阿坂城(あざかじょう)

阿坂城の基本情報

通称・別名

浅香城、阿射賀城、白米城(南郭)、椎ノ木城(北郭)

所在地

三重県松阪市大阿坂町桝形

旧国名

伊勢国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

北畠満雅

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

北畠氏、大宮氏(北畠氏家臣)

廃城年

永禄12年(1569)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

国史跡(阿坂城跡 附 高城跡 枳城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

滝之川城(三重県松阪市)[3.0km]
松坂城(三重県松阪市)[6.8km]
松ヶ島城(三重県松阪市)[7.3km]
大河内城(三重県松阪市)[7.6km]
阪内城(三重県松阪市)[7.9km]
木造城(三重県津市)[8.3km]
宮山城(三重県津市)[9.9km]
家城城(三重県津市)[12.2km]
津城(三重県津市)[14.6km]
斎宮城(三重県多気郡)[16.3km]

阿坂城の解説文



阿坂城(あざかじょう)は、伊勢国一志郡阿坂(現在の三重県松阪市大阿坂町)にあった日本の城。白米城(はくまいじょう)・椎之木城(しいのきじょう)とも称する。1982年(昭和57年)に阿坂城跡 附 高城跡 枳城跡(あざかじょうあと つけたり たかんじょうあと からたちじょうあと)の名称で国の史跡に指定されている[1]

伊勢国司から戦国大名となった北畠氏にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点であった[2][3]

概要 

「あざかじょう」の表記には、浅香城(『満済准后日記』)、阿射賀城(『南方紀伝』)もある。大阿坂町の西方にある標高312mの山上に位置し、城跡は東西180m×南北330mの範囲に広がっていた[4]。東に伊勢湾や伊勢志摩国立公園、三河の山々をも見通し[5]、西に室生赤目青山国定公園の山々を望む[6]

城跡は南郭と北郭からなり、南郭は白米城、北郭は椎之木城と呼ばれている。築城主は北畠親房[7]または北畠満雅とされ、この城で行われた籠城戦でのできごとから白米城と呼ばれるようになった[8]。難攻不落の城として名をとどろかせた時代もあったが、織田信長の命令を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に攻められ、落城した。

城郭の構造 

城跡は大きく南郭と北郭からなり、南郭は東西25m×南北30mの範囲にある比高12mの台状地、北郭は70m四方の範囲にある台状地で、南北の郭は250mほど離れている。ここで、南郭を白米城、北郭を椎之木城と呼んでいる。

北郭(椎之木城)の方が規模が大きく新しく、堀切や土塁などで複雑に構成されていることから、北郭が主郭であると考えられる[9]。2つの狭長な台状地を中心に、台状地間と両端に堀切を巡らす[10]。北側の西下斜面には竪堀が2か所みられる。南郭(白米城)の方が北郭(椎之木城)よりも高い位置にあり、松阪市街から見ることができる。45m×60mの基底部は台形をしており、上面は20m×35mの平面楕円形をした台状地で、四隅に小さな台状地を持つ。

南郭(白米城)の東・北・西の三方の尾根に堀切と小型の台状地、北西の尾根には2条の堀切が整備され、桝形山山頂には堀切・空堀・狼煙(のろし)台があった。

近辺には高城(たかんじょう)・枳城(からたちじょう)などの出城があった。高城は北畠氏の家臣・大宮氏が築城したものとみられ、虎口を有し、戦国時代の雰囲気をまとう。枳城は南北朝時代の特長を有する[11]

歴史 

建武2年(1335年)に北畠親房が顕家・顕信・顕能の3人の息子を伴って伊勢国に入った時に南勢(伊勢国南部)にいくつか築いた城のうちの1つが阿坂城であると言われている。阿坂城の史料上の初出は文和元年(1352年、南朝方では正平7年)10月23日(ユリウス暦:11月30日)付けの『鷲見加々丸軍忠状』であり、北朝軍である土岐頼康の軍に鷲見氏が加勢して功績を挙げたことを記した文中に登場する。

