堅田城
堅田城([衣川城 周辺城郭])
衣川城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「堅田城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
堅田城の口コミ情報
2024年09月01日 血圧高い系男子RED副将軍
琵琶湖の湖上交通を掌握していた自治都市の本拠地
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。古くから堅田は琵琶湖の湖上交通を掌握していた自治都市であったとされます。
1090年には下鴨社の御厨が置かれ、御膳料として鮮魚を献上する代わりに諸役が免除。下鴨社の庇護を受けていました。
その後、延暦寺横川の荘園にも組み込まれ、下鴨神社と延暦寺の権威を背景に湖上交通の特権を持ち、守護や国人領主の支配を排除。
堅田城を拠点に、殿原衆と全人衆の合議制による運営がなされ、「宮座」と呼ばれる独立した自治組織により繁栄したとされます。
しかし1570年に織田信長の攻撃を受け降伏。堅田の自治は終焉し織田信長に属します。その後の志賀の陣では織田信長に敵対する朝倉氏からの攻撃を受け、堅田は織田方大将の坂井政尚が戦死するほどの激戦地となりました。
その後、天下統一をした織田信長と豊臣秀吉はいずれも堅田の経済的特権を追認しています。
1698年には堀田正高が下野国佐野から入封し堅田藩が成立。堅田城跡に陣屋を構えました。
1826年に堀田正敦は再び下野国佐野に転封となり堅田藩は消滅。その後は天領となりました。
見所
現在も伊豆神社の境内となり、景勝地である浮御堂満月寺の北側一帯に築かれていました。
堀や舟入は埋め立てられてしまいましたが、伊豆神社の東側に舟入遺構の案内板が設置されており、「西ノ切」「宮ノ切」などの地名と張り巡らされた水路が往時を偲ばせます。
近くの浮御堂と併せてご訪城ください。