黒川氏城(くろかわしじょう)
黒川氏城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県甲賀市土山町鮎河
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 黒川玄蕃佐
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- 羽柴秀吉
主な城主
- 黒川氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、堅堀、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
土山城(滋賀県甲賀市)[4.9km]
日野城(滋賀県蒲生郡)[9.3km]
正法寺山荘(三重県亀山市)[10.6km]
佐治城(滋賀県甲賀市)[11.4km]
鹿伏兎城(三重県亀山市)[12.0km]
峯城(三重県亀山市)[13.0km]
佐久良城(滋賀県蒲生郡)[13.2km]
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亀山城(三重県亀山市)[14.7km]
水口岡山城(滋賀県甲賀市)[14.7km]
黒川氏城の解説文
黒川氏城の口コミ情報
2024年05月04日 別損山城守備前994重砲隊
鮎河城(詰城)[黒川氏城 周辺城郭]
初めに、本口コミは本来なら
鮎河城(詰城)【周辺城郭】
とすべきですが、誤って黒川氏城で紹介してしまってました。すいませんでした🙇
さて、気分を変えて、改めて鮎河城(詰城)🏯の口コミを致します。
獣侵入柵(写真①)を越えると、先ず黒川氏菩提寺であった
・正等院跡(写真②、③は石積み)
にでます。鮎河城の方角を記した看板ありますが、はっきり言ってわかりづらくこれだけを頼りにすると、ワケワカメになります。結構山は急な斜面🏂が続きます。
登山道もなく、登山系アプリを頼りに登りますが、難儀します。
比較的、やや遠回りですが、なだらかな尾根伝いに登る方が良さげです。
登り切ると「堀切」の看板有り、確かにあります❗️堀切が‼️(写真④)
お疲れ様でした。その先には、主郭があります。
・鮎河城(詰城)、鈴鹿300山⛰️、標高450m の一の倉(写真⑤.⑥⑦)
に到着です。おかえりの際にも、お気をつけてお帰りくださいませ❗️油断すると大怪我するかもです。
2024年04月14日 別損山城守備前994重砲隊
黒川氏城
黒川氏城。私は今回と合わせて二回登城してますが、何処もうぐい川の駐車場🅿️に車を停めました。(但し、今回は鮎河桜🌸のシーズンなので、人は多いです。シーズン外すとここに車を停めるのは容易だと思います。)
何処も登城は県道9号(大河原北土山線)のT字交差点から約300m手前の至国道1号線方向の県道507号(鮎河猪鼻線)にある
黒川氏城案内板
から登城しました。ここからの登城は
・結構急な斜面、トレッキング🥾シューズおすすめ。
・登城道は✖️登る際には慎重に、体感で約20m位登ると
「主郭→」
の看板あります。ここからは登城道通りに進みましょう。
・Ⅲ郭の広い曲輪に出れば、眼科には
堀切d(看板有)
が、見えます。
・堀切dの反対側には、石垣・石積みがあり、石階段を登ると、
Ⅰ郭c虎口(この付近に石碑あり)
がお出迎え、Ⅰ郭aの虎口から
「お疲れ様でした‼️」
主郭に至ります。土塁や雁木遺構が貴方の疲れを吹き飛ばすでしょう。多少の花粉も苦では、ありません。
人は誰もいませんでしたが、見物客が多い鮎河桜🌸にも負けない位の山城パラダイスが貴方を感動させる事間違いありません。
ここからは、周辺情報です。↓
(※🌸シーズンは屋台などもあります。カフェもありますし、今回はここで美味しいオムライス食べました。ドミグラスソースと濃厚ライス、フワトロ玉子がベストマッチ👍)
2022年03月01日 HS刑部大輔
黒川氏城
主郭に辿りつくまでにいくつもの仕掛けを突破しなければならず 往時だけでなく現在でも迷う人がたくさんいそうな縄張り。堀は深くテクニカルに掘ってあり見る人を魅了させます。
2021年04月18日 左近衛中将かめかめ
鮎河城(詰城)[黒川氏城 周辺城郭]
黒川氏城から500m(徒歩10分)程の距離にある山城。歴史としては、南北朝時代、南朝方の鮎河弥九郎が南朝軍反撃の拠点として築城。戦国時代に黒川氏によって改修されたようです。
【駐車場】
うぐい川公園の駐車場に止めさせて頂きました。
【登城口】
正等院付近から入れます。
・・・入って少しの間は、斜面も緩やかで「鮎河城→」なる立看板がありますが、やがて看板へ向かう道がなくなります。仕方ないので、主郭南の尾根を登る選択をしました(珍しく正解)。あとは10分程で主郭下のやや傾斜した曲輪らしき所に着きます。
遺構は、主郭の南北に堀切(現地案内板では横堀)を配し、東西は切岸によって守られています。
周辺の高尾城、大河原氏城と合わせて行くことをオススメします。
写真1:縄張り図にありませんが、主郭南尾根の途中にある竪堀(に見える)
写真2:正等院への虎口っぽいやつ
写真3:主郭西の堀切!
