阿坂城(あざかじょう)

阿坂城の基本情報

通称・別名

浅香城、阿射賀城、白米城(南郭)、椎ノ木城(北郭)

所在地

三重県松阪市大阿坂町桝形

旧国名

伊勢国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

北畠満雅

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

北畠氏、大宮氏(北畠氏家臣)

廃城年

永禄12年(1569)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

国史跡(阿坂城跡附 高城跡 枳城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

枳城(三重県松阪市)[0.9km]
高城(三重県松阪市)[1.4km]
松坂城(三重県松阪市)[6.8km]
松ヶ島城(三重県松阪市)[7.3km]
大河内城(三重県松阪市)[7.6km]
阪内城(三重県松阪市)[7.9km]
木造城(三重県津市)[8.3km]
久居陣屋(三重県津市)[9.1km]
家城城(三重県津市)[12.2km]
津城(三重県津市)[14.6km]

阿坂城の解説文



阿坂城(あざかじょう)は、伊勢国一志郡阿坂(現在の三重県松阪市大阿坂町)にかつて存在した日本の城。白米城(はくまいじょう)・椎之木城(しいのきじょう)とも称する。1982年(昭和57年)に阿坂城跡 附 高城枳城跡(あざかじょうあと つけたり たかんじょうあと からたちじょうあと)の名称で国の史跡に指定されている[1]

伊勢国司から戦国大名となった北畠氏にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点であった[2][3]

概要 

「あざかじょう」の表記には、浅香城(『満済准后日記』)、阿射賀城(『南方紀伝』)もある。大阿坂町の西方にある標高312mの山上に位置し、城跡は東西180m×南北330mの範囲に広がっていた[4]。東に伊勢湾や伊勢志摩国立公園、三河の山々をも見通し[5]、西に室生赤目青山国定公園の山々を望む[6]

城跡は南郭と北郭からなり、南郭は白米城、北郭は椎之木城と呼ばれている。築城主は北畠親房[7]または北畠満雅とされ、この城で行われた籠城戦でのできごとから白米城と呼ばれるようになった[8]。難攻不落の城として名をとどろかせた時代もあったが、織田信長の命令を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に攻められ、落城した。

城郭の構造 

城跡は大きく南郭と北郭からなり、南郭は東西25m×南北30mの範囲にある比高12mの台状地、北郭は70m四方の範囲にある台状地で、南北の郭は250mほど離れている。ここで、南郭を白米城、北郭を椎之木城と呼んでいる。

北郭(椎之木城)の方が規模が大きく新しく、堀切や土塁などで複雑に構成されていることから、北郭が主郭であると考えられる[9]。2つの狭長な台状地を中心に、台状地間と両端に堀切を巡らす[10]。北側の西下斜面には竪堀が2か所みられる。南郭(白米城)の方が北郭(椎之木城)よりも高い位置にあり、松阪市街から見ることができる。45m×60mの基底部は台形をしており、上面は20m×35mの平面楕円形をした台状地で、四隅に小さな台状地を持つ。

南郭(白米城)の東・北・西の三方の尾根に堀切と小型の台状地、北西の尾根には2条の堀切が整備され、桝形山山頂には堀切・空堀・狼煙(のろし)台があった。

近辺には高城(たかんじょう)・枳城(からたちじょう)などの出城があった。高城は北畠氏の家臣・大宮氏が築城したものとみられ、虎口を有し、戦国時代の雰囲気をまとう。枳城は南北朝時代の特長を有する[11]

歴史 

建武2年(1335年)に北畠親房が顕家・顕信・顕能の3人の息子を伴って伊勢国に入った時に南勢(伊勢国南部)にいくつか築いた城のうちの1つが阿坂城であると言われている。阿坂城の史料上の初出は文和元年(1352年、南朝方では正平7年)10月23日(ユリウス暦:11月30日)付けの『鷲見加々丸軍忠状』であり、北朝軍である土岐頼康の軍に鷲見氏が加勢して功績を挙げたことを記した文中に登場する。

