和田城(わだじょう)

和田城の基本情報

通称・別名

所在地

滋賀県甲賀市甲賀町和田

旧国名

近江国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

和田氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

和田氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(和田城跡)

再建造物

周辺の城

福地城(三重県伊賀市)[5.1km]
佐治城(滋賀県甲賀市)[6.9km]
甲賀郡中惣城館(滋賀県甲賀市)[7.3km]
柏野城(三重県伊賀市)[7.4km]
望月城(滋賀県甲賀市)[8.3km]
土山城(滋賀県甲賀市)[9.0km]
鹿伏兎城(三重県亀山市)[10.9km]
水口岡山城(滋賀県甲賀市)[11.0km]
水口城(滋賀県甲賀市)[11.7km]
黒川氏城(滋賀県甲賀市)[13.3km]

和田城の解説文

和田城(わだじょう)は、滋賀県甲賀市甲賀町和田字棚田にある山城。

歴史
甲賀武士の自治組織である甲賀郡中惣の構成員、和田氏の居城だ。応仁年間(1467~1469)に和田左京大夫が砦を築いたとされる。

和田氏は源高政を祖とする一族だ。六角氏に仕えていた18代・和田惟政は織田信長の家臣となり、後に高槻城主となって活躍した。

和田城の北方にある公方屋敷は、室町幕府第15代将軍・足利義昭が永禄8年(1565)に興福寺を出奔した後、約2年間和田氏を頼って亡命生活を送った屋敷と伝わる。

遺構
和田川に突出する独立した丘陵の西端、標高243.5m地点に築かれている。甲賀の城は丘陵の先端に築かれる傾向があり、それよりも後方の高い山には築かれないのが特徴だ。和田城も同じように、丘陵の先端に築かれている。

甲賀の城によくみられる、曲輪の周囲に土塁をめぐらせた、小規模な単郭構造の城だ。土塁は北辺が低く、西辺はやや高い。東辺の土塁は三角形の幅広な平面になっており、櫓台だったと考えられる。南辺は2段の土塁が築かれ、その外側は堀切で背後を分断している。主郭西側には腰曲輪が、主郭北東側には帯曲輪がある。

和田城の周囲には和田支城Ⅰ、和田支城Ⅱ、和田支城Ⅲ、殿山城など、土塁で囲まれた単郭の小規模な城がある。それぞれ単体で機能するのではなく、連動して機能していたようだ。

交通
JR草津線油日駅から徒歩で約20分

参考文献
『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年。
『図解 近畿の城郭Ⅳ』戎光祥出版、2017年。

文:萩原さちこ

和田城の口コミ情報

2021年10月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
池田坊谷城[和田城  周辺城郭]



辿り着けなかったお城シリーズ〜甲賀編

池田坊谷城は和田城の北西約3.4km、標高約222mの丘陵上平場に主郭が存します。東麓の舗装路からの比高は15m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは東麓に建つ一般住宅南側の畑から主郭東側を目指すものと、北麓(西方へ林道が延びている。)から連郭式の縄張、最下段郭北側虎口を目指すものとがあります。

築城年代は不明ですが、築城者は池田氏で、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ。大伴姓(伴氏)の後裔とされています。

この池田氏関連のお城としては、池田東城を本城とし、池田西城、池田坊谷城をその支城として考えるのが常説となっていて、池田坊谷城はその支配領域の南辺を守るものだったのでしょう。が、街道筋からは奥まった場所に立地していて、必要なんかと言われれば必要無いような気がするので、一族の誰かがこの周辺地域を所領として持ち、その居館城として機能していたようにも思えます。

お城は…行ってないので知らんがな…最初は一般住宅南側の畑から登城しよかと思いますが、ちょっと厳しい感じのおっさんが作業していて取り付く島も無い…諦めて一般住宅北側の林道から登城しよかと思いましたが、虎口からはちょっと頑張れない感じの藪だったので諦めました。が、冬枯れしそうな藪ではあるので季節によっては意外と楽かもしれません。

