八田城
八田城([阿坂城 周辺城郭])
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八田城の口コミ情報
2020年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
八田城は阿坂城の北西約2.3km、標高約100mの山塊山頂の一つに主郭が存します。北麓からの比高は75m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、位置がずれているので注意です。この場所から南側に見えるお山が城山となります。
築城年代は大雑把に鎌倉時代、築城者は相模国、桓武平氏良文流三浦氏、三浦五郎左衛門尉盛時が築城したと言われています。その後、大多和氏を名乗り北畠氏の被官となったらしいんですが、どうにも錯綜している感じです。大多和氏は相模国三浦郡大多和村を本貫地とする三浦義明の三男、義久が始まりですが、三浦盛時なる名前は佐原三浦氏で後に三浦介を名乗り宗家を継ぐ事になる人物(後に出家までしている。)にしか該当しないようですので、八田城付近にある三浦山義明寺のこの経緯を説明する由緒は無理があるように思えます。大多和氏の流れを汲む者が伊勢に所領を持って土着したと考えるのが自然じゃないでしょか。もちろんこれに同名の者がいたとしても不思議ではありませんが、大多和氏は概ね「義」の字を通字としてますのでその可能性は低いと思われます。何れにせよ三浦氏の庶流の者が伊勢に所領を持って在地、国人領主化したものには間違い無いんでしょうが…
戦国時代には北畠氏の被官にして八田城城主である大多和監物なる人物が登場します。織田勢の攻勢を籠城で耐え抜きましたが、主家が信雄を養子にする条件で和睦を受け入れるとこれに従ったようです。後に監物は北畠具教が謀殺されると在地で三浦姓に復し帰農しました。
お城は地元有志の方達により整備されています。公園化されていると聞いてましたが、良い意味で全然されてません。お城の跡を損なわないように少しだけ手が加えられてるという感じです。遺構の残存率も素晴らしくお手軽に散策出来るのも魅力、自分は諸事情でウェットスーツにcrocsで登城しましたが全く問題無し。ただマダニには注意して下さい。
何となく同じ伊勢にある采女城を彷彿させたりもする素晴らしいお城です。阿坂城(最近新城の存在が確認されたらしいですね!)に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2020年04月24日 梅鉢近江守Silvine
八田城は松阪市嬉野八田町の南に見える山にあります。城へは県道30号と県道580号の交差点「島田橋南」から案内に従って南へ向かってください。山裾に沿って右に曲がるとすぐに、城の説明板と入口が見えます。
城の入口には模擬櫓がありますが、だいぶ朽ちてしまっており立入れません。道なりに奥へ進むと土塁と切岸に挟まれた横堀に入ります。先で道が二手に分かれており、下へ降りると井戸跡と大きな竪堀が、上に行くと堀切を越えて、東の虎口から土塁に囲まれた主郭へ辿り着きます。主郭の土塁は南側が目立って高くなっており、櫓台を思わせます。その櫓台の脇に南の虎口があり、深い堀切に木橋が架かっています。さらに南へ進むと城から少し離れたところに堀切と土橋状の地形があります。
登城口から10分ほどで主郭へたどり着ける比高の低い城で、内部も公園整備されており、とても見やすい城跡です。