その後応永22年(1415年)春に北畠満雅がこの城から挙兵した。明徳の和約で両統迭立(りょうとうてつりつ)が約束されたにもかかわらず、称光天皇が即位し和約が破られたことがその理由であった。満雅には元南朝方の勢力であった大和・紀伊・河内の武士が味方し、幕府方は一色義貫を総大将とし、土岐・京極両氏を送り込んで応戦、満雅側は籠城戦に入った。この時のエピソードが「白米城」の名の由来となった(白米城伝説)。『満済准后日記』によれば、応永22年5月15日(ユリウス暦:1415年6月21日)に城は陥落したという。その後文明10年(1478年)、阿坂城のある桝形山の麓に北畠氏の菩提寺・浄眼寺が北畠材親の援助によって建立された。これにより、麓の居館(浄眼寺)と詰めの城(阿坂城)という中世の根小屋式山城を模したような形ができ上がった。

白米城伝説の後、城に直接関係する記録が途切れるが、永禄8年(1565年)と天正8年(1580年)に記録が復活する。そこには大宮入道含忍斎が城主を務めるとある。永禄10年(1567年)には織田信長方の滝川一益による再三の攻撃をはね付け、堅牢なる城との名を世に広めた。そして永禄12年8月(ユリウス暦:1569年9月)、信長軍は阿坂城を包囲、信長軍は降伏勧告を行うも大宮入道含忍斎は応じず、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によってようやく開城、そのまま廃城となった。この時、北畠軍の大宮大之丞吉行は木下藤吉郎に強弓を引き、秀吉は生涯初にして唯一の戦傷を左脇(左腿とも)に受けたとされる[12]。阿坂城攻めは、大河内城の戦いの前哨戦との位置付けで[13]、それまで大きな手柄を挙げていなかった秀吉に武功を挙げさせるために信長は藤吉郎を送り込んだという。

1982年(昭和57年)4月7日、国の史跡に指定された。2017年(平成29年)より松阪山城会が城跡で発煙筒を焚き、のろしがどのくらいの範囲で見えるかという実験を行っている[14]

白米城伝説

北畠満雅が阿坂城に籠った時、北畠軍は水の確保に苦労した。幕府軍が阿坂城を包囲し、水の補給路を断ったからである。実際に城内にはほとんど水は残っていなかったが、北畠軍は敵を欺くために白米を馬の背に流して城内に水が豊富にあるように見せかけた。これを見た幕府軍は北畠軍がいまだ豊富な水を保持するのかと大いに驚き、水断ち作戦を諦め、包囲を解除したとされる。結局、満雅は阿坂城を奪われてしまったが、仲介者の尽力で幕府との和議が成立した。

白米城伝説の元となった話は、『桜雲記』に記されている。同書は江戸時代前期に書かれ、軍記物のような筆致で描かれている部分もあるなど、史実として捉えるには難のある部分がある。

遺構 

城跡には平坦な城郭跡を残すのみで、往時を偲ぶものは特にない。堀切や土塁は現存し、南郭には阿坂城のあったことを示す石碑が建てられている。城跡は国の史跡指定の前年から、地元の大阿坂町民によって草刈りが継続して行われ、整備されている。

JR紀勢本線・同名松線・近鉄山田線松阪駅より三重交通路線バス48系統嬉野一志町行きに乗車、岩倉口バス停下車、徒歩15分で城跡への登山口に達する。城跡へは登山口から更に40分ほど登る必要がある。ゆっくり登れば約1時間になる。

城跡からの眺望がよいため、春の遠足やハイキングの家族連れなどで賑わう。近隣の瑞巌寺や横滝寺・不動滝と組み合わせて長めの散策をする人もいる。

参考文献 

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643pp.
  • 西垣晴次・松島博『三重県の歴史』山川出版社、昭和49年10月5日、県史シリーズ24、254pp.
  • ふぁみんぐ編集室『松阪 地域みっちゃく生活情報誌 ふぁみんぐ 2012年9月号』中広松阪支局、2012年9月.
  • 三重県観光連盟 監修『ふるさとの散歩道 (三重県)』国土地理協会、平成元年9月第4版、426pp.
  • 美杉村史編集委員会『美杉村史 上巻』美杉村役場、昭和56年3月25日、974pp.
  • 村田修三 編『図説中世城郭事典 第二巻』新人物往来社、昭和62年6月15日、347pp. ISBN 4-404-01426-0
  • ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 24 三重県』人文社、1997年10月1日、235pp.
  • 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社、1983年5月20日、1081pp.