縄張図を見ると主郭は単郭方形の土塁囲みですが、城域は3つの郭を持つ連郭式の縄張でして、この地方のお城としては珍しい部類に入ると思います。行軍に疲れが出て来たのかすぐに諦めちゃいましたが、後に続く変態は冬の時期に畑を避けて訪ねましょう。

※写真は連郭最下段郭北側に設けられた虎口です。今思えば頑張れたかなぁ…

2021年10月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
池田西城[和田城  周辺城郭]



池田西城は和田城の北西約3.9km、標高約220mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の八田組大日堂を目標に設定して下さい。このお堂に通じる道の途中にお城が存します。

築城年代は不明ですが、築城者は池田氏で、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ。大伴姓(伴氏)の後裔とされています。甲賀郡池田郷を本貫地とする宇多源氏佐々木氏庶流の池田氏とはどうやら関係が無いようです。

お城は主郭を単郭方形土塁囲みとした縄張ですが、周囲に若干の広がりを持っています。特に八田組大日堂の周辺地形は怪し過ぎるので、城域に含まれなくとも何らかの、屋敷等の施設が建っていた可能性は否定出来ないと思います。又、城域外東側、直近に存する池田東城との間にある丘陵鞍部は堀之内の地名が地籍として残っており、地形図を見れば一目瞭然ですが、何となく居館跡の趣きがあったりもします。主郭は謂わゆる頑張れない藪でして土塁から下りて行く気が全くしませんが、下りても何かを見出すのは難し過ぎるでしょう。

ネットで拾った縄張図には池田東城と池田西城が纏めて記載されているのですが、この縄張図の周辺地形、東城と西城の位置関係が現地と照らし合わせても地形図と照らし合わせても全く理解不能…明らかにおかしい…更に輪を掛けてGoogleマップは例の如く混乱の極み…間違ってます(おいらが間違ってるのか?そうじゃないはず…)。もっとすんなり進む筈だった甲賀絨毯爆撃リア攻め攻軍ルートでしたが、現地で錯綜を招くため常に確認作業に追われる事態に、この時間の方がリア攻め時間より長くなる事もしばしば…

慣れない土地での関東者ぼっちリア攻めは考えもしてなかった障害に悩まされました。事前勉強しててもこの始末…すっきりしないお城は最低2回は訪ねる事が必要っすね。ちなみに池田東城の方は何の関係も無い雑木林を探索してましたわ…

2021年10月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
青木城西城郭[和田城  周辺城郭]



青木城西城郭は和田城の北西約3.0km、標高約226mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します。東麓の滋賀県道775号線からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東北麓の正覚寺を目標に設定して下さい。到着したらお寺さんの西側、滋賀県道775号線に出て南西方向の丘陵部に目を向けます。すると虎口を隠す大きな遮蔽土塁が自己主張してますので此処へ向けて適当直登しましょう。たぶん私有地(城域もそうでしょう。)を通る事になりますが…

築城年代は不明ですが、築城者は多喜氏で、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ、大伴姓(伴氏)の後裔とされています。

お城は前述の遮蔽土塁にまず圧倒されます。ただクセが強いので逆に虎口の位置を明かしているようにも感じます…主郭は謂わゆる単郭方形ですが、縄張自体は南北に広がりを持っています。主郭の北側、城域東辺には横堀と土塁が設けられている他、主郭の南西側には別郭への虎口を兼ねる堀切が確認出来ます。

青木城関連のお城ですが、此処でもGoogleマップがおいらを苦しめる…もはや間違った情報は弊害でしかないっすわ…位置登録の難しさは理解出来るけど、明確な目標が無い事が多いこの手の情報は間違いに気付いたら削除して欲しいもんです。お城自体は凄く楽しめるので勿体無い…

ちなみに藪蚊の聖地です。甲賀遠征までの過去におけるリア攻めの中で最も蚊に刺されたのは意外にも東京都八王子市にある片倉城の藪ですが、この片倉城の藪蚊度指数を100とした場合にこのお城の藪蚊度指数は150位…写真撮影中に身体に5、6匹の藪蚊が常に群がります。秋以降に訪ねましょう…

2021年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
青木城東城郭[和田城  周辺城郭]