その後応永22年(1415年)春に北畠満雅がこの城から挙兵した。明徳の和約で両統迭立(りょうとうてつりつ)が約束されたにもかかわらず、称光天皇が即位し和約が破られたことがその理由であった。満雅には元南朝方の勢力であった大和・紀伊・河内の武士が味方し、幕府方は一色義貫を総大将とし、土岐・京極両氏を送り込んで応戦、満雅側は籠城戦に入った。この時のエピソードが「白米城」の名の由来となった(白米城伝説)。『満済准后日記』によれば、応永22年5月15日(ユリウス暦:1415年6月21日)に城は陥落したという。その後文明10年(1478年)、阿坂城のある桝形山の麓に北畠氏の菩提寺・浄眼寺が北畠材親の援助によって建立された。これにより、麓の居館(浄眼寺)と詰めの城(阿坂城)という中世の根小屋式山城を模したような形ができ上がった。

白米城伝説の後、城に直接関係する記録が途切れるが、永禄8年(1565年)と天正8年(1580年)に記録が復活する。そこには大宮入道含忍斎が城主を務めるとある。永禄10年(1567年)には織田信長方の滝川一益による再三の攻撃をはね付け、堅牢なる城との名を世に広めた。そして永禄12年8月(ユリウス暦:1569年9月)、信長軍は阿坂城を包囲、信長軍は降伏勧告を行うも大宮入道含忍斎は応じず、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によってようやく開城、そのまま廃城となった。この時、北畠軍の大宮大之丞吉行は木下藤吉郎に強弓を引き、秀吉は生涯初にして唯一の戦傷を左脇(左腿とも)に受けたとされる[12]。阿坂城攻めは、大河内城の戦いの前哨戦との位置付けで[13]、それまで大きな手柄を挙げていなかった秀吉に武功を挙げさせるために信長は藤吉郎を送り込んだという。

1982年(昭和57年)4月7日、国の史跡に指定された。2017年(平成29年)より松阪山城会が城跡で発煙筒を焚き、のろしがどのくらいの範囲で見えるかという実験を行っている[14]

白米城伝説

北畠満雅が阿坂城に籠った時、北畠軍は水の確保に苦労した。幕府軍が阿坂城を包囲し、水の補給路を断ったからである。実際に城内にはほとんど水は残っていなかったが、北畠軍は敵を欺くために白米を馬の背に流して城内に水が豊富にあるように見せかけた。これを見た幕府軍は北畠軍がいまだ豊富な水を保持するのかと大いに驚き、水断ち作戦を諦め、包囲を解除したとされる。結局、満雅は阿坂城を奪われてしまったが、仲介者の尽力で幕府との和議が成立した。

白米城伝説の元となった話は、『桜雲記』に記されている。同書は江戸時代前期に書かれ、軍記物のような筆致で描かれている部分もあるなど、史実として捉えるには難のある部分がある。

遺構 

城跡には平坦な城郭跡を残すのみで、往時を偲ぶものは特にない。堀切や土塁は現存し、南郭には阿坂城のあったことを示す石碑が建てられている。城跡は国の史跡指定の前年から、地元の大阿坂町民によって草刈りが継続して行われ、整備されている。

JR紀勢本線・同名松線・近鉄山田線松阪駅より三重交通路線バス48系統嬉野一志町行きに乗車、岩倉口バス停下車、徒歩15分で城跡への登山口に達する。城跡へは登山口から更に40分ほど登る必要がある。ゆっくり登れば約1時間になる。

城跡からの眺望がよいため、春の遠足やハイキングの家族連れなどで賑わう。近隣の瑞巌寺や横滝寺・不動滝と組み合わせて長めの散策をする人もいる。

参考文献 

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643pp.
  • 西垣晴次・松島博『三重県の歴史』山川出版社、昭和49年10月5日、県史シリーズ24、254pp.
  • ふぁみんぐ編集室『松阪 地域みっちゃく生活情報誌 ふぁみんぐ 2012年9月号』中広松阪支局、2012年9月.
  • 三重県観光連盟 監修『ふるさとの散歩道 (三重県)』国土地理協会、平成元年9月第4版、426pp.
  • 美杉村史編集委員会『美杉村史 上巻』美杉村役場、昭和56年3月25日、974pp.
  • 村田修三 編『図説中世城郭事典 第二巻』新人物往来社、昭和62年6月15日、347pp. ISBN 4-404-01426-0
  • ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 24 三重県』人文社、1997年10月1日、235pp.
  • 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社、1983年5月20日、1081pp.