阿坂城の口コミ情報

2022年07月26日 azu天下布武
阿坂城



国指の山城でハイカーさんも多く夏でも遺構は良く見れる方だと思います。椎ノ木城はプリン状の切岸から虎口方面と、竪堀2条を見張れ、また竪堀を防御する張り出した帯曲輪も良いです^ ^ 竪堀は深く長い竪堀でした。 夏でも堀底歩ける良いお城だと思います。

2022年03月23日 RED副将軍【新宮党】
滝之川城[阿坂城  周辺城郭]



極めて技巧的な縄張りの伊勢屈指の山城ですが、先日から重機が入り遺構の損壊がなされています😿
昨年末に城納めとして訪城するまでとっておいた思い入れがある山城でしたが、現在は既に西端の堀切、麓の廃寺跡が消失した様です。

オススメ度 ★★★★★

築城年代等の城史は不詳。
中村川とその支流の間に築かれており、妙光院殿の居城であっと伝わります。
伊勢平野と多気北畠氏城館を結ぶ要衝であったことより北畠氏関連の城郭と考えられます。

見所
北東尾根には極めて残存状態の良い畝状竪堀が残ります。
主郭の虎口には石積みが残り、周辺にも石積みが点在しています。
至るところに横矢が掛かり、桝形が形成された縄張りは極めて技巧的です。

2020年06月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
滝之川城[阿坂城  周辺城郭]



滝乃川城は阿坂城の西方約3.0km、標高約110mの丘陵頂部に主郭が存します。お城の東南麓に蛇行する中村川、三方を河川に囲まれた要害の地です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の滝乃川古墳を目標に設定して下さい。この古墳付近にお城の案内板が立っています。が、錆びてて全く読めないです。此処から行けるかなと誰でも思いますが、急流が音を立てて流れてるので行けません。従って以下を参考にして下さいまし。

伊勢中川方面から三重県道30号線を進み、東光山神宮寺近くの中村川の橋を渡ります。渡ったらすぐに左へ曲がり、中村川を左に見ながら突き当たりまで南方へ800m位進みましょう。此処に車を捨てて河川敷の方へ歩いて行くと中村川支流に掛かる小さな鉄製の橋がありますのでこれが登城路入口になります。お城の東麓は神社?跡(根古屋ぽくもある。)だったらしくコンクリート製の階段とか付いてますが、今は所詮廃道となっています。登って1分で右手に桝形虎口のような地形が見えますのでこれに入り、結構広めの削平地に出たら西方山側へ登って行けばお城に辿り着きます。城域までは10分掛からないと思いますので頑張りましょう。

お城は凄かったです。主郭には土塁が付き、主郭北側一段下がった所にはL字形の土塁を持つ郭があります。主郭にはこの土塁から入ることになりますね。この郭の北側にも竪堀と土塁で区画された郭があり主郭部への石積みの付いた虎口に通じます。主郭東側には畝状竪堀、土塁付きの腰郭から横矢が掛けられます。主郭南側には横堀が走り、主郭西側にも竪堀が2条は確認出来ます。主郭部から東方には出丸の様な郭がありますが、その連絡には空堀が並走する土塁兼土橋が用いられ、これを通過する際は常に空堀脇の郭上からの横矢に曝される仕組みとなってます。出丸の様な郭には桝形虎口があり、郭の東側には畝状竪堀が…堀切を兼ねる逆L字の横堀を起点とする畝状竪堀なんて萌えまくる事間違い無し!このお城の竪堀の残存率は総じて凄いです。

お城は情報が殆どありませんが、廃城からほぼそのままと思われます。意外にもこの時期でも藪になっておらず、その輪郭を楽しむ事が出来ました。個人的感想ですが、極めて技巧的なお城、そして現況は伊勢屈指の山城と言えるでしょう。阿坂城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2020年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
八田城[阿坂城  周辺城郭]



八田城は阿坂城の北西約2.3km、標高約100mの山塊山頂の一つに主郭が存します。北麓からの比高は75m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、位置がずれているので注意です。この場所から南側に見えるお山が城山となります。

