加賀野井城(かがのいじょう)
加賀野井城の基本情報
通称・別名
- 加賀井城
所在地
- 岐阜県羽島市下中町加賀野井
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 加賀野井秀望
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 加賀井氏
廃城年
- 不明
遺構
- 消滅
指定文化財
- 県史跡(加賀野井城跡)、市史跡(加賀野井城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
八神城(岐阜県羽島市)[3.6km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[3.7km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[5.6km]
中島城(愛知県一宮市)[5.7km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[5.8km]
野府城(愛知県一宮市)[6.0km]
一宮城(愛知県一宮市)[7.8km]
田代城(岐阜県羽島郡)[8.1km]
黒田城(愛知県一宮市)[8.3km]
福束城(岐阜県安八郡)[8.6km]
加賀野井城の解説文
[引用元:Wikipedia「加賀野井城」の項目]
加賀野井城(かがのいじょう)は、岐阜県羽島市にあった日本の城。加賀井城とも書かれる。加賀井氏の居城として使われ、現在はわずかに城跡が残されているのみだが、県の史跡に指定されている[1]。地元の伝承では城の井戸が木曽川の中ほどにあるといい、1586年(天正14年)の洪水や1608年(慶長13年)の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭・城地の大半を失ったと推定されている。
歴史
加賀井氏は織田信長、信雄に仕え、加賀井重望は信雄から加賀野井郷の知行を宛がわれていた[2]。1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは加賀野井城でも合戦があり、重望をはじめ小坂雄吉ら2000人余が城を守っていた。5月4日(6月12日)には羽柴側の大軍が城を包囲した[3]。これに対して、5月5日(6月13日)に織田信雄は羽柴秀吉が冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしている事を不破源六に伝え、旧7日(6月14日)には源六による加賀野井への後詰要請を徳川家康にも伝えた事も書き送っている[4]。しかし秀吉側は5日には竹ヶ鼻および祖父江(現・愛知県稲沢市祖父江町)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破って堀を残すのみになり、これを木下重堅に報じている[5]。加賀野井城は7日に落城して将兵は断首され、続いて奥城も落ち、翌旧10日(6月18日)には竹ヶ鼻城も攻略予定に入った[6](竹ヶ鼻城の水攻め)。この際、秀吉は尾張国西部の要衝である加賀野井城を落とすことで家康自身の出陣を誘い、直接対決を目論んでいたとされる。
加賀井重宗・重望の親子は7日(『勢州軍記』では6日の子の刻)に城から突撃し、脱出に成功している。援軍の大将である神戸氏当主で織田信雄家老の神戸与五郎(林与五郎)も逃れることに成功したが、嫡子の神戸十蔵(林十蔵)や千種氏当主千種三郎左衛門(後藤賢豊の弟)など主だった武将は討死、死者およそ1000(『勢州軍記』)。楠木氏当主楠木正盛(数え16歳)と神戸与五郎の息子の林松千代(数え15歳)は生け捕りにされ、秀吉の命令で斬首された(『勢州軍記』)。
加賀井氏はその後、秀吉から登用の誘いを受けて重望が仕え、1599年(慶長4年)には加賀野井に8,000石の知行があったが[7]、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの直前に殺害され、西軍についた加賀井氏は所領没収された。関ヶ原の戦いでは、福島正則が加賀野井城の付近で渡河作戦を行なっている(竹ヶ鼻城の戦い)。
現地情報
岐阜県羽島市下中町加賀野井内屋敷620番地の2
- 所在地
- アクセス
- 東海道新幹線岐阜羽島駅から約5キロメートル
参考文献
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館
- 春日井市教育委員会編著 『春日井の人物』 P62
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加賀野井城の口コミ情報
2024年09月12日 VTR美濃守シゲ
加賀野井城
田んぼの中、民家の直ぐ隣に石碑と説明板有りますが、遺構は有りません道はかなり狭く軽自動車で何とか、小型普通車ではギリギリ中型から大型乗用車は無理⁉️
2024年06月15日 図書頭RedKing
加賀野井城
木曽川右岸堤からは、伊吹山まで田園風景が見渡せます。対岸は尾張藩で名駅のビル群が近くに見えて、そうです電車バスの無い地域では車通勤なら名古屋市近郊です。両岸濃尾住民悲願の永久橋が間もなく開通します。
近くに乃木将軍揮毫の石碑や渡船跡役場跡の石柱に、城の地名が水防倉庫や案内看板に遺ります。
2023年09月28日 にーさん尾張守佳祐
加賀野井城
看板が立っているだけです。道はクルマの車幅ほどしか無くリア攻めお勧めできません、しかも民家のすぐ横に看板が立っているので車を止める所もなく写真も撮れませんでした前から車が来ないか恐怖との戦いでした!