青木城東城郭は和田城の北西約2.9km、標高約206mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します(自分の主観、リア攻めマップのスポット位置もこれに準ずる。)。北麓の舗装路からの比高は10m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西北麓の正覚寺を目標に設定して下さい。お寺さん南側背後の丘陵頂部が城域とされています。取り付きは斜面を適当直登して下さい。

築城年代は不明ですが、築城者は多喜氏で、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ、大伴姓(伴氏)の後裔とされています。

さて、実に困っちゃったお城になりました。正覚寺の南側背後の丘陵頂部が城域と書きましたし、多くのブログもそれに準じています。だけどちょっと挑戦してよいでしょか。この丘陵頂部は城域のほんの一部でしかないように思うんです。改変を含んでいるとは言え主郭を置けるような面積は無いし、甲賀の城館としては物凄く違和感を感じる…ありっ?(なんすかね、お城として成り立たない気がするのさ〜)って感じです。本当にそうなのかなと思って丘陵頂部から南側、更に西側に探索範囲を広げたんですが、結果的に丘陵頂部を外郭の一部とし、その西側にある丘陵鞍部を主郭の位置とするこの地方に典型的な凹地形のお城なんじゃないかと…色々説明すんのは面倒ですし、現況と直感(大抵外す…)から導き出された答えなので疑問としときますが、写真から皆様の心眼で判断して下さいまし。

行政側の捉え方も間違っている事になりますが、甲賀の城館研究はその城館数の数からか繁雑で置いてかれてる部分が多々あるように思えます。何がしかの一級資料をお持ちの方は是非伝言下さいまし。

※写真は主郭と判断した平場の周辺のみ、丘陵頂部は外してます。

※多喜氏の城館でよく見掛ける円形土塁は甲賀では結構あるんでしょか。萌えまくりなので円形土塁情報も待ってます…

2021年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
多喜城[和田城  周辺城郭]



多喜城は和田城の北西約2.1km、標高約219mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東北麓の金乃比羅宮を目標に設定して下さい。金乃比羅宮南側の舗装路を西方へ150m位進むと左手にたぶん埋蔵文化財を示すコンクリート製の標柱が立っていますので、此処から南側へ延びる道を使って取り付きます。登り始めると墓地を抜けて2分位で城域に入る事が出来るでしょう。

築城年代は不明ですが、築城者は多喜氏で、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ、近江伴氏四党、大伴氏(伴氏)の後裔とされています。

甲賀は城館数が多く、細かく区分されている事も手伝って一度訪ねただけでは理解出来ない事態に陥る事が多いです。多喜城も立派にその一つでして、周辺直近には多喜北城、多喜南城が存します。多喜城は以前に多喜北城の名称で呼ばれていて、新たに南西約0.2kmの位置に多喜北城が追加されました。自分も初めて訪ねた際に混乱してしまい、結果的に城域の一部をかすめただけという事態に…

お城は素晴らしいです。主郭は謂わゆる単郭方形ですが、縄張はそれに留まらず周囲に広がりを持っています。主郭の北側には虎口を兼ねる堀切で分断された郭を持ち、特に東側の郭は三段の段付き、西側の郭は櫓台と思しき高まりも確認出来る他、西端部は段郭として下っていきます。主郭は北側に虎口が付き、周囲を前述の郭の切岸と高土塁で囲みます。又、主郭の南東側は大堀切でぶった斬り、更に南東へ向けて城域が広がります。初回訪問時は別ルートからこの南東方向への広がりしか見ていなかった事に今回気付きました。

事前勉強をしっかりしときましょう。情報の少ないお城ですが、甲賀の城館としては比較的ある方だと思います。が、情報発信者の捉え方次第でこれら(城館の名称、位置等…初回訪問時、自分は主郭に到達していないブログを参考にしていました…)に錯綜を招く場合があるので注意です。特にGoogleマップは混乱の極み(甲賀では多喜城に限った事ではない。)でして、今後は甲賀市史に沿って情報が統一される事を望みます。和田城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
獅子ヶ谷城[和田城  周辺城郭]