築城年代は大雑把に鎌倉時代、築城者は相模国、桓武平氏良文流三浦氏、三浦五郎左衛門尉盛時が築城したと言われています。その後、大多和氏を名乗り北畠氏の被官となったらしいんですが、どうにも錯綜している感じです。大多和氏は相模国三浦郡大多和村を本貫地とする三浦義明の三男、義久が始まりですが、三浦盛時なる名前は佐原三浦氏で後に三浦介を名乗り宗家を継ぐ事になる人物(後に出家までしている。)にしか該当しないようですので、八田城付近にある三浦山義明寺のこの経緯を説明する由緒は無理があるように思えます。大多和氏の流れを汲む者が伊勢に所領を持って土着したと考えるのが自然じゃないでしょか。もちろんこれに同名の者がいたとしても不思議ではありませんが、大多和氏は概ね「義」の字を通字としてますのでその可能性は低いと思われます。何れにせよ三浦氏の庶流の者が伊勢に所領を持って在地、国人領主化したものには間違い無いんでしょうが…

戦国時代には北畠氏の被官にして八田城城主である大多和監物なる人物が登場します。織田勢の攻勢を籠城で耐え抜きましたが、主家が信雄を養子にする条件で和睦を受け入れるとこれに従ったようです。後に監物は北畠具教が謀殺されると在地で三浦姓に復し帰農しました。

お城は地元有志の方達により整備されています。公園化されていると聞いてましたが、良い意味で全然されてません。お城の跡を損なわないように少しだけ手が加えられてるという感じです。遺構の残存率も素晴らしくお手軽に散策出来るのも魅力、自分は諸事情でウェットスーツにcrocsで登城しましたが全く問題無し。ただマダニには注意して下さい。

何となく同じ伊勢にある采女城を彷彿させたりもする素晴らしいお城です。阿坂城(最近新城の存在が確認されたらしいですね!)に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月24日 近江守Silvine
八田城[阿坂城  周辺城郭]



八田城は松阪市嬉野八田町の南に見える山にあります。城へは県道30号と県道580号の交差点「島田橋南」から案内に従って南へ向かってください。山裾に沿って右に曲がるとすぐに、城の説明板と入口が見えます。
城の入口には模擬櫓がありますが、だいぶ朽ちてしまっており立入れません。道なりに奥へ進むと土塁と切岸に挟まれた横堀に入ります。先で道が二手に分かれており、下へ降りると井戸跡と大きな竪堀が、上に行くと堀切を越えて、東の虎口から土塁に囲まれた主郭へ辿り着きます。主郭の土塁は南側が目立って高くなっており、櫓台を思わせます。その櫓台の脇に南の虎口があり、深い堀切に木橋が架かっています。さらに南へ進むと城から少し離れたところに堀切と土橋状の地形があります。
登城口から10分ほどで主郭へたどり着ける比高の低い城で、内部も公園整備されており、とても見やすい城跡です。

2015年12月12日 加勢左近衛少将芳之
阿坂城

久しぶりに我が城に登城しました!見晴らしは最高だし、いい汗かきましたよ♪

2013年06月15日 mizuiro式部卿
阿坂城

【白米城の由来~地元での言い伝え~】

戦の折、籠城戦が長引いていた。
敵軍が、水も残り少なくなってきたであろうと監視をしていたところ、なんと馬を洗っているではありませんか!?
「まだ馬を洗える程の水があるのか!?」
これでは何時まで経っても勝てそうにない、と引き揚げていったそうな。

実は米を使って馬を洗っているように見せかけたのでした。

その言い伝えから、地元では『白米城』と呼ばれています。

2011年03月05日 北畠あきちか
阿坂城

阿坂城は伊勢国に善政を敷いた国司、北畠氏が築城しました。

城は主に北と南の二つの曲輪群で構成されています。

南は土塁などを使用せず、山の頂を削平した台状地を中心に、舌状に広がる尾根を削平し、平坦な曲輪のみで構成しただけの古い形式を見せ、北は土塁や堀で複雑になっており、北と南で、時代差があることがわかります。

南は築城当時(南北朝期)の城で、北は織田信長の伊勢進攻に備え、北畠具教が増築したのではないかと思われます。

阿坂城の周辺スポット情報

 八田城(周辺城郭)

 滝之川城(周辺城郭)

 天花寺城(周辺城郭)

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