2023年01月12日 にんべん
加賀野井城
東海道新幹線岐阜羽島駅に比較的近い田園地帯にあります。円空上人生誕の地でもあります。輪中地帯でも名が知られています。一度訪れてみてはいかがでしょうか。
2022年05月30日 前田利家猫耳メイド萌
石河邸[加賀野井城 周辺城郭]
駒塚 石河氏は、慶長十七年に尾張藩付属となり、美濃国・摂津国に一万石を領していた。寛文九年に駒塚村を在所とすることを命ぜられ、一万八千平方メートルの宅地に壮大な館舎を営んでいた。
石碑側面の碑文より。
民家の石垣の上に石碑があり、少し東側に木製の標柱があるが、遺構は確認できない。傳法寺の西側に、駐車場スペース有り
2022年01月07日 前田利家猫耳メイド萌
駒塚道道標[加賀野井城 碑・説明板]
享保十一年(1726)尾張藩家老、石河正章が駒塚から、名古屋城に参勤する為に、駒塚〜冨田間に渡船を開いたのが始まり、美濃路の駒塚道追分から渡船場に至る道を駒塚道と呼んている。
この街道はその後、対岸の駒塚村から竹鼻を経て竹鼻街道として美濃路 大垣宿へ通じていた。
2022年01月07日 前田利家猫耳メイド萌
吉藤城[加賀野井城 周辺城郭]
吉藤城は、戦国時代、織田信雄(信長の次男 1558〜1630)に仕えた、遠藤三郎右衛門の居城であった。
寛文年間(1661〜1673)に出来た、尾張一国の村勢一覧である『寛文村々覚書』には、城跡が「壱反弐畝拾弐歩」すなわち、三百七十二坪(約1230平方メートル)で、遠藤右衛門の居城であったが、今は田畑になり、百年ばかり前に、濃州板倉へ移ったとある。
また、天保年間(1830〜1844)に編集された、尾張藩の地誌『尾張志』には、妙興寺領にある、嘉吉三年(1443)十月二十六日付の請文に「妙興寺領阿古江野内同開発代官職の遠藤三郎宗次」とあるのは、遠藤三郎右衛門の先祖であるとしている。
そのほか、不破文書によると、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際には、織田信雄が吉藤城に、織田長益(信長の弟、有楽斎如庵)・滝川雄利・飯田半兵衛を派遣して、警固を強化したという。
説明板より
城跡には、石碑と説明板があるが、遺構等は残っていない。
工業団地の東側にあり、近年周辺の田畑が埋められており、遺構は無いがちょっと心配です。
2021年12月18日 【城郭道】たっきー
吉藤城[加賀野井城 周辺城郭]
織田信雄の家臣遠藤三郎右衛門の居城という。天正12年(1584)の小牧長久手合戦では、吉藤城に織田長益(有楽斎)・滝川雄利・飯田半兵衛を置いて備えていたという。廃城時期は不明。
現在、遺構は存在せず水田と化し、石碑と説明板が建つ。
2021年08月01日 前田利家猫耳メイド萌
長間城[加賀野井城 周辺城郭]
長間城は、加賀野井城と対の城で、加賀野井城が東の城と呼ばれていたのに対して、長間城は西の城と呼ばれていたと言う。
築城時期は、鎌倉時代から貞治・応安の頃(1360年代)と言われているが、定かでは無い。
城主は、貞治六年(1367年)報恩寺に長間城主 荒尾美作守泰隆が、土地を寄進した記録が残る事から、荒尾氏一族が城主であったと思われる。荒尾氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、200町を越える所領を尾張国中島郡内(愛知県一宮市)に持っており、この頃は、木曽川・境川の流れにより、羽島市が尾張国であった事が伺えます。
長間城跡は、今は廃線となっている、名鉄竹鼻線の長間駅跡を中心とした南北にやや長い範囲あったと推定されているが、駅跡にホームが残るのみで、遺構や城址碑等は無い。
2021年04月25日 前田利家猫耳メイド萌
山崎城[加賀野井城 周辺城郭]
秀吉と家康に仕えた徳永秀昌の居城。現状は、山崎神社となっていて、遺構、城址碑等は、ありません。
2020年12月21日 【城郭道】たっきー
城跡碑と説明板[加賀野井城 碑・説明板]
現在、遺構は残っていない加賀野井城跡には城跡碑と説明板が立っています。どうやら平成23年4月に立てられたようです。
これらを目印にリア攻めしてみてはいかがですか。
2020年12月15日 武蔵守マクシミリアン
加賀野井城
木曽川右岸の堤防から50mほど西側の田んぼの一画に木の説明版が立つ。家も1軒。
車は農道に止めるしかないが、他の車はほぼ来ない(私が説明を読んでる時にはたまたま来て、車を移動させたが)。
2020年08月15日 きいろいとり
加賀野井城
堤防をおりてから現地まではとても狭い田んぼ道です。大きい車では厳しいのでお気をつけてくださいね。
2020年08月12日 やすBJ【配貫】
吉藤城[加賀野井城 周辺城郭]
織田信雄に仕えた遠藤三郎右衛門の居城。
2014年01月27日 とも
加賀野井城
説明板の位置は地図より少し木曽川寄りで、堤防上から見えます。