写真4:主郭南の虎口。に見える
写真5:看板に従って進むと現れる竪堀。これも縄張り図に無し。
写真6:主郭南尾根の登り始めた所(虎口風)
2021年02月14日 ぺー織部正當麻曼荼羅
黒川氏城
silvineさんの投稿にありますように、駐車場は県道9を挟み西側にうぐい川公園があります、登城は西側からよりも鯎川橋そばの看板の付近にある獣除け柵扉の農道、北側伝屋敷跡への大手道からがいいかもです、ご安全に。
2021年02月08日 雲龍斎隠遁守全長
大河原氏城[黒川氏城 周辺城郭]
大河原氏城を訪れる際は麓の上野様宅に一声掛けてフェンスの鍵を開けてもらってから見学してください。
個人所有の城跡です。
2016年02月12日 近江守Silvine
黒川氏城
国道1号より県道507号に沿って北上します。県道9号の合流手前に看板があり、そこからも登れますが、そのまま直進し、うぐい川の河川敷に大きな黒川氏城の案内板があり、そこから登れます。車も停められます。
甲賀の城は土塁で囲まれただけの単郭方形の小さな城が多いのですが、黒川氏城は石垣や石垣作りの虎口、曲輪群など、かなり大規模なもので見応えがあります。
なお、春〜秋にかけてはヤマビルが多いとの情報もありますので、訪問の際はくれぐれもご注意を。
遺構
鈴鹿山脈の西麓付近、うぐい川と野洲川が合流する、鮎河集落を望める標高390mの丘陵上に築かれている。主郭は高さ2mほどの土塁で囲まれた長方形の曲輪で、土塁の内側には雁木が設けられ、西側と北側には石垣で固められた虎口が開く。主郭西側虎口の一段下にある虎口受けの下には石段があり、脇にも石垣が積まれている。
主郭の南側は高い切岸と長大な横堀で守られ、曲輪を経た南側は、大規模な堀切で尾根を分断している。虎口受け西側の曲輪で、道筋は二手に分かれている。
主郭北側の虎口は、城の北東側に通じる。北側の横堀底を通って桝形状の虎口に至ると、そこから4方向に分岐する構造だ。山麓の大手から登ってきた場合はこの虎口で集約される形になる。
この虎口から山麓に向けた北側斜面には家臣団の屋敷が並び建っていたようで、「前田屋敷」や「辻屋敷」などの名称が残る。土塁に囲まれた曲輪群が階段状に整然と並び、東側は横堀や竪堀が屋敷群を囲んでいた。
甲賀の城は、高い土塁で囲まれた単郭方形を特徴とする。ところが黒川氏城は、主郭こそ方形であるものの、南北に曲輪を置き、西方向にのびる尾根にも曲輪を展開し、縦横に空堀を掘って防御を固める複雑な縄張になっている。また、虎口をはじめとして石垣が多用されているのもこの地域では異質だ。天正期以降に甲賀辺境の城として改修されたと推察されるが、主郭周辺は関ヶ原の戦いの後の改修との指摘がされている。
歴史
築城年代は定かではないが、永禄年間(1558〜1570)に黒川玄蕃佐によって築かれたと云われる。黒川氏は土山町黒川を本拠として佐々木六角氏に仕え、織田信長の近江侵攻の際は佐々木六角氏に味方して戦っている。元亀4年(1573)に足利義昭が反信長包囲網を構築した際も、佐々木六角氏に従っていた。
佐々木六角氏が没落すると信長の影響下に置かれ、その後は秀吉の支配下に入った。秀吉は伊勢侵攻時に東海道を経由して土山に入るなど、黒川氏城は甲賀辺境の城として重視されていったようだ。黒川盛治は徳川家康の伊賀越えで弟を差し出し、その後は駿府で閑居していた。
黒川氏は、天正13年(1585)の紀州攻めの際に秀吉の怒りを買って改易され(甲賀破儀)、このとき黒川氏城も廃城になったとされる。黒川氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで山岡道阿弥に従って参陣し、その後は旗本となって家康に仕えた。
交通
・新名神道甲賀土山ICから車で約15分参考文献
・『甲賀市史 第7巻「甲賀の城」』甲賀市史編さん委員会、2010年・『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年