阿坂城の口コミ情報

2026年04月06日 尼崎城能登守一口城主
枳城[阿坂城  周辺城郭]



枳(からたち)城に3/29に登城。訪城時は大河内城や阪内城登城後に進軍したため、伊勢自動車道沿いに枳城の南側からアプローチ。城郭マークを確認して、写真①中央の山が枳城であることを確認して畑の中の道からお城を目指しました。
写真②地点まで近づくも登城口が分からず、直感で写真③の狭いスペースから城攻めに挑戦。段曲輪状(写真④、⑤)の斜面を直登して山頂を目指していくと梯子(写真⑥)が立て掛けてあり、少し希望が見えたものの獣害用フェンス(写真⑦)に阻まれこちらで登城を断念😢
当日は阿坂城のもう一つの出城の高城にも登城し、下城後に阿坂城や出城群の遠望を眺めてみました(写真⑧:左側の鉄塔が建っている山が枳城)
当日は松阪駅前の観光案内所にレンタサイクルを返却した際に「松阪の城50選」という本(冊子)を紹介され購入📕当日は時間の関係で本城の阿坂(白米)城に登れなかったので、阿坂城を次の機会に登る際に本を参考に枳城へ再チャレンジして本曲輪跡の石仏(大日さん)をお参りしたいと思います🙏

2026年04月06日 尼崎城能登守一口城主
高城[阿坂城  周辺城郭]



[直感登城編]
高城に3/29に登城。当日は阿射加神社方面よりアプローチ。城郭マークから写真①正面の小山が高城であることを確認して、神社方面の宮池(写真②)を眺めながら登山口探し🔍
写真③地点から山城側へ入ってみると山城への入口のような枕木(写真④)があり進んでみると雑木林の中に迷い込んでしまった状態になってしまうも、諦めずに城郭マークを目指して写真⑤の斜面を登っていくと本曲輪(写真⑥)に無事に到着‼️ハイキングコース🥾のような道を進み東側虎口(写真⑦)を出てみると曲輪IIで説明板(写真⑧)を発見できました🪧

2026年04月06日 尼崎城能登守一口城主
高城[阿坂城  周辺城郭]



[東西登山口]
直感で登城後に、東西の登り口を確認✅まずは東側の登山口🔍直感登城編の写真①では、ビニールハウスの上の方に黄色いパイプがチラッと見えているので、桜の木の右側を進んでいくと登り口に看板🪧(写真①)があります。
写真②の黄色のU字型バリカーを一歩目から左に曲がるとかすかに道筋(写真③)が見えているので道に沿って進むと曲輪II(写真④)の説明板の前を通って東側虎口より本曲輪に入城できます‼️
続けて西側の登り口ですが、直感登城編の写真①地点から左方向へ道なりに進み、写真⑤の分岐点で右側の坂の方へ進んでいくとお城への階段(写真⑥)が見えてきます。階段を上がるとほりこし観音さん(写真⑦)がお迎えしてくれます😊あとは道標(写真⑧)に沿って進んでいくと本曲輪へ辿り着けます。

2026年03月20日 ᴿᴱᴰ副将軍
天花寺城[阿坂城  周辺城郭]



