木造城(こつくりじょう)
木造城の基本情報
通称・別名
- 木造御所
所在地
- 三重県津市木造町字城
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 北畠顕俊
築城年
- 正平21年〔南朝〕/貞治5年/(1366)
主な改修者
- -
主な城主
- 北畠氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 市史跡(木造城阯)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
宮山城(三重県津市)[5.3km]
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木造城の解説文
木造城の口コミ情報
2024年02月25日 サクラ十勝守青鬼翼徳
木造城
天守の残るお城とは違いますがその立地や環境、周囲が沼地であった事、近くには雲出川が流れる事etcをイメージすると、広く見渡せる景色にワクワクが止まらなくなります。
2022年05月26日 RED副将軍
木造城
北畠三家のひとつ、木造氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1366年、北畠氏一族の北畠顕俊によって築城。木造氏を名乗り居城としました。
木造氏は、大河内氏、坂内氏とともに北畠三家と呼ばれる重臣です。二代 木造俊康は、足利将軍と親しく北朝方に付き、本家北畠氏の南朝方と対立。
1569年、織田信長の伊勢侵攻の際は、織田信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解。養子を迎えるとは聞こえが良いですが、事実上の家督乗っ取りです。木造氏も織田信雄に従いました。
織田信長が本能寺で没すると、1584年には羽柴秀吉の命で蒲生氏郷が南伊勢を支配し松ヶ島城に入城。しかし、当主の木造具康は蒲生氏郷への臣従を拒み対抗。激しい抗戦の末に落城。木造具康は尾張に落ち延び織田秀信に仕えました。主を失った木造城は廃城となった様です。
見所
田園地帯の中に土塁の一部と思われる土盛に、案内坂と城址碑が建っているのみです。
2022年04月28日 ka_zu和泉守
木造城
田んぼの真ん中に、塚のような感じで存在します。
2021年06月29日 伊勢守ヒロピン
池ノ谷砦[木造城 周辺城郭]
前方後円墳を利用した砦 平坦地と堀切が見られます。
2016年04月23日 まー刑部卿
木造城
周りは畑、駐車場はないため農道に路駐。遺跡かと思うほどの丘で石碑は御子孫の書。
応永22年(1415)北畠満雅の蜂起に際しては弟雅俊が城を守り、幕府追討軍に攻め落とされると幕府方の北畠俊泰が入り、のち、木造氏を名乗ったという。
明応元年(1497)北畠氏の内部抗争により落城し、和平後の享禄元年(1528)木造正宗により新たに城が造られ、古城は寺院興正院に転用された。
永禄12年(1569)の織田信長の伊勢侵攻には木造氏は信長方につき、弟信雄に仕えた。天正12年(1584)信雄と豊臣秀吉が対立すると、秀吉方の蒲生氏郷に攻められる。木造氏一族は西方の戸木城に集結して籠城戦となる。天正14年の信雄と秀吉の和平後、木造氏は北勢の田辺城(北勢町)に移った。
城跡は、木造集落の北の畑に古城の大きな土塁の一部が残り、さらに北方の新城の一部にあたる小高いところに「木造城址」の石碑が建てられている。
「勢州一志郡木造之図 天正十二落居之頃」(木造 引接寺蔵)には、集落全体が長方形に堀で囲まれ、北端の内堀の中に居館、その西側に家臣柘植三郎左衛門の大きな屋敷が描かれる。ほかの家臣の屋敷地も多数見られ、寺院、市場、鍛冶などもある。
現在は田畑、住宅地になるが、それでも路地や水路に当時からの地割りがよく残る。