獅子ヶ谷城は和田城の北西約1.3km、標高約223mの独立丘陵上平場に主郭が存します。西麓の舗装路からの比高は10m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の毛牧草の根広場を設定して下さい。取り付きはこの広場の東側に一般住宅へ通じる私道が付いてますのでこれを使います。私道をほんの少しだけ登り、怪しい地形を左手に確認したら直登しましょう。

築城年代は不明ですが、築城者は毛牧太郎景広と伝わり、大伴氏(伴氏)の後裔、近江伴氏四党の一つ、大原氏の庶流でした。同じ和田城のリア攻めマップにある山岡城の口コミでも書きましたが、本能寺の変に際して瀬田の橋を落として明智光秀への同心を否とした山岡景隆、その山岡氏の系譜は主に二つありますが、何れも毛牧太郎景広を共通の祖とする点では同じです。

お城は主郭のみを土塁囲みの方形とし、概ね4つの郭を持つ縄張です。主郭の土塁上には少しの苦労で登れますが、主郭の削平地そのものは藪でしてちょっと勘弁(頑張れねぃよ…)、土塁は高さも幅もあり、所々で段付き、櫓台と思しき高まりなんかもあります。

実は関東者のくせに2回目のトライとなります。前回はお城の位置を精査してなくて毛牧草の根広場の南西側の丘陵を探索していたという凡ミス…井戸跡があるじゃん!とか高い土塁だなぁ…削平地には段も付いてる…等と独り言を言ってたのですが、そもそも論で此処じゃなかったw現況はマニア向けですが、整備されたら結構楽しめる(甲賀の城館は基本的に往時の遺構を良好に残している。此処だけに限った話とはしたくない。)お城だと思います。

2021年09月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
馬杉本城[和田城  周辺城郭]



馬杉本城は和田城の西南約2.1km、浅野川の南岸、標高約237mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します。北麓の滋賀県道・三重県道138号線からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東麓、西麓のどちらからも道が付いてますが西麓から登りましょう。西麓にある誓蓮寺を南方へ過ぎた舗装路上には案内板が立っています。

登城路は北側へ巻く感じで通称Ⅰ郭の東側に労せずして辿り着く事が出来ますが、そこからはシダシダしまくってて誰でも躊躇すると思います。ただ通称Ⅰ郭の土塁は既に見えているので「うっ、うわぁぁ〜」とか独り言を呟いて気を紛らわせながら2分位頑張りましょう。はっきり言って気持ち悪いです。

築城年代は不明ですが、築城者は馬杉氏と伝わり、甲賀郡誌には「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の滅亡と共に遂に廃墟となる。」と記述があります。馬杉氏は甲賀五十三家中にその名が見られませんが、この地域を本領とする六角氏の被官にして在地土豪の一つであったと推測され、周辺はこの馬杉本城の他に7つの城館が集中しています。又、後年福岡藩黒田家に仕えて活躍した馬杉一正は同氏の出身なんでしょか。

お城はこの地方に多いとされる単純な単郭方形の縄張ではありません。縄張図を見ると概ね3つの郭で構成される連郭式のお城だったようです。素晴らしいのは通称Ⅰ郭でして、北東辺を除いて高さと厚みのある土塁+虎口が健在です。又、南辺の大土塁は丘陵頂部筋と同一の高さでして、その南側背後は堀切で連続性を遮断しています。しかもびっくりする事にそれは三重堀切でして、甲賀で三重堀切が見れるとは想像もしていませんでした。

周辺地域は野猿の群生地だと思います。しかもかなりの勢力を伸張させていると思われ、集落の舗装路上で毛繕いに励む猿を2回目撃しました。車を幅寄せしましたが余裕ぶっこかれた上に顎をちょい上げ+奇声を発して威嚇され腹立ちました。動かない猿を目前に人間としての一線を遥かに越えるタイマン勝負を挑もうとしましたが、それをやると人として社会に帰ってこれなくなる感じがしたので思い止まりした。山城に行き詰めていると人間よりも野生動物との真っ向勝負を強いられる機会が多くなると思います。決して自分を見失わないように注意ですw

2021年09月16日 安濃津伊勢守壱午【若・勘】
公方屋敷[和田城  周辺城郭]



