金ケ森城(かねがもりじょう)

金ケ森城の基本情報

通称・別名

金が森城、金森城、金森御坊

所在地

滋賀県守山市金森町

旧国名

近江国

分類・構造

城郭寺院

天守構造

なし

築城主

川那辺氏

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

川那辺氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

芦浦観音寺館(滋賀県草津市)[2.2km]
山田城(滋賀県草津市)[5.6km]
木浜城(滋賀県守山市)[5.7km]
多喜山城(滋賀県栗東市)[5.7km]
桜生城(滋賀県野洲市)[5.8km]
青地城(滋賀県草津市)[6.1km]
永原城(滋賀県野洲市)[6.4km]
小堤城山城(滋賀県野洲市)[7.2km]
衣川城(滋賀県大津市)[9.0km]
坂本城(滋賀県大津市)[9.1km]

金ケ森城の解説文



金森(かねがもり、金ヶ森とも)は、滋賀県守山市の集落地名。寺内町の初期形態として著名。

位置 

旧野洲川氾濫原の微高地に位置する。中世には、東山道から琵琶湖の志那浦へ通じる志那街道が集落内を通っていたことから宿駅の役割を持ち、交通上重要な位置にあり栄えた。

古代の金森 

現在、町内の金森遺跡と金森東遺跡(ともに弥生時代~平安時代)から集落や井戸跡と方形周溝墓、土錘や土器などが出土していることから、早くから人間が居住していたことがわかっている。市内最大の箱庭古墳(前方後円墳か帆立貝式古墳 全長45m以上)があることから、力ある首長の存在が予測されている。

7~8世紀以降、周辺には北東から南西に向かって条里制がひかれ、金森も条里集落の一つであった。また、壬申の乱における「安河浜の合戦」の主戦場を金森付近に比肩する説もあり、注目されている。

平安時代には天台宗の影響が強く、仁願寺や興満寺という寺が勢力を持っていた。また、郡衙に関係する役人として川那辺氏が移り住み、地域の土豪として金森城を擁して指導的役割を果たすようになっていく。

寺内町としての金森 

14世紀に金森を支配していた川那辺厚春が本願寺五代目法主の綽如に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信仰の基軸を大きく変えていった。その子川那辺在貞の時代には金森惣道場が開かれるにいたり、さらにその子川那辺矩厚は、存如に帰依し道西と名乗るようになった。金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保存)には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られることから、金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった寺内町の初期的形態である、ということができる。現在も周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名が残されている。当時、二百軒を越える集落であった。

寛正6年(1465年)、比叡山僧兵による「寛正の破却」によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は、高弟であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森合戦といい、史上初めての一向一揆である[1]。文正元年(1466年)11月には「報恩講」を勤修した。蓮如は文明元年(1469年)には対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成された。

後に飛騨国高山城主となる金森長近は天文10年(1541年)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗っている。

戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城としての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点となっていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・比叡山焼き討ちの直前に、元亀2年(1571年)6月から9月にかけて反抗した。金森には近在の村々から一向宗徒が集結したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の佐久間信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先した信長と一時は人質を交換して和睦した。しかし、翌元亀3年(1572年)には信長は近在の百を越える村々が「金森・三宅への出入や荷担をしないよう」という起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年、信長によって楽市・楽座の制札が与えられ、以後宿駅・市場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時代に、琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の役割が薄れ、金森も衰えた。

江戸時代の金森 

江戸時代の金森は旗本水野領となった。石高は855,7石。

現代の金森 

守山市金森町として、本郷・城之下・上代・川向・信楽の5地区を有する自治会として活動している(約450世帯)(かつての寺内町は本郷地区)。また、金森山柿(約70世帯)は自治会として独立している。金森川と案内川河川公園で、ゲンジボタルの保護活動と絶滅が心配されているハリヨ育成活動が行われている。

近年、自治会内を南北にくすの木通り(市道古高川田線)が通った。さらにJR守山駅から市道泉町金森線がくすの木通りを通過して滋賀県道42号草津守山線(湖南街道)まで東西に横切り、交通の便が格段に向上した。また県・市の区画整理事業の対象となっており新たな住宅地の建設が続いている。医院、スーパーマーケット、県立守山中学校、市立守山南中学校、県立守山高等学校、立命館守山中学校・高等学校、守山市民ホールなどが近接している。

