
【データ】
名称:天台真盛宗総本山 西教寺
住所:滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
拝観時間:09:00〜17:00(16:30受付終了)
拝観料:大人(高校生以上) 500円
中人(中学生) 300円
小人(小学生) 200円
駐車場:あり(無料)
【歴史】
西教寺は、聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられており、明智家の菩提寺としても知られています。
信長の比叡山焼き討ちにより、西教寺の本堂等はすべて消失しました。その後、明智光秀が西教寺の復興に力を注いだといわれています。
西教寺には、明智光秀に関連するものがいくつもあります。また、西教寺の総門は坂本城の総門が移築されたものと伝えられています。
【感想】
西教寺には穴太衆が築いた石垣が随所にあり、とてもきれいです。また、伏見城の旧殿を移築したと伝えられている国指定重要文化財の客殿があります。客殿には小堀遠州が造ったとされる庭園や狩野派によって描かれた襖絵があり、なかなか見応えがあります!
【写真】
①客殿(国指定重要文化財)
②禅明坊
③唐門
④総門(坂本城の総門の移築と伝わる)
⑤明智一族の墓
⑥大本坊・本堂・書院の中庭
⑦渡り廊下
⑧大本坊入口
2020年11月30日 Rocky丹波守
坂本城
坂本城址公園はより少し北の臨時駐車場が本丸跡のすぐ近くです。土日祝のみとありましたが平日も開いてました。麒麟がくるをやっている間だけ平日も開いているのかも知れません。琵琶湖の中に大きな石が何個か見られたので石垣だと思われます。ここから歩いて明智塚や坂本城跡の碑があり城の大きさが分かります。全て住宅になっていますが…。御城印は西教寺にありました。
2020年11月19日 イオ紀伊守
森可成墓所[坂本城 寺社・史跡]
聖衆来迎寺には宇佐山城主・森可成の墓があります。志賀の陣の際にこの地で討死した森可成を、敵方にあたる天台宗・聖衆来迎寺の住職が弔ったことから、後の比叡山焼き討ちの際にもこの寺だけは被害を免れたと伝えられています。
2020年11月18日 イオ紀伊守
盛安寺[坂本城 寺社・史跡]
明智寺とも呼ばれる盛安寺は穴太積みの石垣が見事なお寺で、境内には明智光秀の供養塔や位牌が祀られ、光秀ゆかりの陣太鼓が伝えられています。
2020年11月18日 イオ紀伊守
西教寺客殿[坂本城 遺構・復元物]
大谷吉継らにより伏見城の旧殿を西教寺に移築したもので、桃山御殿と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。客殿庭園は小堀遠州の作庭です。
2020年11月17日 イオ紀伊守
西教寺[坂本城 寺社・史跡]
天台真盛宗総本山・西教寺は織田信長の比叡山焼き討ちにより全焼しましたが、明智光秀が坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建するなど復興に努めたことから、大本坊(現在の建物は昭和に改築されたもの)には光秀と妻・熙子の位牌が安置され、境内には光秀と明智一族、熙子の墓、妻木一族(熙子の実家)の供養塔が祀られています。
また、書院の隣には明智光秀公資料室が設けられ、光秀が寄進した坂本城の陣鐘(非公開)、戦死した家臣を弔う光秀直筆の供養米寄進状、光秀所持と伝わる硯箱、明智秀満の湖上渡りの際の鞍と鐙など、ゆかりの品が収蔵されています。
その他、総門は坂本城から、客殿は伏見城からの移築されたもので、客殿庭園は小堀遠州の作庭によるもの。大河ドラマ放送期間は西教寺内の禅明坊光秀館でびわ湖大津「麒麟がくる」展と近江の光秀ものがたり展が同時開催されています。
2020年10月08日 まー刑部卿
坂本城
坂本城址公園は石像を観に行かれる場合でしたら良いですが湖面の石垣を観るにはすき家の対面にある旧病院の駐車場が無料で開放されています。(9:00〜17:00)
今回は歴史好きなシルバー人材センターの方とお話しさせて頂きました。
2020年09月24日 天道民部卿早雲
坂本城移築門[坂本城 遺構・復元物]
天台宗聖衆来迎寺の表門が坂本城の移築門とのことです。
2020年09月21日 戦国一番星
坂本城本丸石碑[坂本城 碑・説明板]
本丸跡に残る建物入口(ゲート)横に草に隠れた本丸跡石碑発見!