興福寺の一乗院門跡である覚慶が、奈良興福寺から抜け出し、甲賀に落ち延びた際に、和田惟政が匿った屋敷を公方屋敷といいます。その後、野洲郡矢島村に移り住み還俗し、足利義秋と名乗り、京を目指しました。

現在は、屋敷跡の三方を土塁で囲まれています。が、あまりにも大きいので、ちょっと違和感(ーー;)屋敷内部は、モフモフの草原となっており、看板が設置されております。ここまで辿り着くのに、案内板が設置されているため、迷う事は無いと思います。民家のすぐ近くなので、お静かに…(^^♪

2021年09月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
毛枚北城[和田城  周辺城郭]



毛枚北城(もびらきたじょう)は和田城の北西約1.7km、杣川の東岸、標高約215mの丘陵北辺端部上平場に主郭が存します。北麓の舗装路からの比高は10m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の大福寺を目標に設定して下さい。駐車も出来ます。少し判り難いですがお寺さんの北側に登城路が付いてます。

築城年代、築城者は不明です。南西約0.3kmに存する山岡城の城主、山岡氏の祖、伴景広、その子である貞広は毛枚太郎を名乗り当地に遷住したと考えられますが、お城との関係性を解き明かす資料は一切無いようです。

お城は城山西側の急崖が擁壁工、法枠工による崩落対策工事が派手に施されていて期待を見事に殺いでくれますが、縄張自体は若干の改変(昭和50年代まで主郭には一般住宅が建っていたらしい。)のみで大きな影響は受けていないようです。登城路は主郭南西側の虎口に通じていますが、この虎口自体は後世の改変の可能性が指摘されています。主郭は腰郭が付き、井戸なんかも確認出来ますが往時のものかは判りません。又、概ね西辺を除いて土塁囲みで、特に南辺の土塁は段付きで高さを稼いでいる上に頂部は割と広めに削平(櫓台はあったと思う。)されています。そしてこの土塁に登るとその南側には想像もしていなかった規模の横堀による堀切が現れ、堀切の南側にも段付きの郭が設けられたりしています(謂わゆる単純な単郭方形の縄張ではない。)。

城域の判定に苦しむお城でもあります。理由は縄張図外(特に南側において。)にも削平地や遺構らしきものが点在しているからでして、縄張図における南端を更に進んで行くと堀切様地形(切り通しか?)を経て物見台にはぴったりな高みと梵字碑の置かれた綺麗な削平地が現れます。後世の改変かもしれませんが参考までに…

周辺地域はそれこそ数百メートル間隔で城館が集中します。藪が激しく観賞に耐えうるお城が少ないのも事実ですが、このお城はその中でも優れたものの一つです。和田城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
山岡城[和田城  周辺城郭]



大原城は和田城の北西約1.5km、杣川の西岸、標高約226mの丘陵北東辺端部上平場に主郭が存します。東麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、城域の半分以上は民家の敷地、お城は個人所有の土地に立地していると思われるので訪ねる際は細心の注意を払いましょう。自分は目立たぬよう、隠れるように散策しました。又、車を捨てるなら直近にある大福寺の駐車場がよいでしょう。

築城年代は不明ですが、築城者は大伴氏(伴氏)の後裔、伴四党の一つ、大原氏の一族、山岡氏とされています。近江伴氏の系譜は諸説あるようで、平安時代末期に三河伴氏から近江国甲賀郡大原村に遷住した伴資乗を祖とするものと伴大納言善男の九世の孫、資兼の末孫、資業を祖とするもの、もしくはそれらの合わせ技があるようです。

…こう説明するとあんまし面白くない…この山岡氏は戦国時代に比較的著名な人物である山岡景隆と山岡景友(道阿弥)を輩出したと書けば興味が湧くかな。山岡景隆は六角氏の被官(六角氏の軍事的中核の一つであった。)として当初織田信長に抵抗しますが、その後は信長の信頼厚い南近江の有力国人として京への重要な渡河点の一つである瀬田城(本領であった志賀郡、栗太郡を安堵されたということなのかな。)を任されていました。景隆は本能寺の変において明智光秀に同心せず、瀬田の橋を落として光秀のタイムテーブルを狂わせる働きを示し、弟の景友は関ヶ原の戦いで地味ながらも重要な役割を果たしています。