文化財 

  • 懸所宝塔(重要文化財)
  • 庭塚古墳(前方後円墳)-全長約50メートル 市内最大
  • 金森遺跡-弥生時代~平安時代にかけての、集落・墓跡。

地場産業 

  • 金盛酒造(有)  清酒・金盛

金ケ森城の口コミ情報

2023年11月02日 そらみつ能登守
金ケ森城

お寺です。道が狭く駐車場も余り広くないのでご迷惑にならない様に気を付けて下さい。

2023年09月22日 釆女正佐吉。
浮気城[金ケ森城  周辺城郭]



良い子のみんなーー!元気にしてた??
なーに?「...別に」?
...うん、そんな気分の日もあるよね。エリカ、分かる。

エリカ、松ウラ会長がロールスロイスで迎えに来てお寿司食べに行ったじゃん?その後続きで「元亀争乱450年」攻略にも行ったのね。でね、金森御坊を攻略して次の目的地三雲城へ向かったの。そしたらね、走りながら反対側に土塁が見えたのっ!もう、ホントに道路沿い!えっっ…土塁っっ…!?って反応して、エリカぐーぐる大好き🫶だから検索したのね。
そしたら、浮気城跡って書いてあるじゃん?ウワキ?ないよね〰️。え、フケ城?フ〰️、ケったいな名前ウケるwww
とりま、お城と分かれば戻るよね。エリカ、平城だいすき🫶

県道11号線を西に向かって、緑が切れた場所を左折。ロールスロイスだとかなり狭いけど、運転手さん気合っw
で、駐車場なんだけど... 道は細いし住宅街だし駐車場は無さそうだった〰️でも、入ってきた道の行き止まりにゴミ集積場があって、車1台くらい駐車できるスペースがあったから、停めたの。でも多分ゴミ収集車が停める場所だから自己責任だよぉ。 県警のフケいさんに駐禁貼られてもエリカ、知らな〰️い。

でね、そこから歩いて1分でお城だよ??? 土塁、高いところは2~3mくらいだよ???そんな土塁を目の前にしたらエリカ「すごいやん!」って声出たよね。何で大垣弁?とか聞かないで。何がすごいの?とか聞かないで。熟しまくったエリカ、白のふわっふわのキャミワンピ着てたし蚊に刺されまくったし聞かないで。でも、幹線道路沿いで住宅密集地にこんなに残りがいい土塁、エリカ知らない!

エリカこの日はポチだけのつもりだったから、バイブル「近江の平城」はフケい帯だったの〰️だから、お家に帰ってからお勉強したの。バイブル、埃被ってたよ。アハw
で、バイブル読んで貰えばいいんだけど、それだとただ「エリカ、ロールスロイスで浮気城行った日記♡」になっちゃってイヤミっぽいから、少しだけ書いてみるね🫶 運営さん、ここまで削除しないで!油断してるとゴッソリ削られちゃうんだから!マジだよw

城主は浮気さんで、佐々木六角さんに仕えたあと、信長さん秀吉さんに仕えたんだって。
でね、このフケっていう言葉は、水が浸かりやすい場所や水が浸かった状態を指すんだって。で、地名もフケ町だから、この辺りは野洲川の氾濫を蒙りやすい場所だったんだって〰️だからね、境内の土塁は、集落を水から守る堤としての役割を担ってた可能性があるんだって。 だってだって。

どゆこと??つまり、敵からの守りってよりは自然相手の堤防的要素が強い土塁てコトかな??
他にも色々書いてあるけど、あ〰️ん難しい! みんな、バイブル読んでっ!ちなみに、主郭は土塁から見て南西方向にあったみたい。今は住宅地だよ〰️

みんなも元亀争乱攻略する時は浮気城行くといいよ〰️
え〰️?もう終わらせちゃったの?
でも大丈夫!11月19日の「出張!お城EXPO 」野洲市の会場から車で10分。
目当ての異名が出なかった…ってフケい気な顔して物思いにフケってるとフケん康だしフケちゃう!EXPOフケて、フケ城に行くしかないじゃん☆ 閉演後の夜フケに行けばいいよ!って、それはフケん全だしフケん識だよぉ!日の光を浴びてエリカと土塁の上で口笛フケばホラ、城主気分だよっ!
フ〰️、ケっこう連呼したっ!エリカがんばった!これだけ連呼すればもう読み方覚えたよね?ね?ね?

