久居陣屋(ひさいじんや)
久居陣屋の基本情報
通称・別名
- 久居城
所在地
- 三重県津市久居西鷹跡町
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 藤堂高通
築城年
- 寛文11年(1671)
主な改修者
- -
主な城主
- 藤堂氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
木造城(三重県津市)[4.0km]
津城(三重県津市)[6.4km]
高城(三重県松阪市)[8.4km]
上津部田城(三重県津市)[8.6km]
阿坂城(三重県松阪市)[9.1km]
枳城(三重県松阪市)[9.8km]
松ヶ島城(三重県松阪市)[10.3km]
安濃城(三重県津市)[11.2km]
松坂城(三重県松阪市)[12.7km]
長野氏城館(三重県津市)[13.3km]
久居陣屋の解説文
久居陣屋の口コミ情報
2022年05月03日 ka_zu和泉守
久居陣屋
現在は高道児童公園や久居中学校の一部となったりして陣屋の明瞭な遺構はは見当たらないが、空堀がのこっています。
2021年06月29日 左近衛中将かめかめ
城山城[久居陣屋 周辺城郭]
戸木城攻略のために築かれた城。宮山城と良く似た構造の縄張りで、郭を囲う横堀や土塁が良く残っています。
城への入り口は分かりにくいですが、(道はありませんが)丘陵の南東部から入ることが出来ます。あとは、北へ向かい丘陵を上ればそれらしき遺構が現れます。説明板はありませんので事前に調べてから訪城することをオススメします。
2021年06月26日 左近衛中将かめかめ
宮山城[久居陣屋 周辺城郭]
【城の歴史】
木造氏が戸木城の支城として築城。その後、小牧・長久手の戦い時に蒲生氏郷軍に攻められ落城。織田・豊臣により城は改修され戸木城攻めの拠点となった。(現地案内板より)
縄張りは主郭(単郭)を囲う土塁、郭周辺を二重の堀や土塁で防御する構造になっています。
敏太神社の駐車場から5分程で縄張りを見ることができ、訪れやすい城です。
2020年06月30日 近江守Silvine
宮山城[久居陣屋 周辺城郭]
宮山城は、同じく戸木町にある城山城と類似した縄張を持つ城です。
遺構はそれほど広くない主郭を、折れのある横堀と土塁で複雑に囲んだ技巧的な作りで、規模の割に厳重な作りである事から戸木城攻めの陣城と言われています。
城へは麓の敏太神社を目指して下さい。駐車可能で、城の説明板もあり神社から山へと階段が続いています。およそ5分ほどで城内にたどり着きます。
2018年12月11日 玄蕃助がげちゃんⅡ号T型
久居陣屋
一升びん久居インター店営業時間平日11:30~14:30LO 16:30~22:00LO 土日祝日11:30~22:00LO
焼き肉で一杯やりたいと言う、めぐら~さん、歩いて5分位の所にルートインがあります。(笑)
2012年11月30日 三河守コーキしゃん
久居陣屋
地図の市営グラウンド、高通児童公園周辺が城跡に当たります。
グラウンドに駐車場、公園にトイレがあります。
公園前に説明板があり、グラウンドの南側に低土塁がありますが、殆ど消滅しています。
物足りない方は、西に2㎞程行くと敏太神社があり、その裏の山に「宮山城」と言うお城があります。
こちらは虎口の土塁や郭の空堀等が良好に残っています。
久居藩の設立
久居藩は津藩藤堂家の分家で5万3,000石を領する歴とした柳間詰めの大名(城主格大名)である。歴代の大名では2,3の支藩を持つ例が多く、これは本家補佐や血統保持の役目を担っていた訳である。
藤堂家第2代の高次が寛文9年(1669)69歳で隠居したので、嫡男高久が32歳で津城主を継いだ。この時、大学頭高次よりかねての願いの通り、高久の弟高通(高次3男・27歳)へ5万石を、さらに弟高堅へ3,000石を分領された。のちのことになるが、高通の嫡男、2男がともに早世したので、高堅が家督を継ぎ、第2代藩主となった。高堅の所領も合併されることになり、以後、久居藩の5万3,000石が定着した。