お城はこの地方に多いとされる単郭方形の縄張ではなく、縄張図を見ると4つの郭で構成された連郭式のお城だったようです。通称Ⅲ郭と通称Ⅳ郭は一般住宅とその敷地となっていますが、城内最高所である通称Ⅰ郭と通称Ⅱ郭はよくその雰囲気を残していると思います。特に通称Ⅱ郭は現況たぶん個人宅のお庭ですが、高く厚い(櫓台があったと思う。)土塁と虎口が素晴らしいです。又、通称Ⅰ郭西側の切岸は高さと角度がかなりのもので往時はとても登れないものだったでしょう。

家人に声を掛けてから散策しようと思ったけど、当日は人の気配が全く感じられませんでした。もし付近で人の姿を見掛けたら訪問の目的を告げた後にリア攻めした方がよいでしょう。ややマニア向け。

2021年09月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
大原城[和田城  周辺城郭]



大原城は和田城の北西約2.1km、杣川と櫟野川の合流点、標高約200mの平野部平場に主郭が存します。

築城年代は不明ですが、築城者は大原数馬と推測されています。大原氏は大伴氏(伴氏)の後裔とされ、平安時代末期に三河伴氏から近江国甲賀郡大原村に遷住した伴資乗を祖とする氏族で、同地の大原氏、上野氏、伴氏、多喜氏の四氏は伴四党と呼ばれていました。ちなみに織田信長の家臣、滝川一益はこの大原氏を出自とする滝川氏の者とする説が最有力で、織田氏自体も甲賀伴氏を出自とする説があります。他の伴氏の著名人としては中村一氏(諸説有り。)なんかが指摘されていますね。

室町時代には近江守護六角氏の事実上の被官となっていたようで、六角氏が室町幕府の征討を受けた鈎の陣(六角氏の権力強化を目的に公家領、寺社領、奉行衆の所領を横領し、領内の国人衆に分配した事が征討を受けた一因であった。)において六角氏に従った甲賀の地侍衆を甲賀五十三家、その内の信頼厚い諸家を特に甲賀二十一家と呼び、大原氏もその甲賀二十一家の一つでした。征討を受けた六角高頼は観音寺城を退去、甲賀山中で非正規戦を展開し戦を膠着状態に持ち込む事に成功していますが、これを助けたのが甲賀の地侍集団だったのでしょう。

お城は居館城だったと思うのですが、高くて厚い土塁がほぼ全周で健在、現在も帰農した御子孫の方が主郭に館を構えています。本来の大手虎口は南側に開口し、東南角にも大きな虎口(写真の虎口です。)が開口しています。が、どうやら後世の造作のようです。他には堀跡なんかも確認出来ますが、小学生の集団に付き纏われてしまい写真撮影は断念しました。又、単純な単郭方形の縄張ではなく、若干の広がりがあったようです。

土塁囲みのお家は虫が多そうだけど、お好きな人には堪らない物件でしょう。塀や柵を造らなくてもOK♪現況は正しく人の家ですが、じっくり見たい方は家人に声を掛けるとよいでしょう。自分は土砂降りの中だったし、不審者の烙印を前述の小学生に押されたようで速攻で陣払いしちゃいましたが…

和田城のリア攻めマップにある既作成スポットを活用しました。どなたか(城友さんかな?)存じませんが感謝です。

2021年09月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
梅垣城[和田城  周辺城郭]



梅垣城(めいがきじょう)は和田城の北西約2.2km、標高約215mの丘陵北東辺端部上平場に主郭が存します。北側舗装路からの比高は15m位でしょか。振り仮名とか付けさせて頂きましたが、現地説明板を見るまでは「うめかきじょう」と読んでました…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただピンの位置は若干西側にずれています。お城の北東側直下にはびっくりする事に説明板が控え目な場所に立っていますが、自分は入口を見付けられなかったのでこの説明板の場所から直登しました。お陰様で土塁の切岸はしっかりと生きている事を確認出来ましたわ…