ところで、滋賀県知事は城めぐユーザーだから、きっと歴史やお城が好きなんだよ〰️!てことはぁ、滋賀県が第2の岐阜県になる可能性大だよね??
エリカ様、何が言いたいの?って!
今後も毎年滋賀県で地域限定城めぐりが行われるんじゃない?て話なの。
滋賀県には1300以上お城があるらしいじゃん?だから岐阜みたいに「また可児?」「また岐阜城?」「また関ケ原?」なんて眉をひそめちゃう事も当分無いんじゃない?
エリカ的には、来年は大河に絡ませて、大津で開催してほ・し・い・な🫶

「エリカ様、可児へ行くのカニ?」
「ううん、エリカ、野洲へ行きヤス!」

2023年08月30日 尼崎城駿河守一口城主
金ケ森城



7月30日、守山駅から進軍。道中、金森湧水公園(写真①)があったので立ち寄ってみました。金森町の案内(写真②)があり、その中に金森御坊の案内(写真③)もありました。暑い日だったので湧水(写真④)を頂き再出発。湧水公園からGマップを頼りに道中細い路地を通りながら進むと10分弱で金森御坊跡に到着(写真⑤⑥⑦)
「金森」聞き覚えのある名前だなと思っていたら、当地に金森長近公が18歳までいたとされると説明板に載っていました。長近公は去年も福井の限定巡りで越前大野城で銅像とお会いしたことを思い出しました。
※私事ですが当地にて元亀争乱の地域限定巡りを制覇。限定姫のお鍋の方が野洲郡ゆかりの方であることと限定巡り中に複数の城址から見えていた野洲の近江富士の三上山山頂でお鍋の方を登用しようと酔狂なことを思いつき三上山に登ってきました。三上山山頂から金森城城下町も撮ってみました(写真⑧)上から眺めたところ金森城下町は琵琶湖も近く、水運ネットワークに恵まれた城下町に感じられました。

2023年08月14日 鈴木剛
立入城[金ケ森城  周辺城郭]



立入氏の居城、文明年間(1469年~1487年)頃に松田秀興(立入秀興)築城。宗康の代に朝廷の禁裏御倉職の地位に就き、以降一族で世襲、宗継は正親町天皇の勅使として織田信長に上洛を促した人物、後織田氏と朝廷の仲介役として活躍、時代祭の安土桃山時代の先頭に出ています。新川神社を北端に集落全体が城跡と考えられ主郭部は3方を土塁に囲まれた方形の居館だったと推測されている。神社の西は空堀、東は堀跡の水路と考えられているそうです。近年迄土塁や櫓台跡が存在したが、今は住宅地となって消滅しつつあるようです。

2023年08月13日 鈴木剛
焔魔堂城[金ケ森城  周辺城郭]



この辺りにある十王寺に閻魔大王の像が安置されていることで鎌倉時代から閻魔堂の地名で呼ばれているそうです。城の詳細は不明だそうですが、城之浦や新替(城跡を田に替えたと言う意味らしい)という地名が伝わっていたり、中世の土器片が出土しているそうです。以前は田んぼがあったようですが、今は完全に住宅地になっています。消えた城跡の一つになるようです。

2023年08月13日 鈴木剛
勝部城[金ケ森城  周辺城郭]



1492年~1528年頃に永原筑前守重頼が築いたと言う、織田信長上洛後には稲葉伊予守良通や佐久間信盛が在城し、金ヶ森御坊との抗争の拠点の一つだったそうです。今は神社の周りを川が流れていて、神社の城跡部は草むらになっています。碑や説明看板等はありません。

2023年08月08日 ヒロ
金ケ森城

車で行く時は道が狭いので注意です⚠️気をつけて下さい。

2023年07月18日 鵜乃 左衛門督 朋征
金ケ森城

少し入り込んだところにあるので、わかりにくかったです

2023年02月09日 RED副将軍
金ケ森城



蓮如上人ゆかりの城郭寺院🏯
金森長近の出生の地

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。歴史はかなり古く、平安時代に京都の中央政権により送り込まれた川那辺氏により築かれたと云われます。
1182年には木曽義仲により攻められ焼失した様です。
室町時代には、川那辺氏は浄土真宗に帰依し善立寺を開基。
1465年、比叡山により追われ京都山科本願寺から脱した蓮如上人を金ケ森城に迎え、比叡山の僧兵との金森合戦が勃発しました。この戦いが全国各地で広がる一向一揆の始まりとされます。
この頃に集落全体に土塁や堀を巡らせた城郭寺院に改修されたと見られます。
1571年、石山本願寺と争う織田信長に対して一揆を行い、金森の戦いが起こりますが人質交換により和睦。
しかし、翌1572年に織田信長は金ケ森城へ肩入れをしないことの起請文を周辺に発したことにより寺内町であった金ケ森城は衰退。やがて佐久間信盛の所領となり廃城となった様です。
織田信長と豊臣秀吉に仕え、飛騨高山藩主の金森長近はこの地の出身で、織田信長に士官した際に金森の地名を姓としました。

