鹿伏兎城(かぶとじょう)
鹿伏兎城の基本情報
通称・別名
- 白鷹城、牛谷城、加太城
所在地
- 三重県亀山市関町加太市場
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 加太氏
築城年
- 正平年間(1346〜1370)?
主な改修者
- -
主な城主
- 加太氏、鹿伏兎氏
廃城年
- 天正11年(1583)?
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、井戸、虎口、掘立柱建物跡
指定文化財
- 県史跡(鹿伏兎城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
正法寺山荘(三重県亀山市)[5.5km]
福地城(三重県伊賀市)[8.2km]
亀山城(三重県亀山市)[10.5km]
長野氏城館(三重県津市)[10.8km]
和田城(滋賀県甲賀市)[10.9km]
鹿伏兎城の解説文
鹿伏兎城の口コミ情報
みきを渡島守さん[2018年03月27日]
先人の方の書かれている通り、神福寺の横から入るルートおよび北側から回り込むルートには登山道のようなものはありませんでした。
自分も先人の方と同様に北側のルートから尾根沿いに登ったのですが、急な斜面でかなりきつかったです。
主郭は山頂ではなく、山頂から北東方面にあり、入口に虎口と説明板があります。
城跡を見学した後に気づいたのですが、虎口横の石垣方面に登山道のような道があり、その道を下ると国道25号線の麓に到着しました。(加太駅の西側)
この道が一番楽なアクセス方法だと思いますが、道沿いからだと分かりづらいので一応目印になりそうな物の写真を載せておきます。
まるき〜淡路守さん[2017年10月01日]
JR関西本線加太駅より北側の神福寺に城の案内があり、寺の横から城跡に上がって行けるような地図があるが道なのか崖なのかよくわからないルートで危険を感じたので引き返しました…
駅の東側の踏切より北に進むと林道北在家中津川線というのがありそこから少し行くと城跡の北側に行けるのでそちらからアクセスしてみるも結構険しい、山の尾根沿いに登って行くと十数分で本丸北側の土塁に到達できました
どちらから城跡を目指しても道なき道のようです…
そのためか少々荒れているが遺構はハッキリ残ってます。
先人の書かれている通り井戸水、湧き水は透き通りゴミさえ取り除けば使えるような感じ
虎口手前の石垣は何故ここだけ?と思ったのと少し綺麗すぎて違和感を感じましたが…
すごく高い所の狭い所にある、とても登りにくい
極端にいうと、とんがった山の上にある城跡…というイメージでした。
June02さん[2012年02月28日]
『』です。
井戸が生きている事に。
居館跡である神福寺。墓地を抜け、急傾斜の山肌と2度の尾根坂を登る事25分。物見趾?の牛谷山頂に着き、少し降ると、土塁に囲まれた主郭が広がり、そして、虎口が…、脇には標柱と説明板。さらに、野面積み石垣。感動でした。
石垣の写真をアップします。
湧井は、主郭一段下の曲輪跡にあり、底が見える透明度に驚き、また、癒されてしまいました。
鹿伏兎⇒現地名の加太は、冬の陣後、藤堂高虎公にこの地を含む5000石加増時に、祝して変更されたとも…、諸説有り。(駅)
鹿伏兎城は、関五家の一つ加太氏によって正平年間(1346~1370)に築かれたと伝えられる。城跡は大和と伊勢を結ぶ街道を見下ろす標高263mの山頂上に位置する。この街道は、鈴鹿峠越えの東海道が開通する以前は官道として利用され、近世以降は大和街道と称された。
天正11年、本能寺の変後の織田信雄・羽柴秀吉と神戸信孝・滝川一益との対立で鹿伏兎氏は信孝方に与したため信雄によって攻められ、鹿伏兎城は落城したとされる。
【縄張】
鹿伏兎城は、26×10mの郭(1)と、15×15mの郭(2)、石組み井戸がある郭(3)、その周囲の土塁からなる。この他にも郭へ続く尾根上には平坦地が見られるが、城に伴うものかどうか判断し難い。
主郭と考えられる郭(1)は2ヶ所の虎口があり、山麓から続く道へつながる虎口を構成する土塁裾には石垣が見られる。石垣は拳大~80cmの自然石が用いられ、長さ17.2m、高さ2.6mある。虎口にのみ用いられることから、土留め以外にも「見せる」ということを意識したものと考えられる。
山麓にある神福寺は加太氏の館跡とされてきたが、平成12年度にここから西へ50m離れた地点の調査で15・16世紀代の掘立柱建物や土師器皿廃棄土坑、区画溝が発見され、近年、発掘地点が館跡ではなかったかと考察されている。
【調査・整備の状況】
平成12年度に三重県埋蔵文化財センターが城跡下の道路改良事業に伴い発掘調査を実施、同年、関町教育委員会が道路北側の宅地で試掘調査を実施。
【交通アクセス】
・JR関西線加太駅下車 神福寺に説明看板あり
・東名阪自動車道向井ICから北へ約500m
情報提供:亀山市市民文化部文化振興局まちなみ文化財室