織田信長による伊勢侵攻に対する北畠氏の重要拠点⚔️

オススメ度 ★★★★⭐︎

天花寺城(てんげいじじょう)と読みます

築城年代や築城主等の城史は詳細不詳。天花寺氏の居城と考えられています。
歴史は古く平安時代の築城と考えられており、鎌倉時代には久我三郎が城主の名として伝わります。
久我修理太夫の子である久我主計介が天花寺氏に改称したとされ、伊勢国司の北畠氏に仕えたとされ、天花寺広高や天花寺新左衛門も城主の名が伝わります。
1567年から1569年の織田信長による伊勢侵攻の際には、北畠氏は天花寺城に籠城し戦ったとされます。
天花寺小次郎は約3年に渡り戦うも討死し、天花寺城は廃城となった様です。

見所
小鳥山から東に伸びる標高40mの天花寺丘陵東端に築かれています。
丘陵北東端に土塁囲みの主郭を置き、北東に伸びる尾根は二重堀切で遮断しています。
主郭南側に虎口が開口し、南西に空堀を設けて二郭、更に空堀を隔てて三郭と続いていましたが、三郭は県道により削られています。
さらに南には四郭、五郭と続いてたとされ、小規模な堀や土塁が残ります。周辺には古墳群や中世の墓地跡があり、多数の石塔や石仏が出土しています。

2026年02月23日 イカ天相模守リーダー
阿坂城

攻略法ですが「白米城 ハイキング」でググると「山と渓谷」あたりのサイトに飛ばされてあれこれアドバイスがあるので参考にすると良いでしょう。頂上は360度の絶景で素晴らしく、多くのハイカーがお弁当を広げて談笑しています。それらの団体とは一線を画し「わたしの趣味はハイキングではありません。城巡りです。えっと竪堀はどこかな?」と泰然と行動するのが城メグラーの矜持と言えます。

ちなみに高城(阿射加神社付近)から南西に300mほど進むと伊勢道があり、さらに300mほど進むと、大きな資材置き場的なスペースがあり非操業時は駐車可能です。そこから10分くらいで登城できます。

2026年02月23日 イカ天相模守リーダー
高城[阿坂城  周辺城郭]



国史なのに駐車場、トイレ、パンフ、案内図、説明板など一切ありません。また「農道なので私有車立入禁止」など近所の圧も強いです。東の登城口から登城しましたが笹に覆われてどこに進んで良いか100パー迷います。(写真の黄色の小橋を渡ったら直ぐに左(西)に進んでください)本丸も2月のくせに笹だらけで何がなんやら。

「国史は入場料を払ってでも行くべき」が持論ですが、ここは伊勢道でポチって終了でいいかなぁと💦

2026年02月14日 ハマカズ
枳城[阿坂城  周辺城郭]



いろいろな攻城記を参考に目指しましたが、高速道路側道からの入り口がわからず、1日目は断念(写真①側道に倒れていた道標。あらぬ方を向いている)。翌日、下調べをし直して、昨日の場所から再挑戦。高速道路を潜って、すぐ側道を左折し、最初の農道を右折。果樹園の中を歩き、そのまま真っすぐ行くとゲートがありますが、そこを過ぎて、少し歩くと老人会作成の道標があります。ここからは道標が次々と立てられていて、迷わず登城できます。(写真②攻城)

2025年07月27日 MACHT征夷大将軍
高城[阿坂城  周辺城郭]

当初東側の登城口から本郭にアクセスしようと思いましたが、入口付近は草が生い茂りすぎていてどこを進めばいいのかよくわからず断念。西側の登城口からアクセスすることとしました。西側はコンクリートの階段を登るルートなので迷うことなくほぼ一本道で本郭に行くことができます。

西側から登城して東側に出るまでゆっくり見て回っても30分くらいなので結構お手軽に見られる山城だと思います。

2025年01月18日 彦千代渡島守
阿坂城

松坂駅918 嬉野一志野行きバス使用(休日ダイヤ)観光案内所にてマップ取得 岩倉口下車、徒歩10分にて上眼寺 駐車場車多し ウォーキングの方が多いようです、椎ノ木城址迄は約30分 白米城まで約10分.下山小阿坂ルート使用(大阿坂ルート工事の為R7・3・25迄閉鎖)約50分阿坂小前バス停1351発にて松坂駅