築城年代は不明ですが、築城者は多喜氏と伝えられ、同氏は甲賀二十一家、南山六家の在地土豪の一つ、近江伴氏四党、大伴氏(伴氏)の後裔(初めて知りましたが天神系氏族の一つらしい。)とされています。

お城は謂わゆる単郭方形の土塁囲みの縄張です。主郭にはササユリが広範囲で栽培されており、土塁に沿ってグリーンネットが養生してあるので郭内には入る事が出来ません。今も水が湧き出る泉井とかあるらしいのですが当然確認出来ませんでした。が、主郭はただの削平地だったと思うので入らなくてもきっと後悔しないでしょう。又、土塁は段付き、全周で健在で虎口もしっかり残っています。

甲賀のお城をリア攻めしていて素直に感じた事ですが、何だか夏場でなくても薮が多いように思います。鬱蒼とした木々に覆われ昼間でも薄暗く、雨中だったとはいえ多湿な環境はリア攻めに全く優しくない…藪蚊の数が凄まじく、虫除けスプレーを全身に隈なく吹き掛けましたが、藪蚊の殺る気度が半端無く気持ちがどんどん折れてきます。晩秋から初春に行きましょう…

甲賀市はお城の密度も半端無い地域です。自分は事前情報を殆ど持たずに片っ端から攻めまくりましたが、写真も念入りに撮りながら1日で12城を攻め落としました。ネガティブな事書きましたが甲賀だからこそ出来るリア攻め行軍は何だかんだで楽しかったです。そしてこの梅垣城はその最初のお城でした。マニア向け。

※和田城のリア攻めマップの既作成スポットを活用して口コミさせて頂きました。どなたか存じませんが感謝です。

2021年04月24日 左近衛中将かめかめ
和田支城Ⅱ[和田城  周辺城郭]



【駐車場】
善福寺、和田公民館駐車場に駐車できます。

駐車場からだと徒歩5分程、和田城からだと徒歩10分弱で着きます。

【遺構】
主郭を囲む高い土塁や鋭い堀切などがあります。

写真1:主郭北の鋭すぎる堀切
写真2:主郭北西尾根の堀切
写真3:主郭の高い土塁下から
写真4:主郭の高い土塁の上から

周辺には支城が多数点在していますので、合わせて行くことをオススメします。

2021年01月28日 近江守Silvine
馬杉北城[和田城  周辺城郭]



馬杉北城は甲賀市甲南町上馬杉にある城で、甲賀武士の一家で六角氏の被官であった馬杉氏の城です。上馬杉地区には他にも馬杉氏の城が多数作られていますが、その中でも登城が容易な馬杉北城を紹介します。

遺構は2段になった主郭を中心に北と東西に小さな曲輪を配しています。主郭には現在、大師堂が建っており甲賀の城としては珍しく土塁がありません。南には現在切り通しとなっている大堀切があり、そこを通った先の西の曲輪には土塁が残り先端に二重堀切があります。東の曲輪にも堀切が残っています。

城へは県道135号線沿いに大師堂への案内板があり、道沿いの家を一軒越えた所から山道が続いています。獣避けフェンスを開けて整備された林道を10分ほどで城にたどり着きます。また林道途中の左側に堀切と土塁が確認できますが、ここが馬杉中城です。ここには稲荷社があったようで石碑が残っています。

2020年06月20日 OROKA和泉守
櫟野大原城[和田城  周辺城郭]



【甲賀城館の進化系?!】

櫟野大原城は、和田城の北東に位置する城で、大原氏の居城のようです。

アクセスとしては櫟野公民館あたりに車を停めさせていただいて、テクテク徒歩で近づきましょう。地図で示した森の一体が城ですが、明確な登城口みたいなのは無く南側は川などで入れないので、北側の道から何となく森の中に突撃すると城にぶち当たります。

遺構はとても素晴らしいです。
甲賀地域によくある方形単郭の土塁に囲まれた館なんですが、それを3つ繋げたような構造に私には見えました。そして、それらの間に堀切や虎口がありかなり複雑です。
また、主郭と思われる郭を一周する土塁はやたら高く鋭角で、郭の中にいると包まれてるような安心感があります(笑)

