国府城(こうじょう)

国府城の基本情報

通称・別名

所在地

三重県鈴鹿市国府町字長ノ城

旧国名

伊勢国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

国府(関)盛門

築城年

正平22年〔南朝〕/貞治6年(1367)

主な改修者

主な城主

国府氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

亀山城(三重県亀山市)[5.2km]
峯城(三重県亀山市)[5.6km]
神戸城(三重県鈴鹿市)[6.8km]
伊勢上野城(三重県津市)[8.1km]
采女城(三重県四日市市)[10.1km]

国府城の解説文

※この城郭は2020年4月6日に名称と位置が変更となりました。

国府城(こうじょう)は三重県鈴鹿市にあった日本の城。

概要
鈴鹿川南岸の河岸段丘が鉄床状に突出した東西400m、南北300mの台地上にあり、西、北、東の水田とは、10~12mの比高をなしている要害の地である。

北方から三条の堀が入り込み、西と中の堀は、長さ100mに近く、東の堀は30mと短かい。西の堀はもとさらに深かったが、埋められて深さ1m足らずとなっている。他の堀は深さ何れも数m、竹、雑木が茂る。

北辺には東西に走る浅い堀と土塁があり、南方の袋のロのような部分にも堀があるが、里人は道路であるといっている。

北東部にもとカタキ神社(式内江神社に比定される)があり、「御殿」の地名もあり、中央西側を「本丸」と呼んでいる。「長ノ城」の地名の由来は、古代伊勢国衙の庁のあとに城を営んだからという。

歴史
国府氏の経歴もあまり明かでない。『伊勢名勝志』は六代盛邑を8世とし、その子を9代次郎四郎としている。城としても、峯城の如く、華々しく戦記に登場しない。永禄の初めごろ、関・神戸家が江州蒲生家との姻戚関係によって、六角家と結ぶと、国府氏(6代盛邑か7代盛信のとき)も行動を共にした。ついで信長に神戸家が降れば、国府家も信長の配下に入り、長野氏ついで北畠氏の討伐軍に参加している。

天正10年(1582)本能寺の変に際し、城主国府佐渡守死去の後、子次郎四郎盛種若輩のため、家老の国府市左衛門尉が城主名代で、信孝の配下として堺にあった。織田家に不満を持つ亀山の関盛信に対し、信長の死に乗じて、兵を挙ぐべきことを市左衛門尉がそそのかした。ために盛信の心も動いて、勢州に軍を帰した。

明智退治後信孝はこれを憤って、市左衛門尉を誅したが、盛信は許されたという事件があった。

天正10年には信孝側として、翌年には信雄側として、両度次郎四郎は籠城しているが、秀吉軍に攻められ、開城して美濃加賀野井城に赴き、さきの峯与八郎らとともにここで討死した。時に天正12年5月6日という。国府氏は8代で亡びた。『勢州軍記』は「先祖東国より上り、国府城を守り、9代に当り今年滅亡云々」と9代としている。

情報提供:鈴鹿市文化スポーツ部文化財課考古博物館

国府城の口コミ情報

若戎伊賀守一心斎さん[2011年11月17日]
現存する願証寺の位置と攻略地点は異なります(河川の改修で移転しております)。
元の所在地は長島町北部杉江地区付近で、現在は長良川の中になります。
(写真アップしておきます)

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