2024年09月16日 尾張守えりっき
阿坂城



登城ルートはいくつかあって、いずれも歩きやすいです。見晴らしも抜群なので、夜景を楽しむのも良さそうです。

2024年07月31日 ᴿᴱᴰ副将軍
椎ノ木城[阿坂城  周辺城郭]



高く鋭い切岸が特徴的な北畠満雅の拠点🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。1336年に北畠親房が伊勢国に入った時に南伊勢に築いた城郭のひとつが始まりともされますが定かではありません。
1428年に称光天皇が崩御し嫡流が断絶すると、足利義教と後小松上皇が彦仁王(後花園天皇)を践祚させます。この皇位継承に不満を抱いた小倉宮聖承は、伊勢国司である北畠満雅を頼り嵯峨から伊勢に逃亡。北畠満雅は幕府と対立していた鎌倉公方の足利持氏とともに小倉宮を推戴して反乱を起こします。この時に北畠満雅が築き、足利将軍勢を迎え撃ったと云われます。
1569年には織田信長が伊勢に侵攻。大河内城の北畠具教を攻めた際には、阿坂城には北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が籠もっていましたが、織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)により落城し、その後に廃城となりました。

見所
標高312mの桝形山に築かれており、山頂部が白米城、北尾根の郭群が椎ノ木城であり、併せて阿坂城と呼ばれます。
椎ノ木城は白米城より標高は低いものの、広く縄張りも新しいため阿坂城の主郭部と考えられています。
土塁と堀切により区切られた主郭と副郭と周辺の帯郭で構成されており、高く鋭い切岸と虎口が特徴的です。

行き方は浄眼寺を目標に設定。整備された登山道と登山用駐車場があります。比高は約260mで椎ノ木城の先に白米城があります。

2024年07月30日 ᴿᴱᴰ副将軍
阿坂城



登録地である白米城(南郭)の口コミです

白米伝説が残る北畠満雅の拠点🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。1336年に北畠親房が伊勢国に入った時に南伊勢に築いた城郭のひとつが始まりともされますが定かではありません。
1428年に称光天皇が崩御し嫡流が断絶すると、足利義教と後小松上皇が彦仁王(後花園天皇)を践祚させます。この皇位継承に不満を抱いた小倉宮聖承は、伊勢国司である北畠満雅を頼り嵯峨から伊勢に逃亡。北畠満雅は幕府と対立していた鎌倉公方の足利持氏とともに小倉宮を推戴して反乱を起こします。この時に北畠満雅が築き、足利将軍勢を迎え撃ったのが白米城と云われます。
幕府軍は包囲して水の手を抑えますが、籠城していた北畠満雅は白米を馬の背に流して水があるように見せかけ幕府軍を欺いて包囲を解除させたことから白米城と呼ばれました。
1569年には織田信長が伊勢に侵攻。大河内城の北畠具教を攻めた際には、白米城には北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が籠もっていましたが、織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)により落城し、その後に廃城となりました。

見所
標高312mの桝形山に築かれており、山頂部が白米城、北尾根の郭群が椎の木城であり、併せて阿坂城と呼ばれます。
山頂を円形に削平し鋭い切岸堅められています。北東にも堀切があり、尾根先端部にも一条の堀切があります。

⁡行き方は、浄眼寺を目標に設定。整備された登山道と登山用駐車場があります。比高は約260mで椎ノ木城を通り辿り着きます。

2024年05月27日 池田紀伊守信輝
浄眼寺[阿坂城  寺社・史跡]

浄眼寺は阿坂城跡への登り口に位置する曹洞宗の寺院で、文明10年(1478)に伊勢国司北畠政郷が、僧玄虎を招いて開創した北畠氏の菩提寺

2023年07月31日 たまちゃん
阿坂城



浄眼寺前の登城口に駐車場があり、整地された登山道を30分程登ると椎ノ木城の切岸に至ります。白米城は椎ノ木城からすぐです。

2023年06月22日 ᴿᴱᴰ副将軍
高城[阿坂城  周辺城郭]