寛文9年9月29日、老中列座の江戸城中において、高通へ5万石(伊勢国内4万石、山城国・大和国内1万石)分封の命が下された。これは本家津藩領内より分配されたもので、将軍家よりの領地朱印状は交付されずに、支藩としての久居藩が成立したのである。津藩としては所領の中から分封したにもかかわらず、領内分家の他家にも例があるように、津藩は以後も幕府公認の32万3,950石の石高を公称した。
高通はすでに部屋住みの知行として1万石を父高次から受け、津藩江戸屋敷(柳原邸)で直接随身の臣である西野小左衛門、橋本弥一右衛門、青地市兵衛ら80余人を伴っていた。支藩成立により、津の本藩家中の藤堂源助はじめ70余人、江戸詰めの中よりさらに40余人が高通付きとされ、新しく家臣団が構成された。
久居陣屋の築塁
翌10年正月、一志郡内において、新藩の築塁をするように幕府から命ぜられた。高通は早速、西野小左衛門らを帰国させ、本藩と協議の上、築塁計画の作成にとりかかった。高通は江戸屋敷にあってかねてより為政者としての素養の修得に励み、徳川御家流として隆盛著しい甲州流軍学小幡景憲の高弟植木由右衛門長春に師事していたので、立藩にあたり長春を説得して新規の家臣とし、築塁計画の主任者とした。
築塁予定地は南方に広く雲出川流域の沃野を見下ろす断崖の地で、野辺野高台にあたる景勝地であった。植木長春の設計図は小規模ながら軍学築城法の理に叶う優れたものであったらしく、父高次、兄高久、重臣らも「久居屋敷取、小戸木要害、景もよくこれある由相談致され、絵図到来満足申候」と賛同している。
しかし、軍事的要害色の強い築塁は不都合として幕府の拒否するところとなり、「屋敷廻並総構えの堀無用、水捌きばかりも然るべき事」をはじめ、5箇条の制限が付されて改案を命じられ、あえなく原案崩壊した。堀も石垣も櫓もない平凡な市街の姿となった再案は同年10月に完成し、ようやく幕府の許可を得て、御殿の建築に着手できたのは11月下旬であった。藩主居館や執政所の御殿ですら板屋根で、約200戸の侍屋敷や500戸ほどの町家は草葺き屋根が多かったという。原案とはかけ離れた簡素な陣屋へ、高通が初入府したのは寛文11年7月のことであった。新城下は、幾久しき御家の繁栄を願って当初より「久居」と命名され、江戸詰め勤務も含め総勢260名ほどの家臣を擁して、久居藩はようやく発足することになった。
幻の久居城
松林と麦畑が点在する広野に植木長春が精魂込めて設計した原案の詳細は従前知られていなかったが、近年、原案図らしいものとして『久居外構要害図』が平松令三氏により確認された。戦前、梅原三千氏も『藤影記』の中で植木升安(長春)図ではないかと触れているが、あまり注目はされなかったらしい。しかし、縮尺等も比較的正確で現況と合致するし、幕藩体制下、幕府の禁忌する図が後世作成されるとは考え難いから、まず植木長春の原案図と見てよいのではないか。
図では、武家屋敷地のほぼ四周に土居と総構えの堀を巡らし、土居上には窓と狭間を備えた櫓が6箇所に設けられている。城下東面の表門(大手門)は一の門・二の門・石垣で桝形を形成し、橋を隔てた外堀外には丸馬出しを備え、なお表門南に隣接して大きな三角形の張り出しを設けている。
これは防戦時に敵に横矢を射掛ける仕組みで、軍学上も「屏風折り横矢」として重視しているものである。その上、突端部の外堀外にも櫓がある。これでは防御戦闘機能を備えた立派な要害であり、不許可となった事情もうかがい知れる。
久居陣屋と城下町
実際に構築された久居城下では碁盤目風の整った町並みとなっているが、総構えの堀は幅1間もない排水溝に変わり、土居・石垣櫓は全く姿を消してしまい、原案に表されていた威容は失われてしまった。5万石大名ながら久居城の築城は認められなかったわけで、いわゆる「陣屋大名」にとどまった。城下町西南隅の断崖に接して陣屋が造営されたが、かろうじて、陣屋域の崖地に接しない東側・北側に内堀が設けられ、その外側には若干の広場を備えた。
堀幅は約3間で内側には土居や小丘を巡らし、東側の正門内は桝形風に工夫されている。正門・北門・中門の内側に番所が設けられ、検問に任じている。中央部の御殿はおおむね東半分を役所とし、西半分は藩主居館として使用された。
江戸中期より7回も火災に遭い、文政4年には483戸も焼失して「久居焼け」といわれ、弘化4年(1847)には御殿が全焼し、再建でやっと瓦葺き屋根に改めた。藩主が本藩を継ぐこともたびたびで、江戸後期からは「本家付家老」が置かれることになった。