佐治城(さじじょう)
佐治城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県甲賀市甲賀町小佐治字城殿
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平(佐治)業国
築城年
- 康平5年(1063)
主な改修者
- -
主な城主
- 佐治氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 市史跡(佐治城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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佐治城の解説文
佐治城の口コミ情報
2023年11月13日 RED副将軍
隠岐城[佐治城 周辺城郭]
甲賀二十一家のひとつである隠岐氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。歴史は古く、近江守護である佐々木秀義の五男の佐々木義清により築かれたと大岡寺に伝わります。
佐々木義清は、1159年に佐々木秀義が相模に逃れていたときに庇護した渋谷重国の娘との間にできた子とされ、有名な佐々木4兄弟とは異母兄弟となります。
1221年の承久の乱の戦功により出雲・隠岐両国の守護に任命され、佐々木義清の子孫は隠岐・出雲の守護職を世襲していきます。やがて義清流佐々木氏は、隠岐守護職を継承した隠岐佐々木氏と出雲守護職を継承した塩冶氏に二流に別れます。
元弘年間(1331年~1333年)に隠岐判官であった佐々木義清から十一代となる佐々木清三により再築城されたと伝わり、隠岐守の官職が城名の由来で隠岐佐々木氏の庶流が城主であり隠岐氏を称したと思われます。
隠岐氏は、北近江守護である京極氏の重臣となり、甲賀二十一家のひとつにも数えられる有力土豪となりました。
見所
現在は大岡寺の境内となり遺構はほぼ消失。山門脇に僅かに土塁が残る程度です。
隠岐集落を一望できる比高20mほどの丘陵上に築かれています。
2022年07月25日 RED副将軍
佐治城
農地化により大きく改変されていますが、竹林の中に土橋、横堀などが残っています✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1063年に平業国により築城。居城とし佐治氏を名乗ります。
1337年に小佐治三郎は、足利尊氏の命により守親親王に対して挙兵をし、感状を受けています。
その後は近江国守護の六角氏に属していましたが、1568年に六角氏が滅亡すると、佐治為次は織田信長に臣従し所領は安堵されています。
信長が没すると豊臣秀吉に仕えますが、1584年に紀州征伐の失策や軍律違反を理由に甲賀の土豪の大半に領地没収の命が下されます。謂わゆる甲賀破議です。佐治氏は佐治城に籠城して抵抗しますが、大軍に攻められ落城。佐治氏は滅亡しました。
見所
開墾により遺構の大半は消失。桝形池は堀跡であったと云われています。
堀と土塁に囲まれた広い削平地が主郭と二郭と云われますが大きく改変。
その先の獣害フェンスを越えると竹林の中に横堀と土橋が確認できます。最高所の愛宕山は物見とも云われます。
2022年06月20日 毘沙門天摂津守
佐治城
あまり城の名残はないですね。枡池があるくらいです。
2022年01月13日 近江守フロクニ
佐治城
攻略は北の道から真っ直ぐ南下で行けます。道沿いの枡形池が目標でそこから真っ直ぐ行くと登城口に。そこから南東方向が主郭跡の神社でしょうか。
2020年11月26日 山城守さとぴ~
佐治城
入り口の前の道は狭いです。
停める場所や城跡は、所有地ですので、ひとこと声かけを忘れずに。
2020年11月23日 課長大和守Ver.B
今在家城 (今郷城)[佐治城 周辺城郭]
国道1号水口バイパス北の丘陵地に残る城跡で、発見されたのが平成26年と比較的新しい城跡のようです。
水口バイパス北側の2車線道路から溜池へ上がる舗装路があり溜池脇の小道を進めば説明板と主郭が現れます。
溜池前にギリギリ1台分の駐車スペースはありますが転回が困難なレベルなのであまりオススメは出来ません…(^^;
城跡は甲賀地域によくある単郭方形の縄張りに一段下がった郭を持つ形状のようですが、藪が酷い為未確認です。
土塁は概ね比高1.5m程度で断続的に周囲に空堀が残っているようですが、やはり全般的に藪化している為分かりにくい感じでした。
2014年03月18日 美兎子左衛門尉
佐治城
なぜか京都の山科区にある勧修寺というお寺に佐治城の遥拝所があります。
2013年06月01日 日光人
佐治城
桝形池は通りに面していて分かりやすいです。ただ主郭部分の愛宕山一帯は「私有地」ととなっていて、勝手には入れません!
道路から見て桝形池の奥が主郭や空堀があります!
入山する時は、一声かけてからに…マナーを守りましょう。
歴史
築城年代、築城者は定かではないが、甲賀衆の佐治氏の城とされる。康平5年(1063)に平業国が伊豆から移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったという。 織田信長の近江侵攻により六角氏が滅亡すると佐治氏は信長の配下となり、信長に領地を安堵された。天正13年(1585)、羽柴秀吉の命令により甲賀衆は改易処分となった(甲賀ゆれ)。その際に佐治氏は抵抗して佐治城に籠城した末に堀秀政と中村一氏に攻められ落城したとされるが、定かではない。
遺構
標高約250mの愛宕山に築かれている。昭和25年(1950)の大規模な地形改変により、城域の北側には道路が通っている。本来は約100m四方の2つの曲輪が並び、南東側は現在残る枡形池とつながる堀で区切られていたようだ。枡形池の南側に残る土塁は、東側の曲輪北辺の土塁と推定される。
西側には谷を隔てて丘陵上に堀や土塁が残り、2つの曲輪が確認できる。しかし様相が異なり、すべてが佐治城の城域に含まれるかは判断が難しい。
交通
・新名神高速道路甲賀土山ICから車で約10分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅴ』戎光祥出版、2018年。