国府城(こうじょう)
国府城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 三重県鈴鹿市国府町字長ノ城
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 国府(関)盛門
築城年
- 正平22年〔南朝〕/貞治6年(1367)
主な改修者
- -
主な城主
- 国府氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
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国府城の解説文
国府城の口コミ情報
2021年01月19日 右兵衛尉フロクニ
国府城
国府小学校を北に見ながら西に進むと左手に大きな木のある公園が有り、そこから北に行く道を進むと看板が有ります。その道は狭い上に周辺の道路も狭いので駐車も難しいです。ただ、地元の人は普通に入って行きます。
国府城(こうじょう)は三重県鈴鹿市にあった日本の城。
【概要】
鈴鹿川南岸の河岸段丘が鉄床状に突出した東西400m、南北300mの台地上にあり、西、北、東の水田とは、10~12mの比高をなしている要害の地である。
北方から三条の堀が入り込み、西と中の堀は、長さ100mに近く、東の堀は30mと短かい。西の堀はもとさらに深かったが、埋められて深さ1m足らずとなっている。他の堀は深さ何れも数m、竹、雑木が茂る。
北辺には東西に走る浅い堀と土塁があり、南方の袋のロのような部分にも堀があるが、里人は道路であるといっている。
北東部にもとカタキ神社(式内江神社に比定される)があり、「御殿」の地名もあり、中央西側を「本丸」と呼んでいる。「長ノ城」の地名の由来は、古代伊勢国衙の庁のあとに城を営んだからという。
【歴史】
国府氏の経歴もあまり明かでない。『伊勢名勝志』は六代盛邑を8世とし、その子を9代次郎四郎としている。城としても、峯城の如く、華々しく戦記に登場しない。永禄の初めごろ、関・神戸家が江州蒲生家との姻戚関係によって、六角家と結ぶと、国府氏(6代盛邑か7代盛信のとき)も行動を共にした。ついで信長に神戸家が降れば、国府家も信長の配下に入り、長野氏ついで北畠氏の討伐軍に参加している。
天正10年(1582)本能寺の変に際し、城主国府佐渡守死去の後、子次郎四郎盛種若輩のため、家老の国府市左衛門尉が城主名代で、信孝の配下として堺にあった。織田家に不満を持つ亀山の関盛信に対し、信長の死に乗じて、兵を挙ぐべきことを市左衛門尉がそそのかした。ために盛信の心も動いて、勢州に軍を帰した。
明智退治後信孝はこれを憤って、市左衛門尉を誅したが、盛信は許されたという事件があった。
天正10年には信孝側として、翌年には信雄側として、両度次郎四郎は籠城しているが、秀吉軍に攻められ、開城して美濃加賀野井城に赴き、さきの峯与八郎らとともにここで討死した。時に天正12年5月6日という。国府氏は8代で亡びた。『勢州軍記』は「先祖東国より上り、国府城を守り、9代に当り今年滅亡云々」と9代としている。
情報提供:鈴鹿市文化スポーツ部文化財課考古博物館