2020年08月29日 MACHT征夷大将軍
坂本城
麒麟がくる再開記念もあって久しぶりに登城。今回、臨時駐車場として使われている辺りが当時の本丸で、城址公園になっているところは当時は湖だったので、戦国時代に想いをはせたい場合は本丸の湖側を重点的に散策するのがいいかも。後は本丸から西に150mほどある城碑、旧道沿いの石碑、明智塚等を見ながら想像をどれだけ膨らませることができるか。
2020年08月19日 かわっく大炊頭
坂本城
遺構は少ないのですが、湖畔に立って思いを巡らせるだけで楽しいです。
坂本城御城印もテンション上がります。
2020年08月05日 鵜乃 左近衛少将 朋征
坂本城跡公園駐車場[坂本城 駐車場]
坂本城跡とありますが、推定されている坂本城の南側の城外になるそうです
公園内には、明智光秀の石像や説明看板等があります
ここから坂本城跡の碑や明智塚等をみに散策するのも良いかと
2020年04月05日 課長大和守side-B
志津ヶ池[坂本城 遺構・復元物]
明智光秀が茶の湯に供したという霊水がこの地に湧いていたようです。…現在も湧いているのでしょうか?
ちなみにこちらの遺構は歩道の無い結構交通量のある県道沿いにあるので、訪問の際はご注意下さい。
2019年12月29日 【鮎】征夷大将軍クララ姫
坂本城
【グルメ情報】
大河ドラマで令和2年は、観光客も増えそうな坂本城。城下の国道161号線にある『炭火焼豚丼 信玄』さん。美味しい豚丼などがガッツリいただけます。量も多く、食が細い方は(ご飯少なめ)で。
2019年05月05日 龍馬備中守【】
坂本城
城主・明智光秀の城郭☆近江付近の反信長に対する重要な軍事施設☆大津市の北郊に位置☆比叡山の物資輸送の為に港町として坂本は交通の要所として繁栄☆
2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
坂本城
駐車場あり。
ここは釣りスポットになっていて、城の観光客はあまりいないですね。
駐車場も釣り客にほぼ占領されています。
2016年01月16日 シバヤン近江守雲外蒼天
坂本城
JR比叡山坂本駅から南へR161へつきあたり三叉路を右へここまで歩いて10分くらい、
曲がってから国道沿いに歩いて15分位で藤ノ木川をわたりマクドナルドをこえてエネオスのスタンドから暫くいたら坂本城跡に到着。駐車場あります、20台程度。ベンチと明智光秀像、記念碑ぐらいしかありません、物足りなくなって川沿いの国道の反対側へ入って行くと坂本城跡碑ありました。しかし石垣が見たい私は、さっきのマクドナルドのドライブスルーの一番奥に行き湖岸へそしたら僅かながら湖岸沿いに当時の
おもかげのある石垣の跡を見つけました。
また戻って藤ノ木川沿いに湖岸へ続く道を進んだらまた河口に石垣と思われる跡を発見。明智光秀と言えば有名ですが、ルイスさんも素晴らしいと謂われた城がここまで跡形が残っていないのは大変寂しいと感じました、本当に(T^T)。地元の方、実力者他の明智光秀さんをお慕いする方々もう少し遺構を復元、再現、保存を切にお願い致します。琵琶湖から湖風、湖面の水鳥が唯一の慰めでした。
2013年03月10日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
坂本城
大津市内から湖岸沿いの国道161号線を北上したらあります。
城址公園は約10台程度駐車可能(無料)
道路の反対のクロネコ○マトさんの脇を通る水路沿いの道を進んで行くと城址碑があります。
説明板によると実際の本丸は公園より更に北側で、公園のある地域は城外(当時は湖!?)だった模様です。
2010年09月13日 古楽侍従広家
坂本城
渇水の時のみ現れる遺構があり、水城のロマンを掻き立てます。
2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
坂本城
[武将像]明智光秀像
琵琶湖岸の城跡に鎮座。
坂本城の周辺観光情報
坂本城の周辺スポット情報
志津ヶ池(遺構・復元物)
本丸石垣(遺構・復元物)
明智塚(遺構・復元物)
西教寺総門(坂本城遺構)(遺構・復元物)
坂本城移築門(遺構・復元物)
外堀跡(遺構・復元物)
西教寺客殿(遺構・復元物)
明智光秀像(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
石垣見学ルート入口(碑・説明板)
城碑(碑・説明板)
明智光秀と一族の墓(碑・説明板)
坂本城本丸石碑(碑・説明板)
三津浜(碑・説明板)
石碑(碑・説明板)
雄琴城(周辺城郭)
西教寺(寺社・史跡)
森可成墓所(寺社・史跡)
酒井神社(寺社・史跡)
盛安寺(寺社・史跡)
足利義晴供養塔(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
坂本城跡公園駐車場(駐車場)
臨時駐車場(駐車場)
生源寺の古鐘鐘楼(関連施設)