見所
周囲は住宅街となり城郭遺構は消失していますが、今でも善立寺の境内となっています。
近くに碑と説明板が立っています。

2022年06月05日 織田上総介晃司
浮気城[金ケ森城  周辺城郭]

現在城跡に建つ住吉神社には駐車場は無く、付近の道路も狭いです。住吉神社から程近いコインパーキングに停めました。(リア攻めマップ参照)

六角氏の家臣・浮気氏の居城で、六角氏が織田信長によって滅ぼされると以後織田氏、豊臣氏に仕える。信長が金森御坊の一向一揆衆と対峙した際、拠点のひとつとして利用したと伝えられる。

浮気城は「うわき」ではなく「ふけ」と読みます。どちらも良いイメージではありませんが…

2022年04月06日 RED副将軍
浮気城[金ケ森城  周辺城郭]



鎌倉の北条氏の流れを汲む浮気氏の居城。
意外にも近江に北条氏関連の城郭があります。

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

浮気城(ふけじょう)と読みます。
ガーシー砲やセンテンススプリング的な要素はございません。

築城年代は不詳。鎌倉時代に浮家時房により築城されたと伝わります。
浮家氏は北条時綱の時代に浮家を領して名乗ったのが始まりと云われます。
南北朝時代には後醍醐天皇に仕え、その後は佐々木六角氏に仕えていましたが、織田信長により六角氏が滅ぶと、織田信長に従いました。
1570年頃は、信長と対立する本願寺の一向一揆勢力や朝倉氏に対する拠点として機能していた様です。
本能寺の変後も豊臣秀吉に属し、世渡り上手でありました。

見所
現在は住吉神社の境内となっていますが、西側から北側にかけて土塁と空堀が残ります。
城郭の一部しか残存していませんが、相当な大きさの城郭であったと思われます。

2021年07月13日 北風
金ケ森城



JR守山駅からほど近い江戸時代からそのままのような市街地は、例によって普通車では心許ない狭く曲がりくねって、塀や民家の外壁が迫っています。城跡の雰囲気も人通りの賑わいも感じられません。広い街路からの道案内はお寺さんの石碑です。

2021年06月26日 ken右近衛少将
浮気城[金ケ森城  周辺城郭]

今は住吉神社が建ち、お社の裏手に土塁跡が見られます。

2020年09月15日 あんせい近江守
守山城[金ケ森城  周辺城郭]



城域には現在、大光寺・守膳寺・守山幼稚園があるとのこと。写真は大光寺に見られる石積み。

2020年02月12日 課長大和守Ver.B
三宅城[金ケ森城  周辺城郭]

金ヶ森城の出城として一向宗徒の拠点となっていた地で現在は蓮正寺となっています。
今でも周囲を取り巻く土塁や空堀などが見られました。
駐車場が無いので周辺のパーキングか公共交通機関の利用が良いと思います。


2012年08月19日 三河守コーキしゃん
金ケ森城

近くに川や水路がありますが、城域は住宅街になっていて完全に消滅してます。

金ケ森城の周辺スポット情報

 金ヶ森城(碑・説明板)

 蓮如上人杖堀池(碑・説明板)

 三宅城(周辺城郭)

 浮気城(周辺城郭)

 守山城(周辺城郭)

 千代城(周辺城郭)

 勝部城(周辺城郭)

 焔魔堂城(周辺城郭)

 立入城(周辺城郭)

 善立寺(寺社・史跡)

 金神神社(寺社・史跡)

 金森城(寺社・史跡)

 辻遺跡(寺社・史跡)

 下鈎遺跡 導水施設遺構(寺社・史跡)

 下鈎遺跡(寺社・史跡)

 金森遺跡井戸(寺社・史跡)

 中沢遺跡(寺社・史跡)

 下長遺跡(寺社・史跡)

 コインパーキング(駐車場)

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