技巧的な虎口が特徴的な阿坂城の出城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代等の城史は不詳。
阿坂城の北東に位置する丘陵上に築かれており、阿坂城の出城あるいは居館として機能していたと考えられています。

見所
標高70mの丘陵上に築かれており、土塁が巡る単郭方形の縄張りです。南東にも削平地が広がり副郭かもしれません。
主郭は西側と東側に虎口が開口し、特に西側の虎口は見事な桝形が形成されており、下草に覆われていても判別できます。切岸の高さ鋭さもなかなかのものです。
主郭北側下には二重堀切がありますが薄めです。

行き方は、東側と西側に登城口がありますが、近くに駐車場は見当たらず、阿坂城駐車場から歩きました。比高は20mほどで直ぐに登ることができます。

2022年07月26日 tracer_azu
阿坂城



国指の山城でハイカーさんも多く夏でも遺構は良く見れる方だと思います。椎ノ木城はプリン状の切岸から虎口方面と、竪堀2条を見張れ、また竪堀を防御する張り出した帯曲輪も良いです^ ^ 竪堀は深く長い竪堀でした。 夏でも堀底歩ける良いお城だと思います。

2021年03月31日 STO大和守5110
枳城[阿坂城  周辺城郭]



地元の有志の会が矢印をしてくれているので迷わずに到着することが出来ました。所々危ない所がありますが高速道路の下から15分程で行けました。

2020年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
八田城[阿坂城  周辺城郭]



八田城は阿坂城の北西約2.3km、標高約100mの山塊山頂の一つに主郭が存します。北麓からの比高は75m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、位置がずれているので注意です。この場所から南側に見えるお山が城山となります。

築城年代は大雑把に鎌倉時代、築城者は相模国、桓武平氏良文流三浦氏、三浦五郎左衛門尉盛時が築城したと言われています。その後、大多和氏を名乗り北畠氏の被官となったらしいんですが、どうにも錯綜している感じです。大多和氏は相模国三浦郡大多和村を本貫地とする三浦義明の三男、義久が始まりですが、三浦盛時なる名前は佐原三浦氏で後に三浦介を名乗り宗家を継ぐ事になる人物(後に出家までしている。)にしか該当しないようですので、八田城付近にある三浦山義明寺のこの経緯を説明する由緒は無理があるように思えます。大多和氏の流れを汲む者が伊勢に所領を持って土着したと考えるのが自然じゃないでしょか。もちろんこれに同名の者がいたとしても不思議ではありませんが、大多和氏は概ね「義」の字を通字としてますのでその可能性は低いと思われます。何れにせよ三浦氏の庶流の者が伊勢に所領を持って在地、国人領主化したものには間違い無いんでしょうが…

戦国時代には北畠氏の被官にして八田城城主である大多和監物なる人物が登場します。織田勢の攻勢を籠城で耐え抜きましたが、主家が信雄を養子にする条件で和睦を受け入れるとこれに従ったようです。後に監物は北畠具教が謀殺されると在地で三浦姓に復し帰農しました。

お城は地元有志の方達により整備されています。公園化されていると聞いてましたが、良い意味で全然されてません。お城の跡を損なわないように少しだけ手が加えられてるという感じです。遺構の残存率も素晴らしくお手軽に散策出来るのも魅力、自分は諸事情でウェットスーツにcrocsで登城しましたが全く問題無し。ただマダニには注意して下さい。

何となく同じ伊勢にある采女城を彷彿させたりもする素晴らしいお城です。阿坂城(最近新城の存在が確認されたらしいですね!)に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月24日 近江守Silvine
八田城[阿坂城  周辺城郭]