森の中は藪も多いですが、甲賀城館の中では断トツでオススメの城です。
櫟野地区にある滝川城、滝川支城とともにぜひ訪れてください(´▽`)

2020年06月18日 OROKA和泉守
滝川支城[和田城  周辺城郭]



【滝川城、支城もついでに味わおう】

滝川支城は、滝川城(以下、本城)の北西に位置する城で、名前のとおり滝川氏の支城であったようです。

アクセスですが、やはりこちらも櫟野寺からテクテク徒歩で15分ほど。城は林になっていますが、その南側が入口です。畑の横にスロープになってる道があるので、そこから入ります。(写真参照)

規模的には、本城とあまり変わりません。林が丸ごと館になってるようなイメージで、厚い土塁に囲われています。何となく段郭のようになっていて、切岸も見事です。また、背後にはガッツリした堀切があり、ついつい降りたくなりますが、意外と急で滑るので、調子に乗ってるとズシャアァと滑り落ちズボンとか泥だらけになります。(経験談)

ちなみに本城との距離は徒歩20分ほど。若き日の滝川一益も、「ちょっと支城行ってくるわ」とコンビニ感覚で行き来したかも知れません。

そんな妄想膨らむ滝川支城、本城とぜひセットで訪れてください(´▽`)

2020年06月17日 OROKA和泉守
滝川城[和田城  周辺城郭]



【あの有名武将のいた城と言われる~】

滝川城は甲賀地域にある城で、あの滝川一益が16歳まで在城したという城です。ここからどのように信長に仕えたのかは謎が多いですが、タッキー(一益のこと)が少年~青年期を過ごした気配とか感じれるかも知れません。

アクセスは、とりあえず私は櫟野寺に参拝ついでに車を停めさせてもらいました。徒歩で南下、橋を渡った右手の奥に城の案内板があります。その奥の森に城はありますが、たぶん迷わず行けるでしょう。寺から徒歩も含めて10分程度でしょうか、苦労せず行けます。

甲賀によくある方形単郭の城ではあるんですが、土塁が1方面だけ高くなっており、櫓台があったように見えます。また、この背後だけは見事な堀切と土塁があり、特にこの土塁はシャープに直立していて見応えバリバリです。

「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」と言われた勇将・滝川一益のファンなら、もう行くしかない♪

2018年06月26日 カーネル
和田城

草津線油田駅から

駅の西にある県道51号を南下すると、『和田老人憩いの会』脇にあるグランドに、天守閣も模型があります

先に進み、善福寺の先の道路が広がっているところに、和田城の看板と冊子があります。冊子を取り出したらアマガエルがへばりついていた

100mほど先で、川を渡る前に左折するのが正解ですが、ここの道路の右側にある小さな木の看板に気付かず、橋を渡って先へ進んでしまう

橋から200mほど進み、左手に森を見ながら車1台幅の生活道路を進み、右手にあるコテージフジの中央付近で、左の民家脇から山に入れます

土橋に見えてしまう田んぼの畝を進み、森の中へ。土塁と堀がたくさんあります

反対側に抜けると、先人の書き込みのピカチュウに出会えます。支城には行かず、駅に戻り1時間ちょいでした


2017年06月19日 みきを渡島守
和田城

先人の方の口コミ通り、お寺の前の広いスペースに車を停め、看板に従って歩いて行くと城跡に到着します。
途中の道にはサ◯エさん一家やピ○チュウの看板があり、それらを過ぎた辺りに田んぼを渡って城跡に入る道があります。
入口には縄張り図などの看板があります。
訪れたのが6月ということで草がボーボーでしたが、土塁や虎口はしっかり確認することができました。

2011年08月28日 まったり丹波守
和田城

あぶらひ駅から県道51を南下した場合、善福寺を過ぎると『和田城』の看板あり。
北上の時には看板は確認できませんでした。
『薮内橋バス停』の向かい側の道を行くと案内板があります。
駐車場は無いので善福寺前に停めるのが良いかも。
丘なので簡単に訪問出来ますが熊らしき糞があったので対策は十分に。



「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore