安濃城(あのうじょう)
安濃城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 三重県津市安濃町安濃字城山
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 細野藤光
築城年
- 弘治年間(1555〜1558)
主な改修者
- -
主な城主
- 細野氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、櫓台、横堀(空堀)、土橋
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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安濃城の解説文
安濃城の口コミ情報
2023年05月23日 RED副将軍
安濃城
滝川一益からの攻撃を退けた中伊勢地方で最大規模の山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1550年代に長野氏一族の細野藤光による築城、その子の細野藤敦が改修、拡大をしたとされます。
1568年、織田信長が伊勢侵攻を開始し、滝川一益の攻撃に対して抵抗、堅固な城構えは落とす事が出来なかったとされ、織田信長の弟である織田信包を養子に迎えて和睦となりました。
しかし、その後も細野氏は反織田信長を貫き、1580年に織田信包の攻撃を受けて落城。
細野藤敦は落ち延び、蒲生氏郷や豊臣秀吉に仕えたとされます。
見所
現在は阿由多神社の境内となってます。
主郭は土塁と大規模な空堀が巡り、周囲には土塁で区画された郭が点在する中伊勢最大規模の城郭。
しかし、空堀や周囲の郭はあまり整備されておらず竹ヤブ化しています。
主郭南側には大手虎口が開口。阿由太神社参道から外れた脇にあり規模は小さいながらもしっかりと残存しています。
2022年05月02日 ka_zu和泉守
安濃城
ほぼほぼ車で上がることが出来ますし、神社の参道を歩いて上ることもできます。
2020年06月15日 OROKA参議
家所城[安濃城 周辺城郭]
家所城(いえどこじょう)は安濃城の南西に位置し、長野氏の一族が築いた城です。
アクセスとしては、まずは明顕寺を目指しましょう。位置的に寺からそのまま城に行けそうですが、実は直通はできないので一旦、南の道に出て城の真南の民家横の細道からストレートに歩いて数分ほど北上すると城にたどり着きます。
なお、城用の駐車場とかはないので細道に入る前にどうにか車を停めましょう。(このあたり自己責任でお願いします)
入り口には案内板があり、「この地域によくある方形単郭のシンプルな縄張りで…」のような説明がありますが、いやこの地域というか伊賀には方形単郭はよくあるけど、てかぶっちゃけそこまでシンプルに感じないんですけど…とツッコむ事になります。
遺構としては、まずは広い主郭をぐるりと囲む土塁が素敵です。そして、土塁は一部がかなりモリッとせり上がり櫓台のようになってます。こいつのせり上がり方が、何か妙に鋭くてテンション上がります。
そして、土塁の向こうにはゴリゴリの空堀が配置されています。
確かに平面で見れば方形のシンプルな縄張りに見えるかも知れません。しかし、土塁から空堀までの高低差や実は斜面になってて方形の外にもアレコレ帯郭とかある感じとか、かなり興味をそそられます。
切岸を見上げながら攻め手の気持ちになれば、分かりやすく「ヤベェ、殺られたわ」と感じる事ができます。
普通に楽しいです。かなりオススメです。騙されたと思って、1度お立ち寄りください。(本気で騙されたと感じた方がいたらすいません…いや、きっと誰もが楽しめるはず)
2020年06月10日 OROKA参議
草生城[安濃城 周辺城郭]
草生(くさわ)城は安濃城の南西に位置する城で、長野氏の一族である草生氏の城になります。
アクセスですが、これといった駐車場がありません。私は近くの道路に路駐しましたが、皆さま自己責任で車は停めてください。
県道28号沿いに案内板があり、そこからフェンス沿いに5分ほど歩くと空堀に到達します。
城の規模としてはそこまで大きくないですが、空堀は主郭をぐるりと深く囲っていて見ごたえがあります。
また、主郭は二段になっていて櫓台のようなしっかりと高い土塁も残っています。
一部、遺構が崩れたのかなぁと思われる部分もありますが、全体的に良好な状態で楽しめます。
体力に自信がない方、山や城へ登るのが嫌だという方、草生城は手軽に楽しめます。
他の城へ行ったついでに、おやつ感覚でぜひ(´▽`)
2012年11月26日 三河守コーキしゃん
安濃城
細野藤光が築城した平山城です。
阿由多神社とその周辺が城跡になります。
阿由多神社の専用駐車場があります。
神社内に櫓台があり各所に土塁が巡っています。
東側はかなり薄暗く、藪だらけですが、広い切削地には土塁や空堀など分かりやすく残っていますし、比較的歩き易いのでオススメです♪
城の中心には、50メートル四方ほどの規模を持つ曲輪がある。曲輪内には江戸時代末に再興された延喜式内阿由多神社があり、曲輪内部は神社による改変があると思われる。
曲輪の南、東には虎口がある。この部分も神社による改変があると思われる。土塁は曲輪の四方に築かれているが、特に南東辺の土塁は幅が広い。この部分にも改変が加えられているが、櫓台があった可能性もある。
曲輪の南東、南西、北西には横堀と小規模な区画群がある。特に南西の横堀は大規模で、この城の見どころのひとつとなっている。
東側の虎口は、土塁の北東辺に設けられている。辺の中央に神社への参道が設けられているが、ここは虎口ではなく、本来の虎口はやや北寄りにある。この部分では南から延びてくる土塁が幅広くなり、北からの土塁と食い違っている。この部分では堀も食い違っている。
虎口の外には長方形の区画がある。このあたりでは古墳時代の須恵器も採集されており、古墳あるいは集落跡があった可能性がある。
すこし北東に行くと堀がある。この堀は曲輪に向かう堀底道となっていると思われる。さらに北東に向かうと、堀底道は屈曲し少し登る。この部分にも小規模な土塁に囲まれた区画がある。ここを抜けた部分にも土塁に囲まれた区画がある。
江戸時代の軍記物などによると、安濃城の城主とされる細野藤敦は、長野氏の一族で、津市美里町北長野の字細野を根拠としていたが、のち安濃城に入ったとされる。
同じ長野氏の一族でも、雲林院氏、草生氏、家所氏などと比べると、家格は一段低いのであろうか。
藤敦は永禄11年(1568)の織田信長の侵攻に際して、主戦論を唱えたとされる。安濃城には、滝川一益が攻撃を加えたが、城は容易に陥落せず、藤敦の弟で分部氏に入っていた光嘉が調えた織田信長の弟三十郎(後の信包)を長野氏の後嗣とする策が取り入れられたとされている。しかし織田方と藤敦との反目は続き、天正8年(1580)には、信包が藤敦の籠る安濃城を攻めたとされている。
安濃城は、長野氏領域の大規模城館のひとつであり、北伊勢などに多くある城郭に屋敷地が付属する形態をとる城である。特に主郭(曲輪)周辺の虎口や横堀などは良好に残存している。自分が滝川一益や織田信包ならどのように攻めるかと考えながら見学してはどうであろうか。