八田城は松阪市嬉野八田町の南に見える山にあります。城へは県道30号と県道580号の交差点「島田橋南」から案内に従って南へ向かってください。山裾に沿って右に曲がるとすぐに、城の説明板と入口が見えます。
城の入口には模擬櫓がありますが、だいぶ朽ちてしまっており立入れません。道なりに奥へ進むと土塁と切岸に挟まれた横堀に入ります。先で道が二手に分かれており、下へ降りると井戸跡と大きな竪堀が、上に行くと堀切を越えて、東の虎口から土塁に囲まれた主郭へ辿り着きます。主郭の土塁は南側が目立って高くなっており、櫓台を思わせます。その櫓台の脇に南の虎口があり、深い堀切に木橋が架かっています。さらに南へ進むと城から少し離れたところに堀切と土橋状の地形があります。
登城口から10分ほどで主郭へたどり着ける比高の低い城で、内部も公園整備されており、とても見やすい城跡です。

2019年04月01日 青コアラ美濃守
高城[阿坂城  周辺城郭]

阿坂城の二つの出城のうちの一つ。

場所がかなり分かりにくいです。県道58号から阿射加神社(大阿坂)の方へ曲がると、すぐに白米城址の石碑がありますがそのまま真っ直ぐ進みます。前方に神社が見えたらその右側の用水に沿ってさらに奥へ。右側の三本目の道を入るとすぐ左に東側の登城口があります(看板あり)。西側にも登城口があるようですが、東側の方が説明板を読んでから行けるのでいいかと思います。

駐車場は無いので、神社入口前のスペースに停めました。歩いて5、6分で登城口です。

2019年03月19日 青コアラ美濃守
枳城[阿坂城  周辺城郭]

阿坂城の二つの出城のうちの一つ。県道58号からJA松阪阿坂の方へ曲がり、高速道路の方に向かって進みます。高速の下をくぐった辺りから案内板が出てくるので、これに従って山の中に入ります。が、この案内板はあくまでも歩行者に向けて書かれた物です。私は車で行けると思って突入してしまい、車を傷付けた上に方向転換も出来ず、来た道を延々バックで戻る羽目になりました。軽トラでもない限り歩いた方がいいでしょう。高速をくぐってすぐの辺りに路駐し、城跡まで徒歩15~20分ほどでした。

2015年12月12日 加勢左近衛少将芳之
阿坂城

久しぶりに我が城に登城しました!見晴らしは最高だし、いい汗かきましたよ♪

2013年06月15日 mizuiro式部卿
阿坂城

【白米城の由来~地元での言い伝え~】

戦の折、籠城戦が長引いていた。
敵軍が、水も残り少なくなってきたであろうと監視をしていたところ、なんと馬を洗っているではありませんか!?
「まだ馬を洗える程の水があるのか!?」
これでは何時まで経っても勝てそうにない、と引き揚げていったそうな。

実は米を使って馬を洗っているように見せかけたのでした。

その言い伝えから、地元では『白米城』と呼ばれています。

2011年03月05日 北畠あきちか
阿坂城

阿坂城は伊勢国に善政を敷いた国司、北畠氏が築城しました。

城は主に北と南の二つの曲輪群で構成されています。

南は土塁などを使用せず、山の頂を削平した台状地を中心に、舌状に広がる尾根を削平し、平坦な曲輪のみで構成しただけの古い形式を見せ、北は土塁や堀で複雑になっており、北と南で、時代差があることがわかります。

南は築城当時(南北朝期)の城で、北は織田信長の伊勢進攻に備え、北畠具教が増築したのではないかと思われます。

阿坂城の周辺スポット情報

 竪堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 切岸(遺構・復元物)

 竪堀(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 竪堀(遺構・復元物)

 高城虎口(遺構・復元物)

 高城虎口(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 案内板(碑・説明板)

 高城跡説明板(碑・説明板)

 八田城(周辺城郭)

 天花寺城(周辺城郭)

 伊勢寺城(周辺城郭)

 岩内城(周辺城郭)

 椎ノ木城(周辺城郭)

 釜生田城(周辺城郭)

 枳城(周辺城郭)

 高城(周辺城郭)

 天白遺跡(寺社・史跡)

 浄眼寺(寺社・史跡)

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 駐車場(駐車場)

 高城登り口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 高城東側登城口(その他)

 枳城登城口(その他)

 登城口(川沿い)(その他)

 高城案内板(その他)

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